SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

戸は開いている

2020-09-27 11:46:00 | Essay-コラム

教育とは、いわゆる先生が譜面台の前で腕を組んでしかめっ面して「このようにしなさい」とか言うことではなく()自分を見せて、限界まで見せて、出来る限り演奏して聴かせ、生徒との時間を楽しみ、発見し、自分の発想を考え直すことだ。


生徒たちとのどんなに小さいやり取りでも、自分が完全に自由な発想でなかったこと、何かの概念に囚われていたことを発見させてくれ、それを正せるから、彼らは美しい鏡である。


それには彼らとの時間を本気で楽しむことが必要だ。


そういうやり方をしていたら、学生は、自分自身を見せざるを得なくなってくる。


最初はいわゆる世間基準で良い生徒を演じていた子たちも、だんだん心を開き、その子そのものの感性で話すようになってくる。


自分を他人にそのまま見せるには、自分の中身を勇気を持って自分で見ることが必要だ。


または、自分で耳を開き、聞くことが。


私たちが自分をごまかすというエゴをも乗り越え、全力で一緒に楽しむためには、音楽をお互いが本気で愛していることも重要だ。


どのぐらいできるかできないか、というテクニック次元ももちろん重要だが、それとは別に魂で音を追えるかどうか。これは12音しか出せない小さな子供であろうと、プロを目指す学生であろうと同じ。しかしその次元で音をとらえてない人はどうしても外側の「レベル分け」や音楽の「ジャンル分け」また「名声」などの商品陳列の方に興味がいってしまう。


そういう外側の状況の方が自分の内側を見ることより必要な人たちだって、この世界には沢山いて当然だから、そういう場合はどうぞ戸は開いています、他にいくらでも違った考えの世界はありますから、と自由に出て行ってもらうことにしている。


学校では担任は毎年変わる。音楽の世界では1年ごとは早過ぎるし、音楽のメソードは少なくとも数年はやらなければ芽が出ないと思うけど、でもたまたま1人の先生に会ったからって、もしも何かが違う、と感じるのなら、もうちょっと先生を変わる意思を尊重できたらいいのに、と思う。(普通は先生が怒ってしまうか、学校側が認めないかだ)


どこかでどちらかが拒否してエネルギーが循環してないのを無理やりそこに押し込めていると、みんなのエネルギーが滞り狂ってしまうだけなので、

戸は開いているに越したことはないのだ。


本当に自分が伝えたいことを実際に伝える、という意味では、音楽の教育とは殆ど意味がない。(キース・ジャレットが言っているように、「ここで重みを感じて」と教えても、ただ「重くなる」だけである」ほんっとうだ!!)


でも、私は長年教えてきて、やはり生徒たちはすぐには「マネ」だけで終わるとしても、長いスパンで、「自分で感じる」ことを覚えていっていると思う。


その証拠に、私の生徒たちはみんな、自分が何者であるか理解し、どれだけ出来るのかもはっきり自分で理解し、それぞれが自分の一番信じることの出来る道を自分で見つけて、それぞれ頑張っている。


生徒たちは、私の分身みたいで、どんなに遠くにいても、いろんな方法で私にエネルギーを還元してくれている。


どんな種類の仕事に就こうと、大きな木にいるみたいに、それぞれの運命の源が「音楽を愛する」力と繋がっていること。


それこそ、自分をいいところも悪いところも全開にして、一緒に本気で楽しんだ時間でしか伝えられないことだと思っている。


意味がないことを、精一杯やる!これこそ音楽の、人生の醍醐味じゃないのかねぇ、と私は個人的に思う。


だから意味を探している人は、自由に開いた戸から出て探しにいったらいいと思う。


ただただ瞬間瞬間を精一杯やっていたら、その穴の先には、いきなり光が見えて、気付くと光の方向に引っ張ってくれる優しく強い運命の手が、そこには現れているのだ。


それは探さなくても、自分のなかにある。




「あなた自身への道ほど長く遠く続く道はない。
辿り着くたびそこは幻影だ。
あなたの静寂の中で、私の声が近づいてくるのを聴きなさい。」

メトロの中で見つけた詩。