SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

初夏と井戸2023

2023-05-10 21:01:00 | Essay-コラム

2023年に年が変わる周辺ごろから、強制リセット宣言が色んな所からかかっていて、しまいに4月の誕生日周辺は、もう身体が根を上げて実質休養を余儀なくされました。ほんとうに人生とは、小さな声に良く耳を澄ませていないといけないと思う今日この頃。


これまで40代はがむしゃらに自分のやりたいことをなんとか全力で走って形にしてきた感じがあるが、人生後半に向け、それらを一度リセットしてもっとクリアーに深く掘っていく必要がある。


それにはもっと透明で静かな精神性が必要になる。


あくせくイライラして色んなことを忘れたりせず、もっと静かに時間をかけて物事に取り組めないものか。


これまでだって自分のしたいことにいっぱい時間をかけてきたはずだけど、けっこう色んな人を助けたいがために四方八方に散っていたこともあるので、もっと集中して私の見つけたものにもっともっと、たっぷり時間をかけて、磨きをかけないとならないと思う。


腰を落ち着けて理論的に考えたり、感覚的にも深く感じる時間を持たなければ。



演奏方面、自分の即興や即興アトリエでは、これからこれまでやってきたことを、もっと自由な方向に解放させていきたいと思う。学生のころやっていた自由即興への、しかし同じ次元ではないスパイラル的回帰。それにはもっと自分が論理的に突き詰めて、楽器でもっと細部まで表現できるようになれることが必須。


書く方面では、この9月、新学期から始まる1910区音楽院合同の学生オーケストラセッションに向けて、私の作品とマックス・シラの作品併せて6点のオーケストレーションという、人生初の大きな宿題がある。


これを機会に、これまで四方八方に書き飛ばしていたこの新しい方面も、もっと精密にちゃんと出来るようにならないと。


これまでアトリエや色んなコンサートで実践してきたアレンジをオーケストラという大きなパレットで、どうやって書くか。一緒にお仕事をさせていただく新進女性指揮者、ジャンヌ・ラトロンさん(若くしてこんなに醸成した人もいるのね。またしても前世で修行したのだろうか、、、)と協議の結果、うーん、オケって楽器が多くて気が遠くなりそうだわ、、、しかも各楽器それぞれの難しさよ。えーっと、簡単なところから着手していこうっと。(ローテクでハイブリッド脳を持ち合わせてない私は、キース・ジャレットの言うように、書いては消し、消しては書いて進んで行くしかないのです。


先ずは各楽器を知るため、同僚の先生方にレッスンを受けようと思います。



それに、この10月から11月にかけて、ウルクズノフ・デュオに佐藤洋嗣さんのコントラバスを加えたトリオでの日本ツアーを計画しているところです!



日程出揃い次第、ブログ上でも発表しますね。


来年度は、フランスの教授として最高の国家公務員地位を得ること、また娘の学校がパリ中心部になり得ることで、生活もかなり変わるはず。


ということで、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み返していて、とても心に響く言葉がありました。


「僕は負けるかもしれない。僕は失われてしまうかもしれない。どこにもたどり着けないかもしれない。僕に側に掛ける人間はこの辺りには誰もいないかも知れない。しかしこれだけは言える。少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある」


私にとってこの4月は、心楽しい季節だというのに、心迷って行き場を失くし、身体もついていかず、久々に何も出来ない、まさしく「井戸」に入っているような日々だったわけです。


この小説は真夏の描写がたくさん出てきますが、(ノルウェーの森の春の描写といい、季節の匂い立つような描写が登場人物の心理を際立たせて素晴らしい今、全ての緑が噴き出し萌え始める初夏の、生命の圧倒的な匂いが断続的な雨の中にかき立つ季節に、この言葉は「自分はゼロだ」と思うことへの勇気を与えてくれます。


ゼロで空っぽだからこそ、これから入れられるものがあるのですね。


最近先述のジャンヌや、前々回のブログカオスの中の真珠に登場のシャルリー・オブリーなど、20代で若くして卓越したヴィジョンを持った人たちと仕事をする幸運に恵まれました。


シャルリーなんて、その末恐ろしいハイブリッド脳で、ひょいと地球上の全ての事象をアートで繋げて、乗り越えてしまう。


私なんてネットやテクノロジーに苦戦し、飲み込まれないよう対抗しよう、っていう力んでる世代だけど、彼はテクノロジーを逆に飲み込んでしまう度量があるんだよね。彼のヴィジョンでものを見ていると、脳が組み変わってしまうようなクラクラした感覚を覚える。


50歳になった今、もう一度生まれ変わってこういう若い人たちとスタートに立ち、探し求めるもののために人生を始められるかも、なんて思っていたら、なんと服飾アーチスト安藤福子さんから「タブーがタブーを超える」新しい黒いドレスが送られてきました。


私がローテク脳で地道に掘り起こしてきたタブーは、ついにタブーを越えるのか?!()



同僚に激写された、仕事の帰り際(笑)



覚醒した犠牲者

2023-04-21 20:58:00 | Essay-コラム

歯の矯正器具を付けてフルートを吹くことに関し、寛容な先生と寛容でない先生がいると思う。


もちろん生徒の口の形や感受性によりけりだけども、たぶん私は実はまったく寛容じゃないほうだと思う。


別に矯正器具自体に反対、とかそういうんじゃない。私だって、このひどい歯並びを子供の時に治しておけば、長い目で見てフルートがもっと楽に吹けたのかもしれないし、美しい口もとになって、歯に問題の多い今とは違った人生を生きていたのかも知れない。私は今の私を受け入れているけれど、それはそれで違う人生だったのだろう。要するにそれは個人の選択の問題だし、どのみち現実とはパラドックスに満ちている。


しかし、矯正中(2-3年という長い期間になる)に、レッスンが妥協になってしまう事は、私にとっても生徒にとっても多大なストレスであることは確か。


異物のせいで自分ではコントロール出来ないことだから、おいそれとここをこうしなさい、とは言えなくなる。音程が悪くても、器具のせいで細かいコントロールが出来ないからという理由で直せないし、ニュアンスが出せなくても、リズムやアーティキュレーションがはっきり出来なくても、アンブシュアに柔軟性がないせいで息が足りなくても、3点支持の一点を失うわけだから姿勢が悪くなっても、表現が思うように出来ないから力んでなんとか表現しようとしてヴィヴラートが不自然になっても__残念なことに、音楽性がある子ほど犠牲になる__こうなってくるともう、がんじがらめで、双方どんなに着地点を探そうと頑張っても、霧の中を彷徨っているまま数年が過ぎてしまう。


何より感覚の麻痺に慣れること、これが一番恐ろしい。


「すぐ慣れるでしょ」という先生もいっぱいいらっしゃる事は事実。しかし悪い音程や自分の本来の音とは違う不自然な音に耳が慣れてしまったり、「コントロール出来ない事」に体が慣れてしまう、本当にそれで良いのだろうか?


器具を取り払ったあとも、新たに自分の音を取り戻す、自由な体本来の感覚を取り戻すのに時間がかかる。それはもう2度と取り返せないかも知れないし、新しく生まれ変わるかも知れないし、その辺は経験上生徒の数だけバリエーションがあり未知数で、何とも言えない。


だから私は「みんなやってる事でしょ」とか「慣れるから大丈夫」「気にしなくていい」また「やる気さえあれば乗り越えられる」とか単純に言いたくはないと思っている。


一つの感覚は全ての感覚に繋がっている。

管楽器で口の感覚を殺しおいて、でもヴィヴラートには関係ないでしょ?でも指は練習出来るでしょう?でも身体の重心ぐらいは感じられるでしょう?と言うのは、私は嘘だと思う。


感覚は全て繋がっている。

一つのバランスが崩れたら全部崩れる。



先程「音楽性のある子ほど犠牲になる」と書いたけれど、世紀の大即興家、ピアニストのキース・ジャレットが、その著書「インナー・ヴューズ」の中で全くそのようなことを書いている。


彼曰く「ひとつの感覚を殺したことの犠牲になる」、それこそその人が覚醒している証拠なのだ。


以下。読んでみてください。





カオスの中の真珠

2023-04-19 10:23:00 | Essay-コラム

昨年のマルティニーク島の偉大な伝統フルート奏者、マックス・シラさんに続き、今年の即興アトリエへの招待者は、フランスで飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されているアーチストでミュージシャンでもある、シャルリ・オブリーさん。


フランスはトゥールーズの美大を出てから数年間というもの、まだ若いというのに彼のアートは大成功を収め、ローマのヴィラメディチ召喚に抜擢されるなど、多忙を極めている。


こういう人もいるんだねー。

前世で修行を積んだんだろうか。


先日は授業の最初に彼のアートと音楽を紹介していただく時間をとって貰った。


なんとも、彼は並外れて視点が大きいのだ。


アートとテクノロジーの融合する巨大なビー玉回路装置、ローマの道端に落ちているごみを拾い集めて創ったアート、わざとギターのネックを折って、テープで貼り付け、ワイパー運動で音を出させて壊れても音を奏つづける装置、テーブルの下に磁石をくっつけてテーブル上でスプーンが踊って音を出す音楽装置、、、子供たちは彼の作品にすぐに釘付けになった。



子供たちに自分のアートを紹介するシャルリさん



このような人のエネルギーに触れると、すーっと頭の中のモヤモヤが晴れて意識がクリアーになる。




子供たちは、老人たちの描いた絵を見せると早速やる気満々で即興し始めた。



老人ホームの人たちにインスパイアされて絵を描くグループ

しかしそれは、ちょっとめちゃくちゃで、とにかく音を各自の欲求で吹き散らしている、そんな印象の即興だった。しかも一人かなりワガママな子がいて、その子がめちゃくちゃに弾き散らすと、他の子も音楽ではなくエゴで応酬してしまうのだ。


騒然とした30分経過、そんなカオスの応酬のなかで、3人だけ全く参加出来ないでただ、聴いている子たちがいた。私は他の子たちに完全なサイレンスの指示を出し、その3人の前に絵を提示した。


するとここでミラクルが起こったんである。


この3人の即興の素晴らしかったこと!

まるでカオスの海から掬われた真珠のようにピュアだった。



本当に音楽って面白い、、、

私にとっても、いつも完全に予想外の展開となる。


その後の大きい子達のグループでは、一つ一つの絵の前でどういう印象かディスカッションさせ、そのアイデアから即興させてみた。


先週エゴの衝突で大クラッシュしたばかりの思春期の難しいこのグループが、なんと次々と素晴らしい音楽を奏でた。



シャルリさんも


「本当にあなたのアトリエと仕事ができて嬉しい。僕のいうことはもしかしてナイーブかも知れない。でも本当に時々フィリップ・グラスの音楽みたいに聴こえたんだ」


と、感動していた。


人間って音楽って本当に分からないものだ。

人の音の裏側に迫るのは並大抵の仕事じゃない。おしゃれな部屋でお茶を飲みながら好みの音楽を聴いているのとは違う。格闘あり、失望あり、ストレスあり、エゴの海あり、でも美しい真珠をこうやって産みだせるのであれば、本当に即興を続けていて良かった、と心から思う。


ゴミから宝物を拾い出す。


これこそシャルリさんのアートの真髄ではないのか?


それは彼のアートや人となりに触れることで私たちが気づいたことなのではないかと思う。


彼は人工知能などの「表面や既成の概念から判断する」ことに対して危惧を抱いてる、とも話していて、それは驚くことに、先日書いたばかりのブログ、続・音の裏にある存在~試験シーズン と完全にリンクしている。


このプロジェクトは第2回目、そして音楽院の近くの運河に停泊する前衛ライブハウス船にて、実際の彼の作品を囲んで屋外で即興する、6月の最終コンサートまで続きます。


お楽しみに!


続・音の裏にある存在~試験シーズン

2023-04-18 12:59:00 | Essay-コラム

春は復活祭の卵の季節。今年も音楽院試験シーズンがスタートしました。


やっぱり毎回どんなに心の準備をしていても、どうしようもない審査員に出会う。


あー、いつもながらに思うけど、こういう人たちって、音の表面がいかに美しいか、(「美しい」という芸術的表現ならまだしも、標準に見合う綺麗さかっていうヤツ)そこしか聴かないで、その音の裏にある存在には全く興味がないみたいだし、しかも、君らシステムの定めた「第二過程」とか何とかいう、(そりゃあフランスで音楽教えてればそれが何かよーく知っとるわ。でも、一歩この国から出てみ?何やそれ?でしょうが!)自らが作り上げたシステムの標準に匹敵するか、それにしか頭にないらしい。


挙げ句の果てには「この子は音が良くないがジャズなら通る、ジャズ科に行くことを薦める」だって。笑っちゃうわ。じゃあジャズは悪い音で良いのか()これ以上の先入観があるかいな!あーたはジャズの何をどう知っとるのか、、、ま、知らんけど()


ジャンル間の壁をなくして音楽の理解を深いところで繋げようと、日々努めて教育しているにも関わらず、

やっぱりクラシックはこうでジャズはこうでとか、表面で決めつける。壁やらシステムやらが大好きな人がいるんだなー、という思いを新たにする試験シーズン。


逆にそういうのを超えている寛容な感性の審査員に助けられることだってある。


だからそれぞれの本性を暴露してしまう試験って、良いことだと思う。結局どのようにであれ評価することは人間の本能であって、同じ人間が「音楽院の民主化」とか「音楽を全ての人に」とか叫んでたのがいかに嘘だったか分かる瞬間でもある。


生徒たちだって、私だって、必死で頑張るから、これまでいかに自己の能力の氷山の一角しか使ってなかったか分かるし。


うちの娘なんかは、学校が終わったあと私の都合で試験に連れて行かれて仕方なく付き合わされ、そういうシステムってのが世間にはあるんだ、という勉強をさせて頂いている。


そう、世界はシステムと個の戦いだし、システムなければ個だってないのだ。(逆も真なり)大事なのはいかにそれを知り、サバイバル出来るかってこと。


ところで。いよいよアーチスト、シャルリ・オブリーさんとの「思い出のシンフォニー」プロジェクト(老人ホームで老人たちが自由に描いたグラフィック楽譜に対して即興する)が、即興アトリエで今晩スタートします。


音の裏にある存在は、みんなと同じかどうか、とか他人の基準でのきれいかきれいじゃないかで評価されません。既存システムに沿った評価での試験やコンクールは、そういうのが得意な人に任せておくとして、私のアトリエでは、個の音の内面に切り込みます。結果お楽しみに!


音の裏にある存在~チック・コリアの言葉(翻訳あり!)

2023-03-29 10:08:00 | Essay-コラム

チックコリアのニュースレターで、チックが生きていた時の言葉が送られて来るのですが、これは素晴らしかった。(英文の下に翻訳あり。)

"One way to learn is you become open with your attitude and being able to duplicate the beingness of another person.

"So there's [Thelonious] Monk, and it's not only the notes that he wrote down, or the sound that he makes on the piano. It's how he looks and how he moves and how he is as a being, you know.

"And so if you are able to embrace that and pick up traits... to the conclusion that you can create anything that you want to create, that's where you get artists creating very new things you've never seen before."

- Chick Corea, JAZZIZ Interview, June 20, 2020



「学ぶための方法のひとつは、自分の態度にオープンになり、他の人の存在を自分の内に複製できるようになること。

例えばセロニアスモンク。彼が書き留めた音符や彼がピアノで弾いている音、それだけを学んでも意味がない。それらが抱擁するもの、彼がどのようにものごとを見て、どのように動き、彼の存在が何であるか、それを理解することが大事なんだ。


そして、もしあなたがそれを受け入れてその存在の特徴を拾い上げることができたならば...あなたが作りたいものは何でも創造することができる。それは、あなただけでは創り得なかった未知の新しい世界へと、あなたを導くんだ。」


注:日本語訳は私が理解したことを個人的に付け加えてあります。


これは、まさにチック・コリアの創造の真髄で、私自身が彼から一番学んだこと。


私の経験では、多くの人は「マネ」は「自己表現を阻害するもの」と考えていて、それはチックの言うところの「表面に現れている音」しか見て(聴いて)いないからじゃないかと思う。


それって「見た目とはその人を表している」が、同時に「見た目で人を判断するな」という二律背反とよく似てる。


自己を透明にすることで出来る、他の存在の深い意味での「内部複製」こそ、真のtransmission であり、表面的なマネや単なる自己主張とは違う、本来の創造だと思う。


1、だからまずは自己が何であるか理解するのが第一で、


2、そのあとその自己の殻を捨てて自己をオープンにして他者の存在を学び、


3、自分と他者の境界がなくなったところにこそ真の新しい世界が開ける



これこそ私が即興アトリエをはじめとする全ての過程で教えたいことだし、同時に自分自身が辿り着きたい場所だと思う。


チック・コリアはそれを自分の芸術を通して、伝えたんだね。偉大すぎる。


だから私は彼の音楽を初めて演奏したとき、その音によって創造へと背中を押された。


セロニアス・モンクと同じく、彼の音に彼の存在があるからだね。


だから私は、どんなに上手く弾いてようと、どんなに上手く書かれてあろうと、存在のない音には全然興味がないの。


あーしかしまだまだ辿り着きそうにないわー😅


私イラついてばっかりだもの。


まあなかなか辿り着けないからこそ、年をとるのは楽しい。