狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

2012-11-22 22:07:57 | エッセイ・コラム
 「罪」について。全ての人間の心には元々罪の性質が在り、犯罪や悪行は其の罪の性質の表れです。元々持っている原罪と言う幹の部分が存在し、此の世の中で生きて行く内に、其処から枝葉となって罪を犯す部分が伸びて来ます。法律や規則を破ったり非道徳的な事をするというのは世間においての表面的なもの、世間の秩序を乱すものであり、それらの向こうの延長上にある本来の罪の根本的意味は、神の御心に背く事、神の御名を汚す事であります。つまり、神を信じずに神に背を向け、自分の能力を信じ、神から離れる事から、元々持っている原罪から枝葉が伸びて来ます。誰かに暴力を振るったり、誰かに悪口を言ったりした場合、其の被害者に謝るのは当然ですが、其の被害者を通しての神の御名を汚した事、神の御心を崇めずに侮った事にあります。罪に対する「悔い改め」は、被害者に対する謝罪・反省だけでは無く、もっと大事な事は、神の御名を汚した事や神の御心を侮った事に対して、後悔し反省し、謝罪し、許しを請い祈る事です。又、其の為に後に自分自身が苦しみを負おうとも、神を賛美し祈り続ける事です。
 神に従わずに人間が生きる事が罪となります。旧約・新約聖書の「約」は、神と人間との契約と言う意味であり、聖書には人間が生きて行く上での守るべき約束事が書かれています。人間が自分の意志や欲望で望む「自己実現」は「罪」であり、「神実現」が其の契約書である聖書に書かれています。其の契約に違反する事で、刑罰としての「死」(地獄)があります。
罪の世界で生きる世間の人々は、「自己実現」によって不安を取り除こうとしますが、予め定められている「永遠の死」からは逃れられません。学歴、肩書き、仕事上の経験、財産、世間の評価等、其れらを得ても「死」の解決にはなりません。
 神様なんていないとおっしゃる方は、人間の傲慢な気持ちを持っているに過ぎません。人間がものづくりをする時に人間自身の役に立つ様にと物を作りますが、同様に人は万物の創造主なる唯一の神様によって、神御自身に役に立つ様にと造られました。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 法然・親鸞は古代ユダヤ人 | トップ | ワクチン接種による感染 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事