狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

法然・親鸞は古代ユダヤ人

2012-11-22 21:47:00 | 歴史・伝統・文化
 平安時代中期のA.D.10世紀頃、各地で疫病や火事、争乱が続発して社会的な不安が広まり、破滅の世の到来が近くなっていると言う末法思想が流行りました。その様な背景から死後に悩みの無い世界へ行く事が出来るという浄土教が広まり、空也等が庶民の間に布教して回りました。空也は仁明天皇の子常康親王の子ですが、草履ばきに粗末な衣を身にまとい、下層の貧しい一般庶民の間で念仏を唱えながら布教しました。又、同様に其の不安定な背景から、豪族等から武芸を積んで訓練した武士が興りました。最初武士は臨時的に治安維持や争乱鎮圧に使われましたが、11世紀に入ると貴族等の下に常時その役目を持って置かれる事になりました。其の後、12世紀になって天皇・皇族間や摂関政治の貴族の間での内部対立が起こり、その争いに武士が利用されました。1156年の保元の乱1159年の平治の乱では、平氏や源氏の武士が活躍して其の問題を武力によって解決した為に、それ以来貴族の間で武士の地位が上がりました。其の頃に出て来たのが、法然と親鸞です。 
 貴族に抑圧されていた武士が台頭して社会変革が成されていった頃に、法然が仏教界において革命を起こし、其の遺志を受け継いで戒名を無くす等をして其の改革をより一層強く推し進めていったのが親鸞です。当時、お金持ちのものであった仏教を貧乏人や女性、罪を犯した者でも成仏できるとし下層の民のものとした法然と親鸞。そして、僧侶が隠れて女性関係を持っていたのを、堂々と隠さず妻を得た親鸞。
 法然は1133年の生まれで、人間救済を本願として1175年に浄土宗を開きました。法然は秦氏が多く住んだ美作国(岡山県)で生まれ母親が秦氏、父親も秦氏の血筋の辛島氏を先祖にもつ漆間時国でありました。辛島氏は製鉄・鍛冶を行ない、その祭祀も司っていました。又、豊前国(大分県、福岡県)を根拠地としていましたが、大分県には八幡神社の総本社の宇佐八幡宮が在ります。秦氏が八幡神社と稲荷神社を作りましたが、渡来人の秦氏は新羅系で、宇佐八幡宮は応神天皇(八幡大神)、神功皇后(応神天皇の母)、比売大神の「3柱」を祭ります。秦氏は応神天皇を支援して、後に畿内へと移動します。記紀神話や風土記の天日楯(アメノヒボコ)は新羅の王子で、九州から山陽道を通って移動する間に在地の豪族と戦い、但馬の出石(兵庫県)に納まった事が書かれています。しかし、古事記・日本書紀は奈良時代の中央の権力者の意向で書かれた物で、その内容を鵜呑みにする事は出来ません。また神話も同様ですが、その記述からその時代の背景を読み取る事は出来ます。
 一方、親鸞は1173年に生まれ、法然の教えをより深く進めて、罪を犯した人も救われる事を本願とする悪人正機説を唱えて、1224年に浄土真宗(一向宗)を開きました。其の親鸞は源頼朝と源義経の甥になります。源氏は秦氏の血を受け継ぎ、後に多くの大名へと末裔が広がっていきます。哲学者の梅原猛氏は、親鸞の「人は皆悪の心を持つ」という「原罪感」が、母方の源氏の血筋から来ていると言われています。それは、聖書的な考えである、人は皆元々生まれながらにして罪を犯しやすい性質を持っていると言う「原罪」に共通しています。秦氏が景教(ネストりウス派キリスト教)の信者であった事からも理解出来ます。
 法然と親鸞、そして虐げられていた武士の台頭によって貴族の握る世の中に改革が起こされ、下層・末端の庶民への希望が与えられました。



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