エコポイント&スマートグリッド

省エネ家電買い替え促進で有名となったエコポイントとスマートグリッドの動向を追跡し、低炭素社会の将来を展望します。

マイケル・サンデルの「正義」から「美へのイノベーション」へ

2011-01-11 00:14:37 | Weblog
マイケル・サンデルの「正義」から「美へのイノベーション」へ
~一般社団法人スマートプロジェクトの今後の活動方針・哲学~

2011年1月11日
一般社団法人スマートプロジェクト
代表 加 藤 敏 春

<マイケル・サンデルの「正義」の意義>
2011年が明けて10日が経ちました。本日ちょうど、NHK「ハーバード白熱教室」で大きな反響を得たマイケル・サンデルの「正義」についての第一次的な考察を終えましたので、『マイケル・サンデルの「正義」から「美へのイノベーション」へ』と題して、マイケル・サンデルの著作、NHKテレビでの報道、千葉大学の小林正弥教授の解説などに触発されたここ数カ月にわたる私の哲学的考察をとりまとめ、一般社団法人スマートプロジェクトの今後の活動方針・哲学をとともに、ご披露させていただきたいと思います。
そもそも、哲学的観点から「何か正義か」を判断する基準としては、「真」、「善」、「美」の3つがありますが、私は、今後近代文明からポスト近代文明へと転換するに当たり、その判断基準が「真」→「善」へ、さらには「善」→「美」へと進化していると考えています。近代文明は、人間像として「他の人ではなく、自分の合理的な利益を考える」を想定し、科学技術の発達を工学的技術に置き換えて「真」を追求し、自由と平等のいずれかに重点を置く価値観の確立を目指すことにより成り立ってきました。前者に価値の重点を置くのが功利主義(「正義」とは、福利の最大化にあるとする考え方)、自由主義(「正義」とは、自由の最大尊重にあるとする考え方。欧州的リベラリズム、リバタリアニズム)、後者に価値の重点を置くのが米国的リベラリズムや社会民主主義です。マイケル・サンデルの「正義」の意義は、この「真」を追求する思潮から「善」を追求する思潮への転換を提唱していることです。正義の判断基準が「真」→「善」へと進化することを提唱していることは、ポスト近代文明のあり方を構想していると捉えることもできると思います。
近代文明は、「情報革命」(グーテンベルクの印刷技術による社会システムの変革)、「エネルギー革命」(化石燃料を大量に使う産業革命社会システムの変革)、「精神革命」(ルターの宗教改革以来の精神面からする社会システムの変革)の3つの革命の組合せにより実現されました。21世紀を迎えて10年経過した今、私たちは、「情報革命」(インターネットによる社会システムの変革)と「エネルギー革命」(脱化石燃料を目指したスマートグリッドの構築などによる社会システムの変革=私が唱える「スマートグリッド革命」)の2つの革命を経験しつつありますが、3番目の「精神革命」をまだ迎えてはいません。しかし、マイケル・サンデルの「正義」は、アリストテレスなどの古代の政治哲学あるいは東洋的な儒教哲学の世界を新たな形で復活させようという思潮であり、私たちを新たな3番目の「精神革命」の入り口に立たせるくらいのインパクトのある思潮だと思います。それは、単に、ブッシュ政権や小泉政権に代表されるネオ・リベラリズムに対するオルタナティブ、オバマ政権を支える理念的支柱の一つであるだけではなく、近代文明が最終的に行き着いたマネーによる「グローバル資本主義」のあり方を根底から問い直し、ポスト近代文明のあり方を示唆しています。

 <政治の世界における「真」→「善」への進化>
政治の世界においては、マイケル・サンデルの「正義」は、功利主義や功利主義を批判したロールズのリベラリズム(「無知のヴェール」、「原初状態」などの“虚構”を仮定することにより、無関係な人々の間の合意の成立可能性により一定の福祉政策や所得再分配政策を正当化する立場)を乗り越え、「真」ではなく「善」を追求する思潮にステップ・アップする動きと捉えることができます。功利主義によって道徳の科学を創出できると考え、「最大幸福原理」に基づいて法制や政治を改革しようとしたジェレミー・ベンサムの政治思潮に象徴されるように、「真」を判断基準と政治思潮によっては、「私たちはどう生きるべき」、「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見いだせないという基本的認識に立っています。マイケル・サンデルは、「救命ボート」の実例(四人が乗ったボートが難破し食糧難に陥った。いよいよ飢餓状態が始まり、ついに船長は、一番衰弱していた一人を殺して残り三人の食料にするという決断をした)、キリスト教徒をライオンに食べさせて格闘技を楽しむローマ人、9・11後のテロリストに対する拷問の例などをあげ、人間の尊厳の観点から功利主義の問題をえぐり出しています(なお、小林教授は、「救命ボート」の実例と同様の小説『ひかりごけ』で紹介された実例、米国による広島と長崎における原子爆弾の投下の例をあげています)。
戦後日本は、ロールズのリベラリズムなどを基礎に繁栄を追い求めてきました。社会は、個々人の「善き生き方」には関与せず、基本的な自由を保障すること、機会を均等に開くこと、不遇な人々に配慮することに努めてきました。カントの言う「自律」した個人からなる豊かな社会の実現を目指してきたのです。しかし半世紀を過ぎた今、私たちは厳しい現実を目の当たりにしています。経済は停滞し、格差と貧困が広がり、政治は混乱し、社会は無縁化しつつあります。「誰でもよかったんだ」と言って無差別殺人に走るような事件が多発するにつけ、やはり社会のどこかがおかしくなっているという感を持たざるをえません。マイケル・サンデルは、私たちに対して、「そもそも善き生き方を個人の選択にゆだねたことに問題があるのではないか。これからは社会全体で公民的美徳(シビック・ヴァーチュー)の話をする必要があるのではないか」と呼び掛けているように思います。裁判員制度の導入に関しては、死刑判決にまで民間人を関与させることについての是非に関してはいまだに議論があるところですが、司法の民主化という目的とともに、公民的美徳(シビック・ヴァーチュー)の陶冶という目的もあることは、改めて注目されてよいのではないかと思います。
マイケル・サンデルの「正義」は、功利主義や功利主義を批判したロールズのリベラリズムの「正義」(人間の合意に基づくものであり、司法や法律において正しいと判断される「法義」と定義されうるもの)に倫理性と共通性(共=コモン=対話に基づく共和)を回復しようとする新しく、壮大な思潮です。社会やそれぞれの目的から考えて、通常コミュニティタリアニズムと称されますが、従来型の特定の共同体の伝統や慣行に基づくコミュニティタリアニズムや柄谷行人など日本の論者がよく主張する「自発的結社」(association)を超えたもので、共=コモン=対話に基づく共和政治において、参加者が最終目的を共有するような協力の枠組み=「共通善」による政治を構築し、参加者の公民的美徳(シビック・ヴァーチュー)を陶冶し、「善き生き方」を実現しようとするものです。西欧ではアレクシス・トクヴィルの『アメリカの民主政治』やハンナ・アーレントの活動・仕事・労働の考え方、東洋では儒教的な伝統の考え方にも通ずる「真」→「善」への進化と言えます。


<経済の世界における「真」→「善」への進化>
経済の世界においては、長らく功利主義に基づく経済思潮が主流でした。経済学もこの考え方で構築されています。それは、喜びないし快楽を効用ととらえ、その最大化が「正義」とする考えで、GDPを至上視する見方です。功利主義に基づく経済学では、人々の幸福は計測でき、かつ、合計できると考えるため、人々の幸福には共通の基準が成り立つと考え、それを共通価値尺度としての貨幣価値で表します。経済成長のため財政政策により有効需要の喚起や完全雇用の実現というケインズ主義的な考え方、ミルトン・フリードマンに代表されるマネタリズムや最近における金融政策・マネーサプライ重視の考え方は、良く対極にある考え方として対比されますが、いずれも経済問題の解決から「善」による判断基準を排除し、経済成長により経済問題は解決できるとする立場です。「善なき経済学」とも総括・形容できます。マイケル・サンデルは、こうした「善なき経済学」がもたらす弊害として、フォード社の費用対効果分析の例を一例として挙げています。フォード社の費用対効果分析では、車の欠陥のために事故で死ぬ人間の命や負傷する人のけがを貨幣価値に換算してこれを便益の中に加えたが、欠陥の改良にかかる費用の方が便益より大きかったので、人名は犠牲になっても欠陥の改良はしない方がよいとしました。
そして、この経済の世界における功利主義を原理主義にまで高めたのがロバート・ノージックのリバタリアニズムでした。リバタリアニズムは、政治的な自由だけではなく経済的自由も重視し、肉体から財産までを含めて「自己所有」するということを重視し、市場において財産の移転が行われている限り現在保有する財産は「正義」にかなっていると主張する市場原理主義の立場です。リバタリアニズムによると、福祉のために財産に課税するのは不正義だということになります。リバタリアニズムは、英米のサッチャー政権やレーガン政権以来世界を席巻した思潮であり、日本の中曽根内閣の民営化や小泉内閣の構造改革路線にも典型的な形で現れました。
リバタリアニズムは、政治の世界ではロールズのリベラリズムにとって代わられた感があったものの、経済の世界においては隆盛をきわめ、マネーによる「グローバル資本主義」にまで到達しました。その行き詰まり・破たんを露呈したのが2008年のリーマンショックであり、09年のドバイショックから10年のギリシャ、アイルランドなどの欧州危機を経て、現在も継続しています。マネーによる「グローバル資本主義」は効率化、経済の活性化(ただし、その裏腹のバブル)をもたらしましたが、マネーの力を全開させ、経済の不安定化、所得格差の拡大、地球環境の破壊、エネルギー・食糧危機という人類的危機をもたらしました。また、前述の「善なき経済学」がもたらす弊害は、功利主義と同様リバタリアニズムでも解決されることなく、むしろ増幅されました。功利主義からは、人命の犠牲の放置や正当化などのように道徳的に許されない結論を導いてしまうことがあるのですが、「グローバル資本主義」においては、こうした「人間の生命について貨幣換算してよいのか」という問題のみならず、価値の単一化、拝金主義の横行を招くマネーの力の全開により、「人間の幸福を単一の共通尺度で測ってもよいのか」という問題をより鮮明な形で提起することになりました。こうして、今や、マネーによる「グローバル資本主義」の下では、このままマネーによる「グローバル資本主義」を放置しておくことは人類の滅亡につながることが明らかになりました。
マイケル・サンデルは、経済の世界におけるリバタリアニズム的政策の失敗を構造的なものとして捉え、社会の連帯、同胞愛などを高める共和主義的政治経済を構築するという新しい方向性を提示しています。そこでは、福祉政策や所得再分配政策を単に最低収入の確保や現金給付に限定することなく、目指すべき目的や「共通善」の形成に基づき、規制、課税や補助金などを使って経済的価値を道徳的価値に転換していくという「道徳的対価」の考え方が示されています。マイケル・サンデルの「正義」は、人間の才能や努力に基づく配分を「道徳的対価」に基づいて再配分するという積極主義に立つ点において、ロールズのリベラリズムと決定的に異なります。環境政策においても、環境保全に対して有意義な商品に対しては、税や補助金などにおいて優遇する政策は、このような観点から正当化されます。戦前日本の賀川豊彦(大正・昭和のキリスト教社会運動家。「生産(者)組合」と「消費(者)組合」による競争と協調の調和を説き、ノーベル文学賞候補に2回、ノーベル平和賞候補に3回名を連ねた人物)の協同組合運動や「友愛経済学」(Brotherhood Economics)の考え方などをほうふつとさせる動きですが、経済の世界においては政治の世界より一段階遅れて、これから「真」→「善」へと進化する段階にあると言えます。

<次なる「善」→「美」への進化>
マイケル・サンデルの「正義」、すなわち「真」→「善」への進化という思潮は、生命論(人間は「天賦の生命を善く生きる」ことを目的とする存在であり、遺伝子工学などにより人体を改造したり、増強したりすることは認めるべきではない。また、インドで商業的な代理出産が合法化されたことや精子や臓器の市場での取引を肯定する新たしい優生学の考え方に対しては、本来市場化すべきではないところを市場化していると批判)、環境論(自然科学的な根拠に基づく環境保全のみならず環境倫理を重視する立場から自然を搾取すべきではないというディープ・エコロジーに通ずる考え方)にまで発展していますが、今回私が、マイケル・サンデルの「正義」を考察して最も強く、かつ、深く考えたことは、マイケル・サンデルが政治の世界および経済の世界で提唱している「真」→「善」の進化をさらにもう一段階進めて、「善」→「美」へと「正義」の判断基準を進化させなければならないのではないか、マイケル・サンデルの「正義」から「美へのイノベーション」を起こす必要があるのではないかということです。
というのは、「グローバル資本主義」による文明は、マネーの幾何級数的増加により地球環境を破壊しつくし、エネルギー・食糧危機をもたらす「力の文明」といえますが、今、「力の文明」から「美の文明」への歴史的転換が起ころうとしているからです。その基底にあるのは、地球環境問題、エネルギー・食糧問題、生物多様性の問題の地球的課題に全世界の人類あげて取り組もうとしているように、人間社会の価値の力点が「真」→「善」→「美」と移ってきているということです。現在、「生物・無生物を含む地球を汚してはならない」という声が高まっています。「生物・無生物を含む地球を汚してはならない」というのは、価値としては「美」に立脚しています。 地球と結びつく価値は、「真」でも「善」でもなく、「美」にあります。「真」や「善」は人間が作り上げた神あるいは人間と人間との合意にかかわる価値であり、生物・無生物を含む地球という存在に対しては意味を成しません。地球文明にかかわる価値は「美」ではないでしょうか。
近代哲学の祖カントは、「真」・「善」・「美」という価値の問題をこの順で論じました。それぞれ「人は何を知りうるか」(『純粋理性批判』1781年)、「人は何をすべきか」(『実践理性批判』1788年)、「人は何を願いうるか」(『判断力批判』1790年)という命題に対応しています。カントは、「真」や「善」は理性のうちに働くのに対して、感性の領域の存在が立ち現れてくることを予見して、最後には「美」を崇高と論じました。また、私たち日本人は「真」や「善」にもまして、「美」を大切にしてきた民族です。善行に対しえてはやり方が「きれい」といい、悪行に対してはやり方が「きたない」というように、善悪を論じる場合でも、そこには日本人特有の美意識が働いています。また、悪を絶対悪として裁かないところに日本の特色があります。親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」 という『歎異抄』の一節、 つまり善人でさえ往生できるのだから、 悪人はいうまでもないという「悪人正機説」はその典型です。しかも、日本人の美意識には物質的基礎があります。「みずみずしい」「水も滴る」「水際立った」「水茎のあと」など、水を持って表現する独自の審美眼を養ってきたことは、その典型です。
       岩ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる 春になりにけるかも  (万葉集の志貴の皇子の歌)
 <渓谷をかけぬける冷たい雪解けの水、その清冽な流れの落ち込む垂水に黄緑色の生命が萌えている。透き通った水に春の陽光がさしこみ、生命が芽吹いている。「ああ春が来たのだ!」>

<「美へのイノベーション」とエコポイント>
私が唱える「スマートグリッド革命」は、ポスト近代文明創造に向けた「情報革命」(インターネットによる社会システムの変革)に次ぐ「エネルギー革命」と捉えることができます。その下では、「You Tubeのエネルギー版」と言える「You Energy」へのパラダイムシフトが起こり、究極的には、電力会社が集中型の大規模発電所で発電する電力とエンドユーザが生む出す電力を「エネルギー・ウェブ」を介して集めた「ヴァーチャル発電所」の電力とが併存するようになるでしょう。そうなれば、「情報革命」により出現したデジタル経済のように、電力の生産と流通に革命が起こり、電力の消費のみならず生産販売を行う真の「プロシューマー」(生産消費者)が出現します。
科学の真理を工学的技術に置き換えて技術とイデオロギーだけを振りかざした近代の「力の文明」は、クォンツが高度化させた金融工学を駆使してマネーの幾何級数的な増殖を生み出しました。そして、マネーによる「グロ-バル資本主義」はクライマックスを迎え、2008年のリーマンショック以降の世界的金融危機の中で断末魔の叫び声をあげています。こうした「力の文明」が道を譲るのは「美の文明」であり、新しい文明がよってたつべき価値は、「真」や「善」にも増して「美」です。そこで必要となるのがエコポイント<美の価値>、スマートグリッド<美のネットワーク>、スマートコミュニティ<美のフィールド>よりなる「美へのイノベーション」です。ここで私が「美へのイノベーション」と言っているのは、ジョセフ・シュンペーターが提唱したプロダクトイノベーション、プロセスイノベーション、新しいマーケティング、新しいサプライチェーン・マネージメント、新しい組織(ビジネスモデル)という5つのタイプの「イノベーション」を活用しながら、「スマートグリッド革命」により「力の文明」から「美の文明」への転換を実現しようという方法論のことです。「美へのイノベーション」の主体は、真の「プロシューマー」です。

「美へのイノベーション」の方法論やプロシューマーの役割の詳細については、一般社団法人スマートプロジェクトのホームページおよび拙著『スマートグリッド革命;エネルギー・ウェブの時代』を参照いただきたいのですが、いずれにおいても強調しているエコポイントは、マネーの幾何級数的膨張を矯正し、美の価値を流通させる「エコマネー2.0」の魁(さきがけ)です。エコポイントは「エコマネー2.0」へと進化します。「エコマネー2.0」がマネーと異なる大きな特徴の一つは、貨幣経済と非貨幣経済の2つの経済にまたがって流通する貨幣であるということです。前述のように、功利主義やリバタリアニズムに基づく経済学は共通価値尺度としての貨幣価値で表しますが、このことは多様な価値を貨幣価値による単一化してしまうという副作用をもたらします。かつて、ジョン・スチュアート・ミルは、ジェレミー・ベンサムの功利主義を引き継ぎながらもその弊害を矯正するため、高級な喜びと低級な喜びの区別を試みました。しかし、その区別の基準として使った「高級な喜びと低級な喜びの双方を経験すれば、大部分の人々が選ぶものの方が望ましい喜びである」という考え方は、成功しているとは言えません。
エコポイントやその進化形である「エコマネー2.0」は、非貨幣経済における価値が貨幣経済における価値とは独立して存立することを認め、貨幣経済と非貨幣経済の2つの経済にまたがって流通する貨幣として機能します。「第3の波」の考え方を提唱したアルビン・トフラーは、『富の未来』において、貨幣経済と非貨幣経済の2つのシステムが相互に影響しあいながら新たな富を作り出し、「プロシューマー」への報酬として「代替貨幣」が流通するという世界観を提示しています。「You Energy」のパラダイムの下では、このトフラーの世界観が現実化します。そこでは、既存のビジネスモデルは苦戦を強いられ、ラディカルなビジネスモデルが創造され、貨幣経済と非貨幣経済の2つの経済にまたがって流通するエコポイントやその進化形である「エコマネー2.0」が取引の媒体となると考えられます。

<真の「プロシューマー」による「精神革命」へ>
広がりつつある分散型電源は、複雑なソフトウェアや高度なデジタル技術、インターネットなどによって相互に接続し、「エネルギー・ウェブ」を形づくります。次世代高機能ケータイであるスマートフォンやタブレット端末がその端末となるでしょう。さらに、「エネルギー・ウェブ」を活用すれば、省エネによる発電(ネガネワット)と太陽光発電による創エネ(ポジワット)を、トータルとして個人・法人による発電ととらえることができます。この発電をエネルギーマネージメント・サービスにつなげ、発電収入やCO2削減分に対応したエコの価値をエコポイントや「エコマネー2.0」により取引できるようにすれば、「You Energy ! 誰もがエネルギーを作れる」から「誰もが新ビジネスを創造できる」というパラダイムが生まれ、おびただしいイノベーションの創造が「経済成長&雇用創出」につながるというパラダイムへと発展します。
それはビジネス革命にとどまらず、私たちのライフスタイルをも変革する生活革命へと発展するでしょう。課題解決に向けて人々が新しいライフスタイルを自ら創り、その結果産業と雇用が生み出され、経済成長につながるという、いままでとは逆向きのイノベーション・プロセスです。そこで強みを発揮するのは一人ひとりのゼロからの創造力です。その創造力を基盤に、「ムーアの法則」(半導体の性能対価格比が18カ月ごとに半減するという現象が長期にわたって継続するという経験則)と「メトカ―フの法則」(ネットワークから得られる便益がネットワークに加わるユーザの数の2乗に比例して相乗効果で増加するという経験則)が情報革命時をはるかにしのぐ規模で作用し、破壊と創造が繰り返され、新たなポスト近代文明が創造されます。創造の主体は市民で、その場は地域です。今日本の課題となっている「地域主権」社会の構築や「新しい公共」の創造にもつながります。
冒頭で述べたように、私たちはまだ、ポスト近代文明創造に向けた3番目の「精神革命」を迎えてはいません。しかしながら、マイケル・サンデルの「正義」による「真」→「善」への進化のプロセスが「美へのイノベーション」と結合して次なる「善」→「美」への進化のプロセスを創造したとき、そこに起こるのは真の「プロシューマー」による「精神革命」です。この段階でポスト近代文明の扉を開く「情報革命」、「エネルギー革命」、「精神革命」の3つの革命の組合せの条件がそろうことになるでしょう。

一般社団法人スマートプロジェクトとしては、科学の真理を踏まえつつ、”坂の上の雲”である「美へのイノベーション」と真の「プロシューマー」の出現を目指して、エコポイント、スマートグリッド、スマートコミュニティの三味一体の活動を展開していきたいと考えております。今後ともご指導、ご鞭撻、ご協力をよろしくお願いいたします。
                                
2010年1月11日   加 藤 敏 春