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HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

師観さんも指摘した朱子学の弊害

2017-05-14 08:39:21 | 愛について

師観のブログ 5月7日の記事中、朱子学の問題点を指摘されていた。

愛の実体とは何か(愛の実体からかけ離れてしまった今のUCの姿)

 それではキリスト教の愛とは何でしょうか?
 
その2

UCに距離をおきながらもお付き合いしてくれている牧師は数人います。その一人の方が郭先生の束草事件の証を聞いて疑問を抱きました。この牧師の疑問は以下の内容についてです:


ところでメッセージの朗読が終わるやいなや、顯進様が立ち上がり、「お父様が私を信じることができず、私のすることがいやで、罰を下さろうとするなら、私一人だけ切れば済むことです。何故お父様の下で働く過ちもない人々まで首にするのですか。私はこのような位置にはもはや、いません」という意味の言葉を申し上げ、立ち上がって裏門から出ていきました。

するとお父様は私に顯進様を連れて来るように指示されました。「私の言葉を聞くでしょうか」と言いましたが、お父様は「つべこべ言わずに連れて来い」と言われました。

・・・、そこに朱東文氏が現れました。多分お父様は朱東文氏に対しても、「顯進様を連れて来い」と言われたようです。それで私は朱東文氏に話してくれと言って戻る途中、訓母に尋ねたいことがあって尋ねました。

「訓母様、これは一体何をしようということですか。その霊界メッセージは訓母メッセージということですが、その内容は何をしようということですか」と私が尋ねたところ、訓母は、どうすることもできずに混乱した表情で言葉に詰まりながら、「会長、私はそれには何の関与もしていません」と言うのです。

名前は訓母メッセージなのに、訓母は何らの関与もしなかったということは、それは、つまり偽りの霊界メッセージということです。

郭先生の束草事件の証終わり


この牧師の疑問とはアボジの言葉に傷ついて、顯進氏が立ち上がって裏門から出て行ったのだから、自分が責任を感じて自分で連れ戻しに行けばよいものを、部下(天使長)に、まるで、上司が部下を顎で使うみたいに行かせるのでしょうか?と言うことです。

そして、それはイエスとは全く違うというのです。それもそのはずです。牧師の説教と言えば、以下の聖句を引用して、イエスの謙虚さについて説くのです。


「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しょうとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。

人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました。」
(ピリピ人への手紙2/6-9)


親の言葉が原因で子供が立ち上がって出て行ったのだから、親子の問題は、親自ら出て行ってよりを戻さないと解決しないことでしょう。

自分の言葉で起きた問題を天使長に命じたところで、息子の傷つた心を取り戻すことは出来ないでしょう。自分で蒔いた種は自分で刈らねばならないのです。

アボジ自らが”神と等しい者であることに固執しょうとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり”呼び戻しに行けば、さすがの顯進氏も断れなかったでしょう。

それゆえ、その牧師はこの点がアボジとイエスの違いだ、と言うのです。イエスの己を無にした姿勢はギリシャ語でケノ-シスと呼ばれプロテスタント神学の重要な役割を担って来たのです。

私も己の魂が打ち砕かれ、本当に謙虚になった時に、神が相対してくれました。その時、悟ったことは、神はもの凄く謙虚な方で、万物よりも下にいて、全てを支えているという神体験でした。

類は友を呼ぶといわれるように、人間が謙虚になると、神に似てくるので、相対してくれるのです。従って、愛の実体のその2は己を無にして一番下に置く人格を形成することです。

一般に、原理では、神は絶対主体の立場にいるから、絶対マイナスにになると、神は相対すると説かれています。

しかし、神は絶対マイナスの立場にいるから、絶対主体になれるのです。この世でも、偉い人ほど、頭が低いと言われています。「垂り穂」はその中身が実れば実るほど、稲の穂が垂れるのです。これは神に似た普遍の原理でしょう。

統一家の親子関係は恐らく、これは李王朝時代に形成された朱子学の親子観と言ってよいでしょう。親は子供を生んだ時点で権威をもち、生んで育ててもらった子供たちは親に絶対服従し、自分を犠牲にして忠孝を尽くすことによって、家庭の秩序が保たれ、社会秩序が保たれるという。

だから、アボジは、自分で起こした親子問題でも、部下に命令して連れて来いといったのでしょう。

TMも似たような感じで女王として君臨しています。とても、ケノ-シス神学(己を無にして一番下に置く神学)を体得しているようには見えません。

どんなに高い位置にいても常に己を一番低い位置に空じている宗教とその教祖は時代を超えて生き残りますが、それが出来ないとその宗教は時代と共に消えて行きます。

すでに、その兆候がUCにおいては、教祖の妻と娘からその教義否定と言う形で出来ています。


お父様の聖和4周年記念式典の時に久しぶりに姿を見せられた誉進様。その期間に天一国学術苑創立セミナーがあり、そこで誉進様が『原理講論は、家父長的キリスト教と儒教文化の影響で男性中心主義の誤りに陥っている』と言う論文を発表したそうです。
http://damalhae3.blogspot.kr/2016/09/blog-post_68.html

 


朝鮮朱子学の弊害については当HOPEブログも指摘して来たとおりです。
朱子学のどこが間違っているかと言うことの詳細の説明は省くが、朱子学の結果がどのようなものだったのかという実際を見れば、朱子学の過ちをはっきり知ることが出来るであろう。

たまたま地元の図書館で新規購入された書籍の中に朱子学に関する新刊本があったので借りて来てみた。
「日本と朝鮮の朱子学」 福田殖(ふくだ しげる)著作選集Ⅱ   である。
福田先生は九州大学修士修了、その後九州大学教授などを歴任、今は九州大学名誉教授であられる。
福田先生は、朱子学・陽明学の専門家であられて、多数の著書を著しておられる。
 
この著作には朝鮮朱子学の雄、李退渓のことなどが取り上げられているが、HOPE子が気になったのは、中国 明国の遺臣朱舜水について冒頭に記述されていたことである。
 
朱舜水は、「明」の滅亡後、明朝の復興運動を起こしたことで知られ、ベトナムや日本など各地を東奔西走するが、結局明の復興は為せず、日本に6度訪れ最後に日本に定住した朱子学者であった。
 
この朱舜水に深く傾注したのが、黄門さんこと水戸光圀公であった。朱舜水のあまりにもと言っていいほどの純粋な学問姿勢に惚れ込んだのが水戸光圀公であった。
こうやって生まれたのが、幕末維新にも重大な思想的影響を与えた、水戸学であったという。
水戸光圀は助さんこと佐々木助三郎に命じて「大日本史」を編纂した。ここで南北朝について触れて、南朝こそ正統であるとの結論を述べているのである。
 
著者の福田殖先生は王陽明についても著述を残されている。朝鮮および日本の儒学についてはかなり詳しく著述をされている。
 
 
さて、肝心の朱子学とは?と言うことであるが、一般の読者には退屈な話かもしれない。しかし、思想的に見て行くと、朱子学がもたらした問題点は極めて大きい。
簡単に言えば理を先立てるあまり、愛が蔑ろにされてしまったというべきなのであろうか?
ともかく、政治の主体者がこの朱子学に傾注しすぎると、対象格の存在に極端な美学を強制しすぎて、結局滅びに至るルートを取らざるを得なくなると言うことであろうか!
 
朝鮮もそして日本も、この朱子学をあまりに強調しすぎた結果が国家の滅亡につながっているのである。
その傾向性は北朝鮮の主体思想にも顕著に表れた。人間主体を絶対化しすぎて、その主体が愛を失うと、民心を離反させ、ついには天も見捨てる結果となるのである。
 
その硬直した価値観は、今の家庭連合幹部の教会運営の姿勢にも現れている。
いずれ滅んでいかざるを得ない必定の日を歩み進んでいっているようである。
 
この項はまた改めて書き進めて行きたいと思います。 (続くです)
 
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宇宙の中心が何であるかと尋ねると「父子の関係だ」と答えを得るのです

2017-05-10 05:49:45 | 愛について

Apr.30.2017の「今日の訓読のみ言」  神様と人間は父子の関係   宇宙の根本を探して (今日の訓読友の会)から再度引用させていただきます。

 

神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入って、この宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だと、答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。(48-209, 1971.9.19)

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、「父と息子、娘の関係、父子の関係だ」と言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係をいっているのです。(19-160, 1968.1.1)

 

神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会える最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です
 そのようになれば愛と生命と理想は、一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。(69-78, 1973.10.20)

 

 

神様の愛と生命と血統は父子の関係で伝授されます。神様と人間の関係は父子の関係です。だからイエス様も「天にいます我らの父よ!」と神様のことをそう呼ばれました。だから我々も神様のことを「天のお父様」と呼んで祈るのです。

神様の永遠の真の愛は神様の二性に似せて分立された実体として創造された人間の男女が出会う点を中心として愛が結実され伝授されそこから新しい生命が生まれ愛が育まれ血統が結ばれて行くのです。真のお父様が「絶対性」と語られ「絶対生殖器」と語られたその位置です。

この日のみ言の最後です。もう一度引用します。

男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。


「真の愛の起源が神だ」と言うことですね。私たちはともすればそのことを忘れてしまいがちです。私たちが今いただいている愛も生命も血統もそこから始まっていると言うことを忘れてはいけません。

とかく私達は、目の前にあらわれる事象や事実に捕らわれがちになってしまいます。どうしても目の前の実体に目が行き、事実を取り違えてしまいがちになるのです。じっくり宇宙の根本に心を致して、迷いを去り、惑わしを避けて心の奥底にある良心の声に耳を傾けてみてはどうでしょうか!

神様の愛が何を私に語り、何を私に呼び掛けているかがわかってくるに違いありません。

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[朝鮮戦争(韓国動乱)Korean War]を知らない韓国の小中高校生と大人たち・・ここまで偽りの教育が(呆)

2017-05-09 03:33:20 | 愛について

当ブログ村午後のカフェ・オレさんがリブログしている記事を見て驚きです

”韓国では北朝鮮と戦った1950年6月25日~1953年「朝鮮戦争」は一切教えていない(1)”

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かなりショッキングな記事です。本当に「朝鮮戦争(韓国動乱)」を知らない韓国の小中学生、大人たちとは驚きです。しかし、事実なんですね。朝鮮戦争が日本との戦いだだったなんて本気で信じている。教育とはある面恐ろしいものです。

しかしこれが事実なんでしょうね。

ここまで事実と異なる教育をしているとは俄かに信じ難いが、現実の韓国の世論を見ればそれが事実だと思わざるを得ない。ここまで嘘偽りを国民に教育したらどのような結果になるのかわかりそうなものだが、そういうことが平気で行われてきたことに戦慄を覚える。

いかに日本が憎いと言ってもここまでするでしょうか!怒りを通り過ぎて憐れみを覚える内容です。


統一家、家庭連合においても嘘偽りの教育が平気で行われています。赦し難いことですが、過ちは自ら刈り入れなければならないのが歴史の原則です。

嘘と偽りで民を騙し続けて来た北朝鮮の金王朝ですが、南の韓国も嘘と偽りで国民を騙し続けて来たことが歴然です。

この民族が正義を取り戻すことはないのか!真実に目覚め、正義を取りもどすことが出来なければ、民族国家の存続自体が危うくならざるを得ないであろう。たとえ北の王朝が滅びても、たとえ南北が統一されても、国家民族に真実が無ければ存続は難しいであろう。

真に賢明なリーダーが出現しなければこの民族と国家の再生は考えられない。

韓国が故国の生んだ偉大な精神リーダーである、文鮮明師の教えや精神を受け入れて、真実と愛に目覚めた国民に生まれ変われば別であるが・・・


愛されることを求め続け、愛する主人になることが出来ずにいる食口たち

2017-05-06 23:37:52 | 愛について

真のご家庭のご苦労を思うと胸が痛くなる。ご子女様を犠牲にして食口たちを愛し続けられた真のお父様だった。いつもいつもアベルの子女である子女様よりもカインの子女である祝福家庭・食口を愛し続けられたお父様だった。

にもかかわらず、食口たちは子女様を愛することをせず、さらに真のお父様から愛されることを求め続けて来られた。

受け身の愛、愛されることのみに満足を得て、自ら愛する主体になることが出来なかった。真のお父様の教えの本質を理解することが出来ず、愛において未成熟なまま、「み旨だ、摂理だ」と歩み続けて来た。巧みにサタンは侵入してきた。

 

真のお母様にも寂しい思いをさせて来た

真のお母様にも寂しい思いをさせて来た祝福家庭であった。真のお父様が食口たちを愛する時、いつも捨て置かれたような立場に置かれていた真のお母様では無かったのか!その寂しさがどれほどの限界状況だったのかと胸を打つ。

だから真のお母様が独自の道を行こうとされたことも理解できないわけではない。しかしだからと言って食口たちがその道にともに行ってもいいのか!それは違う。

 

我々祝福家庭は真のご家庭がもっとともおられて、ともに愛し愛される時を持つことが出来るように配慮しなければならななかったのではないのか!

 

真のお父様が北から逃れて、釜山で避難民の生活をしながら、あのボンネッコルの小屋に食口を集めてみ言を語られていた時、やってきた聖進様とそのお母様を寂しく待たせて帰らせてしまったそのことが真のお父様の最初のご家庭を破綻させてしまった大きな要因になったのでは無かったのか!

 

カインの子女を先に愛され続けられたお父様

真のお父様は蕩減復帰の原則からカインを先に愛されるという歩みを常に続けて来られた。それは愛の減少感を感じたカインがアベルを殺害することでアダム家庭の摂理が破綻したことを蕩減復帰しなければならなかったからである。

 

我々祝福家庭は真のお父様が真の子女様や真のお母様を犠牲にして愛されてきた存在であることを忘れてはならない。そのように愛されて来たのだから、我々は真の子女様や真のお母様を愛することで答えなければならないし、真のお父様が愛されたように隣人や世界を愛する実践者とならなければならなかった。

しかし、最後の最後までそのことが出来なかった。そして今もできていない。

我々祝福家庭は悟らなければならなかったのである。み言を通してみれば、我々がどうしなければならないのか・・・珠玉のお父様の語られたみ言の数々を味わい悟れば、我々はどうあるべきかと言うことがわかるはずなのである。だからこそ「訓読」を強調された。

 

み言の訓読を通して

み言の訓読を通して、真のお父様の心情と事情と願いを知るようになれば、自然とお父様の本当の願いが何かを悟ることが出来るようになってくるはずなのである。

ダンベリーの入獄生活を共にされたのが神山威会長だった。日常的に真のお父様と生活を共にされながら、お父様のみ言集を読まれていた、そこから「訓読」が始まった。真のお父様の生涯の歩みの基本が「真の愛」にあったことを骨の髄まで実感された神山会長だった。真のお父様が、時として「A]と語られても、実の願いは[B] であることも、ともにその心情を理解するとわかってくるのである。

 

侍ると言うことは そして本当の忠臣とは

侍ることはそう言うことである。師の語られる言後の事情や願いを知ることは復帰摂理の背後の神様ご自身の悲しみを知る事にもなるのである。真のお父様が「顕進について行くな!」と言われたとしても、お父様の背後の神様の心情圏に立ってみれば、お父様の本当の願いが何処にあるか悟らねければならないことなのである。そのことを理解できたのが神山会長だったことを知るべきです。

本当の忠臣とは真のお父様の涙をぬぐって差し上げることのできる者です。真のお父様に叱られたとしても真のお父様の涙をぬぐい、真のお父様の悲願を実現して差し上げるものが本当の忠臣です。神山会長がそのような生涯を歩まれたことを今よく知ることが出来ます。その本当の忠臣を日本教会は排除し、除名してしまいましたが、今となれば誰が本当の忠臣かは歴然としています。

 

しかし、それもまたすべての祝福家庭と、人類すべてを救いに導こうとされた途轍もない愛であることを悟るべきです。

全ての祝福家庭は心静かに何が本当のみ旨であり、何が本当の愛なのかを悟るべきです。それは盲目的従順の道ではありません。それぞれが、自らの「良心」に問い求めて行かなければならないことでしょう。

 


すっかり愛の冷めた「家庭連合」・・・塩味のなくなった塩

2017-05-03 21:51:13 | 愛について

聖書:マタイによる福音書 5章13節「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 

愛のなくなった教会

最近の統一教会(家庭連合)には愛が感じられなくなってきた。私の主観かもしれないが・・・

愛と寛容がキリスト教の心情だったと思う。どんなに裏切りやどんなに反逆があっても赦しと愛が感じられたのがキリスト教だった。成約時代を迎えて・・愛の完成時代だと思うが・・・人々の姿に愛が冷えてしまっているような気がする。

裁きの言葉が多い。「問答無用!」の通達や公文が横行している。  こんな教会だったかなあ?常日頃感じることが多くなってきた。最近の神山会長や、櫻井夫人に関する教会の発表や、通達文を見ると・・とても寂しさを感じる・・・・愛情が亡くなったなあ・・・寛容が亡くなったなあ・・・愛のゆとりが感じられなくなったなあ・・・

 

人は愛に引かれてやってくるものです。愛が無くなったら何に引かれて人々は集まってくるんでしょうか?厳しい裁きと審判が待ち受ける世界には誰も足を踏み入れたくはないはずです。

自由な心情の発露するところこそが我々の求める本郷の地です。  愛があふれてやまない教会が我々が求めて来たところです。その教会がいつの間にか寂しいさばきの場となっています。盲目的な従順だけが求められる教会には希望を感じることが出来ません。

 

塩味のなくなった塩は捨てられるだけ?

地の塩・・という聖書のみ言があります。

塩味が無くなった塩は捨てられるだけと言う聖句があります。 愛のなくなった教会はどうなるのでしょうか?