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名人の系譜

2024-08-28 07:44:53 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
名人の系譜 8月28日 卑弥子



 

名人の系譜

 


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デンマンさん。。。 今日は名人のお話でござ〜ますかァ~?


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卑弥子さんは、つまらなそうですねぇ〜?

別につまらないと思ってはいませんわァ〜。。。

でも、うんざりしたような表情を浮かべてますよゥ。。。いったい、どういう話題ならば、ウハウハするのですかァ〜?

そのような事は恥ずかしくって申し上げられませんわァ〜。。。

あのねぇ〜、僕はまだエロい事は何も言ってないのですよゥ。。。なぜ、わざとらしく乙女のように顔を赤らめているのですかァ〜?

だってぇ〜。。。

だっても、あさってもないですよゥ。。。いい年して、エロい事を妄想して顔を赤らめている場合じゃないでしょう!?

 


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あたくしは、未だに純潔を固く守っているのでござ〜ますわァ〜。。。だから、ちょっとしたエロいことを思い浮かべるだけで赤面してしまうのですう。。。



つまり、エロい話題がいいのですねぇ〜?

うふふふふふふ。。。

やだなあああああァ〜。。。早く結婚相手を見つけてくださいよう。。。今日はエロい話はしません。。。僕にも予定がありますから。。。

分かりましたわァ〜。。。じゃあ、あたくし、これで帰らせていただきますゥ。。。

卑弥子さん。。。、卑弥子さん。。。、帰らないでくださいよう。。。この話が終わったら、卑弥子さんとふたりきりでエロい話をしますから、少しの間 僕に付き合ってくださいねぇ〜。。。

分かりましたわァ〜。。。じゃあ、なるべく早く切り上げてくださいねぇ〜。。。

実は、夕べ 古今亭志ん生さんの次の落語を聴いたのですよ。。。

 


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この『名人 長二』という人情噺は2時間17分に渡る長い噺なのですよ。。。



あらっ。。。2時間もぶっつづけで話すのでござ〜ますかァ〜?

いや。。。 長い噺を約30分づつ5部に分けて語るのです。。。

この名人・長二という人は、あたくしは名前を初めて聞いたのですけれど、有名な人なのでござ〜ますか?

いや。。。実は、僕もこの人情噺を聴くまで知らなかったのですよ。。。指物師と言って、タンスや仏壇、茶箪笥、木箱などを材木を使って作る職人です。。。長二は、この世界では名人だった人です。。。

 


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『名人 長二』

 


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解説

落語の神様と言われる三遊亭圓朝が作った人情噺。
モーパッサンの「親殺し」を翻案したものだが,原作とはずいぶんと趣が違っている。

明治28年,圓朝自身の筆により中央新聞に連載。
その3年前,人力車から落ちた傷をいやしに湯河原へ圓朝は湯治に行っており,その時の取材が使われている。

舞台にとった湯河原の風物が詳しい。
圓朝お得意の名人伝でもあり,推理小説のようでもある。

三遊亭志ん生は5回に分けて全体を演じている。

 

テーマ

指物師長二は、上客の亀甲屋が幼い自分を捨てた実の親だと知るが,亀甲屋は頑として認めない。
ついに亀甲屋を殺害する。

名人の長二を死刑にするには惜しいので奉行は長二の助命に頭を悩ます。
長二は指物師としての腕前も素晴らしいが、人柄も素晴らしい。

 

あらすじ ネタバレ注意!

文政3(1820)年,蔵前の富豪・坂倉屋助七が長二に仏壇作成を依頼する。
坂倉屋は百両の値の高さに驚く。
絶対に壊れない品物だと言われ,かっとなり才槌で叩くが仏壇は壊れない。

坂倉屋は、その出来栄えに感服する。
1000両出すから売ってくれという。

初めの約束通り100両でいい、と長二は それ以上は受け取らない。
坂倉屋の娘のお島は、金にこだわらない長二の人柄に惹かれる。

その年の11月,長二,兄弟弟子の兼松と湯河原へ湯治に行く。
土地の婆さんに自分が捨て子で,背中の傷は捨てられたとき竹に刺さったためと聞かされる。

1821年,育ての親の菩提寺の天龍院で亀甲屋幸兵衛に会う。
和尚に長二は身の上を話す。
その場に居合わせた亀甲屋は、長二をひいきにする。

亀甲屋が実の親だと明かさぬのを苦に,背中の傷を見せて詰問する。
ところが、亀甲屋幸兵衛は長二を打ちすえる。

11月10日,亀甲屋が忘れた50両を長二は返しに行き,再び自分の実の両親ではないのか?
そう詰問する。
長二は口論の末、幸兵衛と刃物を出してもみ合い,亀甲屋夫婦を殺してしまう。

 


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翌日,長二は親方の清兵衛に悪態をつき,日付を遡った縁切状を渡す。
実は親方に迷惑をかけない為にそうしたのだった。

そのあとで南町奉行・筒井和泉守に駆け込み訴えでる。
長二の評判がよいのを聞き,狂人として減刑を図るが,長二かえって怒り,親殺しをすべて白状する。

奉行は長二の助命法に悩む。
美濃屋夫妻を吟味するうち,殺された幸兵衛は長二の実父でないと知る。
しかし,お柳は実母ゆえ親殺しの罪は逃れない。

鍼医・岩村玄石が美濃屋をゆする。
密偵に様子を聞かれ,玄石ら捕縛される。
玄石は金をもらい お柳(長二の実母)の前夫・半右衛門(長二の実父)を鍼で殺していた。

林大学頭は礼記を引用し,親殺しでなく実父の仇討という解釈を示す。
長二は無罪になり、玄石と共犯者の美濃屋夫婦は遠島になる。

長二と蔵前の富豪・坂倉屋助七の娘のお島は結婚して坂倉屋を継ぐ。



 



あらすじは、おおむね上のような流れなのですが、噺のすべてを詳しく知りたい人は「青空文庫 ネット図書館」に人情噺にはない湯河原の風物なども書かれた全文が収められているので、興味のある人は次のリンクををクリックして読んでみてください。。。

 


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『名人長二 (鈴木行三校訂・編纂)』

 



この噺の作者の三遊亭円朝も落語の世界では名人だったのですか?



落語の世界では名人と言うよりも落語の神様として、崇(あが)められているほどです。。。

それほど噺がうまかったのでござ〜ますか?

あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目三遊亭圓生から妨害を受けたほどです。。。

妨害って、どのような?

圓朝が演ずるであろう演目を圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのです。。。たまりかねた圓朝はこれなら他人が演ずることができないだろうという自作の演目を口演するようになったのです。。。それで、多数の新作落語を創作した。。。人情噺では、『粟田口霑笛竹』や『敵討札所の霊験』、『芝浜(異説あり)』、怪談では、『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』などを創作した。また海外文学作品の翻案には『死神』、 上の噺も その翻案の一つです。。。

古今亭志ん生も、人によると名人だったと言いますわねぇ〜。。。

僕も、そう思いますよ。。。少なくとも、その話しぶりや人柄と言い、お客さんの心をつかむようなテクニックを持った人です。。。ちなみに、志ん生さんは、上の噺の枕(本題に入る前の導入部)でも語ってますが、三遊亭圓朝の孫弟子です。。。

 


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古今亭志ん生の次男の志ん朝さんも、僕は名人だと思います。。。次の噺のように、人を引き付ける話しぶりは並の噺家ではありません。。。

 


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今戸の狐

 

江戸の中橋に名人初代三笑亭可楽が住んでいた。その門下に若い二つ目の良助がいた。寄席の上がりだけでは生活が出来ない上に、通い弟子なので暮らしに困りはてていた。師匠は厳しく内職を禁じていたので、芸人の見栄もあるために、我慢をしていた。

良助は橋場に住み、向かいの背負(しょ)い小間物屋善吉の女房おサイさんは、千住の女郎上がりの女だが、出身にも似ず働き者で近所の評判もよく、千住(せんじゅ=コツ)の妻(サイ)と愛称されていた。

コツのサイさんは今戸焼の狐の彩色(さいしき)の内職をやっていた。教えを請うと親切に教えてくれた。良助も器用だったので直ぐ習得して、雨戸を閉めて人目を避け、引き窓からの明かりを頼りに狐を作った。

朝 、師匠の家へ行って用をたして帰り、夕方寄席へ出かけるまでの間、せっせと内職をした。

当時、可楽は飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が出ていた。可楽が出ると周りの寄席の客足が途絶えるほどであった。寄席がはねると弟子が売り上げをもって中橋の可楽の家まで持って帰り、各出演者に小分けするのが仕事の一つであった。

それが何軒も掛け持ち出演しているので、小銭の配分に手間が掛かった。誰それさんいくらとの声で、前座が「はい」チャリチャリンと分けていった。この音が夜更けて来ると響いた。

ある夜、雨宿りで軒先に立ち寄ったやくざが、この銭の音を聞きつけた。この音をサイコロの狐をご開帳とにらんで、翌朝可楽の家に乗り込んだ。

可楽に対し、素人が博打を打つとは不届きだが、見逃してやるから口止め料を出せとゆする。可楽は私は博打が大嫌いで、それは何かのお間違いでしょう、弟子にも厳禁している、とんだお門違いだ、帰ってくれと、奥へ入ってしまう。

怒ったやくざは、狐ができていることはさぐってあるのだと、内弟子にすごむ。
三つ賽博打の狐のことを、焼き物の狐と勘違いした内弟子は、それなら橋場でこしらえていると、良助の住まいを教える。
「だったら少しはこさえてくれるな」
「勿論ですとも」
「夕方まで待つか」
「いえ、朝からやっています」

やくざに訪ねてこられた良助は、大慌わてで人形や道具を隠して迎え入れ、その慌てぶりにヤクザは賭場が開かれているのを確信する。
狐などできていないと否定するが、内弟子に聞いてきたといわれて、やむなく肯定する。
「やはり狐(三つ賽博打)ができている(賭場が開かれている)」と安心するやくざ。
「それだったら、時々寄るから、少しこさえてくれ(金の無心をする)」
「少しでは困るんです。(注文は)多い方がいいので」 と良助。

二人は全く違うことを考えているが、偶然に会話はお互いの考えているように最後まで平行線で続いてゆく。(そこが面白い)

「それは有り難てぇ~」
「で、出来はどうだい」
「最近やっと顔が揃うようになりました」
「そうかい、顔が揃う(上客の顔ぶれが揃う)ようになれば後は楽だ」
「(博打の規模が)大きいのか」
「え・・・、 (狐の)大きいのも小さいのもあります」
「金張り銀張り(の狐)が有ります」
「え~、それは(高額の賭けで)豪儀だ」
「今、静かだが(賭場が)出来ているのか」
「出来てます」
「どこで」
「戸棚の中に」
「??」
ヤクザは不審な顔つきする。
「ちょっと見せてもらおうか。ぶち壊す(賭場を荒らす)ようなことはしないから」
「壊されたら困ります」
「お見せします。こちらが大きいの。こちらが小さいのです。これが金張りでこちらが銀張りです」
「なんだこれは?」
「だから狐です」
「馬鹿野郎、狐は分かっていらぁ。泥の狐を探しにこんな所まで来たんじゃねぇや。俺の言っているのは骨(こつ)の采(さい)だ」
「千住(コツ)の妻(サイ)はお向かいのおかみさんでございます」



 



この噺は、絶妙に面白いですわねぇ〜。。。



志ん朝さんの話振りが名人の域に達してますよ。。。

お父さんの志ん生さんの血筋を受けつでいるのかしら?

間違いありません。。。ところで、志ん朝さんが父親の志ん生さんを語った珍しい動画があります。。。卑弥子さんも観てください。。。

 


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古今亭志ん生 (5代目)

(1890年6月5日 - 1973年9月21日)

 

古今亭 志ん生は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。
本名∶美濃部 孝蔵。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。
戦後を代表する落語家の一人と称される。

1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。
父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男。
出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた。

明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。
しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。

下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。
1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。
奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。
1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町四番地(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした。

 

落語との出会い

博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。
以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。

この頃、芸事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの芸人集団)に出入りし始める。
1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの芸人ではなくセミプロであった。
同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという。

1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る。
5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた。

1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる。
1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。
その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する。

1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。
1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎。1981年没)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。
笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である。
なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。

当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。
謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。

その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。
腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた。

この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。
場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという。
一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる。

1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。
1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。
1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる。
1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した。
1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという。

 

満洲へ〜帰国後

1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問芸人の取りまとめの命令を受けた松竹演芸部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満洲に渡る。

満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。

1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満洲から帰国。
なお、圓生よりも先の帰国となった。
同月27日帰宅。

帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に芸・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。
あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった。
この頃から人形町末廣で余一の日に独演会を催すようになった。
8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。

1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。
1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。
5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった。
同年12月、『お直し』の口演で芸術祭賞を受賞する。

 

会長就任

1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。
1963年(昭和38年)まで会長を務める。
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。
3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき芸風が影を潜めた。
この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。
療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。

1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。
さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。
同年11月、紫綬褒章受章。

 

事実上の高座引退

1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった。
この年、勲四等瑞宝章を受章する。

1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。
同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。
この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。

1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。
その翌日には8代目文楽が逝去。
晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。
この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。
妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した。

1973年(昭和48年)9月21日午前11時半[23]、自宅で逝去。享年83。
戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。
現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている。
一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している。

 

酒にまつわるエピソード

関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買った。
酒屋の主人はそれどころではないと勘定をとらず、その場でタダで1升5合ほども飲んで泥酔して帰宅した。
夫人のりんは当時長女を妊娠中で、大地震の最中に家から飛び出して泥酔して帰宅した亭主にさすがにたまりかねて大変な剣幕で面罵した。

戦時中、漫談家の初代大辻司郎と銀座数寄屋橋のニユートーキヨーでビールを飲み、「エビの絵が描いてある大きな土びん」にビールを詰めたものを土産にもらって都電で帰宅中、日本橋の付近に差し掛かったところで空襲が始まった。
電車から降ろされたが逃げることをあきらめ、地下鉄入口に腰を下ろした。
爆弾がおちて死にでもしたら、せっかくもらったビールがもったいない。
飲んでしまわなければ死んでも死にきれないとすべて飲み干して、そのままその場で寝入ってしまった。
翌朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。
いつまでも帰宅しないのであるいは空襲で死亡したのでは、と家族は諦めていた。

満洲で終戦を迎えたものの、混乱状態の満洲から帰国する目処がつかず、1946年(昭和21年)頃の国内では「志ん生と圓生は満洲で死んだらしい」と噂が流れていた。
実際、本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあったが、その後意識を回復した。
当時、6代目圓生と二人で極貧生活をしていた時、苦労して手に入れて持ち帰った酒瓶を蹴躓いて落として割ってしまった。
人生で情けなくて涙をこぼして泣いたのは後にも先にもこの時だけだと後に語っている。

酒に酔って高座に上がったことが何度かある。
1958年(昭和33年)5月30日の「第13回東横落語会」では大幅に遅刻し、真っ赤な顔、怪しい呂律で高座を務めた。
噺も支離滅裂だったが、その様子が笑いを誘い、当日一番客の拍手を浴びたのは5代目志ん生だった。
人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目(自称9代目)鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった。
新宿末廣亭でも一度居眠りしたことがある。
家でよく飲んだ酒は菊正宗特級。
蔵元から特別なものをもらっていた。
なお、大好きな食べ物は納豆、苦手なものは漬物。

<HR>

出典: 「古今亭志ん生 (5代目)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

古今亭志ん生さんのお酒のエピソードが面白いですわねぇ〜。。。

今では、こういう豪傑タイプの噺家さんはいないようです。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

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(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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