ある人物を制作したいと思うのは、人間性が当然大きいが、その面相が決め手となる。作家シリーズの頃は写真画像を集めて制作してきた。資料としての写真は、個々のカメラマンの趣向が反映されていたとしても写真である。しかし絵画しか残されていない場合、話が少々異なる。 臨済宗では師の肖像画(頂相)を卒業証のように与え、それ自体を師の教えそのものとしてきた。そのため世界に数多ある肖像画、肖像写真とは組成や成分が異なる気がする。蘭渓道隆のたった一枚の肖像画で、私のような不信心者の晩年の方向性を変えてしまった可能性がある。蘭渓道隆の頂相に込められた念を七百数十年後の私が受信してしまったといえそうである。