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日本語を作った男 (PART 1)

2019-08-17 12:11:35 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 

日本語を作った男 (PART 1)

 


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デンマンさん。。。 日本語を作った男が マジで居たのでござ~ますかァ~?


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日本語が一人の男で作れるわけないでしょう!

でも、タイトルに そう書いてあるじゃありませんかア!

そういうタイトルにしないと本が売れないからですよ!

つまり、興味をそそるための誇大広告ですわねぇ~?

そういうことです。。。 そもそも、日本語というのは教科書に出てくる歴史が始まる以前にもあったわけだから。。。

それもそうですわねぇ~。。。 それなのに、どういうわけで日本語を作った男というタイトルにしたのでござ~ますかァ?

上の写真に出でてくるおっさんは、上田万年といってぇ、いわば標準語を広めようとした人物ですよ。。。

そもそも、どういうわけで、上のおっさんを取り上げる気になったのですか?

たまたまバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



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あまり知られていないことではあるが、新島襄(1843~1890)や内村鑑三(1861~1930)は、日本語を話すことはできても、ほとんど日本語で書かれたものを読解することができず、英訳本か、本を読んでもらうことでようやく耳から理解していたという。

 (51ページ)

「音韻法則に例外なし」という標語を掲げ、グリムの法則のように音韻変化には必ず法則があって、「類推」という方法を使えば、すべて例外なくその法則を求めることができるのだとする。
言うなれば、旧約聖書の創世記に見える、バベルの塔の崩壊以前にあった、人間が共通に使っていたという言葉にまで遡るというものである。

 (201ページ)

奈良時代に使われた万葉仮名の時代には、「キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・メ・ミ・メ・モ・ヨ・ロ」、また濁音では、「ギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ド」の音にそれぞれ2種類の音があったというものである。

たとえば「キ」は「ki」「kï」という音の違い、「コ」には「ko」「kö」というふたつの音の書き分けが行われていた。

たとえば現代日本語で「こい」と同じく発音される「恋」と「乞い」の「こ」は奈良時代には、発音が異なっていた。

「恋」という言葉の「こ」は、万葉仮名では「ko」と発音される「孤」「古」「故」「枯」「姑」の漢字が使用される。

これに対し、「乞い」のほうは「kö」と発音される「許」「己」「忌」「巨」「去」「居」の漢字が使われる。

この両者は奈良時代の文献では、決して混同されることがない。


 (293ページ)

ところで、なぜ「アイウエオ」順で日本語を並べる必要があるのだろうか。

上田万年は言う。
「後日に至って文典を教えるのでも、二段の働きとか四段の働きとか、こういう事を教えるにも、直ぐ必要が起こるのである」
五十音図は、平安時代後期にまとめられたものであるが、じつにうまく作られている。

たとえば、日本語の動詞は終止形が原則として「う」段で終わる(例外はラ行変格活用のイ段音終止)。
古語の「行く」「咲く」「立つ」などは四段活用であるが、「着る」は、「上一段活用」、「尽く」「過ぐ」などは「上二段活用」、「蹴る」は「下一段活用」、「経(ふ)」は「下二段活用」などと分類される。

 


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これら「上一段」以下の「上」「下」というのは「う」段に対して言われることである。

動詞の活用などを示す場合などにも五十音図はうまく利用できるのである。

 (409ページ)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




『日本語を作った男』
著者: 山口謡司
2016年10月11日 第3刷発行
発行所: 株式会社集英社インターナショナル




あらっ。。。 新島襄や内村鑑三は、日本語を話すことはできても、ほとんど日本語で書かれたものを読解することができなかったのですか? ちょっと信じられませんわねぇ~。。。



ところで、卑弥子さんは奈良時代に使われた万葉仮名の時代に、「キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・メ・ミ・メ・モ・ヨ・ロ」、また濁音では、「ギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ド」の音にそれぞれ2種類の音があった、といことを知ってましたか?

見損なわないでくださいなァ~。。。 これでも、あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・教授なのでござ~ますわァ~。。。

あれっ。。。 いつから教授になったのですか?

今年の4月からでござ~ますわァ。。。 おほほほほほほ。。。

。。。で、まだ独身ですかァ?

インターネットの時代に十二単を着ていると、なかなかプロポーズしてくれる男性が居ないのですわァ~。。。 うふふふふふふふ。。。

 


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だったら、十二単を脱げばいいでしょう!

 


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こういう下着姿の あたくしをネットで公開しないでくださいなァ~。。。 あたくしは、これでも大和撫子なのでござ~ますから。。。 で、上田万年というおっさんは、どういう人物なのでござ~ますかァ?



次のような人物です。。。


上田万年

 


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1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日

 

上田 萬年(うえだ かずとし)は、日本の国語学者、言語学者。
東京帝國大學国語研究室の初代主任教授、東京帝國大學文科大学長や文学部長を務めた。

小説家・円地文子の父
教え子に新村出、橋本進吉、金田一京助、亀田次郎らがいる。

また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。
1908年帝国学士院会員。

名は「かずとし」と読むのが正式であるが、本人は「まんねん」という読みも採用しておりローマ字の Mannen というサインも残されている。

東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。
またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。

その後、1888年(明治21年)帝国大学和文科(のちの東京帝国大学文科大学)卒業。
在学中はバジル・ホール・チェンバレンに師事し博言学(「博言学」はPhilologyの訳で、「言語学の当時の呼び方」とするのは少しずれる)の講義を受けた。

卒業後大学院に進み、1890年(明治23年)国費でドイツに留学。
ライプツィヒやベルリンで学び、さらにパリにも立ち寄って1894年(明治27年)に帰国する。

留学中、東洋語学者のフォン・デル・ガーベレンツに出会い薫陶をうけた。
またユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、カール・ブルークマンやエドゥアルド・ジーフェルスの授業を聞いた。
サンスクリット語の講義も受けている。

帰国後、東京帝國大學文科大学博語学講座教授に就任、比較言語学、音声学などの新しい分野を講じ、当時古文研究にかたよりがちであった日本の国語学界に、近代語の研究、科学的方法という新風をふきこんだ。

1899年(明治32年)文学博士号取得。
東京帝國大學文学部長等を経て、1919年(大正8年)から1926年(大正15年/昭和元年)まで神宮皇學館(現・皇學館大学)館長兼務、1926年(大正15年/昭和元年)から1932年(昭和7年)まで貴族院帝国学士院会員議員。

1927年(昭和2年)東京帝国大学(東京大学)を定年退官し、1929年(昭和4年)まで國學院大學学長を務めた。
1937年(昭和12年)、直腸癌のため死去。

明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、西洋の言語学を積極的にとりいれ、また日本の国学の伝統を批判的に継承して、標準語や仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。

文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。
東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校の島崎赤太郎教授とは標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる。

上田万年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901年にドイツで行われた正書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。
旧仮名遣いの混乱を正すために、「言文一致」への移行が必要なことは明治維新以来から明らかだった。

1901年、上田万年は言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。
長音記号の「−」の採用、また1903年発行『仮名遣教科書』に見える新仮名遣い(これを「発音式」と呼ぶ)などがこれである。この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であった。

しかし、岡田良平、森鷗外など旧仮名遣いの使用を主張する人々による運動の末、1907年に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出したほか、1908年臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。

上田万年が日本の言語学及び国語学において果たした役割は大きい。
それは多くの研究者を幅広い分野において育てたこと、また明治以降の実践的日本語教育を行う際の発音式仮名遣いへの争点を明らかにしたことである。

長田俊樹は、言語学外部からの言語学批判における言語学への理解不足と実証性の欠如を批判するなかで、上田をとりあげている。
上田は、「学者的政治家であり、また政治家的学者」(保科孝一)であり、言語学研究には不熱心で、実質上ほとんど貢献はなかったと長田は指摘している。




出典: 「上田萬年」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




小説家・円地文子のお父さんなのですわねぇ。。。 教え子に、あの広辞苑を編集した新村出と多くの国語辞典を世に出した金田一京助が居るのですわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 明治の中ごろには上田万年は標準語や仮名遣いの統一化や「言文一致」を広めようとしたのです。。。

なぜ、「新仮名遣い」や「言文一致」が太平洋戦争の戦後まで広まらなかったのでござ~ますかァ?

旧仮名遣いに拘っている人たちが大勢居たからですよ。。。 その代表格が森鴎外です。。。 1908年臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅してしまったのです。。。

森鴎外は意外にオツムが固かったのでござ~ますわねぇ~。。。

そうらしい。。。 僕自身は森鴎外の作品が好きだけれど、当時、森鴎外は頑固で知られ、敵が多かったらしい。。。 気に食わないと上役にも楯突(たてつ)いたらしい。。。

それで左遷されたりしたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 また鴎外は常日頃、文人の自分と軍医である自分のそれを厳格に分けて考えていた。。。 ある時、文壇の親しい友人が軍服姿で停車場に立っていた森を目にして、何気なく話しかけたら、その友人を鴎外は怒鳴りつけたのですよ。。。

なぜ。。。?

だから、頭の固い鴎外は、「文壇仲間としてならともかく、軍服を着ている軍人の自分に気安く話しかけるな!」という思い込みがあったのですよ。。。

ずいぶんと頑固だったのですわねぇ~。。。

そういうわけで、くだけた東京言葉で書いた夏目漱石の作品は鴎外の作品に比べて、圧倒的に教科書に採用されてますよ。。。 『坊っちゃん』などは、未だに熱烈なファンが居ます。。。 それに比べると、森鴎外は古い明治時代の作家としてホコリをかぶっているような存在です。。。 デビューから20年近くも文語体で書き続けた鴎外は、格調高くも読みにくさで損をしているのです。。。

確かに、最近 森鴎外の作品はほとんど見かけなくなりましたわァ~。。。

ところで、十二単を着ている卑弥子さんは旧仮名遣いを使って手紙を書くのですかァ~?

いやだわあああァ~、日常では、ちゃんと新仮名遣いを使ってますわよう。。。

。。。で、講義の時にも『源氏物語』の現代語訳を使うのですかァ~?

よくぞ聞いてくださいました。。。 『源氏物語』と同時期の文学である『枕草子』や『土佐日記』などは、簡単な注釈さえあれば現代日本人でも読むことがさほど難しくないのでござ~ますわァ~。。。

マジで。。。?

デンマンさんも『枕草子』や『土佐日記』を読んだことがあるのでしょう?

読んだことがありますけど、原文ではありませんよ。。。 現代語訳です。。。

簡単な注釈のついた原文で読みなさいよう。。。 

『源氏物語』は簡単な注釈がついた程度では難しくて現代人には読めないのですか?

そうなのですわよう。。。 『源氏物語』の原文を読むことは現代日本人にはかなり難しいのですわ。。。

どうしてですか?

他の王朝文学と比べても語彙は格段に豊富です。。。 しかも内容は長くて複雑で、専門的な講習を受けないと『源氏物語』の原文を理解するのは困難でござ~ますわァ~。。。 だから、しかたがないので、あたくしの講義には現代語訳の教材を使っているのですわ。。。

なるほど。。。

数ある古典日本文学の中でも、多様な性格を持つその内容ゆえに、もっとも多く現代語訳が試みられておりますわァ。。。 それで、訳者には多くの作家がいるのです。。。 ざっと見ただけでも、「与謝野源氏」、「谷崎源氏」、「円地文子訳」、「田辺聖子訳」、「瀬戸内寂聴訳」といったぐあいですわ。。。

でも。。。、でも。。。、もともと『源氏物語』は、当時の同じ境遇の女子たちにも読めるような作品だったのでしょう?

デンマンさんは、どうして そう思われるのでござ~ますかァ?

だってぇ~、書かれた当時の『源氏物語』は、周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し経た時代でも、『更級日記』の作者である当時13歳だった菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が、特に誰の教えも受けることなく1人で読みふけっていたではありませんか!


菅原孝標女

 


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彼女は寛弘5年(1008年)に出生。

寛仁4年(1020年)、上総国における父の上総介としての任期が終了したので一家で帰国(上京)し、3ヶ月ほどの旅程を経てようやく京へと入った。

帰国するころ彼女は13歳で、更級日記は上総国に居る頃から始まっている。

当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽った。

 


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夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言うが、心にも掛けず物語を読みふけったことを、後年更級日記の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と批評している。

万寿元年(1024年)には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。

しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。

祐子内親王に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通と結婚。

寛徳2年(1045年)に一男(仲俊)と二女をもうけたが、俊通は康平元年(1058年)に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になった。

このあたりで更級日記は終わっている。




出典: 「菅原孝標女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




後に長じて『更級日記』を書くくらいですから、幼少の頃から紫式部と同じような教育をお母さんやお父さんや周りの女性たちから受けていたのですわよう。。。 だから、当時としては、比較的容易に理解できたのですわ。。。 でも、100年も経てば、物語で用いる言葉遣いも、前提とする知識・常識も変化してゆくのですわ。。。 デンマンさんだって、明治時代に書かれた文語調の手紙などは、もう理解できなくなっているでしょう?



確かに、それはそうです。。。 福沢諭吉が伊藤博文に書いた手紙など、僕には全く読めませんから。。。

 


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『拡大する』

 



そういうわけで、日本語は時代とともに、ものすごく変化しているのでござ~ますわァ。。。 しかも、標準語ができるまでは、方言があって、東北の人と沖縄の人では、全く会話が成り立たなかったのでござ~ますわァ~。。。



なるほどォ~。。。 それで、富国強兵で、戦争するために命令が誰にでも分かるように標準語を作ったのですねぇ~。。。

そうです。。。 明治時代には世界的に国民国家が戦争をするために、標準語が必要になったのですわァ。。。 嫌な時代になったものですわァ~。。。



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 (すぐ下のページへ続く)



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