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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

チョー有名な三角関係(PART 1)

2014-05-28 16:32:27 | 日本史

 

チョー有名な三角関係(PART 1)

 


(bedrm03.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 なんだか おもろい画像でござ~♪~ますわねぇ~。 おほほほほほ。。。 でも、どうしてベッドルームが日本間なのでござ~ますか?


(kato3.gif)

だから、日本のお話ですよう。

ムカついている女性は、日本人には見えませんわ。。。んで、最近のお話でござ~ますか?

いや。。。 ずいぶんと昔の話ですよ。 卑弥子さんは最近の“チョー有名な三角関係”を知っているのですか?

いいえ。。。 あたくしは、そのような事には興味がござ~ませんわァ。

あれっ。。。 マジで。。。? 女性は、けっこう そういう事には興味があるじゃありませんかァ! 女性週刊誌が売れるのも芸能界の乱れた関係やゴシップが たくさん書いてあるからじゃないのですかァ?

。。。んで、ずいぶん昔の“チョー有名な三角関係”というのは、いったい誰のことでござ~ますかァ~?

卑弥子さんも良く知っている人物ですよ。 ちょっと次の和歌を読んでください。




茜(あかね)さす 

紫野行き

標野(しめの)行き 

野守(のもり)は見ずや 

君が袖振る

 

作者:

額田王(ぬかたのおおきみ)




現代語訳:

茜色の光に満ちている紫の野、

天智天皇御領地の野で、

あぁ、あなたはそんなに

袖を振ってらして、

野守が見るかもしれませんよ。


(violet3.jpg+spacer.png+bond010.gif)



あらっ。。。 このお歌は、あの有名な額田王(ぬかたのおおきみ)がお詠みになったものではござ~ませんかァ!



そうですよう。

懐かしいですわァ。 確か以前にデンマンさんは『日本で最も有名な三角関係』というタイトルで記事を書いていましたわね。


(lotus68b.jpg)

『日本で最も有名な三角関係』



。。。んで、どう言う訳で、また額田王のお歌を取り上げたのでござ~ますか?



あのねぇ~、実は夕べ本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのですよ。


「天智・天武」兄弟の争いか

『日本書紀』や『万葉集』はこの二人と額田王の関係を文芸的、映像的に描くが、歴史学者や文学研究者のなかにできすぎの話とする見解が増えてきた。

天智・天武兄弟説の矛盾には「大化の改新」でも触れたが、この二人をめぐる額田王の恋歌にしても早くから白川静、沢潟久治、池田弥三郎、山本健吉らによって否定されている。

短歌の文体も初期の漢詩体ではなく数十年後の文体であり、後世の造作の疑いが大きい。


(nukata09.jpg)

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




298ページ 『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治、伊ヶ崎淑彦、いき一郎
2012年8月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房




つまり、上の歌は額田王がお詠みになったのではなくて、誰か他の人が作ったというのでござ~ますか?



そうですよゥ。。。

。。。んで、デンマンさんも、そう思うのでござ~ますか?

そうです。。。 「大化の改新」だとか。。。 いろいろと考えてゆくと、この当時、不思議な謎が多すぎるのですよ。


(taika001.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/v6DnTVaLD0I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



「大化の改新」はマジでなかったのでござ~ますかァ?



もちろん「乙巳の変(いっしのへん)」という大事件はあったのですよ。 つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼしたのですよ。 でもねぇ~、その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行したことになっている。 でも、この一連の政治改革について、歴史研究者の間で、いろいろな疑問を投げかけている人がいるわけですよ。

上のビデオクリップは、その疑問についてのことでござ~ますか?

そういうことです。

。。。んで、額田王のお歌とされているものも、「大化の改新」と関係あるのでござ~ますか?

僕は関係していると思うのです。。。 だから、こうして また“チョー有名な三角関係”を取り上げたわけなのですよ。

分かりましたわ。。。 では、その訳をさっそく 伺いたく思いますわァ~。

あのねぇ~。。。 上の引用の中で次のように書いてあることに注目してください。


(bond010.gif)


『日本書紀』や『万葉集』は

この二人と額田王の関係を

文芸的、映像的に描くが、

歴史学者や文学研究者のなかに

できすぎの話とする見解が増えてきた。




できすぎの話というのは、いったい どういうことでござ~ますか?



つまり、あまりにも都合のいいような話ということですよ。

誰にとってでござ~ますか?

もちろん、天智天皇の後に政権の座につく天武天皇に都合のいい話になっているのですよ。

そうでしょうか?

だってぇ、そうじゃありませんか!? 上の歌を読む限り額田王が 後に天武天皇になる大海人皇子に惹かれているのがよく解る。 この歌を後世の我々が読むと、どうやら人間的に見て天智天皇よりも天武天皇の方がすぐれているのではないか! だから、額田王も天武天皇の方に惹かれているのではないか! 僕は、初めて上の歌を読んだ時に、そのような印象を持ったのですよ。 ところで、この時大海人皇子(後の天武天皇)は額田王の上の歌に答えている。



(murasaki2.jpg)

紫草(むらさき)の 

にほえる妹(いも)を

憎くあらば 

人妻ゆえに 

われ恋ひめやも




額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。


今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。

でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。

こんなに愛してしまっているんだよ。

もう、恥も外聞もないよ。

ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、

あのように手を振ってしまったんだよ。

分かるだろう?


こんな気持ちだと思うのですよね。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。

この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。

天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。

つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。

戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。

その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
大津宮は遷都からわずか6年余りで廃都となりました。

額田女王は“万葉の女王”で

あるにもかかわらず、

なぜ謎の女性なのか?



(seisho05.gif)



額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。

彼女はまた絶世の美女とも言われ、天智天皇・天武天皇に深く愛された。

激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。

あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。

なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?

額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?

僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。

叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。

では、マジになって。。。

あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。


(keizu03.gif)

この当時の実権を握っていたのは持統天皇と藤原不比等だったんです。
この二人の結びつきがこの系図にありありと表れています。
この二人の人物は政治的に2人3脚で律令政治を確立させて実施した同志だったんですよね。

『日本書紀』の編集長は誰か?
藤原不比等です。
壬申の乱の後、大海人皇子は天武天皇となった。
その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だった。
天武天皇はあれほど額田女王を愛していたのに!
なぜ?

あなたにも分かりますよね?
水面下で額田女王と持統天皇との女の確執がある。
額田女王は人から愛される性格だった。
それは、この女性が二人の天皇から愛されたことでも良く分かることです。

ところが持統天皇は人から愛されるような性格ではなかったのです。
持統天皇にしてみれば、同じ女として面白くあろうはずがない!

これは歴史家が誰も言っていないことですが、僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はない!
他に、このようなことを言う人も居ませんよ!

とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!

それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。


 (すぐ下のページへ続く)


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チョー有名な三角関係(PART 2)

2014-05-28 16:31:46 | 日本史



 

チョー有名な三角関係(PART 2)



(keizu03.gif)

上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたんですよ。

つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
つまり、幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。
このことについては、あとで詳しく書きたいと思います。

では、万葉集の中でこれだけ額田女王を輝かせたのは誰なのか?
それは、『万葉集』の編集長の大伴家持です。
ここで大伴家持の事を書くと長くなるので書きません。
すでに次の記事の中で詳しく書いたので関心のある人はぜひ読んでみてくださいね。

『性と愛と批判---万葉集の中の政治批判?』

大伴家持は反骨精神を持った人物です。
藤原不比等が横暴の限りを尽くしたことを苦々しく思っていた人です。
大伴家持自身も“藤原政権”に反抗して時の権力者によって“逮捕”され罰を受けたこともあります。
上の記事の中で、そのことも書きました。

つまり、持統天皇のごり押しによって、額田女王の記述が『日本書紀』の中にたった1行しか書いてないことも、大伴家持は苦々しく思っていたことでしょう。
『万葉集』は大和朝廷の正史ではありません。
だから、時の権力者は見逃してしまったのでしょうね。

「愛の歌を載せたんですよ。
政治とは関係ありませんからね。。。」

“発禁処分検閲官”が調べにやってきた時に、おそらく大伴家持はそう言ったでしょうね。

「まあ、そういうことならば、いいでしょう。。。」

馬鹿な検閲官は愛の歌と聞いて見逃してしまったのでしょうね。
でも、よく読めば、この相聞歌の裏には、生々しい政治的な“三角関係”が秘められている。
つまり、天智天皇が暗殺されて天武政権が出来上がって行く過程をこの相聞歌として万葉集に載せている。

『天武天皇と天智天皇は

 同腹の兄弟ではなかった』


『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

持統女帝は天智天皇の娘です。
しかし、崩壊家庭に生まれ育ったこの娘は、自分の母親とおじいさんがこの非情な父親のために死に追いやられたことを恨んでいました。
この娘は、父親に利用されて、腹違いの兄(弟ではない。実は兄)、大海人皇子の妻になるようにと言われて、実の姉と共に大海人皇子の妻になったのです。
でも、大海人皇子の心は上の歌でも明らかなように額田女王を愛している。

実の姉が亡くなり、名実ともに天武天皇の皇后になったけれど、夫の心は自分にはないと分かっている。
腹の中では夫に対しても、額田女王に対しても頭にきている!
天武天皇が亡くなる。
自分の血がつながっていない夫の子供たちには、何が何でも皇位を渡したくはない!
持統女帝として、自分で皇位を継ぐ。

同志の藤原不比等が『日本書紀』の編集長になる。
持統天皇は言ったはずす。

「あのね、史(ふひと)さん、額田女王のことは1行だけ書けばいいのよ。。。
あなたにも私の気持ちが分かっているわよね。。。」

「かしこまりました。そのように手配いたします。」

女帝と藤原不比等の会話はこのようなものだったでしょうね。

しかし、万葉集の編集長の大伴家持は反骨精神に燃えています。

おまえたちの思うようにはこの世界は動かんぞ!
読む人が読めば分かるように万葉集の中に真実を載せるだけさ!
いづれ、分かる時が来るさ!

僕は大伴家持のそのような呟(つぶや)きを聞きながら万葉集を読んでいます。 うへへへへ。。。。



(laugh16.gif)



(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますか?

古代史は遠い昔のことには違いありません。
でも、現代にも通じるような人間ドラマが秘められているように思うのでござ~ますわ。

そう考えながら読めば、新しい発見があるかもしれませんわ。
そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みください。

では。。。

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』

『海外飛躍遺伝子』

『ふるさとは遠きにありて…』

『芭蕉と遊女の出会い』

『芭蕉と遊女が…あれぇ~!』

『宮沢りえと3723人の観客』

『血のつながり』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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海外飛躍遺伝子 (PART 1)

2014-04-10 11:05:48 | 日本史
 
 
海外飛躍遺伝子 (PART 1)
 

(dna02.jpg)


(superm3.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 また奇抜な遺伝子を持ち出したのでござ~ますわねぇ。


(kato3.gif)

いけませんか?

だってぇ~、そのような遺伝子は遺伝子学会でも まだ認められていないのでしょう?

だから、仮説ですよ。 僕は、海外移住する人たちや 海外を放浪している人たちは この“海外飛躍遺伝子”を先祖から受け継いでいると思うのですよ。

それはデンマンさんの思い込みでござ~ますわ。

でもねぇ~、いつの日にか “海外飛躍遺伝子”が発見されると思うのですよ。

つまり、デンマンさんは百済に住んでいたご先祖様から “海外飛躍遺伝子”を受け継いでいると信じているのでござ~ますか?

その通りですよ。


デンマンの祖先は百済からやって来た


(oshi1.jpg)


(kato3.gif)

僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


(himiko22b.gif)

それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。 うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


(yang105.jpg)



。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?



そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


(burnamap2.gif)

バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


(burnamap3.gif)

この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


(deerlak3.jpg)


(house22.jpg)


(house23.jpg)



この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


(room007.jpg)

これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。



(chiwawa5.gif)

こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.


つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。



(miroku3.jpg)





『デンマンの祖先は百済からやって来た』より
(2010年8月4日)




どうですか、卑弥子さん。。。 ジューンさんの説明を聞いて納得がいったでしょう!



でも、科学的には、まだ“海外飛躍遺伝子”の存在が解明されていないのでござ~ますから ジューンさんのお話を伺っても あたくしには信じることができませんわァ。 第一、1400年前のご先祖様のことを現代人が知っているなんて考えられませんわ。

あのねぇ~、卑弥子さんだって、あの有名な橘三千代(県犬養三千代)を世に送り出した橘家の人間ではありませんか! 家系図がなくても、代々語り継がれてきたでしょう!?

確かに、あたくしも祖母から聞いたのですわ。 その祖母も“御祖母様から伺った話だよ”と言っておりましたわ。

。。。でしょう!? そのようにして遠い昔の出来事が代々語り継がれているものなのですよ。

そうでしょうか?

あのねぇ~、最近になって、僕もその思いを強くしたのですよ。

どういうことでござ~ますかァ~?

ちょっと次のメールを読んでください。



(yen0201.gif)

 (前略)

たまたま母と話しをしていたら、“行田の伯母さん”、つまり、デンマンさんのお母さんが入院したという事を聞いたのです。
私が、「どのような人なの?」と尋ねたら、
母には、とても優しくしてくれた人だということで、とても感激して話していました。

デンマンさんに初めて電話した時に、偶然にも「お葬式まで準備していたのに、母親が奇跡的に助かって。。。」というお話を聞いて、なんだか私の心まで暖かくなるようなお話だと思いました。
デンマンさんのお母さんは 人に優しくしているので “神様”が奇跡を起こしたのではないだろうか?
私は、そんな風に考えることができました。

もともと子供の頃から、私は海外に行くことと語学に憧れを抱いていました。
それでも本当にやりたいことを自分から行動に移せず、甘えた環境でずっと生きてきた自分を、今になって改めて考えるようになりました。
やりたいことをやらないと、一生、この思いは引きずるんだろうな?

このような思いに捉(とら)われていた時に 母が“行田の伯母さん”の長男に デンマンさんという人がいて、20代でカナダに移住し、今でもカナダで暮らしているという話を初めて聞いたのです。
その時、私の中で一気に込み上げてくる思いがありました。

実際こうして、親戚の方と、海を越えて、何十年越しにコンタクトをとれるというのは、私にとって信じられないほど嬉しい事です。
デンマンさんの“海外飛躍遺伝子”の記事を読んで、なんとなく素直に信じることができました。

 (後略)

by まり

2014年3月25日 午後10時20分




あらっ。。。 まりちゃんはデンマンさんに騙されて信じてしまったのでござ~ますか?



やだなあああァ~。。。 僕はまりちゃんを騙したわけではないのですよ。 事実を事実として伝えただけですよう。

。。。んで、まりちゃんのメールを持ち出してきて 駄目押しをするつもりだったのでござ~ますかァ?

いや。。。 そうではありません。 実は、【歴史ミステリー】の次のビデオ・クリップを見たのですよ。


 (すぐ下のページへ続く)



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海外飛躍遺伝子 (PART 2)

2014-04-10 11:04:46 | 日本史

 
 
海外飛躍遺伝子 (PART 2)



(japan407.jpg)

驚愕の"王の館"の全貌!

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/Y46oS_a3op0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



この“王の館”がどうだと言うのでござ~ますか?



僕の母親の実家は南河原村(現在、行田市に編入)の犬塚という地区にある旧家なのですよ。 その本家筋に当たる家が南河原村の“西新井”という所にあって、僕の叔母(九条多佳子)が子供の頃に祖母に連れられてよく遊びに行ったと言うのです。

その本家がどうだと言うのですか?

その本家は、ものすごく大きな家で、塀に囲まれ、さらに堀を廻(めぐ)らしてあったと言うのです。 つまり、“王の館”にそっくりだったと言うのですよ。

デンマンさん! いい加減にしてくださいましなァ。。。 そのお話が本当だったとしても時代が違うではござ~ませんかア! “王の館”は6世紀から7世紀のお話ですわ。

もちろん、時代が違うことを僕は理解していますよ。 僕が言いたいのは、その本家の祖先は高句麗からやって来たということなんですよ。

マジで。。。?

もちろん、僕は大真面目ですよ。 このような時にウソやデマカセを言うことはできません。

でも、その証拠があるのですか?

あるのですよ。 あのねぇ~、埼玉県日高市に高麗神社(こまじんじゃ)というのがあるのです。


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(koma001.jpg)



この神社が証拠なのでござ~ますか?



そうですよ。 716年に武蔵国に高麗郡が設置されたのです。 現在では、日高市・鶴ヶ島市のそれぞれ全域と、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡にあたるのですよ。

その高麗神社がデンマンさんのお母様のご本家とどのような関係があるのでござ~ますか?

あのねぇ~、668年に唐・新羅の連合軍に高句麗は滅ぼされてしまったのです。 だから、高句麗の人は多くの人が難民となって日本に亡命したのです。

それで、その人たちが現在、埼玉県にある、昔の“高麗郡”に移住したというのでござ~ますか?

その通りですよ。 703年に 高麗若光が朝廷から王姓が下賜されたという話が伝わっているのです。 この高麗若光も朝廷の命により高麗郡の設置にあたって他の高句麗人とともに高麗郡の地に移ってきたのです。 そして、この高麗神社は、この高麗若光を祭っているのですよ。

つまり、デンマンさんのお母様の祖先は高麗若光なのですか?

いや。。。 直系の祖先でないとしても、高麗若光と同じ頃に高句麗から共にやって来た人たちの内の一人ということですよ。 だから、未だに高麗神社にお参りに行きます。

つまり、デンマンさんの体内には 百済からやって来た父系の血と 高句麗からやってきた母系の血が流れていると言いたいのですか?

そうですよ。 しかも、その血の中には“海外飛躍遺伝子”が息づいているのですよ。 それで、今の僕は歴史的に見れば百済と高句麗から埼玉県にたどり着き、さらにバンクーバーに流れ着いたと言うわけですよ。


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(japan405.jpg)


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どうですか、卑弥子さん。。。 これで“海外飛躍遺伝子”が僕の家系に息づいていることを信じることができるでしょう?



イマイチでござ~ますわァ。

じゃあ、駄目押しに、もう一つのエピソードを。。。 僕の叔母(九条多佳子)の事は、僕の記事にもたびたび書いたのですよ。

『九条多佳子の出てくる記事』

その叔母様がどうだと言うのでござ~ますか?

その娘に加奈子という僕の従妹がいるのです。 この加奈子は埼玉県北本市の中学を卒業すると バンクーバーの私立高校に留学したのですよ。

それで。。。?

高校を卒業すると、日本のテンプル大学に入学したのだけれど、どうしても馴染めないと言うので、1年で退学。 アメリカのオハイオ大学に入りなおして、卒業してからは香港とシンガポールで重役秘書として働き、その後 日本の外資系の会社の副社長の秘書になって、その秘書に見初められて結婚して現在ではシアトルに住んでいるのですよ。

あらっ。。。 バンクーバーから車で2時間ほどの町ではありませんか!

そうですよ。 郊外にはマイクロソフトの本社があります。

つまり、デンマンさんの家系には“海外飛躍遺伝子”が流れていると言いたいのですわね。

それもあるけれど、叔母が嫁いだ九条家というのは、百済からやって来た藤原氏の家系なのですよ。

あらっ。。。 マジで。。。?

藤原北家嫡流の藤原忠通の三男である九条兼実を祖とする家系ですよ。

つまり、加奈子さんの体内には百済からやって来た藤原氏の血も流れていると言いたいのでござ~ますか?

いや。。。 藤原氏の血はどうでもいいのです。 加奈子の体内には“海外飛躍遺伝子”が2重にも3重にも組み込まれていると言いたいのですよ。

信じられませんわ。

“信じる者は救われる!”と昔の人は言いましたからねぇ~。。。 卑弥子さんも信じた方がいいですよ。



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ですってぇ~。。。
あなたは 信じることができますか?
1400年も昔のことを穿(ほじく)り返しても、どうなることではありませんけれど。。。、

でも、たまには古代の日本について考えてくださいまし。
あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みください。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』

『軽井沢夫人@日本王国』

『都知事になれなかった男』

『落選男の正体?』

『カナダはカエデの国なの?』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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軽井沢夫人@日本王国(PART 1 OF 3)

2014-03-27 17:00:29 | 日本史
 
 
軽井沢夫人@日本王国(PART 1 OF 3)
 

(yang105.jpg)


(japan202.jpg)




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デンマンさん。。。 小百合さんが日本王国の軽井沢夫人なのでござ~♪~ますかァ~?


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あれっ。。。 ひょっとして卑弥子さんは不満なのですかァ~?

不満とか何とかと言うことよりも、史実に照らして間違っていることをネットで広めることは公共の利益と福祉に反しているのでござ~ますわア。

やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは急に堅苦しいことを言うのですねぇ~。。。 僕が卑弥子さんの顔を上の“軽井沢夫人”の顔に嵌め込まなかった事が不満なのですかァ~?

そうじゃありませんわア! 間違った史実をネットで広めることは青少年の教育上 良くないと申し上げているのでござ~ますう。 第一、“日本王国”などという いかがわしい名称は歴史の教科書には載っていませんわ。 それに、“軽井沢夫人”が“大和王権”があった時代に居たわけがないじゃござ~♪~ませんかァ!

あのねぇ~、卑弥子さんは思い込みが激しいのですよ。 古代日本史は、この20年の間に かなりの部分が塗り替えられようとしているのですよ。

つまり、大和王権よりも強大な“日本王国”が存在したと デンマンさんは、マジで信じているのでござ~ますか?

もちろんですよ。 卑弥子さんは知らなかったのですか?

何をでござ~ますか?

だから、大和王権よりも強大な“日本王国”が存在したことをテレビでやっていたのですよ。 ちょっと次のビデオ・クリップを見てください。


(japan099.jpg)

【歴史ミステリー】謎の日本王国

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/lD66jIzlz_w" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



あたくしは【歴史ミステリー】のようなものを信じておりませんので、こういうテレビ番組は見ないようにしているのでござ~ますわ。



あのねぇ~、卑弥子さんは 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授なのですよ。 まがりなりにも日本文化を教えている教育者が日本の歴史について無関心だということは許されないことですよゥ。

でも、【歴史ミステリー】という番組は、結局のところ 民放の“お馬鹿番組”に毛を2,3本生やしたようなものなのでしょう!?

確かに、僕も初めは馬鹿にして見ていたのですよ。 でもねぇ~、民放が作った番組で コマーシャルが入っているからといって、一概に馬鹿にできないのですよゥ。 けっこう、なるほどと思わせるような“発見”があるのですよ。

たとえば。。。?

次の「旧唐書(くとうじょ)」ですよ。


(japan100.jpg)


(japan101.jpg)



古代史を勉強した人ならば、「旧唐書(くとうじょ)」を知らない人はいないのですよ。 しかも、「日本國者倭國之別種也」と確かに書いてある!



日本語に訳すと「日本國は倭國の別種なり」ということになるのでござ~ますか?

そう解釈する人もいるけれど、「日本國からやって来た者は倭國からやって来た人とは別種なり。 つまり、別々の2つの国からやって来たのだ」とも解釈できる。 いずれにしても「日本國」と「倭國」は違うと言っているのですよ。

でも、関東地方に日本国があったなんてぇ学校の歴史の時間に勉強しませんでしたわ。

あのねぇ~、日本史は時間と共に書き換えられているのですよ。 現在では『日本書紀』に書いてあることをそのまま史実として受け止めている歴史学者は皆無に近い。

つまり、『日本書紀』にはデタラメが書いてあるとデンマンさんは言うのですか?

いや。。。 僕が言っているのではありませんよ。 卑弥子さんは『源氏物語』を講義しているのでしょう! 紫式部も「蛍の段」で、“玉かづら”に対して光源氏に次のように言わせている。


(yang04.jpg)

「にほん紀などはただ片そばぞかし」

(日本書紀はただの作り物です)




あらっ。。。 マジで そのようなことが書いてあるのでござ~ますか?



今夜、もう一度『源氏物語』を読み直してくださいよ。 それに、西園寺公望は貴族のトップにいて 第2次大戦まで昭和天皇の首相推薦にかかわっていた。 この要人中の要人が日記に次のように書いていたのですよ。


(saionji.jpg)

西園寺公望(1849-1940)

「(古事記や日本書紀のような)

妄誕(もうたん)の書(でたらめの書)を

重んずるごときは大いに国に損あり」




あらっ。。。 日本を動かしていたような人物が、そのようなことを書いていたのでござ~ますか?



だから、最近では、『古事記』や『日本書紀』には、出鱈目な事も書いてあると疑って読まないといけないと、歴史家も考えるようになっているのですよ。

でも、倭國という名前が 蔑(さげす)まれているような名称だから “日の出る所” つまり、「日本國」に名前を変えたと歴史の時間に学びましたわ。


(japan102.jpg)



だから、それが出鱈目な事の一つなのですよ。 倭國とは別に「日本國」、番組では「日本王国」があったと言うのですよ。



どこに。。。?

僕の実家の近くに。。。


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僕が生まれ育った行田市には「さきたま古墳群」という古墳がたくさんあるのですよ。


(japan104.jpg)



しかも、古墳の数も大和王権よりも多い。


(japan200.jpg)



さらに、60メートル以上の前方後円墳も日本王国の方が断然多いのですよ。


(japan201.jpg)



。。。んで、どのようなわけで小百合さんが“軽井沢夫人@日本王国”として登場しなければならないのでござ~ますか?



あれっ。。。 やだなあああァ~。。。 卑弥子さんは、もう忘れてしまったのですか?

何をでござ~ますかァ~?

次の小百合さんからのメールですよ。 卑弥子さんも読んだでしょう!?




(valent5.jpg)

Subj:ハッピー、バレンタイン!


(sayuri55.gif)

日本時間: 2014年2月14日(金)午前9時9分
Date: Thurs. 13/02/2014 16:09
(バンクーバー時間)
Pacific Standard Time
From: sayuri@hotmail.com
To: denman@coolmail.jp
CC: barclay1720@aol.com


デンマンさん、お元気ですか?
早いものですね。
去年の10月にお会いしたと思っていたら、もうバレンタインですね!

“ルート66の奇跡”でデンマンさんは死ぬほど驚いたようですが
ちょっとオーバーですよ。


(r66.gif)
 

(r66c.jpg)


(r66d.jpg)

『ルート66の奇跡』

でも、デンマンさんのおかげで
日本では手に入らないアイリッシュ・クリーム・フレーバーの待望のコーヒーがいただけて
懐かしいバンクーバーを思い出しながら
香りと味を充分に楽しみましたわァ。


(gog30609b.gif)
 
デンマンさんが滞在した1ヶ月は
“光陰矢のごとし”
なんだか アッという間に過ぎてしまったような気がします。

「さきたま古墳公園」でのピクニックが昨日のように
思い出されます。

私が「ツナ缶のLemon味も忘れずに!」とメールに書いたので
デンマンさんが わざわざlemon-pepper味のツナ缶を
日本へ持ち帰ってくれました。
ありがとう!


(sakitama95.jpg)


(sakitama98.jpg)


(sakitama97b.jpg)

10月16日の水曜日は、とっても天気がよくて
まさに秋晴れの行楽日和でした。
デンマンさんが lemon-pepper 味のツナをのせた“カナペ”を作ったのには驚かされましたよ。


(canape05b.jpg)


(sakitama99.jpg)



私も ウキウキして白ワインなどを持ち出して
“とっても美味しいわァ! 素敵だわァ~!”なんちゃってぇ~。。。 
うふふふふふ。。。

。。。というわけで、お返しと言っては何ですけれど、
デンマンさんのためにバレンタインの小包を
船便で送りました。

ちょっと遅れるかもしれませんけど
近いうちにお手元に届くと思います。

\(*^_^*)/

では。。。




『失われたバレンタイン』より
(2014年3月23日)



 (すぐ下のページへ続く)


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軽井沢夫人@日本王国(PART 2 OF 3)

2014-03-27 16:59:48 | 日本史



 
 
軽井沢夫人@日本王国(PART 2 OF 3)




どうして。。。、どうして、バレンタインが日本王国と関係あるのですかァ~?



いや。。。 バレンタインが関係あるんじゃなくて、「さきたま古墳公園」で小百合さんと僕が一緒にピクニックをしたということが関係あるのですよ。

どうしてで ござ~ますか? たまたま小百合さんとデンマンさんが去年の秋に「さきたま古墳公園」でピクニックをしたという偶然ではありませんか!

それが偶然ではない!

どういうことでござ~ますか?

次の記事を読んでみてください。


デンマンの祖先は百済からやって来た


(oshi1.jpg)


(kato3.gif)

僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。


(himiko22b.gif)

それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか?

後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。 つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。

つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね?

難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。

それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか?

そう言う事ですよう。

。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか?

そんなモノは残っていませんよう。

。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか?

僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。

その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか?

“海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。

つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか?

全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。


(yang105.jpg)



。。。んで、小百合さんの祖先も百済からやって来て武蔵国に定住したのでござ~♪~ますか?



そうですよう。おそらく、百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったけれど、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって一緒に武蔵国まで行ったのですよう。

どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか?

小百合さんの実家は館林にあるのですよう。僕の実家から車で20分から30分ですよう。目と鼻の先ですよう。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんは日本で小百合さんにお会いした事は無かったのでござ~♪~ますか?

不思議な事に小百合さんと僕が初めて出会ったのはカナダのバーナビー市で小百合さんが13年間借りていた“山の家”だったのですよう。


(burnamap2.gif)

バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。


(burnamap3.gif)

この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に小百合さんが借りていた“山の家”があるのですよう。


(deerlak3.jpg)


(house22.jpg)


(house23.jpg)



この家でデンマンさんは10数年前に小百合さんと初めてお会いになったのでござ~♪~ますか?



そうですよう。次のように小百合さんの“山の家”の応接間で会ったのですよう。


(room007.jpg)

これって、またデンマンさんがコラージュしてでっち上げたのでござ~♪~ますわね?

確かに、上の写真は僕がでっち上げたのだけれど、現実でもねぇ、僕は、こうやって小百合さんと会ったのですよう。

でも、どうして小百合さんの祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たと分かるのですか?

小百合さんの DNA にも“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですよう。僕と同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、小百合さんは佐野からカナダのバーナビーに渡ったわけですよう。そして僕と“山の家”で出会ったのですよう。

ただ、それだけの事でござ~♪~ますでしょう?

ただ、それだけじゃないですよう。ちょっとジューンさんの言ったことを思い出してくださいよう。



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こんにちは。ジューンです。

袖触れ合うも他生の縁

(そでふれあうもたしょうのえん)

聞いたことがあるでしょう?

なかなか味わいのある諺ですよね。

袖が触れ合うようなちょっとしたことも、

前世からの深い因縁によって

起こるものである、と言う事です。

わたしは、初め、“袖触れ合うも多少の縁”

だと思ったのですわ。うふふふふ。。。

つまり、袖が触れ合ったのは、

全く偶然ではなくて、少しは

そうなる運命にあったのよう。。。

私は、そのように思い込んでいたのです。

でも、「多少」じゃなく「他生」だと。。。

「他生」というのは「前世」の事だと、

デンマンさんに教わったのですわ。

調べてみたら、「他生」とは

「前世」と「来世」の事を言うのですって。

上の諺では、文脈から

「前世」となる訳ですよね。

この世の事は「今生(こんじょう)」と言うのです。

そう言えば「今生の別れ」と言う語句を

何度か耳にしたことがありました。

仏教の輪廻(りんね)と

関係のある諺なのでしょうね。

わたしは英語には、この諺は

無いと思っていたのですけれど、

調べてみたら、次のようなものがありましたわ。

A chance acquaintance

is a divine ordinance.

Even a chance meeting is

due to the karma in previous life.


つまり、「偶然の出会いは神の定め」

と言う事なのです。

多分、日本の諺を英訳したのでしょうね。

カナダでは耳にしたことがありませんわ。



(miroku3.jpg)





『デンマンの祖先は百済からやって来た』より
(2010年8月4日)



 (すぐ下のページへ続く)

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軽井沢夫人@日本王国(PART 3 OF 3)

2014-03-27 16:59:06 | 日本史

 
 
軽井沢夫人@日本王国(PART 3 OF 3)




つまり“海外飛躍遺伝子”というようなバカバカしいものを信じろ!と、デンマンさんは言うのでござ~ますか?



違いますよ。 僕の先祖は唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だったのですよ。

その事と日本王国が関係しているのですか?

もちろんですよ。 あのねぇ~、古墳の中からは“馬冑(ばちゅう)”が出土するのですよ。


(japan105.jpg)



更に、馬の埴輪(はにわ)もみつかる。


(japan106.jpg)



要するに、日本王国には“騎馬軍団”が居たということですよ。



デンマンさんのご先祖様も その騎馬軍団の中に居たと言うのでござ~ますかァ~?

当然そうなるでしょうねぇ~! 次のクリップを見ると僕の先祖が出てきますよ。


(japan204.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/CvPefBAWW7g" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



お馬さんに乗っているのがデンマンさんのご先祖様でござ~ますか?



そうです。 卑弥子さんは信じられないのですか?

信じられませんわ。

“信じる者は救われる!”と昔の人は言ったでしょう!? 信じた方が幸せになれますよ。



(laugh16.gif)



(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
あたくしは イマイチ信じられませんわ。

興味があったら次のビデオ・クリップもご覧になってくださいませぇ。

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/4F46XJs79js" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

<iframe width="420" height="315" src="//www.youtube.com/embed/Y46oS_a3op0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>

たまには、あなたも古代の日本の歴史について 覗いてみませんか?
平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


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(sayuri5.gif)

ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』

『外人に乗っ取られた日本?』

『失われたバレンタイン』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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外人に乗っ取られた日本?(PART 1)

2014-03-20 16:47:13 | 日本史

 
 
外人に乗っ取られた日本?(PART 1)
 

(5men5.gif)


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(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 日本がアメリカ人に乗っ取られたと言うのでござ~♪~ますかァ~?


(kato3.gif)

あのねぇ~、確かに、この10年で 日本の大会社の社長の椅子には 外人社長がたくさん座っていますよねぇ~。。。 20年前には考えられなかったことですよう。

でも、財務省だとか、文部科学省だとか、防衛省。。。 日本の省庁の官僚には外人はいませんわ。

うん、うん、うん。。。 確かに、日本の官僚は日本人が占めていますよ。

だったら、日本が外人に乗っ取られたと言うのは言い過ぎではござ~ませんかァ?

あのねぇ~、僕は現在の日本のことを話そうとしているのではないのです。

じゃあ、いつの日本のことですかァ~?

たまたま ネットをサーフィンしていたら 次のビデオ・クリップにぶち当たったのですよ。


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【歴史ミステリー】大化の改新はなかった?

<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/v6DnTVaLD0I" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



あらっ。。。 大化の改新はなかったというのは ホントでござ~ますか?



あのねぇ~。。。 何を以(も)って「大化の改新」と言うのか? それによって答えはイエスともノーともなるのじゃないか!?。。。と僕は思うのですよ。 645年に「乙巳(いっし)の変」という事件が起こった。 蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともできるのですよ。

でも、たいてい クーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」だと言われていると思いますわ。

あれっ。。。 卑弥子さんは けっこう詳しいのですね。。。

だってぇ、その程度の事は学校で教わりましたわ。

とにかく、僕も いろいろと調べてみたのだけれど、この いわゆる「大化の改新」には謎が多いのですよ。 それで、上のテレビ番組でも【歴史ミステリー】として取り上げているわけですよ。

でも、当時の日本が外人に乗っ取られていたなんて、上のビデオ・クリップでは一言も触れてないでしょう!?

その通りです。 日本が外人に乗っ取られていたなんて言ってません。

それなのに、デンマンさんは当時の日本は外人に乗っ取られていたと主張するのですか?

そうですよ。 当然のことですよ!

でも。。。 でも。。。 そのような事を学校では教わりませんでしたわ。

でもねぇ~、証拠はたくさんあるのですよ。 ほとんどの人は知らないだけなのですよ。 あるいは、認めようとしないのですよ。

その証拠というのは。。。?

例えば、上のビデオ・クリップでも次のように説明していますよ。


(fujiwa90.jpg)



「乙巳(いっし)の変」を決行した重要人物は二人。 後の天智天皇になる中大兄皇子と中臣鎌子(鎌足)ですよ。 この中臣鎌足は後に藤原氏の姓をもらうわけです。 この鎌足の次男が藤原不比等ですよ。 不比等の4人の子供たちが藤原四兄弟として、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となったわけですよ。 つまり、この時から藤原氏は 日本史の表に出たり裏に引っ込んだりしながら、日本を牽引(けんいん)してゆくのですよ。



でも、鎌倉幕府が出来てからは藤原氏は没落したのでしょう!?

表面的には没落したように見えるけれど、裏では影響力を現在まで持ち続けたのですよ。

マジで。。。?

あのねぇ~、藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を名乗ったけれど、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかったのですよ。 でもねぇ~、例えば戦前に総理大臣になった近衛文麿は、この「近衛」家の歴代の当主のひとりですよ。

あらっ。。。 そうだったのでござ~ますかァ~?

藤原氏は、日本では皇室に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系ですよ。 指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、徳川家正は従弟にあたる。 また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕や、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務める近衞忠は近衛文麿の孫にあたるのです。

でも。。。、でも。。。、この藤原氏の祖先は マジで外人だったのでござ~ますかァ?

当然でしょう!

当然でしょうってぇ~、学校ではそのようには教わりませんでしたわ。

もちろんですよ。 戦前の皇国史観が戦後もある分野では根強く残っていましたからね。 それに、大化の改新当時はどうであれ、今では近衛文麿を外人だと思う人は、この日本には誰もいないでしょう! でもねぇ、藤原鎌足は外人だった。

あらっ。。。 マジで。。。?

それに、卑弥子さんの祖先も外人だったのですよ。

あらっ。。。 そのような事は母からも父からも聞いてませんわア。

やだなあああァ~。。。 だってぇ、京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授の祖先は藤原不比等の妻になった橘三千代(県犬養三千代)なのですよ! それに、僕の祖先も百済からやって来ましたからね。 


(himiko40.gif)

『デンマンの祖先は

百済からやって来た』




やはり、僕の祖先も 元をただせば外人だったのですよ。



。。。で、藤原鎌足が外人だという証拠は。。。?

そのことなら、僕はかつて記事に書いたのですよ。 ちょっと次の小文を読んでみてください。


『日本書紀』に隠された真実の声

この事件(乙巳の変)の後で、現場に居合わせた古人大兄皇子は人に語って言います。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 

しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
下の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。


(korea03.gif)

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、次のページを用意しました。ぜひ読んでください。


(fuhito02.jpg)

『藤原氏の祖先は

朝鮮半島からやってきた』


『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。

執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。



(fuhito03.jpg)

「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」


(yakunin8.jpg)

「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」

「彼は韓からやって来たのかね?」

「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」

「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」

「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。何か具合の悪いことでも?」

「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」


恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。


(shotoku03.gif)

執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
しかし、中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。

古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。

このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
後世、長屋王が無実の罪を着せられて藤原氏によって自殺へ追い込まれますが、このやり方なども、古人大兄皇子が殺害された経緯と本当に良く似ています。




『韓人(からひと)」とは誰か?』より
(2003年9月24日)




でも、たとえ、藤原家の祖先が百済からやって来たとしても、それだけで当時の日本が外人に乗っ取られたと言うのは、言い過ぎぎだと思うのでござ~ますわァ。



あのねぇ~、他にも証拠があるのですよ。 藤原家の祖先だけが外人ではなかったのですよ。 当時の政府には大臣や官僚に多くの外人が就いたのです。 次の小文を読んでください。


人類学者 埴原和郎(1928-2004)は80年代に日本列島の古代の人口増が同じ農耕民族とくらべて著しく大きいことに気付き、つぎのような仮説を発表した。

人口推計は小山修三(国立民族学博物館)のコンピューターシミュレーションを使用し、縄文晩期から古墳時代終末期の700年ごろまでの千年間の人口が著しく増えたことを分析した。


75,800人から 5,399,800人 (人口千年間に 70倍)

世界農耕民は年 0.1%  日本は 0.427%

社会増がある --- 移民(渡来人) 3,000,000人 ほど

7世紀住民構成 縄文直系 1 - 渡来 25

平均増加率 0.1 ~ 0.2 として 渡来系 1,500,000人以上

縄文系対渡来系 最終的に 1 対 8.6




(『科学朝日』 1988年2月号)


ここで近江政権をざっと見ておこう。
663年、白村江の敗戦の後に那津(博多)をへて近江に作られた新政権はきわめて百済色の濃いものであった。
(日本書)紀によれば、翌年に百済王善光らを難波に住ませたとあり、ここまでの百済渡来(亡命)要人と併せるとひとつの政府幹部を構成するほどで、近江国に移住させた例で神前郡に男女400人(665年)、蒲生郡に700人(669年)と記した。

 (中略)

彼らは軍参謀、法務官、文部大臣を占め、近江政府からの叙勲、任官は50人を超えている(671年)

中大兄は668年になって(天智天皇として)即位した。
四男十女があった。
後の持統、元明の両女性天皇、大友王子(明治になって弘文天皇と追称)をふくむ。
なお、中大兄は葛城王子と称したが、この通称は高句麗系か。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




40ページ、298-299ページ
『ゼロからの古代史事典』
編著者: 藤田友治 伊ヶ崎淑彦 いき一郎
2012年8月10日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 ミネルヴァ書房




7世紀住民構成 を見てくださいよ。 縄文直系 1 - 渡来 25 ですよ。 渡来人が現日本人(アイヌの人たち)の 25倍ですよ。 当然のことながら、当時の首都圏に渡来人が集中して住んだでしょう! なぜなら、この人たちは文字を読んだり書いたりすることが出来る。 だから、多くの渡来人が小役人になった。 それで、都周辺には渡来人があふれていたのですよ。



つまり、アメリカ史で言えば、メイフラワー号に乗ってアメリカにやってきた英国人が やがて土着の原アメリカ人(インディアン)を西部に追いやって、東部に13州のアメリカ政府を作ったよなものだと、デンマンさんは言うのですか?

その通りですよ。 日本では渡来人が九州から関東に住むようになり アイヌ人たちを東北に追いやったのですよ。

要するに、歴史は繰り返すということですわね。

その通りですよ。


 (すぐ下のページへ続く)

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外人に乗っ取られた日本?(PART 2)

2014-03-20 16:46:27 | 日本史

 
 
外人に乗っ取られた日本?(PART 2)
 


(laugh16.gif)



(himiko22.gif)

確かに、中大兄王子が668年に天智天皇として即位した頃は、
ジョージ・ワシントンが大統領になった頃と よく似ているかもしれませんわね。
その後、アメリカでは西部劇で見るように インディアンは西部に追いやられて、騎兵隊と戦いを続けることになります。

日本では、790年 「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、794年に「征夷大将軍」として節刀を授けられたのでござ~ます。
大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、796年に鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌年、征夷大将軍に昇格したのですわ。
坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為(アテルイ)を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定したことになっています。

朝廷側の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれました。
平安時代前期(9世紀)になると、畿内朝廷は蝦夷に対する直接の征服活動を諦め、畿内朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止します。
その後は、現地の朝廷官僚や大和化した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったのです。
朝廷側に降伏しないアイヌ人たちは最期の地として北海道に移住しました。

たまには、あなたも古代の日本の歴史について 覗いてみてくださいませ。
平安史、古代史の記事を用意しました。
ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』

『兄妹の恋と大乱』

『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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兄妹の恋と大乱(PART 1)

2014-02-12 18:45:23 | 日本史

 
 
兄妹の恋と大乱(PART 1)
 

(karu013.jpg)


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(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 今日は なんだかメチャ悩ましい話題と残虐な話題のかけ合わせでござ~ますわねぇ~。。。


(kato3.gif)

京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授には極めてふさわしい話題だと思うのですが どうですかァ?

「兄妹の恋」なんてぇ~、なんだか胸騒ぎがしてきましたわァ。 うふふふふふ。。。

卑弥子さんにも そのような経験があるのですか?

残念ながら、あたくしは女ばかり3人で育ちましたから、そのようなワクワクする経験はござ~ませんわァ。。。んで、今日の“兄と妹の恋”というのはデンマンさんと妹さんの恋でござ~ますかァ?

いや。。。 僕も残念ながら、男ばかり3人の兄弟で育ちましたからねぇ、“兄と妹の恋”というのは望んでもかなえられない恋なのですよ。

じゃあ、いったいどなたの禁断の恋なのでござ~ますかァ?

卑弥子さんも、実は、知っているはずですよ。

あらっ。。。 あたくしが知っているはずの禁断の恋ざ~ますかァ?

あの有名な木梨軽皇子と実の妹の軽大娘皇女の恋ですよ。


兄妹の恋


(karu013.jpg)

木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。

『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。


(tokuko05.jpg)

その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)

『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。

四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。




出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




でも、“大乱”というのは どういうことでござ~ますか?



あのねぇ~、たいていの人が“兄妹の恋”に気をとられて、その裏事情を全く忘れさっているのですよ。

その裏事情というのが“大乱”なのでござ~ますか?

そうですよ。。。 実は、僕も最近まで知ってはいたけれど、それほど大きな大乱だとは思っていなかった。 やっぱり、“兄妹の恋”の方に気をとられていたのですよ。

。。。んで、その大乱というのはどういうことでござ~ますか?

ちょっと次の図を見てください。


(ingyo.gif)



これは木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)の家族関係を図示したものですよ。



あらっ。。。 自殺した人と殺された人がたくさんいるではござ~ませんかア! 木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)には どうして自殺マークと他殺マークが付いているのでござ~ますか?

『古事記』によると木梨軽皇子は伊予国へ流されて、あとからやって来た軽大娘皇女と心中したことになっているのですよ。 でもねぇ、『日本書紀』では、伊予国で弟の穴穂皇子によって殺されたことになっている。

どちらが正しいのでござ~ますか?

僕の考えでは木梨軽皇子は穴穂皇子によって殺されたと思いますねぇ~。。。

デンマンさんはどうして、そう思うのでござ~ますかァ?

上の殺人事件を見てゆくと権力闘争に絡んで、お互いが不信と猜疑にかられて、殺し合いに発展して行ったのが手に取るように解るのですよ。 まず、安康天皇というのが問題な男なのです。

どのように問題なのでござ~ますか?

安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令したのですよ。

上の図で見ると安康天皇は仁徳天皇の孫ですから、大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母にあたりますわね。

その通りですよ。

つまり、安康天皇は叔父さんに命令して叔母さんを雄略天皇の妃に差し出すように言ったということでござ~ますかァ?

その通りですよ。

それも現在では近親相姦ですわよねぇ!?

そうです。  

仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら)を横取りするために、安康天皇に「大草香皇子は拒否した」とウソついたのです。 それで、安康天皇は怒って大草香皇子を殺してしまった。

あらっ。。。 叔父さんを殺してしまったのでござ~ますか?

そうなのですよ。 しかも、叔父さんの妃である中蒂姫命を奪って自分の皇后にしてしまった。 ところが、中蒂姫には大草香皇子との間に産まれた眉輪王(まよわのおおきみ)という子供があった。 この子を連れて安康天皇の所へ行ったのです。

つまり、連れ子ですわね。

そうですよ。

お父さんを殺された眉輪王は安康天皇を憎んでいたでしょうね!?

その通りですよ。 案の定、眉輪王は安康天皇を殺してしまったのですよ。

あらっ。。。 マジで。。。?

当時は、まだ大泊瀬稚武皇子と呼ばれていた後の雄略天皇は この暗殺事件を聞いて驚いた。 もしかすると自分も殺されるのではないか? そう思ったのですよ。 それで眉輪王は、まだ幼かったから一人では殺さなかっただろうと。。。 兄たちを疑ったのですよ。

それでどうしたのでござ~ますか?

後に天皇になる大泊瀬稚武皇子は八釣白彦皇子が暗殺の黒幕だと疑い、まず八釣白彦皇子を生き埋めにして、殺した。 『古事記』の表現では、腰のところまで土をかけて埋められる途中で、両目が飛び出して死んだらしい。 

そういうことがマジであるのでござ~ましょうか?

現代医学的では説明できない不思議な現象だそうです。

それで、その後 大泊瀬稚武皇子はどうしたのでござ~ますか?

めんどうなので、境黒彦皇子と眉輪王も殺そうとしたのですよ。 殺されてはたまらないから、この2人は葛城氏の葛城円大臣宅に逃げ込んだ。

それで。。。?

後の雄略天皇になる大泊瀬稚武皇子は、ついでだと思ったのか、3人とも焼き殺してしまった。

あらっ。。。 雄略天皇というのは、ずいぶんとむごい人なのでござ~ますわねぇ~!

この時点で、自分が天皇になろうという野望を持っていたらしい。 さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子と その弟の御馬皇子(みまのみこ)をも殺して、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いたのですよ。

それで、叔母さんはどうなったのでござ~ますか?

大王に即位すると、叔母さんの草香幡梭姫皇女を皇后にしたのです。 つまり、このような血なまぐさい事件が“兄と妹の恋”の裏に隠されているわけなのですよう。

あらっ。。。 何人も殺した挙句に近親相姦で叔母さんと結婚した雄略天皇は オナラのツッパリにもならないような“兄と妹の恋”にカモフラージュされていたのですわねぇ!?

そういうことなのですよ。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)



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兄妹の恋と大乱(PART 2)

2014-02-12 18:44:44 | 日本史

 
 
兄妹の恋と大乱(PART 2)
 



(himiko22.gif)

ですってよう!
大変な歴史が日本にはあったのですわねぇ。
あなたも驚いてしまうでしょう?

草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)は履中天皇の皇后だとも言われていますわァ。
古事記には幡日之若郎女(はたびのわかいらつめ)とでていますう。
父は応神天皇、母は日向泉長媛。
中蒂姫命(大草香皇子の妃・眉輪王の母、後に安康天皇の皇后)の母です。

履中天皇元年7月4日(400年8月9日)、草香幡梭皇女は葛城黒媛(磐坂市辺押磐皇子・青海皇女を産む)と共に履中天皇の妃となりました。
それから 同5年9月19日(404年11月7日)の皇妃黒媛の死を受け、翌同6年1月6日(405年2月20日)に履中天皇の皇后に立てられましたわ。

古来より、雄略天皇の皇后である草香幡梭姫皇女と同一人物であるとする説もあるのですう。

血なまぐさい事件は古代の日本には結構 頻繁に起こっていますわ。
もっと知りたかったら、ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』

『日本の死海文書』

『今さら聞けない、床上手』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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日本の死海文書(PART 1)

2014-02-04 15:24:48 | 日本史

 
 
 
日本の死海文書(PART 1)
 

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デンマンさん。。。 1月28日には『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を書いて、今日は『日本の死海文書』でざ~♪~ますか?



いけませんか?


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『日本へ、紀元前のメイフラワー号』


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あのねぇ~、上の記事は人気があるのですよ。



マジでござ~♪~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。


(ame40202f.gif)



これはアメブロの僕のブログの1月28日から2月2日までの1週間の「人気記事リスト」なのですよ。



あらっ。。。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』がダントツで読まれているではござ~ませんかア!

だから言ったでしょう! 「紀元前のメイフラワー号」が日本へやって来たということがネット市民の皆様には刺激的に聞こえたのでしょうね。

それで、今日は「日本の死海文書」という衝撃的なタイトルにすれば、またネット市民の皆様がワクワクしながら読みにやって来ると思って付けたのでござ~ますか?

いけませんか?

「同じ柳の木の下にドジョウはいない!」と申しますわァ。。。 うふふふふふ。。。 デンマンさんの思い通りにはなりませんわよ。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだネットサーファーの皆さんは きっとガッカリしているはずですわ。

どうしてガッカリするのですか?

だってぇ~、徐福さんがリーダーになって日本へやって来た人たちは 「メイフラワー号」とは全く関係ないではありませんかァ!

むしろ、「メイフラワー号」よりも衝撃的な出来事じゃありませんか! 船団を組んで 5、000人以上の人たちがやって来たのですよ。 だから、ダントツで読まれているのですよ。

。。。んで、今日の「日本の死海文書」というのは、 「紀元前のメイフラワー号」に劣らないほど衝撃的なのでござ~ますか?

僕は、そう思いますよ。 体が浮いてしまう“死海”に興味がある人はたくさんいると思うから、「日本の死海文書」というタイトルに興味を惹かれる人は多いと思うのですよ。


(deadsea3.jpg)
 
 
死海で浮いてみた
 
 
<iframe width="500" height="350" src="//www.youtube.com/embed/bhjPgZMQY6g" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



でもねぇ~、“死海文書”がどういうものか? 全く知らずに読みにやって来た人も居ると思うので ちょっとばかりウィキペディアから概要を引用しますよ。


死海文書


(shikai01.jpg)

死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。
文書は大部分がヘブライ語で書かれており、二割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテや語の文書を含んでいる。
多くは羊皮紙であるが、一部パピルスもある。
文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている。
死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。


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1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟がヒベルト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で古代の巻物の入った壷を発見した。
最初の発見に関しては「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かはもはやわからない。




出典: 「死海文書」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、「死海文書」というのは、ヘブライ語聖書の最古の写本ということでござ~ますわね。。。つうことは、日本の最古の書物というのは『古事記』でござ~ますから、「日本の死海文書」は『古事記』のことですか?


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あのねぇ~、『古事記』が日本の最古の書物だということは中学生でも知っていますよ。



。。。つうことわあああァ~。。。、つまり、『古事記』よりも古い書物が見つかったのでござ~ますか?

いや。。。 そういう話は聞いたことがないですよ。

だったら、おもわせぶりな事を言わないで「日本の死海文書」とは何のことなのか? 端的に細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいましなァ!

あのねぇ~、実は、僕も「日本の死海文書」が具体的にどの書物を指しているのかは解らないのですよ。 でも、近い将来「日本の死海文書」が発見されるだろうと信じているのですよ。

要するに、ヘブライ語聖書の最古の写本ならぬ、日本古来の神道の聖書とも言うべき最古の写本が発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

いや。。。 日本古来の神道の聖書かどうかは解りませんよ。 むしろ、そんなものはないでしょう!?

だったら、どう言う訳で「日本の死海文書」としたのでござ~ますか?

あのねぇ~、“死海文書”は放射性炭素年代測定、あるいは質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間に書かれたものだと考えられている。

つまり、日本でも、その頃に書かれたものが発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも。。。、でも。。。、日本には紀元前250年ごろには文字の文化などないのですわ。

だから、僕はこのページの始めに『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を持ち出したのですよ。

あらっ。。。 つまり、徐福さんとそのグループが古代中国から持ち込んだ書物が日本のどこかの洞窟に眠っているということでござ~ますか?

死海の近くの洞窟で“死海文書”が発見されたのですよ。 日本でも、徐福さんたちが持ち込んだ書物が洞窟に隠されたということも充分に考えられるのですよ。

でも、日本では徐福さんの伝説でさえ歴史的事実とは考えられてきませんでしたわ。

その通りですよ。 藤原氏が歴史を捻じ曲げてしまいましたからね。

つまり、徐福さんたちが古代中国からやって来た事実は藤原氏によって緘口(かんこう)令がしかれて記録から抹殺されたのでござ~ますか?

その通りですよ。

でも、どうして。。。?

藤原氏にとって徐福さんたちの存在は邪魔だったのですよ。  藤原氏は自分たちが日本古来から伝わる正統な家系の末裔で、政権の正当な担当者であることを後世に示したかったからですよ。

つまり、『古事記』、『日本書紀』を藤原氏が作るときに、他の書物をすべて焼き捨てさせたのでござ~ますか?

その通りですよ。 だから、徐福さんたちから引き継がれた書物を焼き捨てることは忍びないと思って有志が“死海文書”のように洞窟に隠すか? あるいは銅鐸のようなものと一緒に土中に埋めたということが充分に考えられるのですよ。

でも。。。、でも。。。、そのような事が記録に残っているのですか?

あのねぇ~、藤原氏が鵜の目、鷹の目のようにして警戒していたから、日本の書物には徐福さんたちが持ち込んだ書物が隠されたことは記録に出ていないのですよ。 でもねぇ、徐福さんたちがやって来たことは藤原氏の目を盗んで書かれている。

あらっ。。。 そのような書物があるのでござ~ますか? 

あるのですよ。 徐福さんの名前は書けなかったのだけれど、どうしても歴史に残さねばならないと考えた人がいて 9世紀に編纂された『新撰姓氏録』に書いてあるのですよ。 応神(ホムタワケ)天皇の時代に秦氏の長者が中国から127県の住民を率いて渡来したと書いてある。 つまり、『古事記』でも『日本書紀』でも藤原氏は意図的に徐福さんを無視したのですよ。 だから、当然、藤原氏に反発する人たちも出てくる。

。。。んで、どなたが『新撰姓氏録』に書き込んだのでござ~ますか?

だから、反藤原氏の歴史家ですよ。 でも、歴史に残そうとして徐福さんの名前を書くと藤原氏にイジメられるので、技術集団として秦氏の名前を記録に残したのですよ。

だけど、徐福さんたちがもたらした書物が どこかに隠されたということは記録に残ってないのでしょう?

確かに、日本にはそのような記録はない。

あらっ。。。 つうことわあああァ~。。。中国には記録に残されているのでござ~ますか?

あるのですよ。 11世紀に活躍した北宋の詩人で、欧陽脩(おうようしゅう)という人物が「日本刀歌」という詩の中で、「秦代に焚書坑儒を逃れた書が日本に残った」と書いているのですよ。


焚書坑儒


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秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちが古(いにし)えによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。
始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。

これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。
李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。
儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。

翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。

紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。
また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって議論されていた現実的な政策であった。
始皇帝はそれを採用したに過ぎず、劉邦政権が踏襲したことによっても、挟書律が少なくとも為政者にとっては現実的な政策であったことが分かる。




出典: 「焚書坑儒」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、徐福さんは、名目は「不老長寿の薬を求めるため」と言いながらも、実は、秦の始皇帝の圧制から逃れようと画策したのですよ。



それで、日本へ渡航する時に、ついでにたくさんの書物も船に運び入れたのでござ~ますか?

だから、それが巷の噂になって11世紀に欧陽脩さんの耳にも達したわけですよ。

。。。んで、その「日本の死海文書」はどこに隠されたのでござ~ますか?

実は、そのことで僕は以前に記事に書いたのですよ。 ちょっと読んでみてください。


 (すぐ下のページへ続く)

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日本の死海文書(PART 2)

2014-02-04 15:23:59 | 日本史

 
 
日本の死海文書(PART 2)
 


古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。
その集めたものがどうなったかというと、すべて焼き捨ててしまったのです。

ご存知のとおり、中国では、これ以前に、秦の始皇帝が焚書坑儒ということをやっているわけです。
つまり、民間に広まっている儒教の本を焼き捨て、多数の儒学者を殺しているわけです。
地方の歴史編纂者を殺せ、とは藤原不比等は言わなかったでしょう。
しかし、大和朝廷の正史、つまり、古事記と違ったことが書いてある、昔の地方王朝の歴史書が、地方に残っていることは、まずいわけです。

藤原不比等が、この点について、天武天皇に、いろいろと中国史を話して聞かせたことでしょう。
「六韜(りくとう)」を愛読している不比等にとって、そのような、大和朝廷に、邪魔になる地方の王朝の史書を焼き捨てるのは当然のことです。
したがって、古事記編纂の目的の一つに、地方に伝わる歴史書を焼き捨てるということがあったわけです。

地方の歴史研究者が、たまには、神社に伝わる古い史書などを発見することがありますが、古事記よりも古い時代のものだ、などと言うと、先ず歴史学会からは無視されているようです。
しかし私は、まだまだ未発見の、古事記よりも古い史書が、かなりの数,地下で眠っていると信じています。
というのは、当時の大和政権が、強制的に地方王朝の歴史書を差し出すように命令を発したとしても、必ず、反抗して、そういったものを隠してしまう者が居たはずだからです。
そんなわけで、地方へ行けば行くほど、つまり、大和朝廷の権威が届いていない地方ほど、そのような史書が残っている可能性があります。


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まだ遺跡発掘などがあまり活発に行われていない、日本海沿岸の新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているはずです。
上の地図からも分かるとおり、このあたりには、大陸からの難民がたくさん漂着していたはずだからです。




『古事記より古い書物がどうして残っていないの?』より
(2003年7月17日)




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ですってぇ~。。。
あなたは信じることができますか?
確かに、古代には大陸からの難民がたくさん日本海沿岸に漂着していたはずです。
だから、もしかすると島根県、富山県、新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているかもしれませんよね。
あなたも、お暇だったら、その辺を発掘してみてください。
古事記よりも古い書物の発見者として一躍有名になるかもしれませんわ。
うふふふふふ。。。

とにかく、あなたも真剣に考えてみてください。
もし興味があったら、ぜひ次の平安史、古代史の記事もお読みくださいまし。
あなたも、きっと、このお話ならば、納得がゆくと思いますわァ。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


(surfing9.gif)



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ところで、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。
卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『曲屁(きょくべ)』

『天神様と東日本大震災』

『日本は良い国か?』

『日本を良い国に…』

『エロい熟女』

『アッと驚くマキアベリ!』

『良寛さんの顔』

『あなたの中の阿修羅』

『蝦夷って悪い意味?』

『伎楽は呉の音楽?』

『呉越の謎』

『紅のボートピープル』

『蕎麦屋と忠臣蔵』

『ピンクと桃色』

『妻の不貞』

『卑弥子さん、ご指名ですよ!』

『カン違い大岡越前』

『ロマンのカシオペア』

『カシオペアの現実』

『エロい徳子を探して』

『紫式部と皇国史観』

『エロい道鏡と薬師如来』

『天平の麗しき淑女』

『元からの饅頭』

『なぜ唐に留まったの?』

『下着美人』

『一所懸命』

『ねぇ、ねぇ、ねぇ効果』

『遊女と三つ子』

『布袋さんの魅力』

『今、エジプトに?』

『鍋かむり祭り』

『日本人はどこから来たの?』

『卑弥子も待ってます』

『卑弥子の源氏物語』

『源氏物語もエッチなのに』

『失意の紫式部』

『めちゃムカつく足枷』

『床上手な女になりたい』

『日本へ、紀元前のメイフラワー号』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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(byebye.gif)
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カン違い大岡越前(PART 1)

2013-05-23 16:13:01 | 日本史
   
 
カン違い大岡越前(PART 1)











あ~♪~らァ。。。 デンマンさん。。。あたくしと大岡越前様を縦に並べてくださったのでござ~♪~ますか?



いけませんか?

いけないどころか昔のいい男と並べてくださって、あたくしは天にも昇る心地がするのでござ~ますわア! うふふふふふ。。。

そんなに喜ばないでくださいよう。

だってぇ~、大岡越前様は日本史の中でも、とっても尊敬されているいい男ですものォ~。 その殿方と一緒にデンマンさんの記事に出てこれるなんて女冥利(おんなみょうり)に尽きますわァ~。。。 おほほほほほ。。。

あのねぇ~、大岡越前は必要以上に美化されているのですよう。

あらっ。。。 そうなのですか? どうしてでござ~ますか?

かつて僕は大岡越前のことで調べたことがあったのですよ。 その時の記事から書き出しますから卑弥子さんも読んでみてください。



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「ある時(新井白石は)母親に尋ねたそうだ。『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うので御座いますか?』とね。実は、新井白石は、父が57歳、母が42才の時に生まれた子供だった。今日でさえ大変な高齢時の出産といわれる。だから、昔は40才過ぎた母親から生まれると“恥かきっ子”と呼ばれ、からかわれたりした。そういうわけで、白石の頭のどこかで、そのことが気になっていたのかもしれない」



「それでお母さんは何と答えたの?」

「それが昔のことだからね、母と息子がセックスの話などするなんてとても考えられない。お母さんも、わが息子が大真面目な顔して、そんなことを尋ねられたものだから、さぞかしビックリしたに違いない」

「それで?」

「お母さんは、どのように答えようかと困ってしまった。昔の女性のことだから、その年になってもポッと頬を染め、うつむいてモジモジと火鉢の中に眼をおとし、火箸で灰の中に『の』の字を書いた」

「『母上、いかがなもので御座いましょうか?』と、息子は返事をさいそくする。お母さんは、うつむいたままモジモジと灰の中に『の』の字を書く。そのうち、頭脳明晰な新井白石には、ハッと閃くものがあった」

「どういうこと?」

「新井白石はおじぎをすると、『ありがとうございました』とお礼を言った」

「答えてくれたの?」

「そうさ。ちゃんと答えた」

「なんと言って?」

「言葉にだしては何も言わなかった」

「分からないわ。どういうこと?」

「『この母ありて、この子あり』 頭脳明晰な新井白石のお母さんだから、やはり頭のよい人だった。お母さんは、ちゃんと仕草で答えを表していたんだ。白石はちゃんと気付いた。あとでお母さんの部屋から出ながら、口の中でつぶやいた。『灰になるまでか!』」

「あたし、まだ分からないわ。どういうこと?」

「ジューンさんは、こういう風習には、あまり馴染みがないかもしれないけれど、日本では、たいてい人が死ぬと遺体を焼くんだ。だから、『灰になるまで』とは、“死ぬまで”という意味だ」

「それ本当にあった母と息子の対話なの?」

「出どころをインターネットで調べたけれど、ついに分からなかった。でも僕と同じように、この話をどこかで聞いたとみえて、ページに載せている人がいた。そのひとのページにはこんな風に紹介されている」



(karesusuki.gif)

近代史解釈:
歴史は夜、つくられるとゆー
その昔、新井白石は母に問うた
「女性の性欲は、何時までありますか」
 .....灰文字
       



「それだけ?」



「そう。この人のページにも、どこでこの話を聞いたのかは書いてない」

「デンマンさんはどこでこの話を知ったの?」

「若い頃、落語で聞いた覚えがある。もし、どなたか出どころを知っていたら教えて欲しい」




『大岡越前とセックス』
(2005年10月6日)




あらっ。。。 ジューンさんと、このようなエロいお話をなさったのでござ~♪~ますか?



別に、それ程エロいとは思いませんけどねぇ~。。。

でも、大岡越前様が出てこないじゃありませんかァ。

あのねぇ~、この記事をすでに無くなってしまった Realog の『デンマンのブログ』に2005年の10月5日に投稿したのですよ。 そしたら、なんと10分後にRealogのメンバーであるBogyさんから次のようなコメントをもらったのです。 その早さに驚きました! これほど早くコメントをもらったのは初めてのことです。 卑弥子さんも読んでみてください。




はじめまして!
「新井白石」は「大岡越前」では?

外国の方に、「叙情的」な日本語の表現は、説明が難しいですね!

by Bogy 2005/10/05 15:50




ん? 大岡越前? まさかあああ! 僕は実際そう叫んでしまったほどです。 あり得ない事のように思えたのですよう。 しかし、全く予期しなかった事とはいえ、わずか10分後にわざわざ無意味なコメントを書く人もあり得ないと思ったので、とにかく調べてみようと思ったのです。 せっかく親切にコメントを書いてくれたので無視するのは申し訳ない! そのようなわけで、さっそくGOOGLEで検索してみた。 結果は次のリンクをクリックしてみてください。(新しいウィンドーが開きます。)

GOOGLEで「大岡越前 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果

僕が2005年の10月に調べたときには、445件のヒットがあったのです。 さっき調べてみたら次のような結果が得られた。


(gog30524.gif)



なんと。。。 2013年5月24日現在で 9,170件ヒットしましたよ。 8年の間にずいぶんと増えたものです。 ちなみに大岡越前を新井白石に変えて検索してみたらどうなるか?

GOOGLEで「新井白石 性欲 女性 灰 面白い」を検索した結果

僕が2005年の10月に調べた時には 56件のヒットでした。 さっき調べたら次のような結果になりました。


(gog30524b.gif)



驚きましたねぇ~。。。 なんとォ~、71,400件ですよ! すっかり同じ条件で検索したのですよ。 現在では新井白石の方がマジで多くなっているのです! 信じられませんねぇ~。 これを読んでいるあなたも信じられないでしょう! 8年という月日は、これだけの違いを産むのですねぇ~。。。! 信じられない人は上の検索結果のトップのページをクリックして読んでみてください。



読むと、どうなるのでござ~ますか?

あのねぇ~、SO-NETのブログは不具合が生じて、ブロガーである僕自身が管理ページに入れなくなっている。

どうしてでござ~ますか?

なぜかパスワードが変わってしまった。

SO-NETの管理人に言ってパスワードを更新すればよいではござませんか!

ところがテクニカルな事が全く解らない人物が応対に出て、埒が開かなかった。 だから僕は2007年以来SO-NETのブログを更新できない状態のままですよ。

つまり、上の検索結果に表示されたページは投稿した時から全く更新していないのでござ~ますか?

その通りです。 だから、本文中のGOOGLE検索のURLも2005年に投稿した時のままです。 つまい、僕が検索結果を故意に増やすためにURLを変えてないことが理解できると思うのです。 とにかく、大岡越前にも新井白石にも同じようなエピソードがある。 しかし、検索結果から見れば、2005年の10月の時点では、大岡越前の方が8倍も多かったのですよ。 数字の上から見れば、もう間違いなく大岡越前なんですよね。

確かに、そうでござ~ますわね。

ところが8年後の現在では、新井白石の方が8倍多い! 逆転してしまったのですよ! 驚きました。 とにかく、僕はどうしても新井白石とこのエピソードを切り離しては考えられないのです。 このエピソードは新井白石とお母さんで無ければならないような気がするのです。

どうしてでござ~ますか?

例えばですよ。 寅さんは渥美清が演じなければしっくりきませんよね。 あの寅さんを加山雄三が演じたら全くイメージが壊れてしまいますよね。 寅さんは渥美清、渥美清は寅さん。 卑弥子さんだって、そう思うでしょう?

そうですわねぇ~。。。 寅さんを加山雄三が演じたら、全くサマにならないと思いますわ。

でしょう!? 僕の頭の中で、上のエピソードは新井白石と彼のお母さんでなければならなかった。 急に大岡越前と言われたって、僕の頭の中ではイメージを切り替える事ができないんですよね。 それほど新井白石と彼のお母さんが火鉢の灰の上に『の』の字を書くシーンが僕の脳裏に焼きついてしまっていた。 そういうわけで、僕は大岡越前についてもう一度調べ直してみようと思い立ったのです。 僕の調べた結果を次に示します。 卑弥子さんも、じっくり読んでみてください。




本名は忠相(ただすけ)。越前守だったことから「大岡越前」と呼ばれる。
1677年に旗本の家に生まれる。旗本大岡美濃守忠高の4男。
1686年(貞享3年)10歳のとき同族の大岡忠真(大岡忠右エ門忠真)の養子となる。
養父病死のため、1700年(元禄13年)家督を継ぐ。寄合旗本無役。
24歳で家督を継いで35歳で重大事件を審議・裁判する評定所の一員となった。
その後41歳で江戸町奉行に任命され、8代将軍徳川吉宗の命をうけてからは、裁判だけでなく江戸火消しの「いろは四十八組」を創設したり、小石川養成所などを開設するといった行政面での業績を残した。
1736年、寺社奉行。
1748年、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名に。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相一人だけである。
1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が没し、12月忠相も死去。

大岡越前といえば「大岡裁き」と呼ばれる名裁判で知られ、特に2人の母親に子供を引っ張らせることで実の母親を決めたという話が有名です。
しかし、この話は大岡越前とは全く無縁の話なのです。実はこれは江戸時代「大岡政談」という小説に描かれたもので全くの作り話。
19年間の在任中裁判は3回しか行なわれず、そのうち大岡越前が執り行ったのは1回だけ!

忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみであり、現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代等他の奉行のものや中国の故事などに基づいている。
しかし、忠相が名奉行として人々に記憶されていたことの証(あかし)にはなっている。
つまり、名裁判官でなければこのような言い伝えが残らなかったと言うわけです。




これだけ調べて、僕は、なるほど~、そういうことだったのかと思い当たりました。



何に思い当たったのでござ~ますか?

つまりですよ、大岡越前が町奉行時代に実際に裁いたのは「白子屋お熊事件」のみなんですね。 卑弥子さんは加藤剛が演じる『大岡越前シリーズ』をテレビで見たことがありますか?

デンマンさんが見た『大岡越前シリーズ』は戦前でしょう? あたくしは、まだ生まれてませんわよう。 うふふふふ。。。

何を言ってるんですかア! 戦前にはテレビはありませんよう! とにかく、もし歴史に忠実に脚本を書いたら、あのシリーズはたった一回で終わりなんですよ。 ところが、あのシリーズの中では大岡越前が50回以上事件を裁いてますからね。

マジで。。。?

要するに、大岡越前と言う人は人気があった。 だから、他の人のエピソードであっても、江戸市中のミーちゃんハーちゃんは面白そうなエピソードをこの人に結び付けてしまったのではないか?

つまり、新井白石のエピソードが大岡越前様のエピソードとして組み込まれてしまったとデンマンさんは言うのですか?

そうですよ。。。 新井白石は1657【明暦3年】に生まれて1725【享保10年】に亡くなっています。 つまり、大岡越前よりも20年前に生まれています。 だから、この人のエピソードが庶民の間では人気があった大岡越前のエピソードとして受け入れられたのですよう。

そうかしら。。。?

あのねぇ~。。。、しかも、大岡越前と言う人は養子に入ったのですよ。 エピソードの中の母親は実母でないと面白みが半減してしまいます。 養母ではアカの他人ですからね、息子と実の母親の間で交わされるセックスにまつわる会話の緊張感・羞恥心が希薄になってしまいます。 このようなことを考えると、やはり、上のエピソードは新井白石と実母の間で交わされた会話ではなかったのか!? つまり、お母さんが灰の中に『の』の字を書いたエピソードは、もともと新井白石のお母さんの話だったのですよう。

でも、どうして2005年の記事のことを今頃になってデンマンさんは持ち出してきたのでござ~ますか?

あのねぇ~、先日、バンクーバー市立図書館で本を借りて読んだのですよう。


(lib30509c.gif)



上のリストの赤枠で囲んだ本でござ~ますか?



そうです。 その中に次のようなことが書いてあった。


 (すぐ下のページへ続く)
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カン違い大岡越前(PART 2)

2013-05-23 16:12:13 | 日本史

 
カン違い大岡越前(PART 2)



名裁判


(saiban02.jpg)

ある大阪の商人が、使用人が500両を横領したとして奉行所に訴えている。
この金額はおよそ700ポンドに相当する。
使用人は無実を主張したが、他の奉公人がその訴えを補強する証言をしていた。
使用人には不利な状況だったが、奉行は有罪にするか無罪放免にするか判断に迷った。
そこでとりあえず勾留を続けていた。
数日後、商人を呼び出し、訴えを書面にさせた。


長治(ちょうじ)は“とも屋”の奉公人であったが、主人から500両をくすねた。
見せしめのために死罪に処していただきたい。

とも屋きゅうごろう親戚一同

元文元年7月 押印


この書類を確認すると、奉行である河内守はとも屋に向かって、「下がって正しいお裁きになることを期待しておれ」と言った。
訴えが聞き入れられたと思った一同は喜んで帰っていった。
しかし、しばらくすると、別の罪人がその罪を自白してしまった。
とも屋一同はすぐさま奉行に呼び出されている。

「お前たちの間違った訴えで、無実の人間を殺してしまうことになったのがわかるか。
これで、逆にお前たちの命が危ういぞ。
とも屋、女房、奉公人、みなが刑場に行くこともあるぞ。
覚悟しておれ」

とも屋一同は雷に打たれたように跪き、許しを乞うた。
奉行は彼らをそのまま放っておいた。
そうすることが彼らへの教訓だった。
しばらくして奉行は長治への刑がまだ執行されていないことを伝えた。

「この件については嫌疑がはっきりしないので、しばらく長治を牢に留め置くことにしたのだ。
そうすれば彼の無実がわかるときが来そうな気がしていた。
気をつけて事を進めておいてよかった。
長治をここに」

牢から出された長治を前にして奉行はとも屋に言った。

「この罪のない男を見よ。
お前の不実な訴えで死ぬところだった。
取り返しのつかないところだった。
お前の命は助けよう。
まだ長治の命は奪われておらぬからな。
しかし、彼の被った苦痛は保障しなくてはならない。
500両を支払い、奉公人としてこのまま雇うように」

奉行のこの裁きは将軍にまで伝えられている。
短期間のうちに奉行は勘定奉行、長崎奉行へと出世していった。

(デンマン注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




214-216、218ページ 『日本 1852』
著者: チャールズ・マックファーレン
訳者: 渡辺 惣樹
2010年10月1日 第1刷発行
発行所: 株式会社 草思社




あらっ。。。 これも大岡越前様の名裁判の内の一つなのでござ~ますか?



いや、違います。 この著者のマックファーレン氏は、この奉行の名前は松浦河内守信正と決めている。 「彼の人となりを慕う者は多く、西洋人の間でもその名声は伝わっている」そうなのですよ。

。。。で、松浦河内守信正はいつ頃の人なのですか?

松浦河内守信正は1740年から1746年まで大阪東町奉行として働いていたのです。 その後、1746年から1753年までは勘定奉行だった。 1748年から1752年までは長崎奉行も兼任していた。

。。。で、この名裁判が大岡越前様と関係あるのでござ~ますか?

あのねぇ~、訳者の渡辺さんが調べてみると、マックファーレン氏の語る上の事件が起きたとされる年(1736年)の大阪東町奉行は稲垣種信だったと言うのですよ。

つまり、松浦河内守信正は名前が知れわたっていたので実際には稲垣種信さんが奉行として裁いた事件も松浦河内守が裁いたとマックファーレン氏は思い込んでしまったのでござ~ますか?

そうらしい。 つまり、名声や世間の噂で、このように人間は勘違いをしてしまうのですよね。。。

要するに、マックファーレン氏の勘違いだったと言うことですか?

でもねぇ、よくよく考えてみれば、この事件が起きたのは1736年ですよ。 つまり、大岡越前がまだ江戸町奉行を勤めていた時の出来事です。

あらっ。。。 それでは、上のエピソードも『大岡越前シリーズ』のテレビ番組の一つに入っているのでござ~ますか?

僕は『大岡越前シリーズ』のすべてを観たわけじゃないけれど、多分含まれていると思いますよ。 じゃないと、大岡越前が50回以上事件を裁いたことになりませんからね。。。




【小百合の独り言】



ですってぇ~。。。
そうですわよね。 勘違いってよくあることですわ。
あなただって上のお話を聞いて納得できるでしょう?

ところで、お話は変わりますけれど、私の祖先は百済から難民としてやってきたのです。

ええっ。。。? それも勘違いじゃないのかってぇ~。。。?
あなたは、ずいぶんと、きつい冗談を言うのですわねぇ~。 うふふふふ。。。

実は、デンマンさんに教えていただいたのですわ。
それまで全く知りませんでした。

百済から当時の平城京(現在の奈良市)に行ったようです。
でも、土地があまりなさそうなので開拓団に加わって、デンマンさんの祖先と一緒に武蔵国まで行ったのですってぇ~。

ええっ。。。? 「それはデンマンがでっち上げた御伽噺」だとおっしゃるのですか?

とにかく、私の実家は館林にあるのですわ。
デンマンさんのご実家から車で20分から30分です。
ホントに、目と鼻の先です。

そのような近くに住んでいたのにデンマンさんと私は日本で出会ったことがなかったのです。
不思議な事に、私がデンマンさんに初めてお会いしたのはカナダのバーナビー市でした。
私が13年間借りていた“山の家”で巡り合ったのですわ。



バーナビー市というのはバンクーバー市の東隣にある町です。
上の地図の赤い正方形で示した部分を拡大すると次のようになります。



この地図の Deer Lake (鹿の湖)の畔(ほとり)に私が借りていた“山の家”が会ったのですわ。







この家でデンマンさんと15年ほど前に初めてお会いしました。



この上の写真は、デンマンさんがコラージュしてでっち上げたのですけれど、ちょうど、このように寅さんのような格好をしていたのですわ。
うふふふふふ。。。
それだけに、私は強烈な第一印象を持ちました。

でも、どうして私の祖先とデンマンさんの祖先が一緒に百済からやって来たの?

私にはよく理解できなかったのです。
デンマンさんは、おっしゃいました。

DNA に“海外飛躍遺伝子”が焼きついているのですってぇ。
デンマンさんと同じようにして、その DNAの飛躍遺伝子が1400年の眠りから覚めて、私は館林から佐野を経由してカナダのバーナビーに渡ったのです。
そして、デンマンさんと“山の家”で出会ったのでした。

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