昨日の『日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展』の展示作品の中に安本紅陽の名前を見つけた。 04年、夢野久作の『ドグラマグラ』の資料にと『九州帝國大學醫學部寫眞帖』を入手した。昭和6年の卒業アルバムである。昭和6年といえば久作がドグラマグラのまさに執筆中で、記者として九大に出入りしていた時期であり、校内の様子、授業風景とともに、久作が登場人物のモデルにした教授や、出版記念会に出席した教授達の直筆サインの入った写真が貼り付けてある。その撮影者が、安本紅陽なのであった。 さらに興味深かったのが、昭和6年といえば遠藤周作の『海と毒薬』で知られる、太平洋戦争中に起こった『九州帝大生体解剖事件』の発案者の卒業した年なのである。墜落し捕虜にしたB-29の搭乗員を、生きながら肺など各臓器を摘出し、代用血液として海水を注入し死亡させた忌わしい事件だが、卒業の14年後、軍医見習士官となり、生体解剖を母校に持ちかけたのが小森拓である。アルバムの中に名前が見当たらなかったが、某医大図書館より昭和6年度の『九州帝國大学一覧』のコピーを取寄せると三月学士試験合格者の中に、『(元藤田)小森拓 佐賀』と書かれているのを見つけた。卒業後、藤田から小森へ名前が変わっていたのである。藤田は理事としてアルバムの制作も中心になって制作している。そして終戦間際、焼夷弾の直撃を受け、破傷風により死亡している。 編集後記には、『写真は関西に於いて令名のある博多安本紅陽サンの作、扉の写真は郷土芸術(?)として、博多の地方色のよく表はれてゐる『博多にわか』の面と我等の大学の帽章との二つより校正された、三一年型の光藝術上の面白い紅陽サンの傑出した習作。』とあった。
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