狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「おしっこ」と「うんこ」から自分を知り人を知る。そして「手洗い」はオモテナシの心

2017-11-29 01:42:57 | 健康・医療・暮らし 2012~2017
 先日8月頃であったか、おしっこをちょっとちびってしまった。朝起きてからゴソゴソしていた。朝起きると直ぐ、寝ている間に作られて溜まっていた尿が、一気に下に下りて来る。それを我慢しながらキリの良い所で行こうと思いきや、少しちびってしまったのである。そして履いていたパンツを2枚共履き替えた。最近は「おもらし」が不安なので、冬の間はパッチ(股引(ももひき))を着るので良いが、夏の間はパンツを2枚履いている。私は包茎であるせいか、普通にトイレに行った後でも、少しの残尿は付き物である。因みにユダヤ人は、産まれた後数日後に陰部に割礼を受ける。最近は介護用だけでは無く老人用のオムツや、生地が分厚目でおもらしの尿を十分吸収出来るパンツ、車の運転中、特に高速道路での走行中や渋滞中、レジャー、災害時対策としての尿瓶(しびん)等も、通信販売で売られていたりと便利になっている。
 現在48歳の私は、十年から数年前ぐらいから身体の衰えの度合いに比例して、頻尿傾向が強くなって来た。誰でも歳を取る毎に頻尿傾向となる様だが、自分を知る私はその自分の場合の原因を把握している。あくまでも自分の場合であるので、他人が私の原因がそのままそっくり当てはまる訳ではない。しかし病院の治療は患者が多くて忙しい理由もあるのであろうが、ルーティン作業、定額・包括制診療報酬に見られる様に、一律・一定のパターンマニュアルに則する様にして、個々人に適した治療を施さない事も多い。それ故、医者・病院に委ねてしまうと、却って逆効果、副作用、つまり介入、薬等の対症療法によって一時的には寛解するかもしれないが、その後は余計に悪化する事となってしまう。薬に対する耐性が生じて薬効が無くなり、更に作用の強い薬を必要とする事にもなる。慢性疾患とは、概してその様なものが多いものである。
 私の場合は特に朝に頻尿傾向が有る。起床時だけでは無く、出勤時が少し悩みとなっている。その為最近は、途中で漏らす事が無い様に、会社に到着するまでのある時間内は水分を取らない様にしている。しかし、起床時には血液濃度が高くなっている為に血液循環が悪く危険であるので水分を十分に取って血液を薄める必要が有り、且つ朝は特に低血圧気味の私はそれによって血圧を上げる。それだけに、時間的に余裕を持って早起きをする必要がある。
 あくまでも私の場合であるが、運動不足加齢による骨盤底筋低下、コーヒーや緑茶の多飲により利尿作用の有るカフェイン多量摂取、起床時に血液を薄める事と消化器系の働きを促す為と血圧を上げる為にお茶を多目に飲む習慣が有る事、普段から比較的マイペースな性格から副交感神経の方が優位(アセチルコリン分泌過多)な事が原因として挙げられる。そして尿の勢いも有り、トイレに時間はかからない。また、夜間にトイレの為に起きる事も無い。水分摂取排泄の繰り返しにより、血液循環が良く老廃物が滞って蓄積される事が無いと言う事も言えるので、基本的には悪くは無いと思う。
しかし余りにも頻尿であると、出勤時や仕事中、レジャー、生活にも支障が生じ、また血液中の老廃物を濾過して尿を生成する腎臓の糸球体・毛細血管に負担が掛かるのではないかと思えたり、細菌感染等が原因の可能性も有る。しかし此の事において、今までに一回も診察は受けていない。サプリメントのノコギリヤシやペポカボチャ、その他漢方薬等が頻尿に効くとされており、それらは薬よりは緩徐で優しいかもしれないが、偏りが生ずる等をして却って他の悪い症状が生じる可能性が有り、その為に余り取るべきではないと私は思うので、その様なものも摂ってはいない。
 極力薬や治療に頼らず、食事や運動、生活の改善、自然の手当、そして考え方、生き方、判断力、自学自習等の精神面の改善をを行って、自分で行ない自分で治す姿勢や態度が必要である。本やインターネットの文献等で、「自分で勉強」する事が出来る。
 「おしっこ」と言えば「うんこ」が付き物であるが、先日、北朝鮮兵士が韓国に亡命した事件が有り、その兵士が手術を受けたところ、腸の中に27センチ程の寄生虫・回虫が数十匹も存在したとの事である。
 その原因として、北朝鮮では未だ農業に人糞を使っている事が挙げられている。人糞を藁や落葉、生ゴミ等と混ぜて醗酵させて作る堆肥は日本でも先の大戦直後まで行われていた。江戸時代には、その人糞を取引して商売する者も多く存在した。江戸の町は人糞をも再利用して、清潔で、資源の循環自然環境との調和が取れた高度なエコロジー社会であった。しかし、その醗酵が中途半端である事も有り、また人糞を使う事自体が原因となってか、日本でも回虫保有者の割合は、戦後ぐらいまでは高かった。江戸時代の医学書等の文献には、人糞が漢方薬として使われていた記録が在る。私が小学生の頃は蟯虫(ぎょうちゅう)検査を行っていた。日本では現在は人糞を使用していない事も有り、また有機栽培ではないものは農薬まみれで健康に悪いが、その半面、寄生虫の心配は少ない。更に日本の場合は下水道の発達にも因る。下水道の発達で水洗便所が増え、より便利に、清潔な環境衛生となった。
 ところで、世の中には様々な人達がいる。平和ボケしている人達、あたかも人間は皆良い人ばかりだ等と思っている人達が、結構いるものである。しかし実際は、「サイコパス」と呼ぶ精神病質者が世の中に多く存在する。良心が欠けていたり、共感・同情する事が出来ず、平気でを付き、悪口を言う等をして人を傷つけても何とも思わない様な人達が存在する。色々とそれを定義する項目は有るようだが、一言で言うと「発達障害」とも言える。頭の理性や心に欠陥の有る発達障害である。小児性愛ストーカー等もその一例である様に思われる。そして「うんこ」に関して言うならば、「スカトロジー」の人、スカトロ・マニアが存在するらしい。「うんこ」を見て喜んだり、人の「うんこ」をしている姿を見る事を趣味にしている人がいるのである。私には考えられない事だが、世の中にはその様な精神病質者が実際に存在するのである。
 私は「うんこ」をした後は、必ず石鹸を使って手を洗う。しかし、トイレから出てくる人達を観察して来たが、水だけで少し手を洗う程度か、それどころか手を全く洗わない人達が結構いるのである。私の場合は多少潔癖症であるので、石鹸で手を洗った後の手が乾いた状態で、更にアルコールを手に擦り込んで消毒する程である。それは、病院内で医療従事者が衛生に配慮して行っている事と同じである。だから、その様な人達に対しても、私には有り得ない事をしている様に見えるのである。不潔と清潔の区別、判断の仕方やその程度も、人それぞれの精神、感覚、心に由来する。不潔な手のままで触ると汚れる。その手が細菌やウイルスの媒介となって、感染を広げる事となる。それ故に、手をきちんと洗わないのはその様な考慮と配慮が足らない為に、心の欠陥とも言える。手を洗う事は、おもてなしの基本である。寿司職人は勿論、手を洗っているだろう(?)。またトイレを観察する事で、その家族や会社の状態が解ると言う。トイレを綺麗にする事もおもてなしであり心を表すものである。
 「おしっこ」と「うんこ」、人がこの世で生きる上では欠かせない事だが、そこから自身の健康状態を知るだけでは無く、それに対する姿勢、考え方から人間性の状態も知る事となる。
 
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  ・2017/04/24付:「現代の退廃した肥満体質に比し、昔の日本は質素・簡素・足るを知り、心身スリムで頭も冴えていた・・・『世界を驚かせた 頭のいい江戸のエコ生活』を読む」

 参考文献
  ・2017/11/17付・Newsweek日本版:「北朝鮮『亡命兵士』の腸が寄生虫だらけになった理由」

 関連文献
 「改訂 トイレが近い人の読む本 頻尿の原因と治療」
「改訂 トイレが近い人の読む本 頻尿の原因と治療」






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