狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・「アシジの聖フランシスコ」を読んで

2012-12-02 04:09:00 | 孤独・独立・自尊心
 今から100年程前に原本が出版された、次の本を読みました。
  「アシジの聖フランシスコ」(著者:J・J・ヨルゲンセン氏、訳者:永野藤夫氏、出版社:平凡社、出版日:1997/8/15)
 A.D.12世紀末~13世紀初めの頃の当時、ローマ・カトリック教会の教皇の宗教権力・政治権力が強くなり、教会は多くの財産を抱え込み、聖職者も多くを所有して、教会制度・社会制度共に腐敗していました。その様な中イタリアのアッシジに、お金・物・知識等の全てを捨てて無所有となり、托鉢的に説教をして布教しながら祈りと手仕事の労働もし、清貧・純潔・謙遜・愛・従順の姿を通して人々の心を目覚めさせ、教会の変革をも促した、聖フランシスコがいました。当時の体制とは正反対でしたが、聖フランシスコは教皇には反抗せず、教皇の認可を正式に得て新しい修道会「小さき兄弟会」を作りました。その会は、原始キリスト教徒の生活と使徒達の生活を模範にしていました。
 アッシジで一番裕福な商人の家に生まれ、青年期は金遣いも荒く毎晩友人を招いて宴会を開き夜の街を歌い歩く等して放蕩していました。但し、女性に関しては模範的で貞潔でした。20歳の時に出征して投獄された時に病気になり、22歳の時にもアッシジの自宅で重病で長患いをして俗世間に関する様々な事が無常である事に気付きました。回心しかけて此の世に対する虚しさを感じていたものの、病気が良くなると世俗と虚しさの間で心が揺れながら騎士へのあこがれが再びもたげて来て23歳の時に騎士として出征しますが、途中で神様からの啓示があって考えさせられ、再び虚しくなってアッシジに引き返りました。回心し始めましたが、其の後も暫く世俗と神様との間で感情が行き来していました。そして、再び主のフランシスコの心への働きかけによって、全てを捨てて孤独になり使命を果たしたいと言う衝動にかられて、洞穴の中で祈りに費やし、イエス・キリストの象徴であるらい病患者を癒し、物乞いを試み、放浪し、父と衝突して父を捨て、小さな荒廃していた教会を修復しました。26歳から説教の布教を始め、労働と施しで過ごしました。看病や農作物の刈り入れ等の労働の対価は食事で受け取り、お金は一切受け取りませんでした27歳の時修道会を作り、30歳の時にフランシスコの心を最も体現した乙女・聖クララを迎えました。聖クララは貴族の家に生まれた令嬢で、子供の頃から信心深く、見合いも全て断って来ました。37歳の時には十字軍に同行して、イスラム教軍に大敗を喫した十字軍の兵士達に回心の説教をし、夢見ていた異教徒への説教も行いました。42歳の時に、全てを捨てて神様の御心のままに行うその信仰の厚さ故に、イエス・キリストと同じ手・足・脇腹の5か所に聖痕の奇跡を受けました。43歳で眼が殆ど見えなくなり、44歳で天国に召されました。
 本書は1907年にデンマークの詩人によって原本が書かれ、各国語に訳されて西欧ではベストセラーとなりました。聖フランシスコ在世当時のイタリアの人々だけでなく、現代、そして私においても、「神様の道化師」アッシジの聖フランシスコは模範です。よって、感想を述べるよりも私自身への手本・訓戒として掲げる意味を込めて、本書より以下に記します。
 「主よ、私が何をするのを、お望みですか。」
 「主よ、御身の道を示し、御身の道の完全さを我に教えたまえ。」
 「フランシスコよ、私の意志を知りたいなら、心の愛し望んでいたものを全て軽んじ、憎まねばならない。そうし始めたら、前には快く好ましかったものは全て耐え難く、苦々しくなるだろう。だが、前に嫌っていたものは全て、お前にはとても快く、あふれる喜びになるだろう。」
 「いと高い者御自身が私に、私が福音に従って生きるべき事を、お示しになった。」
 「悔い改めよ、天国は近付いた。」
 「・・・神様は計画された不思議な業を行なわれる為に、全世界でよりみじめな人間をご発見出来なかったので、私をお選びになり、世の貴さ、偉大さ、美しさ、英知を恥ずかしめられた。それは、全ての人が次の事を認める為にである―力と徳は全て人間からでは無く、神様から来るのであり、誰も御前では自慢出来ず、誉れと力は永遠に神様のものだから、誇る者は主において誇るのであることを。」
 「財産があったら、それを守る武器も必要でしょう。財産の為に、隣近所の人との争いが起こり、神と人への愛が傷つけられます。この愛をそっくり保つ為に、此の世で何も所有しないと、固く決心しているのです。」
 「・・・クララはその指導の下に、・・・『世を軽んじて回心し、進んで清貧を守り、天国をあこがれるべきこと、十字架にかけられた我が主イエス・キリストの裸にされ、辱められ、苦難を受けられた事について、すばらしい説教』を聞いた時、彼女の心は燃え、すぐにでも飛んで行って、きらびやかな服を脱ぎ、イエスやフランシスコの様に、満足と労働と祈りと平和と喜びの内に生きたいと思った。」
 「すべてを、自分自身の意志をも捨てない者は、イエスの弟子にはなれない。」
 「・・・恥じねばならないのは、・・・自分ではその話や説教をしたという理由だけで、尊敬されたがる事である。」
 「善行につながる学問だけが、いくらか価値のあるものである。」
 「自分を神に捧げること以外に、隣人から何も求めないこと。」
 「・・・隣人の弱さを大目に見る者は、幸いである。」
 「他人に誉めそやされるより、軽蔑される時の方が、ずっといいと思う者は、幸いである。神は全てを見通しておられるから。」
 「神の御業をなし、神について語る事を唯一の喜びとし、人を歓喜の内に神に仕えさせる様に導く兄弟は、幸いである。」
 「むなしいおしゃべりで人々を笑わせ、神の下さったお恵みに行動でこたえない兄弟は、わざわいである。」
 「『自分の徳を自慢しないことについて』神はひそかにご覧になっている。神の為にのみ、私たちはすべてをなし、天に宝を積むべきである。」
 「行動によって説教するのが、全ての兄弟にふさわしい。」
 「私は十字架にかけられたイエス・キリストを知っている。それで満足である。」
 「私の兄弟達よ、主は私を、謙遜と単純の道を歩む様に召された。・・・主の私に望んで言われた事は、私が前例も無い様な愚か者になり、主が私達に学問の道以外の道を、歩ませて下さる事である。神はあなた方をあらゆるあなた方の知恵と知識で赤面させたもうだろう。」
 「知識は高慢にするが、愛は信心深くする。」
 「・・・兄弟や他の人が反対しても、全て神のお恵みだと思いなさい。・・・それよりほか仕方が無いのだ、と思わねばなりません。・・・そういう事にこそ本当の従順があるのだ、と私は確信します。・・・。」
 「・・・何より大事なのは、あらゆる高慢、虚栄、妬み、非難、不平、貪欲、此の世の憂いをまぬがれ、主の霊を持ち、神の御業をなし、常に清い心で祈り、迫害や病いにおいて謙遜と忍耐を保ち、・・・。」
 「至高の清貧という失うことの無い宝の他は此の世の何物も持たずに、旅人や他国人として此の世を旅する。」
 「霊魂は悲しみ、寂しく、憂いに沈む時、うわべの慰めやこの世の空しい楽しみを求めやすい。」
 「清い心と普段の祈りからこそ、あの霊的喜びは湧き出るのです。」
 「しだいに恵みに忠実でなくなると、血と肉は自分に必要なものをどうしても探す。」
 「・・・私たちはいつも忘恩で、毎日私たちに与えられるお恵みやあらゆる御慈悲を思わず、私たちの創造主であらゆる良い賜物の与え主である主に、しかるべく感謝したいのです。」
 「わたし兄弟フランシスコは、わたしたちの至高の主イエス・キリストの生活と清貧に従い、・・・あなた方がいつもこの至聖な生活と清貧にとどまる事です。くれぐれも用心して欲しい事は、誰かの忠告や教えによってこの生活から決して離れない事です。」
 
アシジの聖フランシスコ (平凡社ライブラリー)アシジの聖フランシスコ (平凡社ライブラリー)価格:¥ 1,260(税込)発売日:1997-08



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