This is me.

- 無用の用 -

『うつ病の妻と共に』御木達哉

2010-06-05 20:30:29 | 
『うつ病の妻と共に』御木達哉


【内容情報】(「BOOK」データベースより)
夏のある朝、健康そのものだった妻が錯乱する。この時からうつ病の妻と過ごす日々が始まった。夫にできることは何か?自らが医者であるにもかかわらず、無力さを抱きながらの試行錯誤の連続。病院勤務のかたわら、妻と自分のために三度の食事の支度をし、きょうも一日平穏であれ、と願う日日を潔く克明に綴る、感動の記録。

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
御木達哉(ミキタツヤ)
本名・御木達也。PL病院副院長。1936年、東京生まれ。中央大学法学部、同大学文学部独文科卒業。63年から66年までドイツ・テュービンゲン大学でカフカを研究。帰国後、日本大学医学部に学士入学、70年卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



久しぶりの読書感想文。
本は読んでいるが、今年になって記録を書くのをやめた。あ、ブクログはやってるので興味のある方はどうぞ!
http://booklog.jp/users/erisbookshelf
改めてみてみたら、今年に入って半年になるけれどまだ19作品しか読んでないのかあ。でも、マンガや上下巻物、5冊で一作品とかあるから、冊数にするとまあまあ読んでるのかな。


この本はある日ブックオフで見つけた。
最近ではもうこの手のコーナーに行かなくなったので、文庫コーナーにあったのを見つけた。
ふと目に留まって、何気なく開いた。パラパラと立ち読みを始めたら止まらなくなった。その日は早く帰らないといけなかったので、その本を買おうかどうしようか一瞬悩んだがやめた。
翌日また行ってみるとまだあった。昨日と同じように立ち読みを始めた。パラパラと飛ばして拾い読みをしていた。
・・・どうしよう。気になる。
ここ最近あまり調子がよくなかった。なのであまり読みたい感じではなかったのだけど、どうも気になって気になって仕方なかった。悩んだ末、その日一律値下げをしていたのもあって結局購入した。

この本がほかの本とは違って買う気になったのは、著者はうつ病ではない、ということだ。
うつ病になった人が回復したという手記は何冊か読んだ。
しかし、そばで見ている人が書いた本は初めて読んだ。

これは、私の経験の話なのでほかの人はどうかわからないけれど、かなりのうつ病になったら、ほとんど寝ていることが多い。あ、誤解されるな。睡眠障害というのもあるのだが、これは夜や朝方の話で、日中は寝ているか、ぼーっとしているか、のどれかだったと思う。と、こういうふうな生活を毎日続けていると、今が起きているのか夢の中なのかわからなくなってくる(私は頻繁に夢を見たのもある)。
つい先日病院を変えたが「どれくらいひどい状態が続きましたか?」と訊かれて、かなり前のこともあって覚えてないということもあったが、あまり記憶がはっきりしてなくて覚えてない、ということも事実だった。
そこで、この本は健康な人がうつ病を診て書いたもの、ということでとても興味があった。人にどんなふうに写っているのか。いたのか。


購入し、帰って早速読んだ。
最初の方なのに、ページを繰る毎に涙が止まらなかった。

 あぁ、そう。こんなだった。

そんな気持ちで読み進めていった。


この先は内容に触れているので、読みたくない人はスルーしてください。




















この奥さんの気持ちが痛いほどわかって、泣けた。
おそらく、同じ病気になった人でもわからない人はわからないだろうし、わかる、と一言で言ってもきっと同じではない。だけど、私には同じように感じられた。

「どうやったら誰にも迷惑をかけないで死ねるか、わたし、そればっかり考えてるの」

この一文を読んだとき、思わず本を閉じてため息が出た。
私も同じことをずっとずっと考えていた時期がある。どうすればみんなが納得する(という表現も変だけど)死に方ができるだろうか。
結局たどり着いた結論は、死んでも誰も納得しない、だった。

「わたしはあんたのために生きてやってるんだ!」

誰にともなく、というか、周囲のすべての人に対してこう思っていた時期があった。
そして、死ねない自分を人のせいにしている自分にまた落ち込んだり。


この著者の奥様、美紗子さんは、この本の『追記』で亡くなっている。
この『追記』は第四刷にて加筆されたものらしい。私の手元にあるものが、ちょうど第四刷だった。

実際にうつ病で友達を亡くしているが、この病気は死ぬ病なのだと改めて感じた。
美紗子さんも友達と一緒で、ビルの上から飛んだ。

そりゃそうだわな。つらかったんだもの。あんなつらいことないわ。今でも時々死にたくなるもの。きっかけは、ほんの些細なことだったり、何かが起きた、というわけじゃないときも、ふっとこの考えは私の頭をかすめる。
私の場合、嬉しいことがあっても死にたくなる。ああ、今死んだら幸せだろうな、と。

人はいつか死ぬ。
以前よく考えてた。
生まれてくることを選べないのなら、死ぬことぐらい選んでもいいだろう、と。


あー何が書きたいのかわからなくなってきたな。
この辺でやめとこう。

と、言いながら、読み返しながら考えた。
私がまた以前のような状態になったらどうなるのだろう。どうするのだろう。
おそらく私のことだから役所に離婚届取りに行ってすべて書き込んで相手に渡すだろうな。
そしてそれが提出される日を怯えて暮らす。そんな気がする。

『大河の一滴』 著:五木寛之

2006-10-03 22:42:05 | 
この本に出会えて本当によかったと思う。

あとがきの後ろの解説に「不安だったり、自信喪失に陥ったりしている人には、とりわけ効き目を発揮するだろう」と書かれているが、本当にその通りになった。

宇宙は一つの色で塗りつぶされてはいない。
「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」という考えで生きればいい、どっちか一つではなく、両方とも受け入れる。そうすれば気が楽になる。両方あるからこそ、それぞれが成り立っている。

ネガティブが悪いと一般的に思われているかも知れないが、それがそうだとは限らない。
ポジティブがあるからこそ、ネガティブがある。
逆もまたしかり。と言う事だ。
闇があるからこそ、光が見えた時の感動がひとしおになる。
すべて肯定していく考え。

以前にどこかで「自分を許容出来る範囲しか他人を許容出来ない」と書かれていたのを思い出した。
同じ様なことも書かれていたと思う。

すべてを受け入れる。受け入れる、または許すことが出来なくても、それが出来ない自分を受け入れる。それが大事だと。
この言葉はある方が同じ様な事を仰っていた。
自分を愛せないで、誰が自分を愛してくれるのか?
自分をもっと好きになりなさい、貴女は本当に素直で素敵な人なんだから、と。
いつもいつもその方は私を、恥ずかしくなるぐらい褒めてくれる。
最初はなかなか受け入れられなかったが、ようやく最近受け入れられる様になってきた。
受け入れられなくても、言葉だけでも受け入れる体制を作ろうと「ありがとう」という一言が大切だと思う。


人は生まれてきた時点で死へ向かっているのだ。
それは当たり前の事だが、こんな事を真剣に考えない人が多いだろう、と。
こんな事ばかり考えているネガティブな人は悪い(と言ったら大袈裟かも知れないが)と言う風な雰囲気があるが、それは決して悪い事ではない。当たり前の事なのだと。
どれほどの人生があるか解らないが、一度は立ち止まってそういう事を考えられる時間があったのはとても重要な事ではないか。そう思った。


とても印象的に残ったのが
『あれもこれも、生も死も、光も影も、喜びも悲しみも、みんな抱えこんで生ずる混沌を認め、もう少しいい加減に行儀悪くなって、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力をいきいきと復活させ、不安と無気力のただよう時代の空気にエネルギーをあたえることになるのではないか。
いろいろなものを受け入れて、たくさんのものを好きになった方が人生、楽しいのではないか。』

特に最後の一行がずっしりときた。

他、いいと思った所を紹介
『人間にはできることには限りがあります。ぼくはある程度あきらめるということも必要だと思います。「あきらめる」の語源は「あきらかにきわめる」ことです。物事を明らかにして、人間にはできないこと、どうしようもないこともあるのだと理性的に確認するということです。』


大袈裟かも知れないが、この本によって私は救われた。そんな感じがした。