ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

国語の教科書

2011-09-24 21:19:26 | 

国語の授業は比較的好きだった。
特に高校三年生のときの国語の先生の話しはとても面白くてためになった。
受験など意識する風もなく別の面で一生懸命でとにかく授業が楽しみだった。
先生の顔は今もふっと思い出す。そのくせ名前は思い出せない。
先生はなにか生きることの大変さを正直に真摯に語ってくれていた。
受験勉強などというものの空虚さをみな知っていた。
そんな乾ききった日常の一滴の清涼水のような感じがしていた。
あの先生はまだ元気でいるでいるだろうか・・・

国語といっても好きなのは現代国語である。
古文や漢文は好きというほどではなかったが丸暗記していればよい点が取れた。
けれど現代国語だけはなかなかよい点数が取れなかった。
論説文などロジカルな文章の読解はまだしも詩や小説といった文学作品の読解に難があった。
作家が何を考え何を表現し訴えたかったかということ。
その点、いつも僕の答えとテストの回答は違っていた。
「文部省指導要領」にあるような答えを僕は記述することがなかった。
文学のテーマなどそんなきれいごとではないと僕は思っていた。
たいていが死ぬことや男と女の関係、社会への反発、人間への信頼と不信、、、、
とてもお役所がよしとするような解釈などないと思っていた。
そういうことを正直に書くとあまりよい点数にはならなかった。

その先生は小説や詩を読む力は若いときにどれだけ作品に親しんだかで決まる。
だから何でもいいからがむしゃらに本を読みなさい。そうおっしゃっていた。
中学、高校、20才くらいまでに。
受験勉強という必要悪が強いられる中で僕が本を読む時間と空間はたいてい、
通学するローカル線の汽車の中だった。行きも帰りも1時間以上あり格好の図書室だった。

夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤、
川端康成、山本有三、井伏鱒二、阿部公房、小林多喜二、宮沢賢治、中原中也、室生犀星・・・・

乱読もいいところだった。

けれどそうした人間の真実を知ることは生きることを辛くさせた。
ましてやこんな現代社会で都合よく生きようと思うと足かせにさえなった。
真実と虚構の使い分けをしないととてもじゃないが食べることすらままならない。

そんな狭間で僕は生き延びてきたような気がする。

けれども今は一定の覚悟を決めている。そうして生きようと思っている。

あの高校三年のときの国語の先生もきっとそうだったに違いない。きっと…





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