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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

徳子と小督の悲話(PART 1)

2013-04-17 14:55:19 | 日本史

   
 
徳子と小督の悲話(PART 1)



(tokuko05.jpg)




(shibagaki4b.jpg)




デンマンさん。。。 「悲話」というタイトルが見えてますけれど上の画像を見ていると、なんとなくエロい雰囲気が漂ってくるのでござ~♪~ますわァ~。。。



。。。ん? エロい雰囲気ですか?

そうですわ。。。 3枚目の画像ですわよう。。。 どう見てもエロいではござ~♪~ませんか! だからボカシが入っているのですわ。 そうでしょう?

卑弥子さんはエロい画像ばかりに注目するからですよ。

だってぇ、どうしてもエロい画像に目が釘付けになってしまうのですわ。 うふふふふふ。。。

それは卑弥子さんがエロい事に興味があるからですよ。

あらっ。。。 デンマンさんは、あたくしがエロい女だと思っているのでござ~ますか?

違うのですか?

んもおおおォ~。。。 ムカつきますことォ~!。。。 あたくしは、これでも京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授でざ~ますわ。 言うに事欠いてエロい女などとォ~。。。 あたくしの母親が聞いたら涙を流して悲しみますわよう。。。

そうでしょう。。。 そうでしょう。。。 だから、今日は悲話の話しをするのですよ。

あらっ。。。 エロいお話ではないのでござ~♪~ますか?

あれっ。。。 卑弥子さんは、エロい話の方がいいのですか?

だってぇ。。。、だってぇ~。。。 デンマンさんがせっかくエロい画像を貼り付けたのでござ~ますから、あたくしはかまいませんけれど、エロい画像を見た世界のネット市民の皆様の多くがエロいお話を期待していると思うのでござ~ますわ。

あのねぇ~、何も卑弥子さんが他のネット市民の皆様のエロい興味の事を考える必要はないのですよ。 卑弥子さん自身はどうなのですか? エロい話の方がいいのですか?

デンマンさん! いい加減にしてくださいましなァ! 出だしからこのような下らない事でガタガタ言わないで細木数子のようにズバリ!と本題に入ってくださいましなァ。 んもおおおォ~!

分かりました。 卑弥子さんがそのように言うのであれば、まず次のリストを見てください。


(lib30413.gif)


(lib30413d3.gif)


(lib30413e.gif)



赤い枠で囲んだ本をバンクーバーの市立図書館から借りて読んだのでござ~ますか?



その通りですよ。 よく分かりましたね。

だってぇ~、昨日も上のリストを持ち出したではござ~ませんか!


(hana009.jpg)



この本はなかなか読み応え、見応えのある本ですよ。 素晴らしい写真がたくさん貼ってあるので眺めているだけでも飽きないのです。 バンクーバーでこの本を手にとって眺めていると京都の風景が本当に懐かしくなってきますよ。



あらっ。。。 それほど京都の風景が懐かしいのでござ~ますか?

そうです。。。 京都生まれで京都育ち。。。、 しかも、京都にある女子大学でエロい腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を教えている卑弥子さんが実に羨(うらや)ましいですよう。

「エロい腐女子」が余計でござ~ますわ。 それで、上の御本の中に「徳子と小督の悲話」が出てくるのでござ~ますか?

そうなのですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。


『平家物語』で歩く紅葉名所

建礼門院徳子は、平家全盛の頃清盛の次女として生まれ、15歳で高倉天皇の中宮になる。
その後、西海壇ノ浦で我が子の安徳天皇と平家一門の悲劇を目の当たりにする。

都へと戻された彼女は、安徳天皇と平家一門の菩提を弔うために剃髪し出家した。
それが落飾の地・東山の長楽寺(ちょうらくじ)で本堂の左手に建礼門院の落飾の塔ともいう、燃えるような紅葉に包まれた供養等が建っている。


(choraku2.jpg)


(choraku3.jpg)

 (中略)

一方、小督(こごう)の悲恋物語は『平家物語』の中に描かれる女人の話として哀切極まるものである。
高倉天皇の寵愛を受けた小督が徳子より先に子を生む。
すると清盛は怒り、小督を無理やり尼にして追放した。

黒染めの衣をまとった小督は最初嵯峨野に隠れ、その後、東山清閑寺(せいかんじ)に籠もって、23歳で死去したと伝えられている。
境内には小督塚が舞い落ちる紅葉を受けて建っている。


(seikan2.jpg)


(seikan3.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




88ページ 『花物語で歩く京都』
著者: 川端洋之
2006(平成18)年3月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 淡交社




僕は『平家物語』を現代語訳で一通り読んではいたのだけれど、なぜか小督さんの悲話を見逃していたのですよ。



なぜでござ~ますか? エロいお話ではないので読み飛ばしていたのですわね。 うふふふふふ。。。

やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは僕をエロい男だと思っているのですか?

殿方はすべてエロい生き物でござ~ますわよう。 おほほほほほ。。。

確かに、男はエロい話が好きですからね。。。 言われてみれば建礼門院徳子さんには次のようなエロ話が伝わっているのですよ。


私に合わせて腰を上下に

徳子が結婚したのは18歳、夫はわずかに12歳だったし、その夫婦生活もたったの9年だから、真の快美を知らぬのも無理はなかった。
まして閨技など、義経に教えられるまで、こんな世界があるなんて思いもよらない。
「私は怨むわ。 あなたのお節介を。 でも、これを知らないで死んだら、どんなにか悔いることでしょうね」うわごとのように、くり返す。

義経は半身を起こして、玉唇の紫龍をくわえる様を、つらつらと眺める。
徳子は恥ずかしく、脱いだ衣を集めて半身をおおう。
義経はわざと激しく出没させる。
「ああ、やめて」と止めるのも聞かず、かえって一の指を玉中に加え、「私のは細いから、これでちょうど良くなりましょう」とからかう。
徳子は両手で顔をおおい、悶えた。
「痛い。 裂けるわ。 やめて」
「お産の時は、もっと広げたでしょうに」
「恥を捨てて任せたのに、更に辱めるのですか」
「とおっしゃるなら、別の方法もありますよ。 教えてあげよう」


(bond010.gif)

右手に徳子の腰を、左手に肩を抱えて身を起こす。
自分はあぐらをかき、その上に徳子の尻を載せ、跨(またが)らせる。
「ああ、何をするの?」


義経は手をのばし襯衣(シャツ)を取り、徳子の背にかぶせた。
徳子の方は夜具を引き、これまた義経をおおう。
義経は襯衣(シャツ)の外から背を抱き、もう一方の手で尻を、こちらは襯衣(シャツ)の内から抱えた。
徳子は両手で義経の首につかまる。
彼の顎をおのが肩に載せさせる。
顔を傾ければ唇は斜めに義経の口に接した。
舌と舌で互いの口中を洗う。
股間の陽は陰をつき、陰は陽を噛まんとする。


(shibagaki4b.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
イラストはデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)




44-46ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 新潮社

『徳子はエロカワ?』に掲載
(2013年1月25日)




あらっ。。。 もろにエロいお話でござ~♪~ますわ。 うふふふふふ。。。



卑弥子さん!。。。 鼻息が荒くなって。。。 眼が。。。 眼がギラギラと輝いてますよ! あのォ~。。。 そんなに近づかないでくださいよ。 卑弥子さんの鼻息が僕の顔に吹きかかるのですよ!

デンマンさん!。。。 悪い冗談はお止めになってくださいましなァ! どうして私の鼻息が京都からバンクーバーに吹きかかるのですかァ~?

とにかく、徳子さんには、このようなエロい話が伝わっているのですよ。

。。。んで、小督(こごう)さんのエロ話は。。。?

それが無いのですよ。

マジで。。。? どういう訳で小督さんにはエロいお話が無いのでござ~ますか?

だから、なぜだろうと思って僕はこの記事を書くことにしたのですよ。 

でも、探せばどこかに小督さんにのエロいお話があるでしょうに。。。?

それが無い! 探したけれど、どこにも見当たらないのですよ。 ただ、次のような悲しい物語だけが伝わっているのです。


 (すぐ下のページへ続く)

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紅のボートピープル(PART 1)

2013-03-02 16:11:37 | 日本史
   
 
紅のボートピープル(PART 1)


(ume001.jpg)


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デンマンさん。。。 「紅のボートピープル」ってぇ、ベトナム戦争後の日本にやって来たあの難民のお話でござ~♪~ますか?



卑弥子さんは「紅のボートピープル」という言葉から、そう思うのですか?

だってぇ、それ以外に思い浮かびませんわ。
  
あのねぇ~、僕はバンクーバー図書館で借りた『暮らしの年表 流行語100年』を見ていたのですよ。


(lib30227.gif)



赤枠で囲んだ御本でざ~ますか?



そうです。。。

そう言えばデンマンさんは1991年の「ヘア論争」の事を書いていましたわね? その「ヘア論争」を取り上げるのでござ~♪~ますか?


ヘア論争


(higuchi2.jpg)

1991(平成3)年2月、篠山紀信による樋口可南子のヘアヌード写真集『water fruit』画発売、11月には宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』が155万部を売り上げた。
これをきっかけに、陰毛が写っているものはわいせつか、写っていなければわいせつではないかなど、ヘア論争が盛んに行われた。


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スポーツ

藤島部屋の貴花田と兄の若花田兄弟が人気。 若貴フィーバー起こる。

映画

『八月の狂詩曲』 黒澤明監督、村瀬幸子、吉岡秀隆
『息子』 山田洋次監督、三国連太郎、和久井映見
『羊たちの沈黙』 ジョナサン・デミ監督、ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス



『大地の子』 山崎豊子
『だから私は嫌われる』 ビートたけし

ヒット商品

もんじゃ焼き


(monja2.jpg)
 
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




193ページ 『暮らしの年表 流行語100年』
2011年5月19日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社

『宮澤理恵@Macao』に掲載
(2013年2月28日)




卑弥子さんは1991年の「ヘア論争」の事しか思い浮かばないのですか?



だってぇ~、マスコミがずいぶんと騒いでましたわよう。 うふふふふふ。。。

あのねぇ~、僕は1979(昭和54)年の出来事について語ろうとしているのですよ。


1979(昭和54)年

3月28日 アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島で原発事故発生。
6月1日 ハーバード大学教授エズラ・F・ボーゲル著「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が日本で刊行。アメリカは日本経営を見習うべきという内容。
7月1日 ソニーが「ウォークマン」を発売。

インベーダーゲーム

タイトーが1978年に発売した業務用テレビゲーム「スペース・インベーダー」のこと。
ゲームセンターや喫茶店などに設置され、若者やこどもの間で社会現象になるほどの爆発的人気となった。

ウサギ小屋

日本の狭くて粗末な住宅。
EC事務局がEC委員会に提出した「対日経済戦略報告書」の秘密文書のなかに「日本人は、西洋人から見ると、うさぎ小屋とさして変わらない住宅に住む仕事中毒者」とあったことがわかり、話題となった。
対日貿易赤字が増大していたECの対日感情のあらわれといえた。
自嘲をこめて日本でも流行語化した。

ボートピープル



1975(昭和50)年のベトナム戦争終結後、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では相次いで政変が発生、新体制からら迫害を受けるおそれのある人々や国の将来に不安を感じた人々は、他国に保護を求めて小船で国外へ脱出した。
これらの人々をボートピープルと呼び、日本への上陸も相次いだ。
1979年、日本政府は500人の定住枠を設定した。
陸路でタイ領に逃げた人々は「ランドピーブル」と呼ばれた。

スポーツ

小林繁(阪神)が沢村賞。

映画

『復習するは我にあり』 今村正平監督、緒方拳、小川真由美




(160-161ページ)
『暮らしの年表 流行語100年』




デンマンさんは、このボートピープルの事がそれほど印象に残っているのですか?



卑弥子さんも思い出してくださいよ。 僕はかつて古代のボートピープルの事で次の記事を書いたことがあるのですよ。


呉人が日本へ呉服をもたらした西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。



しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。



隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?



サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。




『あなたは日本人ではない』より
(2007年3月23日)




つまり、呉の国が滅びて難民の人たちが“ボートピープル”になって日本へやって来たということをデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか?



その通りですよ。 ベトナムからだって日本に難民がやって来たぐらいですよ。 呉の国はベトナムよりもずっと日本に近いのです。


(mapgo03.gif)



つまり、呉の国も滅び、越の国も滅んで、その国の人々が“ボートピープル”になって日本へやって来たとデンマンさんは主張なさるのでござ~ますか?



1979(昭和54)年の“ボートピープル騒動”の記事を読めば呉の国や、越の国が内乱や戦争で無茶苦茶になっている頃から、結局、国が滅んでしまった後になって、難民の人たちが日本を目指してやって来た事は充分に考えられますよ。

そうかしら。。。?

卑弥子さんは1979(昭和54)年の“ボートピープル騒動”の記事を読んでも確信が持てないのですか?

だってぇ、呉の国がシッチャカ、メッチャカになっている頃というのは1700年から1800年も昔の事でしょう? 越の国の場合はもっと前でしょう?

あのねぇ~、もう一度ベトナムからやって来た“ボートピープル”の写真を見てくださいよ。





この程度のボートを作る事ぐらい1700年から1800年前に生きていた人たちだってわけなく出来ますよ。 決して難しい事じゃない。 そう思いませんか? それにベトナムからの距離を思えば呉の国も越の国もずっと日本に近いのですよ。



でも、当時の記録は残ってないのでしょう?

あのねぇ~、藤原氏も含めて当時の大和朝廷を牛耳(ぎゅうじ)る人たちは都合の悪い記録はすべて焼き捨ててしまったのですよ。

そのような事は日本史の時間に教わりませんでしたわ。

当時、新聞社があったとしたら次のような記事を残していたはずです。



 紅の難民
 

呉の国、越の国から

続々と難民が…

 
呉の国では第4代の皇帝・孫晧(そんこう)に対する反乱が起きている。
孫晧は反省する事もなく後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺している。
皇族や重臣の中で国を支えようとするものも現れたが、270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。

そして279年、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。
呉の将兵は孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。

このような状況の中で、より良い生活を求める者などが小船に乗って次々と故国をあとにした。
「難民船」に乗った大量の難民が我が国にやって来たのは自然の成り行きである。

この時代よりもずっと以前の事ではあるが、越の国の人たちも隣国の反乱や戦争に危機感を感じて「難民船」を仕立てて故国を後にするものが多かった。

応神天皇(在位:270-310)の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉王に乞い、呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹を我が国へ連れ帰ったことがある。
この時の縁で皇族たちや貴族は大和朝廷を頼って我が国にやって来た。

最近になって“呉音”が我々の話し言葉の中に影響を与えるようになったのも、
“呉服”が貴族はもとより庶民にまで広がりつつあるのもこのためである。

また、中には“紅梅”の苗木を持って来る者も現れた。


(ume001.jpg)


(ume002.jpg)

「紅(くれない)」という色名は「呉国伝来の藍」、つまり、“くれのあい”から、そう呼ばれるようになったのである。

越の国の人たちは我が国の朝廷との縁が薄いため輪島半島を越えた海岸近くに漂着し“越の国”を自称する共同体を立ち上げたようである。
聞くところによると、ゆくゆくは大和の皇族の一人を迎えて大和の政治にも発言権を持とうという野望を抱いていたそうである。

(mhead2.gif)




つまり、上の記事の中の“越の国”から継体天皇が出たとデンマンさんは言いたいのでござ~ますか?



そうですよ。 それで、かつて次の記事を書いたのです。

『呉越の謎』




 (すぐ下のページへ続く)


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紅のボートピープル(PART 2)

2013-03-02 16:09:26 | 日本史

   
 
紅のボートピープル(PART 2)



【小百合の独り言】



ですってぇ~。。。
実は、私の祖先が百済からの難民だったなんて、デンマンさんに教えていただくまで全く知らなかったのですわ。
百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったようです。
でも、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって、デンマンさんの祖先と一緒に武蔵国まで行ったのですってぇ。

私の実家は館林にあるのです。
デンマンさんのご実家から車で20分から30分です。
ホントに、目と鼻の先です。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんと私は日本で出会ったことはなかったのです。
不思議な事に、私がデンマンさんに初めてお会いしたのはカナダのバーナビー市でした。
私が13年間借りていた“山の家”だったのです。



バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。
上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。



この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に私が借りていた“山の家”があったのです。







この家でデンマンさんと15年ほど前に初めてお会いしました。



この上の写真は、デンマンさんがコラージュしてでっち上げたのですけれど、ちょうど、このように寅さんのような格好をしていたのですわ。
うふふふふふ。。。
それだけに、私は強烈な第一印象を持ちました。

でも、どうして私の祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たの?

私にはよく理解できなかったのです。
デンマンさんは、おっしゃいました。

DNA に“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですってぇ。
デンマンさんと同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、私は館林から佐野を経由してカナダのバーナビーに渡ったのです。
そして、デンマンさんと“山の家”で出会ったのでした。

これだけでは、単なる偶然ですよね。
でも、ジューンさんは次のように言ってましたわ。




こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語では

この諺は無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance is

a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.


つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。







『出会い系の悪魔 (2008年9月10日)』より


デンマンさんと私の出会いは、偶然の出会いのように見えて偶然ではないのですってぇ。
つまり、私とデンマンさんに共通するモノが実にたくさんあるのですわ。

“海外飛躍遺伝子”もその一つです。
それに、車で30分も走れば会える距離に住んでいたのに、私とデンマンさんが初めて出会ったのは、何千キロも離れたバーナビーだったのです。
いろいろな話をデンマンさんから聞かされるにつけ、
デンマンさんの祖先と私の祖先が1400年程前に百済から日本に一緒に渡ってきた事が分かるような気がしてきたのです。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、まだ興味深い話題が続くと思いますわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。



 
メチャ面白い、

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『小百合さんの香水(2009年10月14日)』




こんにちは。ジューンです。

海峡を挟んでバンクーバーの向かい側に

ビクトリア島と言う

日本の半分ぐらいありそうな

島があります。

そこには露天風呂があるんですよ。



でも、このように水着を着て

入らなければなりません。

わたしは一見、気持ち良さそうに

していますが、日本の温泉を

知っていますから、なんとなく

白けているのです。

情緒も何もありません。

これでは、海水浴をしているのと

あまり変わりがありませんよね。

うふふふふ。。。

日本的な感覚では、

湯の温度がぬるすぎるところが多いですよ。

やっぱり、温泉は日本に限りますわ。



露天風呂というのは裸で入って初めて、

露天風呂という“情緒”が

かもし出されるのだと思います。

ところで、英語の面白い話をまとめました。

興味があったら、

次のリンクをクリックして

読んでください。

■ 『あなたのための 楽しい英語』





■ 『動物感動物語』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。






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冷血頼朝(PART 1)

2013-02-18 12:57:55 | 日本史
 

  
冷血頼朝(PART 1)




(yoritomo2.jpg)





デンマンさんは源頼朝が嫌いなのでござ~♪~ますか?



どうも好きにはなれない人物ですよ。

どうしてでござ~ますか?

冷淡で、非情で、極めて自分よがりなところがあると思うのですよ。

たとえば。。。?

例えば『平家物語』に次のような場面があるのです。



(shigemori.jpg)

NHK大河ドラマでの平重盛

小松殿重盛のお子・丹後侍従忠房(ただふさ)は、屋島の戦の折、おちのびて行方も知れず姿を隠しておられたが、紀伊国の住人・湯浅権守宗重をたのんで、湯浅城にたてこもられた。

 (中略)

鎌倉殿の命により熊野別当湛増が、二、三ヵ月の間に八度攻めよせて戦った。
城兵は命を惜しまずに防いだので、寄手は毎回追い散らされ、熊野法師が数多く討ち死にする。
別当の湛増は頼朝公へ急使を走らせ、(略) と申し出ると、鎌倉殿は、
「(略) 城にたてこもる兵はさだめし山賊、海賊のたぐいであろう。
彼らの取締りをきびしくして、城に出入りができないよう口を固めて守るがよい」
と言われた。

その仰せどおりにすると、案のじょう後には一人も城に姿をみせないようになった。
頼朝公はなおも計をめぐらせて、
「小松殿重盛のお子がたの中、一人でも二人でも生き残られた者がおるならば、命はお助けしよう。
理由は池禅尼(いけのぜんに)の使いとして、私の命を助け流罪にしたのは、ひとえにかの内府重盛殿の芳恩によるからだ

この計にのせられて、丹後侍従(忠房)が京の六波羅へ自首して出た。
そして鎌倉へ護送されると、頼朝は忠房に対面して、
「都へお帰りなさい。 京近くの田舎に、お住いすることを考えておきました」
そう騙して京へのぼらせ、後から人をやり、勢田の橋のほとりで、忠房を斬らせてしまった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています)




279-280ページ 『平家物語 (下)』
著者: 中山義秀 現代語訳
2004年12月20日 初版発行
発行所: 河出書房新社




源頼朝は平重盛の子供を助けようと言ってるのですよ。 なぜなら池禅尼(いけのぜんに)の使いとして、平清盛の嫡男である重盛が口をきいてくれたので殺されずに伊豆に流罪になったというのです。 だから、重盛の子供を助けたいと。。。でも、それは頼朝の本心ではなかった。 ただ、そのような噂を流しただけ。。。



その噂を聞きつけて重盛の子供である平忠房(ただふさ)が自首して出て来たのでござ~ますか?

その通りですよ。 ところが面と向かって頼朝は命を助けると言っておきながら勢田の橋のほとりで忠房を斬らせた。 つまり、恩を仇(あだ)で返したことになるのですよ。 このようなところに僕は頼朝に冷血漢を見るのです。

でも、戦国時代にはそのような事はよくあったことなのでしょう?

あのねぇ~、この当時はまだ後の戦国時代ほど世は乱れてなかった。 現に、平清盛は頼朝を殺そうとしたけれど、継母の池禅尼が命だけは助けてあげてくださいと頼んだので、頼朝を助けてあげたのですよ。 それなのに頼朝は、重盛の子供たちを一人でも二人でも助けると言っておきながら、騙して忠房を斬らせた。 それも、いかにも親切そうに「都へお帰りなさい。 京近くの田舎に、お住いすることを考えておきました」なんて、おためごかしな事を言っている。

それはちょっとやりすぎですわよね。

卑弥子さんだって、これはちょっと酷(ひど)いと思うんでしょう!? 殺される忠房の身になって考えてみてくださいよ。 命が助かると思って忠房は京都の六波羅へ自首して出た。 それから鎌倉へ送られて頼朝と対面した。 甘い言葉をかけられてから、また京都へと。。。 ところが勢田の橋までやって来ると、「この場で死んでもらいます」と言われる。 「どうして。。。、なぜ。。。? 頼朝殿は命を助けると言ったのですよ! ああそれなのに、それなのに。。。」 騙されたと知った、その時の忠房の気持ちを考えると、僕は頼朝という人間が血も涙もない冷酷な殺人鬼に思えてくるのですよ。

でも、そのような事は武士の世界には付き物だったと思いますわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは凶悪な冷血動物の源頼朝を庇(かば)うのですか?

別に頼朝を庇おうとしているのではござ~ませんわ。 ただ、ウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが書いてありましたわ。


池禅尼


(zenni02.jpg)

長治元年(1104年)頃に生まれる。
長寛2年(1164年)頃に亡くなる。
平忠盛の正室。
平清盛の継母に当たる。

平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160年)2月、義朝の嫡男で13歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。

上記内容を記している『平治物語』では頼朝が、早世した我が子家盛に生き写しだったことから池禅尼が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。

その後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。

頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続する。




出典: 「池禅尼」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




このように頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後もその息子である頼盛を優遇し、平家滅亡後も頼盛の一族(池氏)は朝廷堂上人および幕府御家人として存続すると書いてありますわ。 平忠房を殺したけれど、池禅尼の息子である頼盛を助けているのですわよ。 そればかりか幕府御家人として優遇しているのですわよ。 だから、池禅尼に対して恩返しをしているのですわ。



もしかして卑弥子さんの家系には源頼朝の血が入っているのですか?

いいえ。。。 あたくしの家系は主に藤原氏の血が濃いのでざ~ますわ。 あたくしの知る限り頼朝とご先祖様とは何の関係もありませんわ。

だったら、頼朝を弁護する必要はないじゃありませんか! どうして頼朝の肩を持つのですか?

別に頼朝さんの肩を持っているわけではござ~ませんわ。 たまたまウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが書いてあったのですわ。

あのねぇ~、そもそも『平家物語』とは、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しで始まって平家の滅亡を描いた物語ですよ。

存じ上げておりますわ。

つまり、平家が滅んだのは、武士にもかかわらず貴族の真似をして、おごり高ぶったからだと言うバックグラウンド・ミュージックのようなものが全編を通して流れている。 要するに、平家を悪く言う物語なのですよ。

だから、どうだと言うのでござ~ますか?

だから、平家の者どもが悪く言われるのは当たり前なのですよ。 それで『平家物語』では平清盛が必要以上に悪者にされている。 そんな中で僕が引用した場面では頼朝が清盛以上に悪い人間として。。。人を騙す冷血漢として描かれている。 つまり、『平家物語』の作者を含めて、この当時の人は義経に対しては好感を持っていても、頼朝に対しては好感を持ってないのですよ。 『平家物語』では、むしろ作者は源頼朝を冷血動物を見ているような書き方をしている。

でも、ウィキペディアを見たら『平家物語』とは違うことが。。。

あのねぇ~、ウィキペディアを書いている人は現在に生きている人ですよ。 『平家物語』を書いた人は、実際に平清盛や頼朝が生きていた時代を知っている人です。 だから、『平家物語』の作者の意見の方を尊重すべきだと僕は思うのですよ。

そうでしょうか?

それに、頼朝は人間として見ても、とりわけ素晴らしいと思わせるようなところがない。

まるで、見てきたような事をデンマンさんは言いますわね?

あのねぇ~、僕は生まれ故郷の行田市に帰省していた去年の11月にNHK大河ドラマの『平清盛』を楽しみにしながら観ていたのですよ。


(kiyomo01.jpg)



その中で描かれた北条政子と源頼朝のやり取りを見ていると、頼朝は政子よりも1段も2段もランクが下のような人物にしか見えない。 その後、尼将軍として権勢を振るった政子の方が頼朝よりも“将軍”らしい。



でも、それはデンマンさんの個人的な受け取り方ですわよう。

あれっ。。。 卑弥子さんは大河ドラマの中でも頼朝に肩を持つのですか?

だってぇ、頼朝に扮している岡田将生君はカッコいいんですものォ~。。。 うふふふふふふ。。。


(masako02.jpg)



やだなあああァ~。。。 カッコいいとか、ハンサムだとか。。。 そういうことは大河ドラマとは関係ないのですよ。 どうでもいいことですよ。 もっと歴史的人物の本質を見てくださいよう。 んもお~~!



つまり、デンマンさんは何が何でも頼朝が嫌いなのですわね?

いや、僕は客観的に好き嫌いを考えないようにして見ているつもりです。 『平家物語』を読んでも、大河ドラマを観ても、頼朝という人物はごく平凡な人間だったのではないかと思えるのですよ。 そのような思いに駆られました。 つまり、周りの人から持ち上げられて小山の大将になっただけだと。。。 実際に動いたのは義経を含めて有能な部下たちですよ。 しかも、頼朝は完全に政子の尻に敷かれてますよ。

あらっ。。。 カカァ~天下の家庭だったのでござ~ますか?


(masako03.jpg)



大河ドラマを観ていたらマジでそう思いましたよ。 つまり、頼朝という人間はごく平凡な人間だったのですよ。 だから、徳川家康などと比べると頼朝の名言というものは、ほとんど残ってない。 僕は頼朝の名言を何一つとして思い出せませんよ。 つまり、頼朝という人間は平凡でつまらない、ごく平均的な人間だったからめ名言を残さなかった。



つまり、頼朝さんは有能な部下に支えれれて鎌倉幕府を立ち上げたけれど、本人にはこれと言った才能がなかったとデンマンさんは言うのですか?

だってぇ、そうでしょう。。。!? もし頼朝がマジで才能ある人間だったら、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のように名言を残してますよう。 卑弥子さんは頼朝の残した名言を一つでも知ってますかァ~?

知りませんわ。 そう言われてみれば不思議と頼朝さんの名言というのは歴史の教科書にも出てきませんわね。

そうでしょう!? だから、源頼朝という人物は言ってみれば東国の武士たちに「源氏の棟梁」だと持ち上げられただけの、ごく平凡な人間だったのですよ。

そうかしら。。。?

そうなのですよ。 それに、『吾妻鏡(あずまかがみ)』には次のような箇所がある。


辰刻(たつのこく)、国宗、院宣を捧げて樋口の河原に武州(北条泰時)に相逢(あ)ひ、子細を述ぶ。
武州院宣を拝すべしと称し、馬より下りぬ。
共の勇士五千余輩あり、この中に院宣を読めるものありやと、岡村次郎兵衛尉をもって尋ねたところ、勅使・河原小三郎云う。
武蔵野国の住人藤田の三郎は文の博士のものなりと。
藤田を召し出だして院宣を読ましむ。

(デンマン注: 読み易く読み下しました。
赤字はデンマンが強調)




承久3(1221)年6月15日の条
『吾妻鏡』



 (すぐ下のページへ続く)

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冷血頼朝(PART 2)

2013-02-18 12:57:06 | 日本史

  
冷血頼朝(PART 2)



これは承久(じょうきゅう)の乱の出来事なのですよ。



その承久の乱ってぇどのような事だったのでござ~ますか?

鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた事件です。 鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権と鎌倉の武家政治の二頭政治が続いていたのです。 ところが後鳥羽上皇は公家政治をやりたくて鎌倉幕府を滅ぼそうとした。

。。。んで、上の院宣というのは、この後鳥羽上皇が書いた命令書なのでござ~ますか?

そうですよ。 ところが鎌倉軍五千もの武士がいながら、北条泰時も含めて漢文で書かれた院宣が誰も読めなかった。

だから、どうだと言うのでござ~ますか?

やだなあああァ~。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ともあろう人が僕の言おうとしていることが理解できないのですか?

つまり、漢文というのは当時のアジアでの国際語で。。。 その漢文を読める人が5000人の関東武士の中に誰も居なかったとデンマンさんは言いたいのですわね?

その通りですよ。 卑弥子さんは理解しているじゃありませんかァ!

それが頼朝さんと、どのように関係しているのでござ~ますか?

あのねぇ~、もしですよ、源頼朝に「源氏の棟梁」としての実力と才能があったなら、学問や文学を疎(おろそ)かにはしなかったはずなんですよ。 ところが頼朝という人物は平凡な人間だった。 むしろ嫉妬深くて冷血な人間だった。 『平家物語』に書いてあるとおりです。 だから、その下で動いていた関東武士も漢文が読めなかった。

でも、漢文がそれほど重要だったのでござ~ますか?

もちろんですよ。 平清盛は学問も文学も疎(おろそ)かにはしなかった。 だからこそ、中国との貿易、つまり、日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓に励んだ。 宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築いたのですよ。 時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、貴族的要素が強いとは言え、日本初の武家政権を打ち立てた。 頼朝は、清盛が打ち立てた制度を引き継いだに過ぎない。 頼朝自身はほとんど何もしなかったのですよ。 それが証拠に部下の関東武士の5000人の内に漢文が読めるものが居なかった。 つまり、国際化という点においては全く無知な人だったのですよ。

でも、当時、国際化する必要はなかったのではござ~ませんか?

やだなあああァ~! あったでしょう! 鎌倉時代に元が日本へ攻めてきたでしょう! 当時、すでに国際化の動きがあったのですよ! 鎌倉幕府の後の室町幕府を考えてみてくださいよ。 金閣寺を建てた足利義満のことを思い出してください。 義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。 もちろん、学問や文学も疎(おろそ)かにはしなかった。 中国・明の建文帝は義満を日本国王に冊封し、同時に明の大統暦が日本国王に授与されて、両国の国交が正式に樹立されたのですよ。 日本国王が皇帝に朝貢する形式をとって明との勘合貿易が1404年(応永11年)から始まった。

でも、遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったのですわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは何も知らないような顔をしながら知っているではありませんか!

これでも京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している身でござ~ますわ。 その程度のことは存じ上げております。

だったら、1397年(応永4年)に、西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘、つまり、のちの金閣寺を建てたことも知っているでしょう?

ええ。。。 存じ上げておりますわ。

足利義満が学問も文学も疎(おろそ)かにせず、漢文も読めたから、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化というものが日本に根付いたのですよ。 

つまり、頼朝さんは極めて平凡で冷酷な人物で、文化的には日本が誇るよな物を何も残さなかったとデンマンさんは言うのでござ~ますか?

その通りですよ。 彼自身は文化的なものを何一つ残してない! 全部他の人たちがやったことです。

でも、徳川家康さんは頼朝の事績が多く書かれている『吾妻鏡』を集めて写させ、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだと言われていますわ。

あれっ。。。 知らないようでいて卑弥子さんは、そのような事まで知っているのですか?

聞きかじりですわ。 うふふふふふ。。。

あのねぇ~、僕は頼朝のすべてが悪いと言うつもりはないのですよ。 頼朝にだって長所はあったと思いますよ。 「一寸の虫にも五分の魂」と言いますからね。。。 徳川家康が、その頼朝の良い所を学ぼうとする姿が素晴らしいではありませんか! でもねぇ~、『保暦間記』(ほうりゃくかんき)という、南北朝時代に成立した歴史書があるのですよ。 作者は不明だけれど、14世紀半ば、延文元年(1356年)以前に南北朝時代の足利方の武士によって書かれたと言われているのですよ。 それによると、頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。 つまり、当時からその生涯は罪深いものとして捉えられていたのですよ。




【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。
頼朝さんは落馬が原因で死亡したと言われています。
でも、詳しい事は分かっていません。

源頼朝さんは、確かにあまり良いことは言われないようですわよね。
それでも、自分の妻子には甘かったそうですわ。
富士の巻狩りで12歳の息子・頼家が鹿を仕止めた時は喜んで妻の北条政子に報告の使いを送ったそうです。
でも、それを聞いた政子は「武士の子なら当たり前だわ」と言われてしまったそうです。
政子さんは、かなり男勝(まさ)りな人ですわね。

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桓武天皇のママ(PART 1)

2013-01-09 14:28:40 | 日本史

  
桓武天皇のママ(PART 1)


(haha009.jpg)




(kanmu08.jpg)



デンマンさん。。。 桓武天皇のママがどうしのでござ~♪~ますか?



あのねぇ~、桓武天皇のママの情報を探している人からコメントをもらったのですよ。

マジでござ~ますか?

まず、そのコメントを読んでみてください。


From: masami@*****associates.us
To: barclay1720@aol.com
Date: Sun, Jan 6, 2013 7:26 pm
(Pacific Standard Time)

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Jan 06 2013 / 19:26:14

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-joe04-superb
Your_Name = masami kobayashi
Your_Email_Address = masami@*****associates.us

Comments:


とてもおもしろかったです。
実は、桓武天皇の母親の情報を探していて、かとうさんのサイトをみることになりました。
おもしろくて、古代の分はほとんど目を通してしまいました。
ありがとうございました。


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




あらっ。。。 メールアドレスを見ると masami@*****associates.us になってますわね。 .USということは、この「まさみ」さんはアメリカに住んでいるのでござ~ますか?



そうなのですよ。 IPアドレスで調べたらサンフランシスコに住んでいるのですよ。


(ip30108.gif)


(cisco02.jpg)


(cisco03.jpg)


(cisco05.jpg)



あらっ。。。 サンフランシスコって素敵な町ですわ。 あたくしも住んでみたいですわ。



卑弥子さん。。。 人生はアッという間に過ぎてしまいますよ。 思い立ったらすぐに行動に移した方がいいですよ。

そのように簡単にはゆきませんわ。 あたくしは京都の女子大学で腐女子を相手に「日本文化と源氏物語」を講義しているのですものォ~。。。、そんなに簡単にサンフランシスコに引越しすることはできないのでござ~ますう。。。 とこれで、デンマンさんは返信を書いたのですか?

書いたのですよ。 「おもしろくて、古代の分はほとんど目を通してしまいました」と「まさみ」さんは書いてくれたのです。 だから僕は天にも昇る気持ちになって、遅ればせながら返信を書いたのですよ。 卑弥子さんも読んでみてください。


(aol30108.gif)



でも、どうして「まさみ」さんが『定慧の死の謎を解く』を読んでコメントを書いたと判ったのでござ~ますか?



簡単なことですよ。 メールの中に FreeCity = oldhist-joe04-superb と書いてあるでしょう? これは『定慧の死の謎を解く』という記事のURLなのですよ。




『定慧の死の謎を解く』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/joe04.html




でも、「まさみ」さんがどうして次の3つの記事の中の一つを読んだと判るのでござ~ますか?




■ 『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/persia2.html

■ 『天智帝暗殺の謎』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu3.html

■ 『渡来人とアイヌ人の連合王国』
http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/rikutou7.html




簡単なことですよ。 GOOGLEで「桓武天皇の母親 Akira Kato」を入れて検索すると上の3つの記事が表示されるのですよ。 『新しい古代史』の記事では僕は「デンマン」ではなく実名の「Akira Kato」を使って書いているのです。


(gog30109b.gif)



あらっ。。。マジでトップから3番目までに『新しい日本古代史』の3つの記事が表示されますわね。



でもねぇ~、実は、記事の中では「桓武天皇の母親」について書いてないのです。

でも、「まさみ」さんは「桓武天皇の母親」を入れて検索エンジンで検索したのでしょう?

そうですよ。 おそらく「桓武天皇の母親」を入れて検索したのだと思います。

デンマンさんが「桓武天皇の母親」について書いてないのに、どのようなわけで上の3つの記事が検索結果の中に表示されるのですか?

例えば、『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』の記事では当然のことながら僕は聖徳太子のママについて書いているのです。 でもねぇ~、記事の中に「桓武天皇」のことが書いてあるので検索エンジンは『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』を拾い出して検索結果の中に表示してしまうのですよ。

。。。つうことは、『天智帝暗殺の謎』にも 『渡来人とアイヌ人の連合王国』にも「桓武天皇の母親」は出てこないのでござ~ますか?

出てこないのです。 僕が上のようなことを書いたので、「まさみ」さんは事情を説明したくなったのだと思うのですよ。 実は、「まさみ」さんから僕の返信に対する返答をもらったのですよ。

あらっ。。。 マジでござ~ますか?

そのコピーをここに貼り出すので卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。


(aol30109.gif)



僕が返信を書いたのが1月8日の午後8時13分。 「まさみ」さんが、その返信に対して返事を書いてくれたのが1月8日の午後11時26分ですよ。



あらっ。。。 デンマンさんが返信を書いてから、わずかに3時間後ですわね。

そうなのですよ。 感激しましたよ。 だから、僕は更に返信を書こうと思ったけれど、クドクドしくなるので止めました。 (爆笑)

「まさみ」さんは、ご先祖様にかかわる3部作の歴史小説を書いたのですわね。 それで、いろいろな疑問を解決するために天武天皇や天智天皇のことを読み漁(あさ)ったのでござ~ますわね。 納得しましたわ。

そうなのですよ。 それで「まさみ」さんが「古代の分はほとんど目を通してしまいました」という理由が僕にも解りましたよ。

つまり、次のような記事を読んだのですわね。




『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『定慧出生の秘密』

『藤原鎌足と長男・定慧』

『渡来人とアイヌ人の連合王国』

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『藤原鎌足と六韜』

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『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』




多分、全部ではないにしても上の幾つかの記事を読んだと思いますよ。



「まさみ」さん以外の人も読んだのですか?

読んでいます。 次のリストを見てください。


(hg30108d.gif)



これは12月30日から1月8日までの10日間の記録なのですよ。 つまり、Beaverland Web サイトにやって来る前にどのページにいたかということを記録したものです。



要するに、どのページからやって来たかということでござ~ますわね。

そういうことです。 いわゆる「リンク元URL」のリストです。

それにしては少なくありませんか?

あのねぇ~、この10日間にBeaverland Web サイトにやって来た人の記録は次のリストに表示されているのですよ。


(hg30108c.gif)



つまり、29人のネット市民の皆様がやって来たということですわね。



そうです。

10日間に29人では少ないですわね。

そうなのですよ。 実は「まさみ」さんの足跡が上の記録にはないのですよ。 「まさみ」さんのホスト名は 50-0-205-***.dsl.dynamic.sonic.net なのだけれど、これが上の記録からもれているのですよ。 

やっぱり完璧な統計は期待できないのですか?

そういうことですよ。 かなりのネット市民が記録からもれているのです。

でも、どうして、そのような事が判るのでござ~ますか?

次のリストを見てください。


 (すぐ下のページへ続く)

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桓武天皇のママ(PART 2)

2013-01-09 14:28:03 | 日本史

  
桓武天皇のママ(PART 2)


(hg30108.gif)



「デンマン・シンジケート」のアクセス別ランキングなのです。 Beaverland Web サイトは上の記録では 19サイト中の13位なのです。 19番目の Exciteの 5人などは明らかに間違っている。



アクセスが記録から漏れることもあるということですか?

その通りですよ。 だから100%信頼できないケースもあるということなのです。

それにしてもトップとの差がだいぶありますわね。

そうです。

トップの Denman Word Press では「まさみ」さんのように海外からのアクセスもたくさんあるのでござ~ますか?

あるのですよ。 次のリストを見てください。


(wp30110map.gif)


(wp30110.gif)



あらっ。。。 79カ国からネット市民の皆様が Word Press のデンマンさんのブログ(http://denman705.wordpress.com/)にやって来るのでござ~ますか?



そうです。 『新しい古代日本史』のマスコットギャルの卑弥子さんの人気のせいで、このサイトの記事を読みにやって来るネット市民の皆さんが実に多いのですよ。

マジで。。。? うれしいわア~。。。 その内あたくしに結婚を申しこんでくださる素敵な殿方が現れるかしら?。。。んで、あたくしが登場するどの記事を読みにやって来るのでござ~ますか?

次の人気記事リストのトップの記事ですよ。


(wp30110c.gif)

『床上手な女の7つの見分け方』



あらっ。。。 1月10日までの1年間にダントツで 12,082回も読まれているではござ~ませんか?



この記事の中に卑弥子さんがセクシーなアパレルを着て登場するのですよ。





あらっ。。。 マジですわ。 どうやら今年こそは結婚できそうでござ~♪~ますわ。 うふふふふ。。。


【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。
卑弥子さんに素晴らしい男性がプロポーズするといいですわね。

ところで、桓武天皇のお父さんは白壁王です。
のちの光仁天皇ですわ。
お母さんは高野新笠(たかの の にいがさ)と呼ばれた女性です。
続日本紀によれば、百済から大和朝廷へと送られた人質であった武寧王の10世孫とされ、出身一族は6代前に帰化をし、日本人の姓を下賜されていました。
高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、新笠が光仁天皇の側妾となった際に下賜されたものです。

桓武天皇は白壁王の第1王子として天平9年(737年)に産まれました。
当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられました。
要するに、お母さんの出自が低かったため立太子は予想されていなかったのです。
そのような理由で、あまり期待されていなかった人物だったわけです。

父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられました。
その後、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子になれたのでした。
その影には式家の藤原百川による擁立があったとされています。

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『うむうむ、ふむふむ人間』

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『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

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『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

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『色男不比等』

『目の前で米軍のヘリが落ちた』

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■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』



■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』



『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』



『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』






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呉越の謎(PART 1)

2012-11-23 17:44:16 | 日本史
  
呉越の謎(PART 1)






(goetsu2.jpg)



デンマンさん。。。「呉越の謎」って“呉越同舟”の呉の国と越の国のことでござ~♪~ますか?



あれっ。。。卑弥子さんは古代史に詳しいのですね。

こう見えても『新しい古代日本史』のマスコットギャルをやらせてもらっているのでござ~ますわ。 おほほほほほ。。。



『新しい古代日本史』



“呉越同舟”の意味を卑弥子さんは知っているのですか?



あ~らァ、いやだわあああァ~。。。こう見えても京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ~ますわァ。 “呉越同舟”の意味ぐらい知っておりますわよう。 うふふふふふ。。。

マジで。。。?

いやだわあああァ~。。。デンマンさんは、あたくしが知らないとでも妄想しているのでござ~ますか?

余計な事は言わずに知っているのならすぐに答えてくださいよ。 それでなくとも僕の記事は長くなるのだから。。。

デンマンさんはあたくしを小馬鹿にしているのですわね。 んもお~~!

オラ、オラ、オラ~。。。ムカつかないで知っているのならすぐに答えることですよ。

“呉越同舟”と言うのは日本の諺で言うならば「船頭多くして船山に登る」と言うことですわ。 英語で申し上げるならば"Too many cooks spoil the broth."と言うことでざ~ますう。

あれっ。。。卑弥子さんは英語の諺まで知っているのですか?

当然ですわ! 馬鹿にしないでくださいましなァ! これでも京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ~ますう。

いや、いや、いや。。。 おみそれしました。 京都の腐女子に「日本文化と源氏物語」を教えているのに、英語の諺まで口に出せるとはマジですっご~♪~いですね。。。 で、"Too many cooks spoil the broth."の意味は。。。。?

あらっ。。。まだ、あたくしを小馬鹿にするのですわね。 あたくしが英語の意味を知らないとでも思っているのですか? 「コックが多すぎてスープが出来損なってしまう」という意味ですわよ。

ほおォ~。。。卑弥子さんは英語の素養もあるのですねぇ~。。。おみそれいたしました。

そんなことよりも、「呉越の謎」ってぇ、一体どのようなことでござ~♪~ますか?

そう。。。そのことですよ。 卑弥子さんも知っているように11月20日に僕は次の記事を書いたのですよ。


(gagaku04.gif)
  呉公


(gagaku05.gif)
  呉女

『伎楽は呉の音楽?』

(2012年11月20日)




もちろん知っておりますわ。 あたくしがデンマンさんのお相手をしていたのですから。。。



こうして伎楽を通して呉の国で暮らしていた人の姿が伎楽で使われている「お面」として古代の日本に伝わっていたのですよ。 つまり、呉の国と日本は古代に強い絆(きずな)で結ばれていた。

マジで。。。?

ジューンさんも次のように書いていましたよ。


【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。

呉の国と言えば、すぐに思い出すのが呉服ですよね。
呉服屋さんというのもよく耳にする日本語です。

では、呉服神社(くれはじんじゃ)というのがあるのを知ってますか?
大阪府池田市室町にある神社です。
呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・呉服媛(くれはとりのひめ)と、仁徳天皇を祀っています。


(gofuku09.jpg)

呉服神社(くれはじんじゃ)

応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉の国の王様に乞い4人の姉妹を連れ帰ってきました。
その4人の姉妹の名は、呉服媛(くれはとりのひめ)、穴織媛(あやはとりのひめ)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)といいました。
この4姉妹のうち、池田の地に迎えられたのが呉服媛だったのです。
それで呉服媛(くれはとりのひめ)を祀っているのです。

なぜ呉服媛(くれはとりのひめ)なの?

呉(ご)の国の呉は「くれ」とも読まれます。 
機織(はたおり)が「はとり」と変化し、「くれはとり」となったとされ、それで「くれはとりのひめ」と呼ばれるようになったと言われています。




『伎楽は呉の音楽?』より
(2012年11月20日)




なるほどォ~。。。応神天皇は確か第15代天皇でしたよね。



さすがに「源氏物語」を教えているだけあって天皇に詳しいのですね。

。。。つうことは応神天皇が玉座にあった270年から310年に呉の国の王様が4人の姉妹を日本へ派遣したのでござ~ますわね。

そういうことですよ。

それが不思議なのでござ~ますか?

いや。。。、その事が不思議なのではありませんよ。

では、一体何が不思議なのでござ~ますか?

あのねぇ~、僕は以前に次のようなことを記事に書いたことがあるのですよ。


呉人が日本へ呉服をもたらした西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。





しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。

これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。

聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。



隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?



サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。

漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。

現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。




『あなたは日本人ではない』より
(2007年3月23日)




実際、日本の文化史には呉の国の影響がマジで強く残っている。 こうして卑弥子さんと話している日本語の中にも呉の国の影響は消しがたいほどに強く残っているのですよ。



あらっ。。。マジで。。。?

「あらっ。。。マジで。。。」と言っている場合じゃないのですよ。

次の文章を読んでみてください。


呉音
 


呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。
奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。
漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。

一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われ、漢音にくらべるとやや古めかしい感じのする傾向がある、とされる。
が、そうとばかりは言えない面もある。
慣用的に呉音ばかり使う字("音"【オン】,"領"【リャウ】等)、漢音ばかり使う字("健"【ケン】,"軽"【ケイ】等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。

呉音は雑多なものを含んでいると考えられ、漢音ほどの整った体系を備えていない。

歴史

5, 6世紀に導入され、一般的に中国の南北朝時代、南朝の発音が直接、あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝わったと言われるが、これは「呉」音という名称や倭の五王が南朝の宋に朝貢したことや朝鮮半島から儒教や仏教など多くの文物を輸入したという歴史的経緯が根拠となるのであろう。
しかし、呉音が本当に南方系統の発音かどうかについて、それを実証できるような史料はない。

対馬音や百済音といった別名が示すように古代の日本人は呉音は朝鮮半島からきたと考えていた。

呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。
なお『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。

呼称について

呉音しか読音がない時代には名称などなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称である。
かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。
中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。
帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。

また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承によるものである。

音のあいまいさについて

常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。




出典: 「呉音」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




卑弥子さんが毎日、何気(なにげ)なくしゃべっている日本語の中にも呉の国の影響が無意識に発音の中に表れているのですよ。



そうですわよねぇ~。。。考えてみたら、すっご~♪~いことでござ~ますわ。

そうでしょう? 。。。で、ここまでしゃべってきたけれど、卑弥子さんには僕が言おうとしている「呉越の謎」がなんとなく解(わか)ってきたでしょう?

えっ。。。「呉越の謎」でござ~ますか?

そうですよ。。。 ポカ~♪~ンとしてないで、味噌汁で顔を洗って目覚めてくださいよォ~。 んもおォ~。。。

いえ。。。解りませんわ。 何が「呉越の謎」なのでござ~ますか?

やだなあああァ~。。。んもおォ~。。。ここまで説明してきたのに卑弥子さんは、まだ解らないのですかァ~? もう一度地図を見てくださいよ。


 (すぐ下のページへ続く)



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呉越の謎(PART 2)

2012-11-23 17:43:36 | 日本史

 
  
呉越の謎(PART 2)


(goetsu2.jpg)



呉の国も越の国も同じ時期に生まれて、ほぼ同じようにして歴史から消えてしまった国ですよ。 それなのに呉の国の人々はたくさんの人たちが難民として日本へやって来た。 もちろん国が滅びる前にも呉服媛(くれはとりのひめ)のように当時の大和朝廷に請(こ)われて日本へやって来た人たちも居た。 だから、日本文化には呉の国の影響が未だに強く残っている。



そうですわね。

「そうですわね」じゃありませんよ! それなら越の国の人たちはどうなってしまったのか? 卑弥子さんは不思議に思いませんか?

どうなってしまったのですか?

だから、それが「呉越の謎」ですよ。

。。。で、その謎をデンマンさんは解決したのですか?

解決したのですよ。 うへへへへへへ。。。

下品に笑っている場合ではござ~♪~ませんわ。 解決したのならば、もったいぶらないで教えてくださいな。

あのねぇ~、僕はすでに無意識のうちに解決していたのですよ。

あらっ。。。無意識のうちに解決していたってぇ。。。 一体どういうことでござ~ますか?

次の記事を読んでみてください。




それでは、なぜ、男大迹(ヲホト)王は万世一系を持ち出す必要があったのか?
武烈天皇には嫡子がありませんでした。
そのため、後継問題が起こったのです。
そこで、越前の男大迹(ヲホト)王を、権臣の大伴金村らが天皇に迎えたものとされています。
その理由は、男大迹(ヲホト)王が応神天皇6代目の子孫であったということです。
ところが、「迎えられた」 にしては大和に落ち着くまでに20年近くかかっています。
その間、なかなか大和に入れずに、河内や山城を転々としているのです。
どう考えても、すんなりと迎えられたとは考えられません。 

むしろ、継体天皇はそれまでの天皇一族とは縁もゆかりもない人物だと考えたほうが、話はスッキリするのです。
後継者が無いまま武烈天皇が亡くなった時に、越(こし)の国王であったヲホトが絶好のチャンスと見て大和侵攻を試みたわけです。
豪族たちの抵抗が予想以上に強い為に20年近くを要したというのが真相だったでしょう。武力制圧が成功したのか、大和豪族との間に和睦が成ったのかはよく解りません。

日本書紀によると、男大迹(ヲホト)王の父は近江の豪族彦主人(ひこうし)王、母は越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、ということになっています。
越前における天皇の事跡は明らかではありませんが、多くの伝説を残しています。
中でも越前平野の治水伝説と、笏谷石の採掘伝説はよく知られています。
1884年(明治17年)足羽山三段広場頂上に建立された天皇の石像は、笏谷石採掘にたずさわる人々により、天皇の遺徳を讚えるために造られたものです。



継体天皇の石像

像は笏谷石製で、治水伝説にゆかりの九頭竜川河口を向いて建てられています。

しかし、この継体天皇は、さまざまな謎に包まれた人物で、生まれた年がはっきりわかりません。
亡くなった年齢も諸説があります。
天皇になる前、どこで生まれどこで育ったかについても諸説があります。
はっきりしていることは、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇だということです。
この辺に作為の跡が見られるわけです。
他のことが、よくわからないのに、なぜ、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇なのか?
これは、非常に素朴な質問だと思うのです。
しかし、突き詰めて考えたとき、本当に、どうしてそうなの?
そう、疑問を投げかけざるをえないでしょう。

日本書紀によると継体天皇は近江で生まれ、福井平野で育ったと書かれています。
しかし、以前は、これを疑問視する見方がつよかったのです。
最近の考古学と文献学の成果から、福井の強力な勢力を背景に育ち、成長し、北陸、近江、尾張などの豪族の力をバックに、中央に進出した人物だということがほぼ分かってきました。
といってもどんな人だったのか、なぜ急に越前から天皇になるような人物が出現したのか、どんな力が背景にあったのか。
男大迹(ヲホト)王と 既存の中央の勢力との力関係がどうだったのか。
まだ不明なことが、たくさんあります。

しかし男大迹(ヲホト)王の母が、越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、であり、福井の強力な勢力を背景に育ち、成長したというのは、重要なポイントです。
すでに、「古代、裏日本と表日本は逆だった」 のページで述べましたが、下の地図で示すように、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃にも、大陸から難民になって多くの古代韓国人が日本へやってきました。



上の地図は、隋時代(589-618)のものですが、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃というと、中国では、南北朝時代になりますから、この時代よりも、戦乱が多く、大陸、及び、朝鮮半島から、戦乱を逃れてやってくると難民は、もっと多かったはずです。
そういう難民の中には、戦乱に敗れた将兵も多数含まれて居たでしょう。
優れた、武器と戦略を身に着けた将兵を取り込むことによって振姫(ふるひめ)の所属する越前の豪族が次第に強力になっていったわけです。

そもそも、この振姫(ふるひめ)自身が、半島から戦乱を逃れてやってきた、新羅の貴族の娘だった可能性さえあります。
生まれた年が不明だというのは、どうも、ヲホト王が振姫(ふるひめ)の連れ子くさい。
もし、それが事実とすれば男大迹(ヲホト)王には、日本人の血が一滴も混じっていないことになります。
いずれにしても、この豪族の中に多数の帰化人が居たことは、まず間違いありません。
日本海側に圧倒的に強力な王国ができていたということが、最近の、考古学上の遺跡発掘でわかっているように、この当時の先端技術は、鉄器や、武器も含めて、半島からやってきた人々によってもたらされたものです。




『皇室は、本当に万世一系か?』より
(継体天皇の謎に迫る) 2003年7月12日




つまり、「中国の越」の国の人たちが難民になって日本へやって来て、「日本の越」を興(おこ)したとデンマンさんは言うつもりなのですか?



だってぇ、そうでしょう! 今までの話を総合的に考えてみたら、そう結論を下すのがもっとも自然だと思いませんか!?


【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。
ところで、ずっと昔から日本に住んでいたアイヌ人が使っていた言葉も日本語にその言葉の名残(なごり)を残しています。
例えば、トナカイはアイヌ語のtunakay(トゥナカイ)から派生した言葉です。
ラッコはアイヌ語のrakkoから生まれた言葉です。
オットセイはアイヌ語onnep(オンネプ)が中国語を経由、オットに変化した後、漢方薬としての陰茎の婉曲表現の臍がつきオットセイとなって入ったものであると言われています。

魚介類ではシシャモがアイヌ語のsusam(スサム)を語源とし、susu-ham「柳の葉」とされています。
ホッキ貝はpok(sey)(ポク・セイ)から生まれた言葉です。

面白いところでは、「ノンノ」というファッション雑誌の名称はアイヌ語の nonno つまり、「花」から名づけられました。

ところで、アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉です。
もともとは自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称の「カムイ」に対する概念としての「人間」という意味であったとされています。

7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれましたが、これは当時の日本人が自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説があります。

アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われました。
丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言ったそうです。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされています。
理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされています。
当時の内地人の耳には「アイヌ」と聞こえたようです。
なぜかというと、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるためです。
「アイヌ」という呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことです。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『感じてストで和露他』

『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『笑わせる漢字でござ~ます』

『卑弥子@婚活』

『プロメテウスの第2の火』

『うむうむ、ふむふむ人間』

『コギャルと甘え』

『癒しと水墨画』

『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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アッと驚くマキアベリ!(PART 1)

2012-11-04 16:35:11 | 日本史
 
アッと驚くマキアベリ!(PART 1)



Niccolo Machiavelli (machiavelli.jpg--172x216)


Denman Barclay or Akira Kato


上の絵の中のおっさんがマキアベリです。
フルネームは次のとおりです。
Niccolo di Bernardo Machiavelli
1469年に生まれ、1527年に亡くなってます。

多分知っていると思いますが、念のために、ちょっとひと言。
日本の戦国時代に当たりますが、当時の、イタリアは、
フィレンツェ市国(公国)の役人をしていた人物です。

1513年に、“The Prince” というタイトルの本を書きます。
これはいわば、政権の座にある者のための、
治世の書とも言われるもので、現在の考え方からすると、ひどくエゲツナイやり方で国を治める方法が書いてあります。
したがって,マキアベリズムと言う場合、たいてい、悪い意味に使われることが多いようです。

そういう本を書いたマキアベリもびっくりする、というのですから、藤原鎌足が愛読していた「六韜(りくとう)」という兵書がどのようなものであったか、大体想像がつくでしょう。
たぶんマキアベリは、この兵書を読んでいなかったでしょう。
私の知る限り、マキアベリが「六韜」を参考にしたとは、どこにも書いてありません。
この「六韜」のどこがすごいかと言うと、例えば、


■権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう。


■寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう。


(yang103.jpg)

■外交使節に隣国から優秀な人物が交渉にきたら話をまとめるな、愚鈍な人物のときにまとめろ、そうすればその人物が重んじられ優秀な人物は失脚し、隣国は弱まるだろう。


というわけで、政略、謀略を通して、
時の政治をどのように操って行けばよいかということが書かれているマニュアル本だったのです。


これには、さらに、「八徴の法」という人物の本性を見抜く八つ
の方法がのっています。




  1. 質問してみて理解の程度を観察

  2. 追及してみてとっさの反応を観察

  3. 間者をさしむけて内通を誘い誠実かどうかを観察

  4. 秘密を打ち明けてその人徳を観察

  5. 財政を扱わせて正直かどうかを観察

  6. 女を近づけてみて、人物の堅さを観察



  7. 困難な任務を与えてみて勇気があるかどうかを観察

  8. 酒に酔わせてみてその態度を観察






エゲツナイといえば、確かに、その通りには違いないわけですが、人間の弱いところ、痛いところを見極めて、なかなか意味のあることを言っています。
もちろん、まともなことも、たくさん書いてあります。
くだらないことばかり書いてある本だとしたなら、藤原鎌足が見向きもしなかったでしょうし、結局現代まで、伝わらなかったでしょう。

この六韜(りくとう)は、周の太公望の撰とされ、「荘子-徐無鬼」という本に「金版六囁」(「囁」は「とう」で「韜」に同じ)と出ています。
現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。
文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の6巻からなっています。
ちなみにこのうちの「虎韜」から派生した言葉が、今日よく耳にする「虎の巻」という慣用語です。

また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書もあり、これは3巻からなる兵書です。
これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の
上で漢の張良に授けたと伝えられています。
しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。
老荘思想を基調にした治国平天下の大道から戦略・政略の通則を論述したものですが、日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。
 
 

日本人とは何か?



Denman Barclay or Akira Kato

藤原鎌足が、なぜ六韜を愛読するようになったのか?
そんな疑問が頭をもたげませんか?
その疑問に答える前に、ここで日本とは何か?
日本人とは何か?をちょっとばかり考えてみたいと思います。
そうでないと、なぜ藤原鎌足が六韜を愛読していたのか、また、それを実践したのか、がよく理解できません。

まず、よく考えなくても分かることなのですが、日本へやってきた人はどういう人たちかというと、それ以前は強い人たちだったかもしれませんが、
戦争に敗れて逃げてきたか、自分が住んでいるところが、戦地になって追い出されてきたか、飢饉や、病気が蔓延して作物がなく、喰いっぱぐれて、着の身着のままでやってきたかの、いづれかです。

もっと時代をさかのぼって、人類史の上から見れば、アジア人がどうして体が小さいかということも、上のような理由で説明がつきます。

つまり、アフリカで、我われの祖先が生まれたわけですから、前のページの地図で見るように、そこから四方八方に広がっていったわけです。


(afroeve.gif)


では、どういう人たちが広がって行ったかといえば、端的に言えば、弱い人たちです。

この「弱い」にも二通りの意味があります。
肉体的に弱いのと、頭脳的に弱いということです。
当時のアフリカ人は肉体的にも、
頭脳的にも強かった。
したがって、肉体的に弱かった人たちが、ヨーロッパやアジアへと、生存競争に敗れ、新天地を求めて去って行ったわけです。

好奇心を満たすために、よその土地へ行くとか、旅行気分で他国へ行くとか、そういうことは、20世紀の後半になってからの話で、
それまでは、99パーセントまでが、喰うために他所へ移っていったわけです。
これは、アメリカの移民史を見ればすぐに分かることです。

アジア人は、そういうわけで、アフリカからアジアへと移住していった。
日本の原住民といわれるアイヌ人でさえ、祖先をたどってゆけば、
そういうアジア人のなかで生活していた時期があったはずです。
ところで、その当時、逃げていった人たちのたどり着いた土地に、
誰も居なかったのか?といえば、決してそうではなかったわけです。
どういう人たちが住んでいたかと言えば、ネアンデルタール人のような人たちが居たわけです。

最近の遺伝子の研究に見るように、
どうやら、我われは、
この人たちから進化してきたのではない事が分かってきました。
それでは、ネアンデルタール人は一体どういう人たちかといえば、もちろん、我われアジア人とは比べものにならないくらいに、肉体的には頑強です。
脳味噌の量も我われとほぼ同じぐらい持っていました。
量だけから言えば、中には、我われよりも、多くの脳味噌を保持していた人も見つかっています。

しかし決定的に我われよりも劣っていた点がありました。
それは何かというと、最近の研究に因って、彼らが言葉をうまく操れなかったということが分かってきたのです。

解剖学的に調べると、彼らの、喉の構造から、余りよく発声ができなかった。
つまり、そのような理由で、たくさんの言葉を持っていなかったらしい。
このことは、戦争のような、
団体行動をとる時には、致命的な欠陥です。

コミュニケーションがよくできないということは、戦略、謀略が効果的に使えないということになります。

これはどういうことかといえば、体の小さなアジア人が、肉体的に頑強なネアンデルタール人に対して、『六韜』を実践することに因って、勝ちぬいてきたようなものです。

そうすることで彼らの土地を奪って、生存競争に生き残ったわけです。
おそらく、生存競争に敗れて絶滅したネアンデルタール人から見れば、
我われホモ・サピエンス・サピエンスは、全く、ずるがしこい人間に見えたでしょう。
ちょうど今の我われが、『六韜』を読んでエゲツナイと感じるように。

ここで、日本に焦点を当てて考えてみたいと思います。
気の遠くなるような年月を経て、ようやくアイヌ民族が東の果てに、到達しました。

果てしのない生存競争に勝ち抜いて、やれやれと思ったことでしょう。
もうこれより東へは行くことができない。
大陸には、もっともっと広い土地があるのに、
どうしてこんな地の果てにやってきたのか?
理由は簡単です。
このアイヌ民族は、もともと好戦的な民族ではなかったからです。

大陸では、町の周りに城壁をめぐらせて、同じアジア人同士が果てしもない戦いを繰り広げている。
アイヌ民族は、もう戦争に懲り懲りした民族だったでしょう。

町の周りに城壁をめぐらすことなど、はなから、ばかげたことだと思っていたようです。
それよりも、みんなで仲良くして、作物でも作って、のんびりと暮らそうじゃないか、と。

したがって、聖徳太子の『和の精神』こそは、先住民族のアイヌ人から受け継いだに違いないのです。
絶対に大陸的発想ではありえない。

その証拠に、魏志倭人伝には、日本では、町の周りに城壁をめぐらしてないということが書かれ、大陸人はびっくりし、あきれています。

いずれにしても、戦争を避けて、暮らそうとすれば、アイヌ民族のように、僻地を選んで生活するしかないわけです。
しかし、いつまでも、そのようなアイヌ民族を、そおっとしておいてくれない。

前に書いたように、戦争に敗れて逃げて来るものが後を絶たない。
自分が住んでいるところが、戦地になって追い出されて来る者も居る。
飢饉や、病気が蔓延して作物がなく、喰いっぱぐれて、着の身着のままでやってくる人たちもいる。
日本はさしずめ、そういう人たちの、吹き溜まりのようになってしまった。

迷惑するのは、先住民族のアイヌ人たちです。
この後の、アイヌの歴史というのは、現在の日本人の先祖に追い立てられて、北海道の片隅に押し込められた歴史です。
したがって、アメリカ・インディアンが、現在のアメリカ人たちの祖先に追われていった歴史と全く同じといっていい。
「歴史は繰り返す」、と言われているとおり、このことは、まさに、その言葉を実証しているものです。

したがって、先住民族のアイヌ人を原日本人と見なす場合、現在日本に住んでいる日本人の95パーセント以上の人たちは、原日本人ではないことになります。

むしろ、在日百済人の子孫、在日新羅人の子孫、在日高句麗人の子孫、在日呉人の子孫というべきところです。
『呉服』という言葉を知っていると思いますが、
これは、呉人が着ていた服のことです。
呉というのは、もちろん下に示す地図で見るとおり中国にあった国です。

Three Kingdoms in China (3goku2.gif--450x368)
(3goku.gif)

Denman Barclay or Akira Kato


さきほど、引き合いにだした魏志倭人伝というのは上の地図に見える、魏という国の人が、倭人、つまり、その当時の日本人について書いた
文章です。
日本人が使っている漢字の読み方には、漢音、呉音、唐音、宋音と大体この4通りの読み方があります。
もちろん、すべての漢字に4通りの読み方があるというわけではありません。
とにかく、日本語で使われている漢字の読み方に、漢音と呉音が多いということを考えれば、いかに、この時代に、日本と中国の交流が激しかったかがよく分かります。
ということは、当然、文物だけではなく、多くの人間が、漢や呉からやってきたわけです。
もちろん、その多くの人たちが、古代の朝鮮半島を経由してやってきたはずです。

おそらく、現在日本に住む99パーセントの日本人は『呉服』という言葉を知っているでしょう。
しかし、聖徳太子が生まれる300年以上も前から、この呉からやってきた人たちが、今で言うなら、最新流行のパリのファッションとでも呼ぶべき、呉服を持ち込んだということは,すっかり忘れていることでしょう。
しかし、日本語としてすっかり定着して、いまだに、呉服屋さんという人たちが居ます。


じゃあ、今、日本に

住んでいる人は

日本人でないの?


これは重要な問題です。
ページを改めて、お話したいと思います。

次のリンクをクリックして読んでみてください。


『一体、日本人とは?』




『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』より
(2003年7月17日)






デンマンさん!。。。どうして『新しい日本古代史』の中から上の記事を書き出したのですか?



上の記事にコメントをもらったのですよ。

あらっ。。。珍しいことですわね?

そうですよ。 僕の記事にはめったにコメントをがつきませんからね。

それで、どのようなコメントをいただいたのでござ~♪~ますか?

次のようなコメントです。


From: servicemail@bravenet.com
To: barclay1720@aol.com
Date: Fri, Nov 2, 2012 12:18 am

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted: Nov 02 2012 / 00:18:28

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-rikutou-superb
Your_Name =
Your_Email_Address =


Comments :




面白い読み物です


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




あらっ。。。コメントってぇ、たったのこれだけですか?



そうですよ。

これはイタズラではありませんか!?

あのねぇ~、イタズラをするような愚か者は上の記事にはコメントを書かないのですよ。

どうしてデンマンさんは、そのように断定なさるのですか?

卑弥子さんもコメントを書けば解るけれど、投稿すると英語のサイトに誘導されるのですよ。 だから、真面目にコメントを書く人以外は、引いてしまうのですよ。

。。。んで、身元はわかったのですか?

IPアドレスから静岡県に住んでいる人だということが判りました。

 (すぐ下のページへ続く)

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アッと驚くマキアベリ!(PART 2)

2012-11-04 16:33:52 | 日本史



 
アッと驚くマキアベリ!(PART 2)


IPアドレス: 203.95.50.***

ホスト名 fj***.net203095050.thn.ne.jp
IPアドレス割当国: 日本 ( jp )
都道府県: 静岡県

プロバイダー: TOKAI-NET

組織名: 株式会社TOKAIコミュニケーションズ
Organization:
TOKAI Communications Corporation
登録年月日: 2004/06/30
割当年月日: 2006/06/28
最終更新: 2012/07/11 17:20:08(JST)
ドメイン名: THN.NE.JP
ネットワークサービス名: THN CATVインターネットサービス
Network Service Name:
THN CATV Internet Service




でも、これだけではイマイチ説得力がありませんわ。



どういう意味ですか?

デンマンさんが自作自演していると考える読者が居るかもしれませんわ。

なぜ僕が自作自演しなければならないのですか?

だから、この記事を書くためですわよ。

あのねぇ~、そんな手の込んだことまでして「珍しくコメントがついた!」なんて騒ぎはしませんよ。

でも、“ウラ”が欲しいのですわ。

新聞記者のようなことを言わないでくださいよ。。。卑弥子さんがそれほどまでに言うのであれば“ウラ”を見せますよ。 ちょっと次の地図を見てください。


(hg21103.gif)



これは9月30日から11月3日までに「デンマン・シンジケート」の18のブログと1つのウェブページにアクセスしたネット市民を都道府県別に表示したパイグラフと地図ですよ。



あらっ。。。35日間にたったの 2,914人でござ~ますかァ?? 少ないではありませんか!

あのねぇ~、都道府県が判別できる読者の皆さんだけを表示したものなのですよ。 例えば海外からのアクセスは当然だけれど含まれていないのですよ。

海外からのアクセスもあるのですか?

当然でしょう! 僕のブログには英語の記事も含まれていますからね。 次の Denman Blog (denman word press) のリストを見てください。
 
 
海外からのアクセス
 
 

(wp21019map.gif)


(wp21019.gif)



あらっ。。。今年の2月25日からアメリカ人が957人。。。カナダ人が 317人。。。75カ国からアクセスがあったのでござ~♪~ますか?



見てのとおりです。

。。。でも。。。、でも。。。、都道府県の地図を見ると静岡県がないじゃありませんか!


(hg21103.gif)



上の地図を見ると静岡県は出てません。 この地図は「デンマン・シンジケート」全体のアクセス数ですから。。。



じゃあ、コメントがついた記事が載っているサイトの地図ならば出ているのですか?

そうです。 『新しい日本古代史』サイトは "Beaverland Web" にあるのですよ。 そのウェブーページのアクセス地図を貼り出しますから卑弥子さんもじっくりと見てください。


(hg21103b.gif)



あらっ。。。 静岡県から "Beaverland Web" にアクセスした人は2人居るのですわね。



そうです。 東京都、大分県、香川県、千葉県に続いて5番目ですよ。

でも、"Beaverland Web" 全体で 27人だけしか居ないのですわね。 どうして少ないのですか?

都道府県が IPアドレスからでは判別できない人たちも居るし、海外からのアクセスは載ってないから、実際には3桁のアクセス数があるはずですよ。

それでも少ないですわよ。

あのねぇ~、歴史のサイトを覗くネット市民が少ないということなのですよ。

つまり、その少ない閲覧者の中からコメントが付いたのでデンマンさんは自慢したいわけなのですか?

いや。。。、別に自慢したいわけじゃないけれど、コメントが付くと、やっぱりうれしいですよ。 上の記事は2003年に書いたものです。 もう10年ほど前になるのですよ。 今でも読んでくれる人が居るのだと思うと、やっぱり記事を書いていてやりがいがありますよ。


【ジューンの独り言】



ですってぇ~。。。
確かに10年前に書いた記事が読まれていると知ると、更に記事を書く励みになるかもしれませんよね。

あなたはブログを書いていますか?
途中で諦めないで書き続けてくださいね。
書き続けていれば徐々に読者は増えてゆくものです。

ええっ。。。その証拠でもあるのかってぇ。。。?

ありますわよ。
次のグラフを見てくださいな。


(hg20831q.gif)

デンマンさんは、ほぼ毎日記事を書いているのです。
上のグラフを見ると毎月ごとに読者が増えてゆくのが判るでしょう?
だから、あなたも毎日ブログを更新すればネット市民の皆様があなたのブログを読むようになりますわ。

ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『感じてストで和露他』

『笑える漢字クイズ』

『哀れなネアンデルタール』

『佐伯今毛人は臆病者か?』

『笑わせる漢字でござ~ます』

『卑弥子@婚活』

『プロメテウスの第2の火』

『うむうむ、ふむふむ人間』

『コギャルと甘え』

『癒しと水墨画』

『東電八分』

『怒りっぽいあなたに』

『床上手だよ!』

『床上手@docomo』

『漢字で体操ざ~ます』

『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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下着・ランジェリーを見つけませんか?』


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■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』



■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』



『夢とロマンの横浜散歩』

『愛とロマンの小包』

『下つきだねって言われて…』



『銀幕の愛』

『パリの空の下で』

『愛の進化論』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』






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末裔の足跡(PART 1)

2012-10-29 21:33:30 | 日本史
 
末裔の足跡(PART 1)




(yakunin2.jpg)


(fprints.png)


Beaverland Net Form Processor
From: yasu60@******.plala.or.jp
To: barclay1720 barclay1720@aol.com
Date: Thu, Mar 22, 2012 9:20 pm
(Pacific Daytime Saving Time)
日本時間: 3月23日午後1時20分
MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Mar 22 2012 / 21:20:44

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-shinri-superb
Your_Name = 柴田yasuhiro
Your_Email_Address =
yasu60@******.plala.or.jp

Comments:


初めまして、いろいろ文献を読んで、貴殿のサイトにたどり着きました。
私は、大伴柴田臣の末裔だと思っている者です。
しかし家紋からするに、下藤一で藤原の親戚になってしまいます。
私は、シボ族で不動明王を祖先に持つ者だと思っております。
貴殿の考えに賛同いたし、心が爽快になりました。
藤原の捏造で大伴氏族系柴田の流れが分断されて、困りはてています。
貴方の考えは如何でしょう。

藤原の由来は、安東将軍で、トウタン、トルファンであると思います。
近衛文麿が陸軍を先導して太平洋戦争まで持ち込み、強いては、天皇の座まで狙った。
それを知っている、昭和天皇は、愛知県にある東条秀樹の墓参りをして、これをわびた、と思っています。

現在ですら、NHKの作った大化改新は愚作の極みで下らない出来で日本人の恥と思える作品です。
あたかも、現代の中国、韓国の思想に近い、考えの人が作ったと解ります。
今ですら藤原が怖いと思っている人がいる。

我々は、法の元で平等で自由で公平な目で物事を判断できる。
我々は道徳を重んじ、恥を最も嫌う優秀な日本人である。
それが、現在の米国、英国、ロシア、イスラエル、中国、韓国人とは決定的に違う民族である、と思います。


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




デンマンさん。。。また、柴田さんからのコメントでござ~♪~ますか?



卑弥子さんは飽きてしまったのですか?

だってぇ、同じコメントを2度読むのは退屈ですわよ。

今日はコメントの内容ではないのですよ。 コメントを書いてくれた柴田さんは、どうやって僕の記事を見つけたのだろうか?

検索エンジンに決まってるじゃござ~♪~ませんか!

だから例えば、どの検索エンジンを使ったのか? GOOGLEか? Yahoo!? それとも Bing? また、検索したのならば、どんな検索ワードを入れたのか? 

そのような事まで判るのでござ~♪~ますか?

判ります。

つまり、柴田さんの足跡をたどるのでござ~♪~ますか?

そうですよ。 面白いと思いませんか?

大して面白そうではありませんけれど、デンマンさんがせっかくそのような話題を決めたのですからお話だけは伺いますわ。

なんだか卑弥子さんは、つまらなさそうですね。 無理してまで僕の話に付き合う必要はないのですよ。

だったら、帰らせていただきますわ。 じゃあ、またそのうち。。。ごきげんようさようなら。。。

卑弥子さん!。。。ちょっと待ってくださいよ。。。帰ってもらっては困るのですよ。 せっかく、こうして話し始めたのだから、最後まで付き合ってくださいよ。

だってぇ、無理してまで付き合わなくてもよいと言ったばかりじゃござ~♪~ませんか!

まさか、卑弥子さんが帰ると言い出すとは思わなかったから、つい口走ってしまったのですよ。 うへへへへへ。。。 決してつまらない話ではありません。 卑弥子さんにとってもマジで興味深い話なのですよ。

だったら、初めからそう言えばよろしいではござ~♪~ませんか。 んもおおォ~。。。

じゃあ、まず、その面白いリストから見てください。




(hg20324h.gif,hg20324k.gif,hg20324m.gif)



あらまあァ~。。。ずいぶん長いリストだことォ~。。。よくまあ、これほど長いリストを作ったものですわね。



検索キーワードを見ているだけでも面白いですよ。 これなら卑弥子さんも喜んで読むだろうと僕は思いましたからね。

つまり、あたくしがエロい検索キーワードに興味があるとデンマンさんは信じているのですか?

あれっ。。。違うのですか?

んもおおォ~。。。失礼しちゃうわア! あたくしはこれでも京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している准教授なのでござ~♪~ますわ。 慎み深く、高尚な心を内に秘めた純粋な大和撫子(やまとなでしこ)なのですう。

でも。。。、でも。。。、源氏物語は古典のエロ話だと信じている日本人はかな~り居るのですよ。

あらまあァ~。。。それは日本の古典に対する冒涜(ぼうとく)であり、陵辱(りょうじょく)でござ~♪~ますわ。

あのねぇ~、卑弥子さんがそれほどムキにならなくてもいいのですよ。 上の検索キーワードを見ただけでも、人間はいかにエロい話題を好むかという証拠なのですよ。 卑弥子さんだけがエロい話に興味があるわけではないのです! 改めてじっくりと上のリストを見てくださいよ。 検索ワードの件数が 385ですよ。 その中で歴史に関するものは、わずかに一つだけ。。。、「古事記」だけなのですよ。

「大奥」がありますわ。

あのねぇ~、確かに「大奥」は江戸時代の幕府の制度だけれど、歴史に興味を持ったから「大奥」で検索したわけではないのですよ。 大奥についてのエロい話が読みたくて「大奥」で検索したのですよ。

デンマンさんが次の記事でエロい話を書いているから、エロいお話を求めて「大奥」で検索して読みにやってくるネット市民の皆様が居るのでござ~♪~ますわ。


(jbeauty2.jpg)

『大奥』



確かに、上の記事の中にはエロい話もでてきますよ。 でもねぇ、僕はエロい話よりも、極めて真面目な歴史や政治の話などもたくさん書いているのですよ。



その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

もちろん、ありますよ。 次のリストを見てください。


GOOGLEの検索結果

2012年3月16日(金曜日)現在

「日本 デンマン」 408,000 (108,000)

「ブログ デンマン」 397,000 (101,000)

「英語 デンマン」 274,000 (48,300)

「世界 デンマン」 244,000 (70,100)

「海外 デンマン」 228,000 (43,700)

「パソコン デンマン」 218,000 (56,800)

「アクセス デンマン」 202,000 (51,000)

「アメリカ デンマン」 155,000 (32,100)

「エッチ デンマン」 135,000 (38,600)

「国際 デンマン」 131,000 (30,200)

「歴史 デンマン」 117,000 (32,900)

「文化 デンマン」 114,000 (27,900)

「中国 デンマン」 125,000 (27,500)

「恋愛 デンマン」 119,000 (35,100)

「政治 デンマン」 118,000 (27,400)

「馬鹿 デンマン」 115,000 (35,800)

「結婚 デンマン」 111,000 (34,600)

「環境 デンマン」 108,000 (30,600)

「カナダ デンマン」 106,000 (30,200)

「戦争 デンマン」 105,000 (18,900)

「教育 デンマン」 101,000 (25,400)

「京都 デンマン」 85,600 (31,200)

「科学 デンマン」 80,400 (73,300)

「イギリス デンマン」 76,400 (19,500)

「風呂 デンマン」 72,400 (24,500)

「レンゲ デンマン」 72,100 (26,100)

「文学 デンマン」 67,700 (20,100)

「コンピューター デンマン」 67,000 (22,000)

「小百合 デンマン」 66,500 (21,500)

「地球 デンマン」 65,200 (15,900)

「セックス デンマン」 64,600 (14,500)

「芸術 デンマン」 63,900 (16,500)

「卑弥子 デンマン」 62,200 (24,200)

「平和 デンマン」 62,000 (10,800)

「ジューン デンマン」 58,200 (19,200)

「めれんげ デンマン」 56,900 (34,800)

「キス デンマン」 52,200 (9,830)

「ヨーロッパ デンマン」 47,800 (9,320)

「性交 デンマン」 41,700 (13,000)

「おばさんパンツ デンマン」 26,000 (7,890)

「天才 デンマン」 25,700 (3,340)

「源氏物語 デンマン」 13,900 (10,200)

「床上手な女 デンマン」 5,080 (4,160)




デンマン注: ( )内は 2011年6月7日(火曜日)の検索結果

『エッチな人間合格』より
(2012年3月16日)




見れば判るでしょう! エロい話よりも、エロくない話の方が圧倒的に僕の記事には多いのですよ。



それにもかかわらずネット市民の皆様はエロい話を求めてエロい検索ワードを入れて検索結果からデンマンさんのブログのエロい記事を読みにやって来ると主張なさるのですか?

その通りですよ。 上の長い検索ワードのリストと、すぐ上の検索結果を見れば一目瞭然でしょう! 人間というのは本音ではエロい話が好きなのですよ。

解りましたわ。 柴田さんはエロい人間の中でも、ただ一人「古事記」を入れて検索してデンマンさんの記事を読み、さらにコメントまで書いてくれたという貴重な存在だとデンマンさんは断定なさるのですわね?

まさに、その通りですよ。 上の長いリストを見てくださいよ。 3月15日から24日までの10日間に、これだけの人が検索して僕の記事を読みにやって来た。 ほとんどがエロい検索ワードの羅列の中で、一つだけ「古事記」が光っているでしょう!? うへへへへへ。。。

この10日間に延べ 1、863人のネット市民の皆様が検索エンジンから「デンマンシンジケート」のブログとホームページにやって来たということですか?

その通りですよ。


(hg20324c.gif)



これが「デンマン・シンジケート」とのリストと最近のアクセス状況のグラフです。



去年の12月から急に増えていますわね。

あのねぇ~、去年の11月までは Denman Blog (denman word press)だけが記録されていたのですよ。 11月下旬に 他の17のブログと ホームページ(Beaverland Web)を加えて「デンマン・シンジケート」として記録し始めたのです。 そのような訳で去年の12月から急にアクセスが増え始めたのです。

。。。んで、それぞれのブログやホームページのアクセス状況も解るのでござ~♪~ますか?

解りますよ。 次のリストを見てください。


(hg20324b.gif)



柴田さんがコメントを書いた記事というのは Beaverland Web というホームページにあるのでしょう?



そうです。

アクセス数では11位で、あまり多くはありませんわね。

でも、ライブドアの 『徒然ブログ』 よりもアクセス数が多いのですよ。


(hg20324d.gif)



これが去年の11月下旬から記録をとり始めた Beaverland Web ホームページのアクセス数の内訳ですよ。



柴田さんは岐阜県にお住まいだということですけれど、「アクセス地図」にも出てくるのですか?

出てきますよ。


(hg20324e.gif)



確かに岐阜県からアクセスした人がいるようですわね。 愛知県が 190人で5位ですけれど、その北隣の岐阜県は 10位以内のリストに入ってませんわね。



Beaverland Web ホームページについて調べた結果もありますから見てください。

 (すぐ下のページへ続く)
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末裔の足跡(PART 2)

2012-10-29 21:30:33 | 日本史

 
末裔の足跡(PART 2)


(hg20324f.gif)



やっぱり東京都に住んでいる人が最もアクセスしているのですわね。 でも、岐阜県がリストに現れてませんわ!



残念ながらリストから外れたのですよ。 でも IPアドレス (ホスト名) で調べたらちゃんと出ていましたよ。


(hg20324.gif)



あらっ。。。15番目が柴田さんですか?

そうです。

デンマンさんも、この上のリストに現れているのですか?

3番目が僕ですよ。

3 group9.vcn.bc.ca


(hg20324vcn.gif)



こうして無料のネットワーク・サービス(Vancouver Community Network)を使ってモデム(ダイアルアップ)でインターネットにアクセスしているのです。



京都に住んでいるあたくしでも、この無料サービスを使うことができるのですか?

次のリンクをクリックすれば登録することはできますよ。

http://vcn.bc.ca/


(vcn.gif)



でもねぇ、バンクーバーに住んでいることにして登録してメンバーになることはできても無料サービスを使うにはVCNの事務所に出向いてパスポートか自動車免許書を見せる必要があるから、バンクーバー以外に住んでいる人はまず無料のインターネットサービスは使えません。



京都市内で調べてみましたけれど、バンクーバーの VCN と同じようなインターネット公共サービスを行っている NPO はありませんわ。

卑弥子さんもバンクーバーに移住して UBC (ブリテッシュ・コロンビア大学)で「日本文化と源氏物語」を教えればいいではありませんか!

ええ。。。考えてみますわ。。。んで、柴田さんがアクセスした記事も記録に出ているのでござ~♪~ますか?

出ていますよ。 次のリストを見てください。


(hg20324g.gif)



これは「リンク元URL」の詳細でござ~♪~ますか?



そうです。 僕の記事を読む前に居たページのURLのリストです。

検索エンジンが圧倒的に多いですわね。

検索してやって来る人が一番多いのですよ。 柴田さんは「古事記」で検索して関連ページを読み始めたのです。 検索結果の中に次の3つのページが出てきたはずです。

1) http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/rikutou2.html

『今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?』


(2003年7月17日)


2) http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/temmu.html

『天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった』


(2003年7月14日)


3) http://beaverland.web.fc2.com/denman/

『デンマンプ ロフィール』



検索結果の中に上の3つのページが出てきたと、どうして判るのでござ~♪~ますか?



リスト内を "beaverland" で検索したら上の3つの URL が見つかったからですよ。

でも、柴田さんは Beaverland Web の次の3つの記事をじっくりと読んだのでしょう?


『真理とは何か?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri.html

『真理は作られた?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri2.html

『韓人(からひと)とは誰か?』

http://beaverland.web.fc2.com/oldhist/shinri3.html


その通りです。

だったら、順番に読んだとして、『真理とは何か?』と『真理は作られた?』の URL が上の「リンク元URL」リストに出てこないとおかしいではありませんか? どうして出ていないのですか?

う~~ん。。。確かに卑弥子さんの言う通りなんだけれど、すべてのリストをくまなく探したのだけれど、出てないのですよ。

リストから漏(も)れたのですか?

たぶんね。。。何事も完璧なものはありませんからね。

 (初出: 2012年3月28日)


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
果たしてデンマンさんが言うように漏れたのでしょうか?
完璧な統計などありませんから、そのような事が起こることがあるかもしれません。
でもねぇ~~。。。
あなたは、どう思いますか?

ちなみに、最後のリストの中に表示された多く読まれた記事は次の通りです。

http://www.edita.jp/love705/one/love70578662259.html
『道鏡と床上手な女』
(2011年31月1日)

http://www.edita.jp/excite705/one/excite70531.html
『肥後ズイキが性具になったきっかけは?』
(2005年3月7日)

http://denman.anisen.tv/e56862.html
『夫婦でお風呂』
(2008年9月22日)

http://www.edita.jp/goo705/one/goo7054698.html
『熟女ヌードとデンマン(PART 2)』
(2011年11月28日)

http://www.edita.jp/himiko/one/himiko29702478.html
『少女コミック・シンドローム』
(2011年10月9日)

http://www.edita.jp/excite705/one/excite7053691.html
『中年女性の愛の生活』
(2010年3月19日)

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。








ィ~ハァ~♪~!

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こんにちは。ジューンです。

外国人が日本語を勉強するのに、

最も難しいのは敬語の使い方です。

日本人でさえ適切に敬語が使えない人が

増えていると聞いています。

だから、やっぱり敬語は難しいのですわね。

英語にも敬語が無いわけではありません。

でも、日本語ほど体系的には使われていません。

ヨーロッパ近代語に敬語があるかないかは

敬語の定義次第です。

敬語を広く「人物間の上下関係や

親疎関係を反映した言語表現」と定義すれば

英語で丁寧な命令文に please を付ける例を始め

学校で生徒が教師に、

軍隊で兵士が上官に対する応答の文末に

sir や madam(ma'am)を付ける例があります。

英語の二人称代名詞である you は

もともとは敬称でした。

英語話者が家族であろうと親しい友人であろうと

常に本来敬称であった you のみを

使うようになったために

you が敬称としての意味を失い、

敬称でない形の thou が忘れ去られたのです。

現在では敬語表現としては

次のような形を使って表現することが多いです。

Could you ...?

Would you ...?

May I ...?


 
ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。


(sylvie122.jpg)

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



(juneswim.jpg)


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聖徳太子のママ(PART 1 OF 3)

2012-10-21 16:53:21 | 日本史
 
聖徳太子のママ(PART 1 OF 3)


(persian02.gif)

聖徳太子の母親は

ペルシャ人だった?




案内役の卑弥子でーす。

あたくし今度はこんな格好で出てきてしまいました。
これは、もうずいぶんと時代が下るんですよ。
Ghajar王朝(1779-1921)の皇女の服装なんです。
これしかないーつんですよ。
あたくし、これじゃあイヤーだあー、って言ったんですけど、とにかくペルシャのプリンセスの格好だから、格調高いんだと言われて、その気になってしまったんです。
どうですか?似合っているでしょうか?

上の絵だって、ペルシャには違いないんですけど、女の人すっかり顔を隠しているでしょう?
これはイスラムですよね?
だから、これも時代錯誤だと思うんですけど。
聖徳太子の時代はまだイスラム化されていないはずなんです。
640年にアラブ人がやって来て、それからペルシャ(今のイラン)はイスラム化が始まったんですから。

あたくしが、もうちょっとこの時代に合ったものをページに載せたほうがいいんじゃないんですか?と言ったら、これでいいんだ、って言うんです。
なぜですか?と尋ねたら、普通、日本人がペルシャ人に対して持つイメージって上の絵のように顔を隠しているんだと、言うんです。
これじゃないと、どこの国の人だか見当がつかないからだ、って言うんですよ。

このページを見るくらいの人は教養が高くて、そのぐらいの事は分かっていますよ、って言ったら、あたくしが、案内役なんだから、適当に説明しておけーつんです。
そんなわけで、こうして今、弁解がましくゴタクを並べているわけです。
まあ、そういうわけですので、あまり堅苦しいことは抜きにして、わたくしと一緒に見てゆきましょう。


渡来人


聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。
昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。
しかし、「日本」古代史の「日本」って一体何なのか?
については、あまり考えてみません。


そんなことは決まってるじゃないか、昔の日本の歴史だよ!
地図を開いてごらんよ。
その地図の日本の中で、昔起こったことが、つまり日本の古代史さ。


と、多分、上のような答えが返ってくるでしょう。
でも、ここで下の地図を見てみましょう。



上の地図には書き込んでありませんが、中国沿岸からも、またもっと遠く、ベトナムの方からも線が引かれているものと考えてください。
「ベトナムはちょっと遠すぎるんじゃないの?」と言われそうですが、決して遠くありません。
そのことについては、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。
クリックすると新しいページが開きます。読んでください。

要するに、この当時の国際関係を一言で言ってしまえば、渡来人が日本人であって、日本人が渡来人であった、というような時代です。
この頃は、原日本人、つまり、そのメイン・メンバーであるアイヌ人の人たちは、東北地方へ押しやられた形で生活しています。
794年に桓武天皇が、都を京都に移してから、本格的に、蝦夷征伐を始めますが、それまでは原日本人は日本史に登場していません。
古事記と日本書紀には神話時代の話に、「熊襲」などと呼ばれて登場している程度です。

古事記と日本書紀を編纂した人たちが、「これが新しい日本史だ」と言うのを、当時のアイヌ人が耳にしたとしたら、きっとこう言ったでしょう。




あんたがたよそ者が勝手にこの土地へやってきて、争いばかりしくさって、そのあげく日本史を作ったと?いいかげんにせんかい!
わしら、あんたらが来る何千年も前から、この土地に住んでおるんじゃ。
迷惑ばかりかけおって。。。
何が日本史だい。わしらが日本史じゃわい!


「アメリカ人」という言葉を聞くとき、私たちはすぐにマリリン・モンローだとか、ボブ・ホープ、クラーク・ゲーブル、エジソン、リンカーン、あるいは、ケネディー、ロックフェラー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、などというような人の名前がすぐに口をついて出てきます。
それでは、聖徳太子が生きていた当時のアメリカ人は?と言われると、「アメリカ人はその頃いなかったんだ」と言いたくなります。
しかし、もちろん、アメリカ大陸にも我われと同じ人類が生活していました。
現在のアメリカ・インディアンの祖先の人たちです。
従って、聖徳太子が生きていた当時も、間違いなくアメリカ・インディアンの人たちがちゃんと生活していたのです。

それとちょうど同じことが「日本」についても言えます。
現在では、日本人と原日本人との区別がほとんどつきません。
おそらく日本人の95から99パーセントの血は渡来人から受け継いでいるだろうと思われます。
アイヌ人の事についてはこのページ (平和を愛したアイヌ人) で書いています。
興味のある方は読んでください。

今このページで問題にしようとする聖徳太子の時代と言うのは、アメリカ史にたとえれば、イギリスから清教徒の一団がメーフラワー号でアメリカ大陸に移住してから、やがて13州が独立宣言をして、一人立ちしてゆくという時代に当ると思います。
そのうち、押し寄せてくる移民が、西部へ西部へと進んでゆきます。
それと共に騎兵隊がインディアンたちを、もっと西へと追いやります。
これが、日本史では、平安遷都のあとの蝦夷討伐に当たりそうです。


渡来人が来るのは分かるが、

ペルシャは遠すぎるンじゃない?


確かにペルシャは日本から遠い国で、聖徳太子が生きていた時代に、彼らが、日本に住んでいたとは思えないかもしれません。
しかし、「遠い」と言うとき、私たちは、現在のイランと日本の距離を考えてしまいます。
そう考えると、確かにペルシャと日本は距離的にずいぶんと離れています。

しかし、ペルシャ人は何も、インド洋を越え、マラッカ海峡を通り、東シナ海を経て、はるばる日本へやってくる必要はなかったのです。
もちろん、飛行機でやってくる、なんて言うつもりはありません。
つまり、中国人や、半島人と同じルートで日本へやってきました。
その当時すでに、お隣の中国や、朝鮮半島にたくさんのペルシャ人が住んでいました。

少し時代が下りますが李白(701ー762)の詩に「少年行」があります。


少年行
 
 

 
 
五陵の年少、金市の東

銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

落花(らっか)踏み尽くして、

何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

笑って入る、

胡姫酒肆(こきしゅし)の中


盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。
見るからに金持ちの貴公子です。
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。
酒肆というのは酒場のことです。
この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。
 
胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。
中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。
これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。
「胡姫」というのは胡の姫、つまりペルシャ人の女の子です。
だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっています。
エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーです。
ここで卑弥子さんに再び登場してもらいますが、この酒場にいた女の子は、こんな感じの踊り子だったかもしれません。



卑弥子でーす。

今度はこんな格好を

させられてしまいました。

とても恥ずかしいんですけど、

無理して笑っています。

ではペルシャのお姉さんに

踊ってもらいます。





ペルシャ人は一体

いつ中国へやって来たの?


もちろん、唐の時代になってからペルシャ人が中国にやって来たというわけではありません。
すでに秦の始皇帝の時代に中国に多数のペルシャ人がいたと言う記録が残されています。
秦の始皇帝は、最初に中国を統一した人物です。
彼が始めた群県制という国家制度はそれまでの封建制にかわる新たな制度、
つまり中央集権のシステムでした。

この群県制は、ペルシャのアケメネス朝で採られた制度に非常によく似ていると言われています。
各地の豪族をその地の王として認めていく封建制と全く違って、群県制では地方を治めるのは中央から派遣された官僚です。
これは同様の中央集権制度を秦以前に確立していたアケメネス朝の制度に酷似しています。
このことなどから秦朝を外来民族による政権とする説は意外にも中国の研究者の間に多いのです。
そのためでしょうか、どの歴史の教科書も、秦を漢民族の国家とは断定していません。語族分類表でも、
シナ・チベット語族からはずされています.

これだけペルシャのアケメネス朝の影響を受けているわけですから、もしかすると、始皇帝にはペルシャ人の血が混じっているかもしれません。
そう考える理由はまだ他にもあります。
始皇帝は赤い髪に青い眼、つまりコーカソイド(白人種)の特徴を備えていたと伝えられるからです。
肖像画に描かれている彼がいつもベールのような冠をかぶっているのは、この異相を隠すためだったと言う歴史研究家もいます。

事実、中国の史書のなかには、始皇帝が秦王室の血を正しく受け継いでいないということを述べているものもあります。
しかも秦は戦国の諸国家の中で、最も西にあった国です。
そういうわけで、チベットやペルシャなどの西域諸民族の血が流入しやすいことも確かです。
また中国ではローマ帝国のことを大秦国といいますが、これも秦が西方系であることを示しているとも考えられます。

始皇帝時代のペルシャといえば、ヘレニズム時代に、アルサケス朝パルティアが成立した時期です。
この国は中国の史書には安息国として登場します。
活発な交易活動により東方の国々にもその存在を良く知られていました.

当時のペルシャは、ソグド人やユダヤ人を多く抱える商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。
また秦の建国自体がアケメネス朝の滅亡時期と重なっており、秦それ自体が西方系国家だったとすれば、この混乱の時期に大挙して亡命してきたペルシャ人がその基盤となったことも十分に考えられるわけです。

また、秦は実利主義に徹していましたから、有能ならば外国人であろうとその国籍を問わずにどんどん重用しました。
事実、財務関係の官職にはたくさんのペルシャ人が就いて秦の財政に携わっていました。

このような秦の歴史を見れば、始皇帝がペルシャ人の血を受け継いでいないとしても、ペルシャ人が彼の回りに多数居て、政治、経済、通商、財政の面で手助けしていたと考えても先ず間違いありません。




『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』より
(2003年8月3日)




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聖徳太子のママ(PART 2 OF 3)

2012-10-21 16:52:31 | 日本史


 
聖徳太子のママ(PART 2 OF 3)



デンマンさん。。。どうして、あたくしが案内役をやっている古代史サイトの記事などを持ち出したのでござざ~♪~ますか?



この上の記事にコメントをもらったのですよ。

どのような。。。?

ちょっと読んでみてください。


Beaverland Net Form Processor
From: hideosaitou71@***.*****.or.jp
To: barclay1720@aol.com
Date:Sun, Mar 4, 2012 8:01 pm.

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Mar 04 2012 / 20:01:10

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-persia2-good
Your_Name = 齋藤 英夫
Your_Email_Address:
hideosaitou71@***.*****.or.jp

Comments :


楽しく読ませていただきました。
ペルシャのことを波斯国と中国で呼ばれたことですが、同じ国名が「うつぼ物語」のなかにでてきますが聖徳太子の母の名が「穴穂」が冠されていますので、穴穂で「うつほ」と著者の源順は充てていると考えています。

これを、引継いで紫式部が源氏物語を書いたと思います。
うつほ物語の中では波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています。
ここを抑えて読まなければ、聖徳太子のことや、うつほ物語、源氏物語も正しい翻訳さえ怪しいものとなってしまいます。


Thank you for using Bravenet Email Form Processing!




デンマンさんは「うつほ物語」をご存知でござ~♪~ましたの?



名前だけ知っていましたよ。 でも、一度も読んだことはありません。 どのような内容なのですか?

ここで説明するのは面倒なのでウィキペディアの説明を読んでくださいな。


うつほ物語

『うつほ物語』(『宇津保物語』と表記されることもある)は、日本の平安時代中期に成立した長編物語。
全二十巻、著者は不明だが源順説などがある。
『竹取物語』にみられた伝奇的性格を受け継ぎ、日本文学史上最古の長編物語である。

写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われている。
当時の貴族にとって、その演奏が教養でもあった楽器のひとつ「琴(きん)」の音楽をめぐって物語が展開していく。
当時の年中行事を記した日記的な記述が多くみられる点も特徴のひとつである。
『枕草子』に源涼と藤原仲忠の優劣論争が記され、『源氏物語』の「絵合」巻に「『うつほ』の俊蔭の物語絵」が見えている。

あらすじ

遣唐使清原俊蔭(としかげ)は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着する。
天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着した。
俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死んだ。
俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞 - うつほで子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えた。
兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取った。〔俊陰〕

そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えなかった。
求婚者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲純、上野宮、三春高基らがいたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになった。〔藤原の君〜あて宮〕

仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれた。
俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となる。
仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になった。〔蔵開・上〜国譲・下〕

仲忠は母にいぬ宮へ秘琴を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につける。いぬ宮は2人の上皇、嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わる。〔楼上・上〜下〕




出典: 「うつほ物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なるほど。。。日本文学史上最古の長編物語で、写実的な描写などは『源氏物語』の成立へ影響を与えたと言われているのですね。



そのとおりですわ。 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している源氏物語研究者として、あたくしは「うつほ物語」をずいぶんと読んだものでござ~♪~ますわ。

齋藤さんは次のように書いているけれど、卑弥子さんはどう思いますか?


うつほ物語の中では波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています。

ここを抑えて読まなければ、聖徳太子のことや、うつほ物語、源氏物語も正しい翻訳さえ怪しいものとなってしまいます。


波斯国の琴が中心に書かれていて「仏教」に掛けられています」と書いてありますけれど、仏教について書こうと思ったことが作者の動機ではないと、あたくしは思いますわ。

。。。というと?

『竹取物語』に見られる伝奇的性格を受け継ぎながらも、もっと現実性を強調して写実性を取り入れたのですわ。 その写実的な描写が『源氏物語』へと受け継がれてゆくのでござ~♪~ますわ。 つまり、『うつほ物語』は『竹取物語』と『源氏物語』のいわば“中継物語”なのですわ。

なるほど。。。文学史的にはそのような意味があるのですか。。。

あたくしは、そのように解釈しているのですわ。 ところで齋藤さんは、聖徳太子の母の名が「穴穂」が冠されていますので、穴穂で「うつほ」と著者の源順は充てていると考えています、と書いていますわね。 でも、上の記事には“穴穂”は出てきませんけれど、どのページに出てくるのでござ~♪~ますか?

上のページの次のページなのですよ。 その部分を書き出しますから卑弥子さんも読んでください。


聖徳太子のママの謎

当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。
太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。
間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことではないか!と、いうわけです。
太子が赤い髪の毛をしていたという伝承があります。この伝承に真実が隠されているのではないか?
もしそうだとするなら、太子の母親がペルシャ人であるということも決して荒唐無稽な事ではありません。

Family tree of Prince Shotoku (shotoku03.gif--366x617)

聖徳太子の父は用明天皇、母は蘇我稲目の孫娘です。
この稲目の父は高麗(こま)で、高句麗からやってきたのですが、実は
この人がペルシャのサカ族の出身だと言う研究家も居ます。
しかし、そんな遠いところにペルシャ人を持ってゆかなくてもよいのです。
私はその説よりも、むしろ穴穂部間人の母親、つまり小姉君(おあねぎみ)がペルシャ人の血を受け継いでいるのではないか、とみています。

もし当時、ペルシャ人が日本へやってきて、どの一族を頼りにするかといえば、当然、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の元を訪れたことでしょう。
その頃、渡来人を掌握していたのが蘇我氏だからです。
ペルシャ人の中には、蘇我氏との絆を確固なものにするために、蘇我稲目に娘を側室として差し出す親も現れたでしょう。
そのようにして穴穂部間人が生まれた、と考えるわけです。

小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自について日本書紀は沈黙しています。
なぜ沈黙する必要があるのか?
その答えを出すには誰が日本書紀を書いたかが分かれば簡単です。
天武天皇の息子の舎人親王が編集長だったと言うように書かれていますが、彼はむしろ発行人であり、実際に編集に当たっていたのは藤原不比等です。
藤原氏は、元、中臣氏ということで、日本古来の氏族となっていますが、不比等のおじいさんの御食子(みけこ)は百済からやって来ました。
従って、自分たちが「よそ者」であるということを書きたくなっかたように、穴穂部間人の出自についても沈黙していたのです。

では、なぜ、不比等は自分の名前を編集長として書紀に書かなかったのか?
それには、これまた事情があります。
そのことについてはこのページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で説明しています。

しかし、この説を採ると、飛び越えねばならないハードルがあります。
どういうことかというと、実は、小姉君の母親が物部氏出身と思える節があるのです。

というのは、当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるのが普通でした。
そして育った土地の名前をつける慣習がありました。
飛鳥で育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。
すると穴穂部間人皇女の穴穂も地名に由来することになります。
大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上にあります。
皇女がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なのです。

つまり小姉君は蘇我稲目の娘であると同時に、物部氏の娘でもあったのです。
しかも穴穂部間人皇女は物部の土地で成長しました。
しかし、ご存知のように、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立し、それまでの史上最大の戦闘を繰り広げました。
したがって、このようなことがあり得るだろうかと、あなたは疑問に思うかもしれません。

ところが、それ以前、朝廷で権力を握っていた大伴氏を退けるため、蘇我氏と物部氏は手を握り合ったことがあります。
どういうことかというと、小姉君は、蘇我氏と物部氏が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んでいた当時の産物ということになります。
「友情の証」として、蘇我稲目かあるいは彼の父親の高麗が自分の側室の中から美しいペルシャ人の娘を物部の氏の長者に与えたのでしょう。
このようなことは、この当時よくあることでした。
軽皇子(後の孝徳天皇)が小足姫(おたらしひめ)を中臣鎌足(藤原鎌足)に与えたのもこのような例です。
このことについては、このページ (藤原鎌足と軽皇子) で述べています。

そのお返しに、今度は、物部氏がペルシャ人の女性から生まれた娘を蘇我稲目の側室として与えたわけです。
その娘から生まれたのが小姉君だというわけです。
したがって、小姉君の体内にはペルシャ人の血が4分の1流れていたわけです。
彼女の娘が穴穂部間人皇女です。
確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになります。
太子が赤い髪の毛をしていたという伝承は、このことによって説明がつきます。

また、後に推古天皇を生む堅塩媛(きたしひめ)と小姉君の間の確執も、このことによっていっそう良く理解することができます。
つまり、この腹違いの姉妹は共に欽明天皇の後宮に入ります。
ところが、若くてきれいな小姉君へと天皇の愛は傾いてゆきます。
それも分かるような気がします。
エキゾチックなペルシャ人の血を引いている小姉君は、天皇の目には、さぞかし魅惑的に映ったことでしょう。

しかし、堅塩媛(きたしひめ)にしてみれば我慢のならないことです。
このようなことを身近に見て来た娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)も、当然、この混血児の叔母のことを良く思うはずがありません。
母親からずいぶんとグチをきかされたことでしょう。
この豊御食炊屋姫が推古帝です。

推古天皇は、後年、この小姉君の血を引き継いでいる皇子(聖徳太子も含めて)が天皇になることを極力避けようとしています。
推古帝の身になってみると、2重の意味でこのような皇子を排除したかったでしょう。
先ず「よそ者」の血が流れているということ。
しかも、この混血児の叔母のために、自分の母親がつらい目にあってきたということ。
このように考えてゆくと、つまり小姉君にペルシャ人の血が流れているとすれば、このあたりの事情が非常にすっきりと説明できます。

しかし、これだけに止まりません。
なぜ、聖徳太子は厩戸王子と呼ばれたのか?
母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本書紀などに見られます。
これはキリストの生誕を彷佛とさせます。
しかし、納得ゆくような説明が見当たりません。

ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居たことを考えると、このことも、非常にうまく説明がつきます。
では、次のページでもっと詳しくこのことを見て行こうと思います。




『聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた』より
(2003年8月3日)


 (すぐ下のページへ続く)
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