「バラバ」でも少し書いていますが、ここでは、ラーゲルクヴィストの作品について、
少しまとめておこうと思います。
「「刑吏」「こびと」は、ともに人間の悪意が前面に出ており、
「こびと」では主人公がそれを象徴しています。
しかし、「刑吏」においては、呪われた存在である首切人の闇の力が、病気を治したり、
子供の運命を救ったりするのです。
この闇の力こそ、ラーゲルクヴィストの一連の作品に共通するものです。
ラーゲルクヴィストの考える闇の力とは、単なる悪というものではなく、人間の奥底に潜む暗黒に、相反する両義性を見出しています。
そして、その二様性を肯定しており、相反するものの関連を小説にしているといえましょう。
「バラバ」では、人間の悪意はそれほど強調はされていません。
ここでは、神の力が二様性を示しており、
一人の人間という個の存在から集団へと対象を広げているようです。
バラバは物語の中で、キリストの奇跡によって生き返った男と対面しており、
生き返ったことを正しくないと感じます。
神の力は強大であるけれど、慈悲を与えることもあれば、理不尽なこともある。
ラーゲルクヴィストは、彼の感じる深淵を、神の力という人知には計り知れないものに置き換えているのではないでしょうか。
バラバの最後の言葉は、それ以前の<暗黒>にかかってくると思うのもそのためで、バラバは暗黒へと、深淵へと還っていくのだと思います。
「巫女」では、その主題がさらに深まっているようです。
ここで言う神とは、主であり、ギリシヤの神であり、土着信仰の神でもあります。
すべての神は同一の根を持ち、さらには人間の奥底にある暗黒とつながっているのです。
「巫女」に続く「アハスヴェルスの死」では、キリストに呪われたさまよえるユダヤ人が、自分から呪いを解き、安らぎを得ます。
何故彼は死を受け取ることができたのでしょうか。
ここで、少し後戻りしてみましょう。
「刑吏」では、首切人に付き従う女性が登場します。
彼女は、刑吏の感じる痛みや傷を愛情によって一時的ではあっても癒します。
「こびと」の主人公は、愛を憎悪し、「バラバ」は愛を理解しません。
では、アハスヴェルスはどうでしょう。
「巫女」における彼は、キリストを憎み、自分にかけられた呪いを憎み、絶望しており、周りのことはまったく目に入っていません。
しかし、「アハスヴェルスの死」では、自分と同じように神に魅入られた男トーピアスと出会うことで、キリストも神の犠牲者の一人であることを知ります。
アハスヴェルスは、キリストと共感することによって死を得るのです。
「アハスヴェルスの死」では、聖なるものとそれを阻む神という存在が対立していますが、2つを結びつける役割を「愛」が担っているのではないでしょうか。
人間の奥底にある暗闇の相反する力を調整するのは、
愛=共感ではないかと私は感じています。
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「「刑吏」「こびと」は、ともに人間の悪意が前面に出ており、
「こびと」では主人公がそれを象徴しています。
しかし、「刑吏」においては、呪われた存在である首切人の闇の力が、病気を治したり、
子供の運命を救ったりするのです。
この闇の力こそ、ラーゲルクヴィストの一連の作品に共通するものです。
ラーゲルクヴィストの考える闇の力とは、単なる悪というものではなく、人間の奥底に潜む暗黒に、相反する両義性を見出しています。
そして、その二様性を肯定しており、相反するものの関連を小説にしているといえましょう。
「バラバ」では、人間の悪意はそれほど強調はされていません。
ここでは、神の力が二様性を示しており、
一人の人間という個の存在から集団へと対象を広げているようです。
バラバは物語の中で、キリストの奇跡によって生き返った男と対面しており、
生き返ったことを正しくないと感じます。
神の力は強大であるけれど、慈悲を与えることもあれば、理不尽なこともある。
ラーゲルクヴィストは、彼の感じる深淵を、神の力という人知には計り知れないものに置き換えているのではないでしょうか。
バラバの最後の言葉は、それ以前の<暗黒>にかかってくると思うのもそのためで、バラバは暗黒へと、深淵へと還っていくのだと思います。
「巫女」では、その主題がさらに深まっているようです。
ここで言う神とは、主であり、ギリシヤの神であり、土着信仰の神でもあります。
すべての神は同一の根を持ち、さらには人間の奥底にある暗黒とつながっているのです。
「巫女」に続く「アハスヴェルスの死」では、キリストに呪われたさまよえるユダヤ人が、自分から呪いを解き、安らぎを得ます。
何故彼は死を受け取ることができたのでしょうか。
ここで、少し後戻りしてみましょう。
「刑吏」では、首切人に付き従う女性が登場します。
彼女は、刑吏の感じる痛みや傷を愛情によって一時的ではあっても癒します。
「こびと」の主人公は、愛を憎悪し、「バラバ」は愛を理解しません。
では、アハスヴェルスはどうでしょう。
「巫女」における彼は、キリストを憎み、自分にかけられた呪いを憎み、絶望しており、周りのことはまったく目に入っていません。
しかし、「アハスヴェルスの死」では、自分と同じように神に魅入られた男トーピアスと出会うことで、キリストも神の犠牲者の一人であることを知ります。
アハスヴェルスは、キリストと共感することによって死を得るのです。
「アハスヴェルスの死」では、聖なるものとそれを阻む神という存在が対立していますが、2つを結びつける役割を「愛」が担っているのではないでしょうか。
人間の奥底にある暗闇の相反する力を調整するのは、
愛=共感ではないかと私は感じています。
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私も何年か前にTV番組で見たことがあります。
「親分はイエス様」って・・・いえ、信じるものは救われますから。
<どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか>(マタイ27・15~17)
これですね。
日本で言えば、鈴木さん、佐藤さんみたいなものかしら。
あ、ご報告です。
気がつかれたとは思いますけど「新化」に石黒氏からコメントいただきました!
in USAです。
さすがネット、グローバルです。
吃驚仰天&半信半疑(本物?)と思いつつ、英文だし、やっぱり本物だああ~、と数分間じっとPCを見つめていました。
これもmumble さまが、本を紹介してくださったおかげです。
感謝~~~
GOOブログが破壊工作の標的にされない限りは(笑)
もし、システムの不具合で消滅したら、絶対抗議してやる!
モンティ・パイソンといえば、私が小さいころにTVで見た記憶がありますよ。
戦場で笑い死にするやつ。
多分、小学生ぐらい、しかも低学年で見たにもかかわらず、今でも覚えてるって、どういうこと?
もしかして、こういう下地があるから、DWもいけるってことかしら。
そうだったのかぁ。
本を借りては、読まずに返す・・・そんな繰り返し。
その上、ブックオフに行っては、山脈が高くなる有様。
しかも、上巻しかないとか、下巻しかないとか、そんな本まであったりして。
下巻しかない本を、馬鹿じゃないのかと思いつつ、なぜ買う、自分。
いつか積読本解消しなければ。
最終チェックですか。
ゴールはすぐそこですよ!
頑張ってくださいね。←心から希望
4月には花祭りなどもあり、小さいころから天上天下唯我独尊などという言葉を知っていたものです。
キリスト教を知ったのは、小学校に入ってからで、キリスト教関係の施設があったのでしょう、よく覚えていないのですが、クリスマスの催し物に子ども会単位でお呼ばれした記憶があります。
そこで、キリスト降誕の紙芝居を見せられたのですね。
シスターという灰色の服に身を包んだ人を見るのも初めてなら、クリスマスがキリストの誕生日だというのも初めて知りました。
そういえば、日曜日に教会へ通っていたお友達もいましたね。
神様のいたずらというか、神の罠を感じたことは、今までの人生の中、何回かありますね。
あまり思い出したくないことばかりですけど、笑えるネタをひとつ。
私は元々就職には恵まれてなくて、何回か就職しては、あまりいいことがなかったのです。
それで、現在の勤務先に面接に行く途中、自転車の車輪にスカートを挟んでしまったのですよ。
そりゃあ、見事に破けました。
ついでに黒ズミもできました。
家に帰って着替えてみたのですが、もう面接に行く気を無くしてしまい、その足でハローワークに行って、就職先を探したんですね。
ファイルをパラパラ捲りながら、待てよ、これは神様の試練ではないのか?、と思い立ち、もう一度会社に連絡を入れて、その日に面接をしてもらったのです。
あれから3年、とりあえず今の就職先には満足しています。
今までの人生、神様はどうにも私がやりたいと思うことを阻止しようとしているとしか思えないことばかりでしたが、初めて反抗してみました(笑)
ささいなことですけどね。
明日は昼寝してやる~~(ささやかな幸せ)
ラーゲルクヴィストの布教活動をなさってくれたようで(笑)
確かにキリスト教は愛の宗教といわれていますね。
キリストはなぜ呪うのか。
右の頬をたたかれたら左の頬を差し出せ、なんてことも言っていましたよね。
だったら、アハスヴェルスを呪うのは、おかしいなことです。
実際に聖書にこの記述があるわけではなく、このエピソードが巷で流布される類と考えると、神や偉大な力に対する人の恐れが現れているのじゃないでしょうか。
ラーゲルクヴィストは、神の力(闇の力)を両義的なものと考えているようなので、愛だけを説く宗教としてキリスト教を扱ってないのだと思います。
「憎悪の宗教」面白そうですね。
そういえば、本借りっぱなしですね。
お返ししなきゃ。
「ソウル・ミュージック」、買っちゃおうかとアマゾンでみたら、在庫がないらしい。
売れてる証拠?
あわせて買おうが「銀河ヒッチハイクガイド」でした。
あ、これ数日前に注文したやつ。。。
いろいろ考えさせる本ではあります。
お貸しした本はありませんよ。差し上げたものですので、ご不要であれば、DW布教に使ってくださればありがたい。
じゃあ、お誕生日プレゼントってことに勝手に決めておきます(笑)
娘も大喜びですよ。
だって、今、彼女の本棚に収まってますし。
宗教って、いろいろ調べだすと止まらなくなりそうな予感がして、あまり足を突っ込んでいませんでしたが、いつかは極めてみたいテーマではありますね。
自分が宗教というものに興味を覚えたのは、中学生のころでしょうか。
遠藤周作「沈黙」が教科書に載っていたのがきっかけだったと思います。
そのころから、なんとなく深みにはまりそうなイヤな予感はありました。
まあ、いまではいいオトナなんですから、そういうこともないでしょう。
無意識レベルで敵を吹き込むとは、なんとも戦略的ですね。