「曖済證文の事」、まとめ
其の⑩、中途で中断する時は、両村相談して中止し、その後再開する時は、初日から上下入り合いに引く。但し、上村の者で三日間先に引く取り決めを破り、その前に引いた者がいて、下村の者が違反を見付けた時は、三日間上村優先との取り決めを無しにして、初日から上下入り合に引いてもよい事にする。同様に、下村の内にも不心得者が居て、四日目まで待たずに引き場所で引いたのを見付けた場合は、上村優先三日間を六日間に延長する。
上下とも、銘々に購入した山林の苫は、それぞれ勝手に引いたらよい。東西とも、野合い見通して、下浦領内の苫については、下浦が勝手に引いたらよい。見通しの際限より奥側の上村領内については、前記の入り合い引き場所以外は、従来通り上村の者が引くのは自由である。
其の⑪、氏神の棟札の件は、今までの分は氏神の内部へ納めているので、そのままにして置くものとする。尤も、田並上下持ち合いの宮であるのは間違いないので、田並浦とのみ書き付けた棟札は、今後修理するときに、田並上下と訂正する様約束さして、その様に取り決めたところである。
其の⑫、以上の他に数箇条の取り決めが有るが、今まで通り上下とも支配すると取り決める。
以上の通り、双方が納得して、近隣の村役人の仲介により、「解決済證書」を作成し、双方取り交わした。後日紛争が起こらない様に以上の内容を証書として残す。以上
この文章が、済まし證文になります。本文の作成者は田並浦庄屋・肝煎・組頭四人・頭百姓四人の記名捺印と百姓全体も承知しています。宛名は田並上村庄屋・肝煎と百姓全体です。田並の組頭が四人と言う事は、田並浦には灰地・下地・前地・向地と言う四つの組が有り、それぞれに組頭と頭百姓がありました。その組は、現在四つの同名の区として残っています。
同じ内容で田並上村が作成し、田並浦に宛てた文書が有る筈ですが、田並浦の古文書は見つかっていません。
其の⑬、最後に仲裁人の記名捺印があります。仲裁した人は、大庄屋とか代官とかの地位の上の役人で無く、それより下位の立場の近隣の村役人になっています。周参見浦や周参見の平松庄屋が入っているのは、距離的に理解出来ませんが、代官所の所在地だから入っているのか?
いずれにしても、二十一章と二十二章で、苫草と言う植物の重要性が、よく判ります。苫は、広辞苑によると植物の菅「すげ」や茅「かや」で、民家の屋根に葺いたり、漁船の覆いにしたり、菰「こも」(むしろ)、俵「たわら」を作ったりして、広く使用され、生活必需品でした。したがって買い手は多く、苅ってさえおけば何時でも換金出来たのです。
勿論自家用にも必要ですし、当時のお百姓さんが目の色を変えて争奪戦をするのも判るような気がします。明治後年の小学唱歌「我は海の子」の歌詞に「煙たなびく苫屋こそ、我が懐かしき住みかなれ」と歌われています。苫草紛争終わり。
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