goo blog サービス終了のお知らせ 

HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

大河ドラマに学ぶ 第49回「本能寺が変」より 「戦のない世を実現する戦」に勝利した徳川と井伊家 「平和世界の実現」を願望する主従がそれを実現

2017-12-11 12:32:32 | 希望の未来を開くため

大河ドラマに学ぶ

49回「本能寺が変」

 

明智と密約を結ぶ徳川

 信長の招待で安土城に赴いた家康の一行、着いてみると武田の遺臣で信長に寝返った穴山梅雪も同席していた。

接待役の明智光秀だが、家康一行の目の前で光秀は信長から叱責され、その後中国攻めの援軍を命じられる。

信長を討つ盟約を結んだ光秀のまさかの接待役外しに動揺する徳川一行。

 

 

周到に準備されていた伊賀越え

さてそのころ、井伊直虎は堺を訪れ、家康一行の三河への帰路の確保に奔走する。

ここで「龍雲丸」と出会うのだが、この辺りはドラマなので・・・

では、あるが家康が三河の帰還ルートとして海路も考えられていたことは確かであろう。

 

さて、光秀が接待役を離れて、なんと信長自身が接待に登場(この辺りもドラマなので)

果たして信長は光秀に家康一行の殺害を命じていたのかどうか?との疑念も湧いてくる。

 

さて、堺の見学を終えた家康一行は再び信長の正体を受けて京の本能寺に向かおうとするがそこで「本能寺が変」の報が入る。光秀が信長への謀反を実行したのである。

そこで、家康一行は今日の豪商茶屋四郎次郎の案内で伊賀越えをして三河に帰還する。その途上、ともにいた穴山梅雪は、一揆にあるいは盗賊に命を奪われたらしい(と言うことになっている)。

 

番組後のゆかりの地廻りのコーナーでは、伊賀越えの時に接待したお寺や、地元の豪族の城が紹介されていた。

徳川の歴史を見れば、この伊賀越えが最大の試練の時だったと伝えられるがそれはそうだったのだろう!ただし、その経路は周到に準備されていたことがわかる。この時家康の帰還を助けたのは伊賀の衆だった。その後伊賀衆を束ねた半蔵が徳川に重用され、「半蔵門」の名が残ることからもそのことが窺われる。

伊賀越えの道を準備した茶屋四郎次郎はもとは三河の出身とも言われる。この時の伊賀越えは周到に準備されたものであろう。

「本能寺の変」があって慌てて準備したものではない。

 

本能寺の変の真実は「本能寺の変 431年目の真実」明智憲三郎著に詳しい。

今回の「女城主直虎」における、描き方もこの明智憲三郎氏の見解に一致しているように思うし、事実関係や明智氏が根拠にした歴史資料からも十分な説得力を持つ。

 

明智の天下を三日で終わらせた秀吉

明智の天下が三日間だったのは、秀吉の「中国大返し」が最大の理由である。

家康は三河に帰り、明智の援軍で出兵しかけていた。安土城炎上は徳川がしたのではと明智憲三郎氏はその著で述べている。

 

そこで秀吉の「中国大返し」であるが、秀吉は毛利と備中高松城(現岡山市)の水攻めで拮抗していた。その秀吉軍が京に上ったのが僅かに3日、毛利との和睦を纏めてさらに大軍を引き連れての帰還、あまりにも早すぎる。秀吉は光秀の謀反を事前に察知して、周到な準備をしてきていたとしか考えられない。

  

様々な事実を縫合すると、光秀と徳川の密約説は十分可能性が考えられるばかりか、いかにもそれが本当の真実のように思われる。

光秀の天下はほぼ実現しかけていた、そうすればそのことに大きく貢献した徳川は史実よりもっと早くに天下を統一していただろう。

 

結局時の事態は本能寺の変に乗じて、一挙に織田政権を簒奪した秀吉のものとなった。

 

徳川をして戦のない世の実現を願った井伊

ドラマでは井伊直虎は「徳川に日ノ本を纏めて戦のない世を実現してもらう」と呟く。

その後の徳川は、秀吉に直接向き合うことを一時放棄して東国の支配を拡大して行く方向に走る。

 

その後は信長の政権を簒奪した秀吉との駆け引きを通して、最終的に戦国を終わらせて徳川300年の太平の世を実現して行くのである。その過程で「井伊」が重要な働きをしたのは事実である。

 

ブラタモリで「彦根城」を取り上げていた。「彦根城」は戦略的にも最重要な地点である。この彦根に表向き風雅でありながら鉄壁の要塞を作り上げたのが井伊直政であった。また井伊は関ヶ原の戦いの前後でも。家康の意をくんで「太平の世」の実現のために奔走した。

 

「女城主井伊直虎」はぞの存在を疑問視する向きもあるが、徳川の天下統一と「戦のない世を実現する戦」に最も貢献したのが井伊家であったことは歴史の事実である。

  

「戦のない世を実現する戦」に勝利した徳川と井伊家

「平和世界の実現」を願望する主従がそれを実現したのである

 

 

 


2001年4月「先生夫婦が整備しなければならないのですが、オモニ、原理が分かりますか。原理が分からないのです」(金容成のブログから お母様を配されたお父様のみ言6)

2017-12-11 11:07:18 | 希望の未来を開くため

お母様を心配されたお父様のみ言5

2001年4月18日

< 先生夫婦が整備しなければならないのですが、オモニ、原理が分かりますか。原理が分からないのです>

 その位置でオモニを中心に40年です。40年の期間でこれをしなければなりません。アダム家庭で、一代で理想的な夫婦として立てず、堕落した夫婦として世界を台無しにして、4000年の歴史を再臨の時まで引き伸ばして、これを今、先生夫婦が整備しなければならないのに、オモニ、原理が分かりますか。原理が分からないのです。何も分からないのです。

出典:統一世界6- 2001 25ページ、2001418


摂理的概観(後編) 2005年~2008年の摂理の理解 (雪風さんによる金容成のブログ解読)

2017-12-10 18:56:52 | 希望の未来を開くため

20151217日 金容成ブログ

摂理的概観 2005年~2008年の摂理の理解

 

 お父様は基元節勝利の為、多くの摂理を実行されてきたが教権勢力は、父子協助体制の構築のための指示には反抗し、それ以外の指示には絶対服従した。お母様を中心とした教権勢力は、お父様の権威を簒奪し、母全権時代を開く為に全力を尽くした。そしてお父様の体が不自由になり、摂理現場の検証ができなくなった頃に、彼らの野心を達成する為の決定的D-dayを設定した。お母様が母子協助時代の直後からお父様とは違う道を歩まれたことは明白である。

 お母様が、お父様と違う道を歩まれたということは「神様のみ旨と摂理が要求する」道を歩まれなかったことを意味し、お父様の「摂理的な指示」には絶対服従しなかったことを意味する。お父様がお母様に求めたのは、たった一つだけであった。

 父子協助時代を構築するための「摂理的な指示」に「絶対服従」しなさいということだけだった。

お父様がお母様に要求した「摂理的指示」は原理を理解せよ、ということでもなく、神様の摂理を理解しろというものでもなかった。お母様に望まれたことはただ一つ「父子協助時代を受け入れろ」というものだった。

 顯進様を受け入れ、顯進様がお父様の継代を継ぎ、基元節勝利の主役として立ち、真の家庭の位相を高めることができるように、協助しなさいというものであった。しかしお母様はこれを否定された。

お父様はこれを199999日から20049月までの6年間、お母様をはじめ、核心指導者に訴えてきた。お母様がこれに従われたならば、お父様の摂理のパートナーとして、アダムとエバの堕落による全ての蕩減を終え、勝利した基元節を迎えたことだろう。

 2005年以降は、顯進様がお父様の継代を継ぐ長子として立ち、基元節を迎えることが天理原則であるという、み言が全くなかった。それはすでに過去6年間、顯進様を徹底的に拒否してきた、お母様と教権勢力の反逆の執念と意図を確認されたので、あえて彼らに繰り返して語られる必要がなかったのかも知れない。

 2005年〜2012年間の歴史は、どんなことがあっても顯進様を立て、長子の威厳と位相と権威を確定し、基元節勝利を成し遂げようとするお父様と、その意志を拒否し、お母様を中心に立て、父子協助時代を破壊し、真の家庭を排除し、教権時代を確定するという反逆勢力との闘争史であった。

 お父様は、たとえ真の家庭に曲折と、多くの事情があったとしても、顯進様が、その責任分担を完遂することによって、亨進様と國進様をはじめ、お母様と教権勢力の中から、一人でも悔い改めて自然屈伏し、一つになる姿を心の中に描きながら、血の涙を流されながら12年の歳月を耐えられたのであろう。

 20052008年の4年間は、お母様と核心勢力が悔い改め、戻ってくることのできる唯一の期間であった。しかし、彼らはむしろ顯進様の歩みを妨げるために、亨進様と國進様をUCの現場に投入した。これが2005年、3人の子女様が均等に責任を与えられ、UCの現場に投入された事態であった。顯進様のみが1998年からお父様の特別配慮として9年余りの間、現場を経験された方であったが、國進様と亨進様は現場を経験したことがないのに、顯進様と同等に責任を与えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<大河ドラマに学ぶ> ぎりぎりの状況からは「逆転」の道が開かれる 「太平の世」を願う動機が、逆転の道を切り開いた!

2017-12-10 08:33:03 | 希望の未来を開くため

大河ドラマに学ぶ

 

第48回「信長、浜松来たいってってよ」

武田が滅んで、徳川は念願の駿河を与えられて家中は大喜び

しかし、その喜びもつかの間、信長が浜松に来るとの連絡が入る。

渾身の力を込めて信長の接待をする家康。家臣たちも総力をあげる。

機嫌を良くして帰った信長と思いきや、徳川の接待の返礼として信長が、家康と主要な家臣たちを安土に招待するという。

果たして信長の狙いは・・・・

 

そうこうしているうちに、今は徳川のもとに庇護されている今川氏真から重要な情報がもたらされる・・・・

 

さて、この続きは次週「本能寺が変」に繋がるのだが・・・・・

 

 

数年前にこれまでの歴史的常識を覆すような、著書が出て話題を集めた。

明智憲三郎著「本能寺の変 431年目の真実」と言う本である。

 

明智光秀は何故、本能寺で主君である織田信長を誅殺するようなことをしたのであろうか?

様々な説がのなえられていたが、いずれも説得力に欠くものであった。(よくわからないから諸説が出て来た)

しかし、明智氏がその著書の中で書いたのは、明智・徳川密約説である。

今回の大河ドラマは徳川方の当時の状況を詳しく描いている。当時の信長と家康の関係がいかなるものだったのか・・・・

その中で井伊万千代(後の直政)の働きを描いているのだが~

 

武田を滅ぼした後の東国の状況を考えれば、信長が徳川を使い捨てにしようとしていた状況はよくわかる。だから徳川を貶めるために嫡男信康を自刃に追い込んだのである。

もしや徳川家康をその屈強な家臣団もろとも殲滅すれば、信長の東国制覇は一挙に片が付く。当時、西に毛利との戦いをしていた信長だが、これはほぼ決着がついていた。

自らの一族を重用して、外様の大名は使い捨てにしてきたのが信長だった。そういう信長に内々に反旗を翻そうと思っていたものは当時あふれていた。

 

今回の大河ドラマは、この明智~徳川密約説に基づいているように思う。

あくまでドラマだが・・・・

 

確かに当時の徳川は自身の命脈を守れるかどうか、生殺与奪の権を信長に握られていた。

嫡男を殺され存亡の淵に立った、家康が明智の計略に乗ったのは十分動機として納得行く。

 

秀吉の中国大返しが明智の失敗だったが、この背後が何だったのかは・・これから・・・

 

 

 

今週NHKのブラタモリは「彦根城」・・・「家康は何故彦根がいいと思ったのか?」がお題。

戦略的に重要かつ優れた彦根城・・・家康が城主として彦根を任せたのは最も信頼の篤かった井伊直政だった。

 

今週の大河・・「本能寺が変」みおとさないようにしよう!

先週は、日曜日に見れなくて土曜の再放送だったので記事が遅れました。

 

ドラマから学ぶ内容は、次回のお楽しみに・・・・・

 

 

一言だけ・・・・

ぎりぎりの状況からは「逆転」の道が開かれる

 「太平の世」を願う動機が、逆転の道を切り開いた!

 

 

 


2000年12月23日「オモニも息子に仕えなければならないでしょう」「オモニも祝福した息子の後をついて行くのです」(金容成氏による「お母様を心配されたお父様のみ言」から5)

2017-12-09 06:04:02 | 希望の未来を開くため

2000年12月23日のみ言です


<息子がアボジの継代を引き継ぐことになれば、オモニも息子に仕えなければならない>

 今日、最後になって、ハワイの終わりになって、このようにすべてを教えるのです。正しく理解しましたか。母子協助の時代、父子協助の時代の意味を正しく知らなければなりません。これは最後です。息子が後にアボジの継代を引き継ぐことになれば、オモニも息子に仕えなければならないでしょう。そうでなければなりません。父子協助時代に入るのです。

出典:み言選集34046ページ、20001223

<オモニも祝福した息子の後をついて行くのです>

 オモニが来たときは蕩減時代であり、それが過ぎて長孫に侍り、父子の関係を立てた後はオモニも祝福した息子の後をついて行くのです。オモニが、アボジが、後代において長孫が行く道に責任を持てないのです。

出典:み言選集34064ページ、20001223