愛と性に萌えて

藤原道長と紫式部

文学を愛好した道長は
紫式部・和泉式部などの
女流文学者を庇護し、
内裏の作文会に
出席するばかりでなく
自邸でも作文会や
歌合を催したりした。
『源氏物語』の第一読者であり、
紫式部の局にやってきては
いつも原稿の催促をしていた
と言われている。
自分をモデルとした
策略家の貴族が
登場していることから
それを楽しみにしていた
とも言われる。
家集『御堂関白集』を残し、
自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。
道長本人は和歌より漢詩の方を
得手としていたようである。
ちなみに有名な「この世をば」の歌は
本人も即興で作った歌であったために
気に入らなかったらしい。
そのため、『御堂関白記』などには
記載されておらず、
政敵・藤原実資(さねすけ)の
『小右記』に伝えられている。
仏教とくに浄土教に対して
信仰心が厚く、
最期は自らが建てた
法成寺阿弥陀堂本尊前で
大勢の僧侶に囲まれ
極楽浄土を祈願する儀式の中で
臨終の時を迎えたとされる。
『榮華物語』には、
夜半に道長が紫式部の局を
たずねて来る一節があり、
鎌倉時代の公家系譜の
集大成である『尊卑分脉』には、
紫式部の項に
はっきり道長妾との註記が
付くようになるが、
彼女と道長の関係は不明である。
紫式部の生没年は不明であるが
寛弘5年(1008年)が30才位と
推測されるので逆算し
天延元年(979年)頃生まれ
長和五年(1016年)頃
亡くなったと推定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デンマンさん。。。今度は藤原道長と紫式部を持ち出してきたのですか?
いけませんか?。。。レンゲさんは道長も式部も嫌いなのですか?
別に嫌ってはいませんわ。。。でも、道長も式部も全く関係ないでしょう?
そんな事はありませんよ。当子(まさこ)内親王が伊勢の斎宮を辞めて京都に戻ってきたのが長和五年(1016年)9月ですよ。そしてまもなく内親王の乳母が藤原道雅(みちまさ)を紹介し、二人は愛し合うようになったのですよ。
デンマンさんは、どうしてそのような事までご存知なんですか?
そのような事はネットで調べればすぐに分かることですよ。
それで、この二人の恋愛に道長さんと式部さんが関わっているのですか?
もちろん、直接の関係はありませんよ。でもね、紫式部が亡くなったとされているのが、くしくもこの二人が愛し合った頃なんですよ。不思議な因縁を感じませんか?
別に。。。
やだなあああぁ~。。。あれほど情熱的な詩を書くレンゲさんが、内親王と藤原道雅の萌えるような恋愛に無関心なのですか?
もちろん、関心はありますわぁ。。。ただ、ここで藤原道長と紫式部を持ち出してきたデンマンさんの意図が良く分からないのですわ。
ぼくの。。。僕の意図ですか?知能指数が140もある聡明なレンゲさんが僕の意図が分からない。。。そんな事は無いでしょう?
デンマンさん。。。あたしのIQを持ち出すのを止めてくださいな。
僕の意図は見え見えでしょう?。。。つまり、平安時代の源氏物語が正にこの時に花を咲かせている。この時代背景の中で内親王と藤原道雅は恋の花を咲かせたわけですよ。つまり、恋と愛の花が咲き誇る文化的な背景を、僕は紫式部を持ち出してきて語っているつもりですよ。
それって。、。。それって。。。少しオーバーではありませんか?
決してオーバーではありませんよ。
でも、どうして道長さんまで持ち出すのですか?
だから、道長と式部も愛し合っていたのではないか。。。?そう考える人が現在の文学研究家ばかりではなく、鎌倉時代の研究家にも実際に居た。その事が上で書いたように『尊卑分脉』の中にはっきりと書かれている。
つまり、紫式部は道長さんの妾になっていたと。。。デンマンさんもそのように思っているのですか?
僕は別に妾にこだわりませんが、少なくとも道長と紫式部の間には心の交流があったと信じていますよ。
どうして。。。どうしてそのような事をおっしゃるのですか?

紫式部は長徳四年(998年)頃、
親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し、
長保元年(999年)に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)(大貳三位)をもうけたが、
この結婚生活は長く続かず、まもなく宣孝と死別した。
寛弘二年(1005年)12月29日より、
一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に
女房兼家庭教師役として仕え、
少なくとも寛弘八年(1011年)頃まで奉仕し続けたようである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
分かるでしょう?道長は自分の娘の家庭教師として紫式部を抜擢したわけですよね。彼女のことを信頼し、彼女の文学的な才能にも惚れ込んでいた。
それで、道長さんと式部さんの間には男と女の感情もあったとおっしゃるのですか?
それは、当然あるでしょうね。どの程度かと言う事が問題になるわけだけれど、文学で結ばれた絆のようなものを僕は感じますよ。つまり、道長は『源氏物語』の第一読者だったのですよ。そう言う訳で、彼は紫式部の部屋にやってきてはいつも原稿の催促をしていたのですよ。
でも、お部屋と言っても、それは宮中の事務所のような所だったのでしょう?
まあ、そうですよ。でもね、紫式部も道長の心のうちを察して、物語の中にも道長らしい登場人物を書いている。それで、道長も自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることから式部さんが書いた物語を楽しみにしていたわけですよ。このあたりに、二人の心の交流が感じ取れるでしょう?ちょうど僕とレンゲさんのように。。。うへへへへ。。。
そのようにヤ~らしい笑いを浮かべないで下さいな。確かに二人が親しくしていた事は分かりますけれど。。。、でも、そうだからといって式部さんが道長さんの妾になっていたというのは、ミーちゃんハーちゃんの邪推だと思いますわ。
でもね、この時代、源氏物語を読むまでもなく、この二人のような親しい付き合いがあれば、文学的な関係から情を通じ合うような親密な関係になっても決して不思議ではありませんよ。“妾”と言うような俗っぽい言葉を持ち出すからレンゲさんにも抵抗があるかも知れないけれど、道長さんと式部さんには、ちょうど当子(まさこ)内親王と藤原道雅のような心の交流があった。そのほうが文学的に考えた時に自然ですよ。そう思いませんか?
そうでしょうか?
なぜ内親王の乳母が藤原道雅を紹介したと思いますか?
なぜですの?
この乳母は内親王の幸せを願っていたんですよ。運命のいたずらで11才で内親王は斎宮になる事が義務付けられてしまった。この乳母にとって不憫に思えたのですよ。
どうしてですか?
斎宮になったら、無菌室で生活するようなものですよ。外界と遮断されてしまう。だから、男と付き合うわけにもゆかない。乳母は思ったでしょうね。この源氏物語の時代に、せめて内親王にも女と生まれた喜びを感じさせてやりたいと。。。
そうでしょうか?
僕が乳母の立場だったら、間違いなくそう思いますよ。
萌えた恋の悲しい結末

当子(まさこ)内親王は
長保3年(1001年)に
生まれました。
なんと、治安3年(1023年)に
22才の若さで亡くなっているのです。
しかし、短い命でしたが
波乱に満ちた愛と性の
悦びと苦悩に、その人生は
彩(いろど)られているのでした。
内親王は第67代三条天皇の
第一皇女でした。
寛弘8年(1011年)に
父親の三条天皇が即位すると、
翌年、内親王が11才の時に
斎宮(いつきのみや)に選ばれたのです。
満11才とはいえ、
既に匂いたつような美貌でした。
父・三条帝は当子内親王を
こよなく愛していたのでした。
それだけに、まだ幼い
内親王との別れが
死別するようにつらい。
三条帝は自らの手で
内親王の前髪に
『別れの小櫛』を挿したのでした。
しかし、帝は内親王との別れに
耐え切れず、
別れの儀式には
決して振り返ってはならない
という禁忌を破って、
振り向いて、内親王の姿を
もう一度見てしまったのです。
それ程別れがつらかったのでした。
このようにして、内親王は
13才で伊勢に旅立ちました。
しかし、彼女が15才の時に
三条天皇は譲位します。
そのため、内親王も慣例によって
斎宮の勤めを辞めて
1016年9月に帰京しました。
三条帝が目に入れても
痛くないほどの可愛い乙女でしたから、
何も無くそのまま平凡な余生が
待っているとも思えません。
やがて京の街に噂が
流れ始めたのです。
藤原道雅(ふじわらのみちまさ)が
前の斎宮・当子内親王と通じている。
人々は口伝に、
そのようにウワサし合ったのです。
道雅は道長の政敵だった
藤原伊周(ふじわらのこれちか)の息子です。
伊周は道長の兄・道隆の息子です。
今は失脚したとはいえ、
常に道長のキャリアを
脅かしてきた相手でした。
伊周の妹・定子は道長の娘・彰子と
一条帝の寵を争った“恋敵”です。
当代一の権力者・藤原道長の
目を恐れるならば、
藤原道雅は内親王にとって
最もふさわしくない相手でした。
運命は当子内親王に不幸の種を
宿したのかもしれません。
噂を聞いて父の三条院は激怒しました。
手引をした内親王の乳母(めのと)は
放逐され、
彼女の身辺の監視は厳しくなりました。
三条院は皇后や親王らの
とりなしも聞きいれずに
内親王を厳しく罰しようとしたのです。
しかし、憎しみは道雅に向かいました。
そのような訳で道雅には天皇から
勅勘が下りました。
つまり、天皇より勘当のお達しが
あったわけです。
すべての縁を切ると。。。
世間では
「伊勢物語の斎宮であればともかく、
この内親王は既に斎宮を
下りているのだから」
と同情する声もありました。
しかし、三条院は内親王を
目に入れても痛くないほど
可愛がっていただけに、
道雅を許す事が出来なかったのです。
内親王と道雅はその仲を
裂かれてしまったのでした。
心頼りにする道雅とは
もはや会う事も
文を通わす術もなく、
内親王はあれこれと心悩ませ
涙で袖を濡らす夜々を過ごしたのでした。
道長との関係も思わしくなく、
心痛が重なり健康が損なわれ、
眼病にも悩み、
やがて三条院は崩御しました。
内親王は16才の若さで
手ずから髪を下ろし、
出家したのです。
父を失い、
二度と道雅に会う事のないまま、
内親王は6年後の22才で
花の命を閉じたのでした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内親王が斎宮のお勤めから解放された時には乳母は自分の事のように喜んだでしょう。やっと内親王にも人並みの生活が出来るとね。
それで、乳母は藤原道雅さんを内親王に紹介したのですか?
そうですよ。
なぜ、道雅さんでなければならなかったのですか?この人は歴史の上では“荒三位”とか“悪三位”と呼ばれ“ヤクザな男”だと言う事になっていますわ。
それはね、藤原氏主流派の陰謀があったからですよ。
なんですか、その陰謀って。。。?
今でこそ藤原道長は歴史の上では藤原主流派になっていますがね、この当時、頭角を現してきた道長は、それまで藤原主流派であった道雅の父親である藤原伊周(これちか)から政権を奪って主導権を握ったのですよ。
つまり、歴史で繰り返されてきた“事実の粉飾”ですか?
そうですよ。道長がなるべくして藤原氏の“氏の長者”になったと言う事を歴史の上にはっきりと残さなければならない。道雅は悪者にされてしまったわけですよ。こういう悪者が子供に居るのだから、親も悪者なんだ。。。そうやって、道長は自分の立場を正当化し、藤原氏の主流である事を歴史の上に残す必要があった。
道長さんはそのような悪い事をしたのですか?
悪い事だと思ってしたわけではありませんよ。それが正しいと思ったからやったまでですよ。
つまり、道雅さんは悪い人ではなかったのですか?
この人が書いた歌を詠んでみてくださいよ。