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SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

「今」という瞬間の儚さ

2023-11-19 18:58:00 | Essay-コラム

私が17年前に19区音楽院で教え始めたころの、第一期即興アトリエの生徒だったフルートのDちゃんは、今では立派な大人になって、私の音楽院のクラスで教育実習をし、プロのフルーティストとしてついに教授になった。


先日は日本に行っている間、彼女にクラスの代行を頼んだばかりだったのだけれど、この度、彼女がついにパリ郊外の音楽院の教授の地位をもらえた、という嬉しいニュースを聞いた。彼女のほうも、即興の教え方について色々質問があると言うので、お昼を一緒に食べつつ、ささやかなお祝いをすることにした。


本当に久しぶりに話せて思ったのは、彼女もまだ小さい子供だったころにパリ市立19区音楽院を出て、パリ地方国立音楽院に入ってからと言うもの、本当に大変な思いをしながら、紆余曲折を経て荒波を乗り越え、何とかここに辿り着いたんだな、ということだ。


パリでフルートを勉強してプロになるということは生半可でなく、そこは著名フルーチストの過密地帯であり、熾烈な有名教授同士の駆け引きがあり、生徒たちはそういう奔流のボートに乗っかって、時にはいい成績を貰ったり、失敗したり、先生の言葉に傷つけられたり、また逆に先生を傷つけたり、(この辺って音楽は熾烈なのだ。音楽って人の心に入り込むものだから、特に若く前途多望な時は傍若無人で、人を傷つけているっていう認識を持たない、私もそうだった、すみません先生方🙏)、才能があるばっかりに中学の音楽科では周囲から妬まれ中傷されたり、また逆に才能もないのに巧く立ち回ったものを妬んでしまったり。 


彼女の通って来た道の話を聞いているだけで、自分のパリ国立高等音楽院時代の「のだめちゃん」のような酷い思い出が沸々と蘇ってきて、あー同じだよなぁ、暗黒な時代だったなぁー、て思う。


でも、そういう厳しい体験があったこそ私やDちゃんの今があるのだから、そういった体験こそ必要なのだ、と言ってしまえばそうだし、出来ればそんなイヤな経験なんてしないでもっと楽しく音楽を学べないものか?と自分の子供や生徒たちの為に思ってしまう、これも自然な親心というもの。



話は変わるが、日本滞在中、母が最近読んだ本の中でイチオシという「思いがけず利他」(中島岳志著、ミシマ社)という本をくれたので、飛行機の帰り道読んでいたのだけれど、大変興味深い考察があった。


それは「今」という時間に関する考察。


「今」ってよく考えると、とても儚く、実際にはそれは直ぐ過去に成り変わってしまう。


「今」って未来から事後的な意味でしか価値を見出されない。だからって合理的に未来を見越して打算的に「今」を過ごそうとすると、「今」の持つ本来の力は枯渇してしまう。


何故なら「今」に開かれた偶然性こそが、不可能性が可能性へ接する切点だから。


Dちゃんとの話に戻すと、今を最大限の直感を開いて生きていてこそ、未来になってからその経験の価値として判断できるのであって、こういう経験をしたらこういう結果が出る、とか、ノウハウ本にして押し並べることは不可能なのだ。


この「今」という言葉を「即興」という言葉に置き換えるとどうだろう。


今という儚く危うい瞬間に、色んな偶然性、可能性が折り重なっている中で直感によって即興的に選ばれたその音こそ、全ての未来の可能性に開かれている。


それこそ、私が即興に憑かれ続ける理由なんだ。


それは絶対に、押し並べたり、もっとらしく論理付けたりなんてできない。何故なら「今」とは嘘をつけない瞬間だから。


Dちゃんは私のクラスを先月代行して、何か特別な感慨に包まれたようで、何度も何度も、興奮気味のメッセージを日本にいる私に送ってきた。


私の生徒たちがとてもアクティブで、自分から何かを求め、音を探そうとするのにとても驚き、かつ当時の自分を思い出し、自分の根っこはここにあったんだ、と気づいたそうなんである。


それで、地位を得た今、即興を自分の生徒たちに伝えていきたいのだが、どうしたら良いだろうかと。


フルートという楽器をいかに操るかを学ぶ、優れたフルーチストという「製品」の製造課程、それを学んでちゃんとフルートの吹ける一人前のプロになったとして、(それだって大事だし、相当に難しいことだが)、もっと大事なのは、ではその素晴らしい技術から何が産まれるのか?あなたの根っこはなんだ?ってこと。


Dちゃんが紆余曲折を経て一人前のフルーチストとなり、かつ私の生徒たちを通して「自分の根っこはここにあったのだ、これこそ発展させるべきものだ」と今、感じてくれた。


当時の私とDちゃんが出会い、即興を通して教えていた過去の「今」が17年経った「今」という未来になって、初めて価値となって現れてきた。


まるで17光年離れた恒星の光が、今まさに届けられたような感じ、これこそ中島さんの言うところの「思いがけない利他」、かも知れない。



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