南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆あれから14年3

2012-05-17 22:38:00 | 欲望

1218 コタを過ぎて、高速のガードを潜り、パサールイカンやスンダ クラパ方面へ北上した。そこから、西に向かい、以前、押出しの連中とアイススケートやボーリングを楽しんだメガモール プルウィットを目指した。これがまた、途中のルコは、店の商品はなくなった状態で、ことごとく黒こげ。人っ子ひとりいない。こんなところまでやられているのかと思った。しかし、最終目的のメガモールは無傷だった。ここにも装甲車がガードしていた。モール全体はしまっていたが、右端のマタハリだけは開いていた。食料品を求めた中華系の人々で混雑していた。私も、食料品をかなり大量に買った。自分の為ではなく、当時から資金援助をしていた学生や従業員へ後で配るためでした。

 帰りは、もと来た道をたどるように南へ向かった。スマンギを通りブロックMを横に過ぎ、ジャラン ファットマワティをなお南進して、ポンドック インダーまで行った。途中は荒らされている気配はなかった。ただし、そこかしこの施設や建物、店の前に、ここはスハルトとは関係なし、という、垂れ幕が張り付けてあった。ターゲットが中華系とスハルト系だったことの証拠である。アスファルトが溶けている場所は数え切れないほどだった。

 ポンドック インダーには私が当時技術指導をしていた若者と家族が住んでいた、彼らは、翌日、帰国することになっていたので、撮ったばかりの写真のネガを託した。本社に現状を伝えるように頼んだ。そして、何事なかったように、グラハ チカランへ戻った。大暴動後のジャカルタ ツアーでした。言葉には、すでに自信がったし、軍がそこかしこでガードしていたし、何の不安も躊躇もなかった。デジカメの時代になっていなかったので、パソコンに写真が保存されていないのが残念です。

 会社は一週間休みになり、何もすることがない、旅に出るというわけにもいかず、当時、ドライビング レンジは私が知る限りではリッポ チカランのホンピンパの側とハリム空港の手前とハリム ゴルフ第二にしかなかった。まったくゴルフをやったことがなかったが、暇なので、ハリムの打ちっぱなしで初めてレンタルのクラブを振った。その時がなかったら、ゴルフをいつから始めることになったか、わからない。ずっと後になっていたでしょう。

 アムラ ウイラント グリンドゥラ プラボー

 後日、仕事で、さまざまな方面へ出かけて行ったが、そのたびに、暴動の跡を目撃することになった。

 ブカシバラットはメトロポリタンモールの建物は無傷だったが、その向かいの今はサイバーパーク問い建物になっているが、当時はスーパーヘローだった。その他にもその並びや裏に沢山のルコがあった、全部、焼き討ち略奪にあっていた。今のジャイアンやブカシスクエアーの建物はなかった。

 コタ チカランはラマヤナとその周辺がやられていた。

 

 タンゲラン方面の国道沿いは惨憺たる状態で、高速から出たあたりのルコも全部焼かれていた。その次のインター、リッポカラワチのショッピングモールも略奪、放火に見舞われていた。

 

 タマンアングレックのアパート、当時はその他のビルはなかった。その向かい側が、トリサクシ大学(日本でいえば早稲田大学に似ている)がある。国会議事堂、惨事の10日前ごろから、学生デモで完全に機能を失っていた。

 

スホイ関連

 もう、次第にニュースから消えてゆく、6月には、話題にならないでしょう。

 

25日に切れる短期滞在ビザを30日延長する手続きを頼んだ。労働ビザの申請が遅れていて、今月中にシンガポールへ行けないことが確実になったためです。とくに、焦る必要もないから、それまで、まだまだ、遊べるぞ。

 

 悲惨 ショック 恐怖

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