この記事にしたお父様のみ言に関して一部韓国語から日本語に訳すにおいて誤りがあるとの指摘をいただきました。下線の赤の部分です。
<このように囹圄に閉じ込められながら、天子になろうという真なる息子を助けることのできない、逆天地の裏切りの松明を掲げる身が、どれほど哀れなのか知らなければなりません>
神様はそれを見て、先生以上に号泣する立場にあったということを皆さんは知らなければなりません。なぜ私を助けることができなかったのかというのです。このように囹圄に閉じ込められた身で、真なる息子になろうとする者を助けることのできない、逆天地の裏切りの松明を掲げる神様がどれほど哀れだったのかを知らなければなりません。皆さんはそれを感じなければなりません。
出典:み言選集612巻236ページ、2009年05月25日
<天の眷属で統治するひとつの世界>より
「囹圄」・・・あまり使わない言葉だが、囹も圄もその字のごとく牢屋の事。監獄に囚われた状態を言っている。
ここではお父様は何を言っておられるのでしょうか?確かにお父様の生涯は幾度となく牢獄に囚われの身になるような立場でした。
日韓併合時代、官憲に囚われて囹圄の生活をされました。平壌に赴きそこで官憲に囚われ一度は死人同様に扱われて放り出され、再び捕らわれ興南の収容所に送られ収容所生活をされました。南でも梨花女子大事件で西大門刑務所に収容されました。そしてアメリカでも!ダンベリー刑務所に収監されました。生涯幾たびも幾たびも牢獄生活を体験されたお父様です。お父様が孝子として天の神様の前に息子として孝行を尽くす歩みを為そうとするときに、サタンはいつもお父様を牢獄に送り囹圄の立場としてきました。そのような状況の時に、神様はそういう息子を助けることのできない悲痛な立場にあったとおっしゃるのです。
ところで、このみ言を語られた2009年の5月はどういう状況だったのでしょうか!この時点でお父様が実体的に囹圄の立場にあったわけではありません。
束草事件から2か月のこの時に、お父様が何を言いたかったのか!
「真なる息子になろうとする者を助けることのできない」、その真の息子になろうとする者とは誰の事なのでしょうか?「助けることのできない」のは誰なのでしょうか?「逆天地の裏切りの松明」とは何を意味するのでしょうか!
ここでお父様は「神様がどれほど哀れだったのか!」と語られています。
言えるのはこの時点で、実は神様の立場にあったお父様が、実は「哀れだ!」と言おうとされていることがわかります。
ご自身が、かつて天の父である神様が助けることが出来ない哀しい立場であったことを、そして助けることのできない哀れな立場にあった神様の心情を実感されてのみ言であることが理解されます。
先のみ言「文総裁も知らないうちに、皆さんも知らないうちに、乱れてしまいました」もそうですが、このみ言が語られた時期のお父様がどれほど深刻で、ご自身が哀れだ」と吐露されるように、悲痛な心情であられたことを私たちは知る必要があると思います。そのことを食口たちはほとんど知らずに来てしまいました。
統一家の混乱を見ても、何か他人事のように過ごしてきてしまっていたのではないでしょうか!その時も、その時も、そして今の時も教会幹部はそのようなお父様の心情を一言も伝えてはくれませんでしたし、今も全く伝えようとはしていません。
まさに、お父様ご自身が囹圄の立場にあられたかの如くです。実際そうだったのでしょう!お父様がそのような深刻な心情にあられたことを我々祝福家庭は見過ごしてきたことを悔い改めなければならないでしょう!
<修正部分>
お父様のみ言部分で
なぜ私を助けることができなかったのか
⇒なぜ私が助けることができなかったのか
(韓国語の原文を読むと「私を」ではなく「私が」が正しいと韓国在住のNさんから連絡をいただきました。
「私を」ではなく「私が」助けることが出来なかった とすれば、お父様のこのみ言はより一層明確になります。
以下が正しい訳によるみ言です。
<このように囹圄に閉じ込められながら、天子になろうという真なる息子を助けることのできない、逆天地の裏切りの松明を掲げる身が、どれほど哀れなのか知らなければなりません>
神様はそれを見て、先生以上に号泣する立場にあったということを皆さんは知らなければなりません。なぜ私が助けることができなかったのかというのです。このように囹圄に閉じ込められた身で、真なる息子になろうとする者を助けることのできない、逆天地の裏切りの松明を掲げる神様がどれほど哀れだったのかを知らなければなりません。皆さんはそれを感じなければなりません。
出典:み言選集612巻236ページ、2009年05月25日
ここで私が助けることが出来なかったのは・・他ならない・・・「真なる息子になろうとする者」とは顯進様の事です。 その息子を助けることのできなかったのはお父様ご自身の事です。
お父様は真なる息子を助けようとして助けることのできない囹圄の立場にあったと言うことです。そしてそれは神様ご自身がそうであったというのです。
「逆天地の裏切りの松明」とは、我が息子を助けることが出来ない悲痛な立場で「逆理の道」を行かざるを得ない神様の立場、親の立場を嘆息された悲痛なお父様の声であるというのです。
人類の復帰摂理の歴史は、200年前に、神様の一人子イエスを十字架と言う逆理の道に追いやらざるを得ない悲痛な立場を神様は選択せざるを得なかったのです。それは、本来あるべき道ではありませんでした。イスラエル民族の不信仰ゆえの道でした。
今また、再臨の摂理の道でも、逆理の道を行かざるを得なかったのが、お父様の歩まれた道であり、そしてその道を真の息子として歩まれる顯進様も歩まざるを得なくなったのです。それは、必然の道ではなく、信徒の不信仰の結果です。
真のお父様は「メシアの降臨とその再臨の目的」の中で、イスラエル民族の不信仰がイエスの十字架をもたらしたと断定されました。再臨摂理にもたらされた「逆理の道」も信徒の不信仰の結果だったのです。
最も天の前にお父様の前に真なる、孝子であられる子女様を不信して十字架の道に追いやったのは摂理を理解しない教会幹部たち、かつての律法学者やパリサイ人のような人々だったのです。