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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

言うことは誰でもできるけど…(PART 1)

2012-10-08 13:45:57 | 病める日本・高齢化社会
 
 
言うことは誰でもできるけど…(PART 1)





デンマンさん。。。どうして、当たり前のタイトルを掲げたのですか?



確かに当たり前の事なんだけれど、病院が患者を呼び込むために誇大広告を出すのは困るのですよね。

誇大広告を出している病院があるのですか?

あるのですよ。

マジで。。。? どこの病院ですか?

僕のふるさとの病院ですよ。 ちょっとその病院の素晴らしい「理念」を読んでみてください。


病院案内

埼玉県行田市の行田中央総合病院は、地域に根ざした医療サービスの提供を心がけております。
行田中央総合病院は、奉仕の精神に基づき、近代的医療設備と最新の医療技術を、全て地域の皆様のお役に立てることを念願しスタートいたしました。
私どもは医の倫理を忘れることなく、地域医療のため、医師はじめ看護師・職員一同が一丸となって、日夜努力いたしております。
当病院は、幸いなことに、その意を充分理解し、訓練されたスタッフが集まり、24時間体制のもとに、一般診療・二次救急医療・小児救急・人間ドック・成人病検診など、いかなる時でも、皆様方のお役に立つことができるものと確信いたしております。

基本理念

私たちは「病気を診ずして病人を診よ」の精神で、心温まる生涯医療センターを目指します。

私たちは患者様のために最善を尽くすことに誇りを持ち、笑顔で活躍できる職場作りを目指します。

1. 当院で働く職員全てが心を一つにして、思いやりと真心を込め、「医療」たる究極のサービスを目指します。

2. 患者様と信頼関係を大切にし、地域社会に密着した医療・保健・福祉サービスの提供を目指します。

3. 大病院、診療所、地域の介護福祉施設との連携を緊密にし、患者様に最も適した医療環境の提供を目指します。

4. 日進月歩する医療レベルの向上に努め、自らの責任を追及し続けます。

5. 高齢化社会に対する視点を持ち続け、お年寄りに快適な環境の提供を目指します。


私たちがより多くの人々の健康を願い、「病気を診ずして患者を診よ」を念頭に置き、患者様に「元気・希望・夢」を与えられるような医療を目指し、地域医療に貢献できる喜びをより多くの人々とともに味わいたいと願っております。





基本方針

1. 私達は、患者様の人権と意思を尊重し、相互理解に基づく医療を遂行します。

2. 私達は、医療の質の向上に努め、人格教養を高めることによって良質な医療を提供します。

3. 私達は、地域の人々により良い医療を提供する為に、地域医療機関との連携を推進し、一貫した医療の提供に努めます。

4. 私達は、病院医療に関わるあらゆる安全管理に最大の努力を払います。




『行田中央総合病院 - 病院案内』より




あらっ。。。とっても素晴らしいことが書いてあるではありませんか!



そうでしょう? 小百合さんだってそう思うでしょう?

ええ。。。もちろんですわ。 とっても素晴らしい病院だと思いますわ。 この病院が誇大広告をしているというのですか?

あのねぇ~、実は、この病院のことで僕はブログに記事を書いたことがあるのですよ。 検索してみたのでその結果を見てください。


(gog21008.gif)



あらっ。。。517件も記事を書いたのですか?



いや。。。517の記事を書いたのではないのですよ。 僕が記事を書くと「デンマン・シンジケート」のブログやウェブベージにその記事が配信されるので、たくさんの人に読まれるのですよ。


(denmansyn.gif)


(hg20831q.gif)

海外からのアクセス
 
 

(wp20827map.gif)


(wp20827.gif)



「デンマン・シンジケート」には18のブログと1つのウェブページが含まれているのですか?



その通りです。 だから1つの記事を書くだけでも 19のサイトに記事が掲載されるのですよ。 それで日本語が解かる72カ国の人々に読まれるのですよ。

。。。で、行田中央総合病院について、どのような記事を書いたのですか?

もう一度、検索結果を見てください。


(gog21008.gif)



僕が書いた記事が「全国病院の評判・口コミランキング」に載っているのですよ。



あらっ。。。マジで。。。。?

赤枠で囲んだリンクをクリックすると次のページが表れます。


(gog21008b.gif)

『実際のページはここをクリック!』


デンマンの書きたい放題 : ロマン・ロランも理解した(PART 3 OF 4)

その前に僕は行田中央総合病院の緊急医療体制には問題があると批判し始めたのですよう。
マジで。。。? もちろんですよう。副院長はギョッとしたような表情を浮かべたけれど、あくまで冷静でした。
(デンマン注: あとで分かったことだ ...
クリック数:9 - 投稿日:2011/05/22 08:42:58




『実際のページはここをクリック!』

『全文はここをクリック!』




。。。で、どのようなことを書いたのですか?



次のようなことを書いたのですよ。 ちょっと読んでみてください。


母が救急車に運ばれて…



。。。んで、デンマンさんは、お医者様に何か苦情をおっしゃったのでござ~♪~ますか?



あれっ。。。卑弥子さんは良~く分かりますねぇ~!。。。そうなのですよう。僕は冷静なつもりでも、かなり感情的になって苦情を。。。いや。。。病院の医療体制、それに、付き添いの人に対する医師の態度・意識に対して批判したのですよう。

めれんげさんのように感情を爆発させてしまったのでござ~♪~ますか?

いや。。。めれんげさんほど感情をむき出しにしなかったと思いますゥ。

マジで。。。?

もちろんですよう。。。お袋の命にかかわることだから僕は冷静になろうと努力しながらナース・ステーションへ行って看護婦さんに「担当のお医者さんに会いたい」と申し出たのですよう。

そしたら。。。?

お袋の担当医は二人居るのですよう。一人は当日(10月28日水曜日)「休んでいる」と言うのです。

。。。んで、もう一人の担当の先生は。。。?

「ただいま巡回中です」と言うのです。30分から1時間以内に会えるでしょうか?と僕が尋ねたら、検査がすべて済んでから、担当の医師からご家族の方へご連絡がゆきますから、その時、先生にお聞きください、と言ったのですよう。

それがデンマンさんには不満だったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、僕のお袋は10月26日(月曜日)の午後3時半に救急車で行田中央総合病院へ搬送されたのです。

。。。んで、デンマンさんは生まれて初めて救急車に乗ってお母様と一緒に病院へ行かれたのでござ~♪~ますか?

そうなのです。僕の叔父が救急車で病院へ搬送され診断ミス・医療ミスで亡くなった事があったから、お袋にはそのような事が無いようにと僕はかなり心配していたのですよう。



『診断ミス・診療ミスによる死亡例』

デンマンさんの叔父様は行田中央総合病院で亡くなったのでござ~♪~ますか?

いや、別の町の病院です。詳しいことは上の記事に書きました。

それで、デンマンさんは何が不満だったのでござ~♪~ますか?

お袋は救急医療室で手当てを受けたのです。

それで。。。?

救急担当の医者に聞いたら、「これから検査をします。それからですね」と言った。意識障害と狭心症という診断で2週間の予定で入院することになった。手続きは翌日にすることにして、とりあえず5時半に僕は実家に戻った。

それで。。。?

翌日(27日)、お袋の病室に見舞いに行ったけれど、状態は快方に向かっているように見えた。しかし、亡くなった叔父も病状が急変して死亡したように、お袋の病状も急変するかもしれない。だから、僕は心配だった。それで担当の看護婦さんに担当医と会って話がしたいと言ったら同じ返事が返ってきた。つまり、検査がすべて済んでから担当医の方から連絡がゆくから、その時にお会い下さいと言う事だった。

。。。んで、デンマンさんはどうなさったのでござ~♪~ますか?

28日の午後3時にお袋の病室に見舞いに行った時に、どうしても担当の先生に話がしたいと思ったのですよう。

やっぱり、心配になったのでござ~♪~ますか?

当然でしょう!僕の叔父は診断ミス・医療ミスで亡くなったのですからね。そうならないように僕は担当医にしっかりとお袋の病状を尋ねようと思ったのですよう。

それでナース・ステーションに行ったのですか?

そうですゥ。

それで。。。?

看護婦さんは、やっぱり同じ事を言ったのですよう。「検査がすべて済んでから担当医の方から連絡がゆきます。その時にお会い下さい」と言うのです。

。。。んで、デンマンさんはどうなさったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、お袋が病院に搬送されてからすでに48時間が経過していたのですよう。その間、僕は看護婦からも担当医からも何の説明も受けてなかった。

つまり、デンマンさんは心配のあまり、かなりムカついたのでござ~♪~ますわね?

当然でしょう!たとえばねぇ、外来患者として歩いて病院へ行って検査を受けて、その結果を待つ、と言うのなら48時間何も連絡が無くても我慢できるかもしれない。だけど、お袋の場合には救急車で病院へ搬送されたのですよう。僕はお袋が死んでしまったのではないだろうか?そう思ってテーブルにうつ伏せているお袋の肩を揺らした。そうしたら弱々しいけれど意識があった。それで、緊急を要すると思って救急車を呼んだ。それなのに48時間、僕は看護婦からも担当医からも何の説明も受けてない。

それでデンマンさんはムカついてしまったのでござ~♪~ますか?

だから、僕はなるべく冷静になって、めれんげさんのような見苦しいヒステリー状態にならないようにと最善の努力を払ったのですよう。んも~~

それで。。。?

僕は看護婦さんに言いましたよう。救急医療を必要としている救急患者が今、どのような状態なのか?付き添いの人は心配している。それなのに48時間も何の説明も無く放置されていたら、付き添いの人はどれほど心配になっているか?あなたには、そういう付き添いの人の心理が理解できないのですか?!僕は必死になって長いブログを書くような心の状態で懇切丁寧に、その時の僕の心配のほどを説明しましたよう。

それで。。。?

看護婦さんは、僕の話を聞いても、また同じ事を繰り返すのですよう。僕は冷静になろうとしたけれど、自分の頬が怒りでピクピク痙攣するのを感じましたよう。

。。。んで?

看護婦さんも僕が異常に怒っているのが判ったと見えて「お待ちください。先生に連絡してみますから」。。。そう言って出てゆきました。

それで。。。?

僕はお袋の病室で10分ぐらい待ちました。看護婦さんがやって来て、「先生がお見えになりましたから、どうぞ」と言う。

それで。。。?

看護婦さんは僕をナース・ステーションに案内した。そこで副院長が僕を待っていた。僕は副院長と話をしたいわけじゃない。担当医と話がしたい、と言った。

そしたら。。。?

担当医は巡回中で僕には会えないと言う。「担当医でないあなたには僕のお袋の病状は分からないでしょう!」。。。僕がそう言うと「いいえ、あなたのお母さんの検査結果を私も見ているから、あなたにご説明できます」と言う。

それで、副院長様はデンマンさんに、ご説明し始めたのでござ~♪~ますか?

その前に僕は行田中央総合病院の緊急医療体制には問題があると批判し始めたのですよう。

マジで。。。?

もちろんですよう。副院長はギョッとしたような表情を浮かべたけれど、あくまで冷静でした。(デンマン注: あとで分かったことだけれど、この先生は院長先生だった!

デンマンさんは、またお医者様に対して文句を言ったのでござ~♪~ますか?

文句ではないのですよう。批判です。

緊急医療体制の問題なんて。。。飛躍過ぎているのではござ~♪~ませんか?




『人のための医療 (2009年10月30日)』より


 (すぐ下のページへ続く)


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言うことは誰でもできるけど…(PART 2)

2012-10-08 13:44:01 | 病める日本・高齢化社会

 
言うことは誰でもできるけど…(PART 2)



あらっ。。。もともとは2009年の10月30日に書いたのですわね?



そうです。 その時の記事を引用したのですよ。

。。。で、病院の対応は改善されたのですか?

いや、改善されてないのですよ。

どうして。。。?

だから、僕が院長先生に言ったことが無視されたのでしょうね。 実は、今年(2012年)の9月27日に救急車で運ばれて、母がまた入院したのですよ。 僕がバンクーバーから成田に着いたのが10月2日ですよ。 翌日すぐに病院へ行って担当の先生に話を聞こうとした。

お話を聞くことができたのですか?

ところが担当の凌(りん)先生は不在。 以前は二人の先生が担当医になっていたのだけれど、今回は一人だけ。 主治医以外の担当者として婦長の峯川さんの名前が書いてあった。

。。。で峯川さんにお会いしたのですか?

そうです。 でも、医者ではないから治療の詳しいことなどは一切説明してくれない。 せっかくバンクーバーからやって来たのだから、なるべく早く担当医の先生から説明が聞きたいのに便宜を図ってくれようともしない。 結局「検査が一通り終わってから担当の先生とお話してはどうですか?」ということになったので、今回は緊急を要する治療が必要ではなさそうだから、「じゃあ、来週の月曜日(10月8日)にでも。。。」ということになったのですよ。 つまり、今日ですよ。

でも、今日は3連休の最後の日ですわ。

そうなのです。 昨日、ナースステーションで看護師の女性に尋ねたら、「凌(りん)先生は月曜日はお休みです」というのですよ。 つまり、10月8日の月運日(今日)も担当の先生と会えない。 ところが、検査は10月4日に済んでいた。

どうしてデンマンさんに連絡しなかったのですか?

だから、担当医の先生と担当の看護師さんと患者、あるいは患者の家族とのコミュニケーションがうまく取れてない。 伝言板だとか連絡ノートだとか。。。そういうものが患者のベッドサイドに用意されてない。 つまり、お袋が救急車で病院に運ばれたのに、10月3日にお見舞いに行った時から10月8日、今日になっても病状の説明は一切僕は聞いてもいないし、僕の家族も一切、担当医から説明を受けていない!

マジで。。。?

このような重要な時に僕は嘘や「でまかせ」を言いませんよ。

問題はそれだけですか?

いや、実は、他にも問題があった。

どのような。。。?

証拠を残すために、今回はフィードバックフォームに書いたのですよ。 ちょっと読んでみて下さい。


皆様のご意見をお聞かせください。

皆様にご満足戴ける病院を目指してスタッフ一同努力しておりますが、様々な観点において皆様からお気付きの点・ご意見等がありましたら、ご遠慮なくお聞かせください。

記入日: 平成24年10月6日

207号室でお世話になっている患者(私の母)の長男、デンマンという者です。
スタッフの皆様の医療には感謝しております。
さて、母の食事表を見ますと、10月1日(月)には主食・副食ともハシをつけているようです。
しかし、日数が重なってゆき10月5日(金)、10月5日(土)を見ますと、主食・副食ともにゼロです。(食べていません。)
病院理念を見ますと「病気を診ずして病人を診よ」となっていますが、理念と現実があまりにもかけ離れているのを感じます。

委員のパンフレットを拝見しますと、食欲をそそられる素晴らしい(医療食の)写真が掲載されています。
ところが実際の医療食を見ますと、見ただけでもまずそうで、食欲を無くすようなメニューになっています。

貴医院には専属の栄養士・調理師は居ないのでしょうか?
母の生きがいは「食」にあります。
医療食とはいえ、患者の好みに応じたメニューを提供して欲しいと強く感じます。
なぜなら、入院中の患者にとって食事が唯一の楽しみだと思うからです。

医療食が人生の最後の食事になる患者さんも居ることでしょう。
「病気を診ずして病人を診よ」という理念に基づいて病人の気持ちと病状を考慮した医療食を提供していただきたいと切にお願いします。
宜しくお願いします。
乱筆で失礼いたします。



デンマン

行田市行田 TEL: 0485 (54) 9999




でも、一人一人の患者さんの要望にこたえるような医療食を作るとなると病院は大変なのではありませんか?



もちろん大変でしょうね。 でもねぇ、そのようなきめの細かい配慮を心がけて医療食を作っている病院もあるのですよ。

たとえば。。。?

9月22日の記事『1リットルのお尻が流出』で僕は大野更紗さんを紹介したのですよ。


おしり大虐事件

ナースコールを押した。
コールで来てくれた(看護師)I君に、背中を向けた瞬間である。
さきほど病室に備え付けのシャワー室で、新しい病衣に着替えながら、
「なんか生臭い。 におうな」と感じた。
きっとこの病衣が臭いのだなと考え、I君にさらなる替えを頼もうとしていたところだった。

「はあ?」
わたしは何も異変に気づかず、いつものようにベッドの脇に突っ立って、髪をタオルで乾かしながら、女子のおしりをI君にさらすために、パンツのゴムに片手をかけていた。
I君のドナルド声の冷静なつぶやきに、思わず振り返り、自分の下半身に目を向けた。
「ぎゃああああああああああ!!!!」

病衣のズボンが、血と膿が混ざった濃厚なチョコレートファンデュのような液体で、全部びっしょりと染まっている。
液体の流出元は、何を隠そう、わたしの腫れたおしりである。
しかもなにやらこの液体は、床にまでしたたりじはじめている。
すさまじい、生々しい香りが病室を満たす。
1リットルの涙、ならぬ、1リットルのおしりが、流出した。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています)




158-159ページ 『困ってる人』
著者: 大野更紗
2011年7月30日 第7刷発行
発行所: 株式会社 ポプラ社

『1リットルのお尻が流出』より
(2012年9月22日)




この更紗(さらさ)さんは難病を患っていて、確実な治療方法が無いのです。



あらっ。。。更紗さんは治らない病気に苦しんでいるということですか?

そうです。。。今のところ治らない病気なのですよ。 でもねぇ、更紗さんの本を読むと、難病にもめげずに生き抜こうとしている意欲がひしひしと伝わってくるのですよ。 しかも、更紗さんの心意気に応じるかのように病院の栄養士さんが更紗さんのベッドサイドに直接うかがって、好みの物を取り入れた医療食を作っているのですよ。

病院が更紗さんを特別に扱っているのではありまあせんか?

いや。。。病院が更紗さんを特別に待遇しているわけではない! 栄養士さんが患者さんの好みに応じた医療食を作るような体制ができている。 だから、「病気を診ずして病人を診よ」の精神で、心温まる生涯医療センターを目指しているのであれば、行田中央総合病院はもう少し患者の身になって、僕の母親の好きなものを取り入れて医療食を作り、なるべくすべてを食べきるように心配りをして欲しいものです。

行田中央総合病院のスタッフの方がこの記事を読めば、今度こそ病院の理念に沿って改善しようとするのではありませんか?

僕も、そうであることを願っているのですよ。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~
そうですわよねぇ~♪~。
患者さんのために医療食を作るのであれば、患者さんが残らず食べるようなメニューを常に心がけて作るようにすべきだと思いますわ。
それこそ、「病気を診ずして病人を診よ」の精神でござ~♪~ますわよ。

心温まる生涯医療センターを目指しているのであれば、行田中央総合病院はもう少し患者さんの身になって、デンマンさんのお母様の好きなものを取り入れて医療食を作ってあげれば良いと思いますわ。
患者さんも、その方がうれしいでしょうし、
医療食を作る立場にある栄養士さんも、患者さんがすべて食べてくれるのであれば、医療食を作る「やりがい」につながると思うのでござ~ますわ。
あなたはどう思いますか?

とにかく次回も、興味深い話題が続きそうでござ~♪~ますう。
だから、どうか、またあなたも読みに戻ってきてくださいましね。
では。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





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ありがとうさん(PART 1 OF 3)

2012-10-08 13:43:20 | お笑い・ユーモア・娯楽・ゲーム・音楽
 
ありがとうさん(PART 1 OF 3)






画映田蒲

社会式株マネキ竹松

作成康端川

んさうたがり有

化画映宏水清





主演: 上原謙
黒襟の女: 桑野通子
売られゆく女: 築地まゆみ
その母親: 二葉かほる

1936年 制作





デンマンさん。。。出演者以外はすべて右から左へと書いてますわね。 どうしてですか?



あのねぇ、たまたま夕べ、バンクーバー図書館から借りてきたDVDを観たのですよ。

それが上の日本映画だったのですか?

その通りですよ。 まさに上のように右から左へと書いてあったのですよ。

そういえば、私の子供の頃には館林でもお店の看板に右から左へ書いてあるものがありましたわ。

マジで。。。? 小百合さんは1965年生まれでしょう? 僕はそれ以前に生まれているけれど、行田では「右書き」の看板は見かけたことがありませんよ。

よ~く探せば今でもありますわよ。 デンマンさんが気づいてないだけですわ。

そうかなァ~?

それにしても1936年に作られた映画がDVDになってバンクーバー図書館にあるのですか?

もちろんですよ。 だから、僕は借りて観ることができたのですよ。 おそらく日本では、めったに観ることができないのでは。。。?

無声映画ですか?

いや。。。トーキーですよ。 日本映画界が本格的にトーキー時代を迎えたのが1936年だったそうです。 この年に清水監督が『有りがたうさん』を発表したのですよ。

どのような内容なのですか?

伊豆の街道を昔のボンネット型の乗り合いバスで走りながら、その中の乗客のやり取り、乗客と“有りがとうさん”と呼ばれている運転手とのやり取り、バスが通る道筋の人々と運転手さんのやり取りなどを全編ロケーションで撮った映画ですよ。

運転手さんがどうして“有りがとうさん”と呼ばれているのですか?





この当時の伊豆の街道は舗装されてなくて、しかも狭い道なのですよ。 だから、人が歩いていたり対向車が来たりすると道を譲ってもらわなければならない。 そのたびに、この運転手さんが「有りがとう、有りがとう」と叫ぶので、土地の人々から“有りがとうさん”と呼ばれるのですよ。



デンマンさんは、なぜこの映画を観る気になったのですか?

たまたま図書館の棚に、このDVDを見かけたのですよ。 すべて英語で書いてあるのだけれど、説明を読んでみたら面白そうなので観る気になったのです。

デンマンさんは題名や映画監督の名前を知っていたのですか?

いや、全く知らなかった。 でもねぇ、調べてみたら清水監督は『小原庄助さん』という映画を1949年に作っていたのですよ。 僕は監督の名前を知らずに、ずっと後になって、この映画を観ていた。





『小原庄助さん』という映画はそれほど有名だったのですか?



いや、映画よりも「小原庄助さん」の名前が有名でしょう!?

小原庄助さん、

何で身上(しんしょう)つ~♪~ぶした?

朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、

それで身上つ~♪~ぶした。


小百合さんだってこの歌を知っているでしょう?

確かに聞いたことがありますわ。

1922年に清水さんは蒲田撮影所に入社した。 その翌年に、あの有名な小津安二郎さんが松竹に入社し、清水さんと小津さんは終生の親友となったというのですよ。 先輩の助監督に成瀬巳喜男さんがいた。 それなのに、なぜか清水監督の影が薄いのですよね。 僕も知らなかったのだから。。。




没後も一定の評価はあったが、忘れられた過去の巨匠の側面が強かった。
例えば、俳優の笠智衆は、自著で「僕は、清水監督の作品が実に好きで、自分が出してもらったのを含め、いいシャシンがいっぱいあったと思います。
小津先生の作品は、いろんな人があれこれ言いますが、清水オヤジのシャシンをきちんと評価する人がいないのが不思議でなりません。」
(「先生の親友・清水オヤジ」『大船日記 小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年)と述べていた。

1990年代前半に松竹から清水宏作品のビデオが発売され、90年代半ば頃から松竹時代を中心に清水宏の再評価の機運が高まった。

その後、2003年、第4回東京フィルメックス国際映画祭において特集上映企画「清水宏 生誕100年」(東京国立近代美術館フィルムセンター共催)が開催され、『港の日本娘』など10作品が上映。清水宏作品の『簪』が同映画祭の観客賞を受賞した。

また、2004年には、第54回ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で「清水宏監督特集」、第28回香港国際映画祭でレトロスペクティヴ「清水宏101年記念展」が開催された。

同時期に活躍した小津安二郎や溝口健二と比べると現在でも知名度は不当に低いが、2007年、代表作の一つである『按摩と女』が、草剛主演、石井克人監督でカヴァー作品『山のあなた〜徳市の恋〜』として製作されることが発表、2008年に東宝系列で公開された。




出典: 清水宏 (映画監督)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




でも、知る人は知っているのでしょうね。



そうです。 だから、バンクーバー図書館にも清水監督の作品がDVDになって貸し出されているのだから。。。だけど一般的には小津さんや成瀬さんと比べると清水監督のカナダでの知名度は低いですよ。

なぜですか?

あのねぇ~、「有りがたうさん」は「実写的精神」と呼ばれ、当時、絶賛を浴びたらしい。 つまり、全編ロケで撮っている。 要するに、自然の情景の中で、わざとらしいセリフ、演技、演出を除いて清水監督は撮影するのですよ。 「役者なんかものをいう小道具」だと監督は言っていたらしい。

役者の芝居くささを嫌ったのですか?

そうらしいですよ。 伊豆を中心に自然な情景を好んだようです。 だから、役者の演技で感心させるような映画にはならなかった。 それで、映画評論家の受けもよくなかったのじゃないか? 僕はそう思うのですよ。

。。。で、「有りがたうさん」はつまらなかったのですか?

いや、面白かったですよ。 面白くなければ僕はこの記事で取り上げなかったですよ。

どんな所が面白かったのですか?

もし1936年当時に見ていたとしたら、あまり面白くもない映画だったかもしれないけれど、75年後の現在観ると、失われた風景と失われた人情がバスの中と外にあるのが観ていて懐かしかったですよ。

失われた風景というのは判るような気がしますけれど、失われた人情ってどのようなものですか?

途中で結婚式に出席する夫婦が乗ってくるのですよ。 それから間もなくして、今度は「お通夜(つや)」に出席する男が乗ってくる。 そうすると結婚式に出席する夫婦が「結婚式に出席するのに、通夜に出席する人とバスで一緒に行くのでは、縁起がよくないから、ここで降ろしてもらって歩いてゆこう」と言って降りてしまう。 現在ならば、そのような事を考える人はいないでしょうね。

そうでしょうか?

だってぇ、山手線を考えてくださいよ。 そのような事を考えたら電車で結婚式には行けなくなってしまいますよ。

それもそうですわね。 (微笑) でも、山手線の中で、乗客がそのような話をしませんわ。

さらに、その続きがあって、通夜に行く男は、夫婦が降りて歩いてゆくのを見て、「オラが乗ってきたために、あの夫婦を降ろして歩かせてしまって申し訳が立たない。 オラもここで降りて歩いてゆくことにするべ」と言ってバスから降りて歩き出すのですよ。

確かに、そういう人も今は居ないでしょうね。(微笑)

当時は昭和の不景気の時代で、東京へ娘を身売りにだす母親と、その娘がバスの最後部に座っているのですよ。 





この上の写真の後ろ座席に座っているのがその娘と母親なのですか?



そうです。 待合所の茶屋で、身の上話を聞いて同情した親切なおばあさんが「バスの中で食べなさいな」と言って箱に入った羊羹を渡す。 バスが峠を越した頃に、その羊羹を母親が他の乗客の人たちに「おすそ分け」に一つづつ上げるのです。 





団体旅行の観光バスの中ならばともかく、普通の乗り合いバスの中でそのような事をする人は現在では、もう見かけませんよ。



そうですわね。

それで僕は思い出したことがあるのですよ。

何をですか?

同じような情景を僕は韓国へ行った時に見かけたのですよ。。。と言うよりも体験したのです。

いつ頃のことですか?

確か、1990年頃だと思います。

韓国のどちらへ行ったのですか?

バンクーバーから行田へ帰省したついでに九州旅行を思いつき出かけたのですよ。 でもねぇ、途中で気が変わって下関からフェリーで釜山へ行ったのです。

どうして九州旅行が釜山旅行になったのですか?

あのねぇ~、新幹線の中で、たまたま歴史の本を読んでいた。 ちょうど「文禄・慶長の役」の話に興味を覚えたのですよ。

どのようなお話ですか?

普州城(チンジュソン)の戦いの時のエピソードなのですよ。

 (すぐ下のページへ続く)



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ありがとうさん(PART 2 OF 3)

2012-10-08 13:42:24 | お笑い・ユーモア・娯楽・ゲーム・音楽



 
ありがとうさん(PART 2 OF 3)


普州城の戦い



晋州城攻防戦は、文禄の役における2回の攻城戦。

朝鮮半島の晋州城、現在の晋州市)を守る朝鮮軍を日本軍が攻撃、文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が守りきり、文禄2年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦では日本軍が攻城に成功した。

攻防戦の背景

開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な朝鮮軍の抵抗をほとんど受けないまま約2ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。
漢城(ソウル)を起点に朝鮮各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなく、朝鮮軍が活発に後方攻撃を繰り返すにつれて連絡路がしばしば遮断されることがあった。
このため漢城方面への補給が滞り、補給路の安全確保のために朝鮮軍の策源地と見られていた晋州城を攻略する必要が生じた。
それ以前の晋州城は釜山から漢城へのルートから外れていたため大規模な侵攻を受けていなかった。
また朝鮮では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。

第一次攻防戦

10月4日、咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり6日より攻撃が始まった。
晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約3800人の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。
また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃し、7日の夜からは崔慶会・任啓英などの全羅道義兵約2500が到着して城外で遊撃戦を行った。
日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、10日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。

第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成

細川忠興 3500人
長谷川秀一 5000人
木村重茲 3500人
新庄直定 300人
糟屋武則 200人
太田一吉 160人
等 総勢20000人

朝鮮軍

晋州城守備軍 3800人

第二次攻防戦

秀吉は約9万の晋州城攻略軍を編成し、前回の教訓から攻城正面は宇喜多秀家、加藤清正、小西行長などに担当させ、毛利秀元、小早川隆景を城外の遊撃対応の担当にした。

攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将劉綎は数万の明、朝鮮援軍を集結、その対応のため、第六軍の立花宗茂と小早川秀包とともに兵4千で星州へ行ったが、6月13日、劉綎配下の琳虎というの武将が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城の西南の河東郡へ進軍、立花と小早川軍は転進して撃退している。
この戦闘については『懲録』では明軍は朝鮮の救援要請に対して、動かなかったとあるので疑問がある。

対する守城側では意見がまとまらず、籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し、明軍は晋州城防衛に不同意であり、朝鮮軍でも方針は分裂し西人派は籠城を主張し東人派は消極的だった。
最終的に晋州城内へ集結した兵力は朝鮮軍約7000と避難民だけであった。

6月14日、日本軍は昌原より進撃を開始し、咸安を経由して宜寧に集結していた平安巡辺使・李賓(正字は草冠に賓)、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡などの朝鮮軍を敗走させた。

21日に日本軍は晋州城を包囲すると、攻城用の高櫓を作り、濠の水を南江に落とす土木工事を始める。
22日から本格的な攻城戦が始まり、以後城内は猛攻にさらされる。
東面からは加藤清正ら一番隊が、北面からは小西行長ら二番隊が、西面からは宇喜多秀家ら三番隊が攻撃し、毛利秀元の四番隊と小早川隆景らの五番隊は周囲の山に陣取り、城外からの遊撃部隊による襲撃を警戒した。
27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが朝鮮軍には容れられず、29日には亀甲車を用いて城壁を突き崩すと、黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが先を争って突入し晋州城を攻略した。
軍民を巻き込んで落城した晋州城では倡義使・金千鎰、その子・象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死した。

晋州城攻略後の動向

晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。
この攻略戦以後、日本軍は和平交渉中の在陣のために朝鮮半島南岸に拠点となる城の築城を開始したが晋州城は守備範囲外とされ撤退時に破却された。

第二次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成
日本軍 92972人

第一隊 黒田長政・加藤清正・島津義弘・鍋島直茂等 25624人
第二隊 小西行長・細川忠興・宗義智等 26182人
第三隊 宇喜多秀家・石田三成等 18822人
第四隊 毛利秀元 13600人
第五隊 小早川隆景・立花宗茂等 8744人

朝鮮軍

晋州城守備兵 約7000人




出典: 「普州城の戦い」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




「文禄の役」に、こういう2回の激しい戦闘があった。



。。。で、デンマンさんを九州旅行から韓国旅行へと駆り立てたという歴史エピソードとは、どのようなものなのですか?

あのねぇ、第2回目の攻防戦で日本軍は勝った。 それで加藤清正をはじめとして武将やその家来が祝宴を開いたのですよ。 当然のことながら武将たちを喜ばせるために妓生(キーセン)がたくさん集められた。 その中に朱論介(チュ・ノンゲ)と呼ばれる女性がいたのですよ。





この人が論介(ノンゲ)さんですか?



そうです。 豊臣軍が「矗石楼」で祝宴の最中、論介(ノンゲ)さんもその祝宴の中に居た。 そこに俗に「加藤十六将」の一人とされる貴田孫兵衛(きだ まごべえ)という武将がいたのです。 鉄炮衆四十名を率いて従軍した。 孫兵衛の一族は、加藤家改易の後には細川藩士となっている。 この人は別名毛谷村六助の名で知られている人です。

有名な武将なのですか?

江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)』として上演されて流行した。 その後、歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされた。

この孫兵衛さんとキーセンの論介(ノンゲ)さんが関係あるのですか?

あるのですよ。 この祝宴の席で酔った孫兵衛さんを「矗石楼」の外の岩場に連れ出し、孫兵衛さんを抱きかかえて、共に南江の川淵に身を投げたというのですよ。





復讐のためですか?



おそらく身内の者や知人が晋州城の戦いでたくさん殺されたのかもしれない。 詳しいことは書いてなかった。

でも、それは事実なのですか?

朱論介(チュ・ノンゲ)さんが加藤清正の家臣の武将を酒に酔わせて共に身を投げたというのは事実なのですよ。 その証拠に今でも朱論介(チュ・ノンゲ)を祀った「義妓祠」という祠(ほこら)が建っている。





この祠の奥に上の論介(ノンゲ)さんの絵が掛けられている。 でも、相手の武将は孫兵衛さんではない可能性がある。



どういうわけで。。。?

大分県中津市には貴田孫兵衛の前名である毛谷村六助の墓がある。 地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えられている。 つまり、人形浄瑠璃や歌舞伎で有名になったので、1960年代に韓国の論介(ノンゲ)伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたのではないか!?と言われているのですよ。 しかも歌舞伎になっている「彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)」では、女ながらも武道の達人である吉岡家の娘お園が、許婚(いいなずけ)の毛谷村六助の助勢を得て父の敵・京極内匠(たくみ)を討つ物語になっている。 それに、六助のモデルは宮本武蔵、内匠は佐々木小次郎と言われている。

いろいろとごちゃ混ぜになっているのですわね?

そうなのですよ。 朱論介(チュ・ノンゲ)さんは実在の人物なのだけれど、そのお相手になった武将は現在では伝説の人物になっている。 歌舞伎の主人公の六助は英彦山の山里毛谷村に育ち、樵(きこり)の生活と信仰の中から剛力と武芸を豊前坊天狗から修得したというのです。 やがて加藤清正軍の武将として文禄の役に出陣し、晋州城の攻略に奮闘したが、戦勝の祝宴で妓生(キーセン)の論介(ノンゲ)さんが身を捨てて六助を掻き抱き、共に南江の川淵に沈んだことになっている。

でも、その身投げした場所ははっきりしているのですか?

はっきりしているのですよ。 今でも「矗石楼」の近くに「義岩」として残っているのです。





。。。で、デンマンさんは、その真相を突き止めるために急遽(きゅうきょ)、九州旅行から韓国旅行に切り替えたのですか?



そうなのですよ。





下関で新幹線から降りて、関釜フェリーで釜山へ行き、丸1日釜山の名所を観て回って、翌日、フェリーで普州へ行ったのですよ。



それにしても、予定も何も無しでよく韓国へ出かける気になりますね。

あのねぇ~、僕は人生の半分以上を海外で暮らしているのですよ。 カナダから比べれば、韓国は隣町のようなものですよ。 それに僕の祖先も小百合さんの祖先も百済からやって来たのですからね。 ふるさとを訪ねるようなものです。

。。。で、普州はどのような町なのですか?





小さな町だと思っていたけれど、結構、都会なのですよ。 驚いたのは日本語を流暢に話す人とたくさん出会いました。 考えてみたら戦前、小学生だった人は学校では日本語で教えていましたからね、昭和一桁生まれの韓国人たちは日本語がぺらぺらなのですよ。



それで朱論介(チュ・ノンゲ)さんの事をその人たちに尋ねたのですか?

そうです。 普州市の人は誰でも論介(ノンゲ)さんの事を知っていました。 とにかく「義妓祠」という立派な祠(ほこら)まで建っていて、その中には論介(ノンゲ)さんの絵までが祀(まつ)られているのだから、市民で知らない人が居ないのもうなずけましたよ。

。。。で、真相は判ったのですか?

出会った人に尋ねても論介(ノンゲ)さんの事を知っていても相手の武将の事まで詳しく知っている人は誰も居なかった。 詳しい人でも豊臣秀吉と加藤清正ぐらいしか知らない。 相手の武将は加藤清正だと言った人も居て、まるで真相究明にはなりませんでしたよ。 (爆笑)

それはそうと、デンマンさんの体験と言うのはどのようなものなのですか?

あのねぇ~、釜山に帰るのにまたフェリーではつまらないので帰りは乗り合いバスに乗ったのですよ。

そのバスが映画に出てくる伊豆の山道を走るようなクラシック・バスだったのですか?

いや。。。道路もバスも現在の日本のものとほぼ変わらなかったですよ。 高速道路を走りながらバスの中から見る風景も広島県や山口県を新幹線の車窓から見た風景とそれほど変わっていたわけじゃない。

。。。で、何が変わっていたのですか?

あのねぇ~、僕は一番後ろの窓際の席に座ったのですよ。 釜山までの長距離高速バスで田舎のおばさんやおじさんたちが乗っていて、8割がた座席が詰まっていた。 最後部の席には僕を含めて3人。 その真ん中に年恰好は、ちょうど映画に出てくる身売りされる娘の母親と同じぐらいのおばさんが乗っていたのですよ。 

着物を着ていたのですか?

いや。。。もちろん日本の着物などは着ていませんでしたよ。 チマチョゴリでもなかった。 日本の田舎で見かけるおばさんと変わらないような服装をしていましたよ。 もんぺのようなスラックスをはいてセーターを着ていた。

それで何があったのですか?

喉が渇いたのか袋を取り出して、おばさんはみかんを食べ始めた。 僕は別に物欲しそうに見ていたわけじゃないけれど、袋いっぱいにみかんが詰まっていた。 「喉が渇いたでしょう? あなたもお一ついかがですか?」 こう言って僕にみかんをくれたのですよ。 反対側の窓際に座っていたおばあさんにも一つあげましたよ。

日本語で話しかけてきたのですか?

もちろん韓国語ですよ。 僕はちょっと疲れていたので、そのおばさんとは始発のバス停から一言も言葉を交わしていなかった。

デンマンさんは韓流ブームで韓国語も勉強したのですか?

いや。。。僕は韓流ブームとは無縁ですよ。 でも日常会話ぐらいならば、何とか話せます。

それでデンマンさんは論介(ノンゲ)さんの事も尋ねたのですか?

いや。。。どうせ尋ねても加藤清正ぐらいしか出てこないと思ったから、僕はカナダに住んでいて日本のふるさとに帰省して、九州旅行に行くつもりが論介(ノンゲ)さんの事を知り、「義妓祠」にお参りに来たと話したのですよ。 そしたら、「わざわざカナダからやって来たのですか?」と、感激されましたよ。

マジで。。。?

だから、新幹線の中で歴史の本を読んでいて論介(ノンゲ)さんの事を知ったので、カナダからわざわざ出かけてきたのではないと念を押しましたけどね。。。(微笑) そうしたら、そのおばさんは日本語で話し始めたのですよ。 ぺらぺらですよ。 日本人と変わらない日本語を話すのですよ。 その人も昭和一桁生まれでした。

面白い話でも聞けたのですか?

聞けましたよ。 そのおばさんが小学生の頃は、もちろん学校では日本語だけだけれど。。。日本人と話す時には論介(ノンゲ)さんの話は禁物だと言ってました。。。で、僕の先祖は「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐と新羅の連合軍と戦い、百済が負けてしまったので九州に落ちのび、それから奈良に行き、挙句の果てに現在、東京がある関東地方まで下って、そこに落ち着いたのですよ、と話したらビックリしていましたよ。



『デンマンの祖先は百済からやって来た』

(2010年8月4日)




デンマンさんは、また上のお話を普州のおばさんにしたのですか?



いけませんか?

だってぇ、根拠があやふやじゃありませんか!?

でもねぇ~、根も葉もない出鱈目(でたらめ)ではないのですよ。 ちゃんと海外飛躍遺伝子というものを小百合さんも僕もDNAに持っているのですよ。

それが根拠があやふやだと言うのですわ。

とにかく、おばさんは僕の話を聞いて2度ビックリしていましたよ。 「面白い話を聞かせていただきました。 喉が渇いたでしょうから今一つどうぞ。。。」ともう一つみかんをいただきましたよ。 (微笑)

でも「有りがたうさん」という映画から、どうして韓国の論介(ノンゲ)さんの話になるのですか?

あのねぇ~、この映画の中にも白いチョゴリを着た、きれいな韓国の娘さんが出てくるのですよ。 たぶん、そのグループは朝鮮から徴用で日本へ連れてこられたのでしょうね。 伊豆の道路工事に従事させられ、お父さんが病気で亡くなり、これから他の工事現場に行くという事を、休憩中の運転手の“有りがとうさん”に話すのですよ。 「私は他の工事現場に行って、父はすぐそこのお墓に残してゆくけれど、たまには父のためにお花を供(そな)えてあげてくださいね」 朝鮮人の娘さんは“ありがとうさん”にそう言うのですよ。

。。。で、“ありがとうさん”は娘さんの願いを聞いてあげるのですか?

上原謙が扮する運転手さんは“ありがとうさん”と呼ばれるほどだから、村人たちの人気者で心の優しい人なのですよ。 それで、娘さんの願いを聞いてやるのです。

つまり、現在の日本で忘れられている義理人情のお話が映画の中にたくさん出てくると言いたいのですか?

その通りですよ。 小百合さんもレンタルショップで探してDVDを観てみるといいですよ。

そのうち時間ができたら探してみますわ。

(初出: 2011年11月26日)



 (すぐ下のページへ続く)

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ありがとうさん(PART 3 OF 3)

2012-10-08 13:39:25 | お笑い・ユーモア・娯楽・ゲーム・音楽



 
ありがとうさん(PART 3 OF 3)


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~
なんだか、あたくしも『有りがたうさん』を観てみたくなりましたわ。
あなたも、お近くのレンタルショップでDVDを探してみてはいかがでござ~♪~ましょうか?

デンマンさんの祖先が百済からやって来たというお話は眉唾物(まゆつばもの)ですけれど、面白いからぜひ次のリンクをクリックして読んでみてくださいまし。

『デンマンの祖先は百済からやって来た』

次回も面白い話題が続きそうでござ~♪~ますう。
あなたも、どうか、また読みに戻ってきてくださいね。
では。。。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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