狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

多民族国家の日本に古代ユダヤ人

2012-11-21 20:23:04 | 歴史・伝統・文化
 日本には、縄文時代以前の多様な原住民と、弥生時代以降に渡来して来た多様な民族が存在します。そして、やがて古墳時代に大和政権によって多くの国が統一されていき、飛鳥時代のA.D.645年の大化の改新によって日本のエスタブリッシュメント(藤原氏系統)が固められました。そして、中央の権力に従わない者達は山奥等の辺境に追いやられ、又、蝦夷として東北、北海道等へと追いやられてしまいました。
 山奥へ逃れた者達「サンカ」と呼ばれ、戸籍も持ちませんでした。又、奈良時代に仏教を国教として仏像を拝む事を強制され、創造主(唯一神)の律法の定めに忠実なユダヤ人は偶像崇拝を律法で禁じられている為に仏像を拝む事を拒否し、サンカ同様に、或いはサンカとなって山へ逃れたり、差別のエタとなり(河原人)となりました。新約聖書には、この様な御言葉が有ります。マタイの福音書24章15~17節それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。。これはイエス様が今後の世の終わりの時の事について弟子達に語られた御言葉の内の一部ですが、NWOによる世界支配の独裁者がエルサレムを中心にして立つ事に当たります。他にも地震による津波の時等も当てはまります。 因みに、大化の改新より前の権力闘争で、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との戦いで勝利を収めたのが崇仏派の蘇我馬子であり、其の中に厩戸王子(聖徳太子、イエス・キリスト同様に馬宿で生まれたと、ユダヤ人の側近達によって名付けられた)がいました。先の藤原氏と同様に、中央の権力に妥協し従って出世したユダヤ人も多くいました。
  差別のエタの身分とされた人達は、ユダヤ人である事が多いです。ユダヤ人は旧約聖書の時代の紀元前、神様に罪を許してもらう為に、人間・罪の代わりとして牛を犠牲にして神様に捧げました。漢字は紀元前に中国にてユダヤ人によって作られましたが(漢字に聖書の由来があります)、犠牲と言う漢字は両方共に牛偏であります。(河原人)となって牛(屠畜)や皮革加工を生業として、差別されながら生活して来ました。外国では其の様な職業に対して、差別的な捉え方は全くありません。
 「サンカ」からは忍者、服部氏は機織部、つまり秦氏能楽・猿楽の観阿弥・世阿弥は服部氏、から芸能(能役者・歌舞伎役者)や庭師(造園)の善阿弥(室町時代。京都の中世以降の石庭の多くは(御庭者)の作)等が挙げられます。
 B.C.721年に北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされて世界に散らされたイスラエル十支族と、B.C.586年に南のユダ王国がバビロニア王国に滅ぼされてバビロン捕囚後に再帰還や其処に留まる等をし、そしてその後のA.D.70年にローマに滅ぼされて散らされた残りの2支族が、シルクロードを通って日本にも辿り着いて来ています。渡来人の「秦氏」はユダヤ人で、其の後に源氏、そして長曾我部氏や島津氏、毛利氏等の末裔が存在します。源氏によって中央の貴族権力に反発して武士政権の鎌倉幕府を成立させ、戦国時代には下剋上によって権力・支配者への反抗が有りました。京都の太秦を本拠地とし、景教(ローマ教会からは異端とされたネストリウス派キリスト教)の信者でありました。中国ではローマの事を「大秦」と言います。又、その京都と兵庫県の赤穂市坂越等にある大避(大酒)神社は聖徳太子の側近であった秦河勝が作りましたが、中国では「大辟」と書いてダビデを意味します。秦氏は、機織り、製鉄、鍛冶、土木工事、製塩等の技術を持って来て、日本に伝え活用されました。エルサレムを意味する平安京は、その技術が生かされて造られました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿