SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

崖っぷちでのオープンクエスチョン

2023-07-30 21:49:00 | Essay-コラム

いつも相方とコンサートをやらせて頂いてもう5年になるブルガリア・プレーヴェンのギターサマーアカデミーで、今回は、初めて講習会の即興クラス講師として招いていただいた。




その講習会に「創作」のクラスを長年やっている先生がいて、その人が「自分の授業では生徒たちがどのようなものを欲しているのか感じながら組み立てるので、毎回何が出てくるか分からないんだ」と言っていた。最終的には先生が上手くそれぞれのやりたいことをまとめて、インスタント的な作品にしてコンサートに臨む。その先生のやり方にこれまでみんな馴染んでいたから、対して私が即興クラスでどういう教え方をし、どのようにコンサートをやるのか、みんな興味津々だったようだ。


集団的な音楽創作系クラスは私のパリの音楽院でも知っているけれど、こういうやり方では、先ず生徒の意図を尊重する。私の場合はまずスタイルを徹底的に学ぶところから入るから、最初の段階では、生徒の意図は事実上入る余地はない。



私の役目は、箱()を提供すること。

そして生徒や自分自身を、音楽に対しどれだけ透明にさせられるか。


箱の中にどれだけ質の良い材料を、バランス良く、先入観を廃して提供できるか。


そして、生徒たちと自分を、(自分自身が、これが大事)いかにエゴを排して透明な感性でそれを受け入れられる体勢にするか。


それから、その箱がいっぱいになった時に、初めてそれぞれの個人的な本来の創造性が溢れてくる。


その箱は、すぐにいっぱいになる子もいれば、何年も何年も経っていっぱいになる子もいる。

大きな何でも入る箱を持った子もいれば、小さな間口の深い箱の子もいる。


それは人の数だけバリエーションがあるから、一括りにして教えるのが一番危険だ。


私のパリのクラスでは、色んなスタイルを勉強しながら、唐突に完全な自由即興に持っていく。


そこで初めて箱から出たlibération (自由)の感覚が分かる。自由とは、ただ自分の意思を示すことや、無茶苦茶にやることとは違うから。


自分の意図だと自分で思っていることって、案外表面的なものだと思う。


そして多分、私が一番大事だと思うのは、生徒それぞれが自分のキャパの崖っぷちで演奏させること。


それを「リスクを負う」という。個人個人ののリスクを最大限まで押して、「自分はこれ以上無理」という極限のところで演奏させること。


__ただしこれにはバランスが大事で、個人のキャパを明らかに超えたところではただの無茶苦茶な演奏になるし、恐怖感や警戒心があるところに無理をすると、その子の感性を壊すことになるので、それぞれがどういう場所にいてどれだけオープンになっているのかを把握することが私のとても大事な役目になる__


フランス語でPrise de risque、リスクを負ってない演奏は、どんな楽器であれ、どのような楽器レベルであれ、私には興味がない。


それをやって初めて「何故自分には現時点でそれが無理なのか?ではどうやったらそれを乗り越えられるのか」と成長するきっかけになると思う。


楽器の技術の限界?精神的なブロック?アイデアの行き詰まり?アウトプット(表現)とインプット(勉強)のバランスは?


それは、私自身がいつも演奏の度に考えていることでもある。


講習会期間がは一週間と短かい。私が選んだ題材はブルガリアの9拍子のダンスと、キューバの複数のリズムエレメントで組み立てる音楽。それぞれの音楽のスタイルとテーマを学び、それらが含む素材を使って即興演奏するところまで持っていく。


リズムは?アーティキュレーションは?メロディーラインの特徴は?フィーリングは?音列は?和声は?文化背景は?サウンドは?楽譜は使わず耳と身体のみをフルに使うことで、それぞれの素材を短期間で体感し理解し、自分の感性でそれらをいかに引き立て料理するか。


それらを理解するほどにそれらを引き立てることが出来る。


私自身がそれらをどのように感じ理解しているか?を即興演奏で示すことで、説明や音源だけよりもずっと説得力を持って伝えられる。


ファイナルコンサートの後、生徒たちが「どうだったんだろう?自分達の演奏はこれで本当に良かったと思う?」「これから一体どうやって即興の勉強を続けたらもっと良くなる?」と???に溢れて、みんなとても興奮気味だった。単なる「上手に弾けました、楽しかった、めでたしめでたし、まる。」で終わらなかったのが素晴らしい。


即興に正解は無いし、それはいつだってオープンクエスチョンなのだ。


私にとって彼らの「崖っぷち」が聴けたのが何より嬉しかった。


私自身も、崖っぷちの慣れない言語で(今回は下手な英語とカタコトのブルガリア語)授業できたことで、自分のやっていることがより自分にもクリアーになったと思う。



色んな国で色んな楽器で是非やりたいな。

10月から11月にはついに4年ぶりに日本行きが実現するので、インプロヴィゼーション(アドリブ)講座をご要望の方は、ぜひお知らせください。宜しくお願い致します!


PS 次なる即興プロジェクトは9月開始、なんとついに、、、

フルオーケストラを巻き込みます!

現在それに向けオーケストレーションを全力で学習中。続きは次回ブログにて、お楽しみに!


天職と自然

2023-06-20 10:16:00 | Essay-コラム

バスティーユ広場の上にかかる飛行機雲。


私の多大な信頼を置く管楽器専門の歯医者さんが6月に退職を迎えるというので、ここ数ヶ月は何年間も溜まっていた(管楽器奏者にとって歯は命なのに。歯医者さんすみません!)治療を一気にまとめてしてもらっている。


「ほんとう集中的に色んなところ治しましたよね、ここ数ヶ月」と言うと、の歯医者さんは、「ひとつひとつはちょっとしたことに見えるだろう?でもかなりな仕事だよ。全部の歯をインプラントにしてシステマティックにまっさらにするのは簡単だよ。でもそういう一律なことをすると後で内部でやっかいな問題が起きたりする。どうしてだと思う?それはやっぱり自然を再現してないからさ。自然に逆らわない、これほど難しいことはないよ。自然に近づくことこそ仕事だよな」


「そういえばキース・ジャレットも「鳥はとても上手く歌う、でも自分がなんの音階を歌っているのか知らない」って言ってますね。要するに私たちが鳥たちのように自然に音楽を演奏したいなら、音階の名前を習うと言うような表面をシステム化したやり方じゃなく、それを自然に出来るようになるオーガニックなやり方を見つけよ、とそういうことじゃないですかね。」


「そう、自然ほどシンプルに見せて複雑なものはないということだね。それを表現するのは至難の業なんだ。」


全く違う職業についていながら、行き着くところは全く同じ。


私たちはそれぞれの天職を通して自然を学んでいるのだろうか。


ジョン・コルトレーンの即興は四方八方に複雑に伸びた枝の複雑さを内包しているが、遠くから見るとシンプルな一本の大木のようだ。


それがどれほどの鍛錬と苦労の後に造られたものなのかは、私たちはよく知っている。


前にデュオで演奏させていただいていたピアノの大家、マリーカトリーヌ・ジローさんも「(楽曲の解釈で)、ちょっとでも1ミリでも何処かを大袈裟にしてご覧なさい、もうそれでお終いよ。」と言っていたのも印象に残っている。


私たちのエゴで自然を歪曲して、一部を誇張させることだけでも、それは真実から遠のいてしまう、それを肝に銘じるような言葉だった。


だからどんなに面倒でも、ひとつひとつのケースバイケースで、自然を勘で見極めながら進んでいくしかないと思う。


この歯医者さんの手つき、麻酔の打ち方、器具の扱い方、診察の時間の使い方、言葉の使い方に至るまで、一挙一動が長年の勘により研ぎ澄まされて的確で、無駄がなく、患者をリラックス安心させ、痛みを注意深く避け、その時々で出来る最大の効果を引き出している。



この間はフルート教育国家試験の審査員をした時思ったのだけど、やっぱり人間って正解が欲しいがため、固定化されたものに頼ってしまいがち。素晴らしいアイデアでさえも、少しの放漫さですぐに、そのアイデアは主義化、形骸化し、自然の真実から遠ざかってしまう。


混ぜるな危険!先入観に任せたカテゴリー化、感覚を無視した言語化、なんとか主義とかいって多数派を作って操作しようとするデマゴギー、そういうエゴから発した尤もらしい顔したデリカシーに欠ける発想。


指揮者サイモン・ラトルの言葉


「音楽とは常に横目で見ていると存在しているが、それを掴もうとするとさっと逃げてしまう」



掴もうとする、というのは物事を管理しようとするっていうことなのかな。横目でみる、その意味はきっと、物事をなるがまま、自然の落ち着く場所に居させること。私たちが苦労して培う勘はそのためにある。私と歯医者さんは全く違う職業にいて、きっと同じ考え方を共有しているのだろう。


勘を冴えさせるためにも、経験値からくる溜まった埃は、きちんと掃除しておかなければと思う。ホコリってなんだ?あー、家と一緒だ。早速掃除しようっと()


現代版のおとぎ話

2023-06-05 15:36:00 | Concert Memories-コンサート旅行記

アートの材料は何も物質的な材料である必要はないわけで。


彼にとってはそれは人の感情でも、音でも、人工知能でも、テクノロジーでも、エネルギーでも、何だっていいのだ。。。



今回参加させていただいたプロジェクト、フランスで飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍されているアーチスト、Charlie Aubry の「思い出の交響曲」




今回、彼が目をつけた材料はなんと「老人たちの記憶」。私たちプロフェッショナルの音楽家が即興演奏によりそれを揺り起こし、その音楽にインスパイアされて老人たちが絵を描き、その絵を今度は音楽院に持って行って、子供たちがそれを楽譜と見立てて即興演奏をするという、三重構造の末に出てきた音が素材となっている。



それはそれだけでは芸術とは呼べないモノだけど、彼の手にかかると、それは真っ暗な船の中で、美しいアートに変貌した。



老人たちが描いた絵を「楽譜」に見立て子供たちが即興


そのようにして出来上がった記憶の音たちを、シャルリーが変換器にかけてミックスする


それは、まるで現代版のおとぎ話のように私には見えた。そこは現代のアリスの不思議の国。記憶と音と光と闇の交差する異世界。


L’installation sonore « Symphonie des souvenirs » est ouvert (entée libre!) jusqu’au 2 Juillet A la pop 61 quai de la Seine 75019 Paris


今日、多様性が叫ばれているけど、それを飛び越えて繋げられる本物のキャパを持った人は少ない。コラボ、とか言って表面や建前でやって、結果全然芸術的に評価できないものが多い。


しかしシャルリーさんはそれを見事にやってのける。人間の多様性は彼にとってアートの材料の宝庫のようだ。空を飛びながらひょいひょいっとそれらを見つけて繋げてしまう。




今、世の中はグローバリゼーションにより、私たちは伝統を喪い、肥大したテクノロジーの奴隷になって、根っこのない綿毛のように、溢れる多様性の中をふらふらと彷徨っている。



そういう時代に、それを悲観するでもなく、楽観するでもなく、逆にそれ自体を全部飲み込んでアートで表現してしまうという、私が身をもって戦って来たこの課題に肩透かしの答えを与えるかのような、その発想力に最初は圧倒された。


しかし、彼の仕事に関わる中で、私に出来る役割があることが分かってきた。それは個人個人の素材を最大限に引き出す現場での作業__それには、これまでの長い経験で培った勘が役に立った。


老人たち音楽院の子供たちを人間的に理解し、音楽的に即興で自分をできる限り出させる。瞬間瞬間のフィーリングをキャッチし、かつ各自のエゴに傾きすぎないよう、グループ内での関係性を細かく修正する。


Générations(世代)を音にTisser(編み込む)する、というプロジェクトの核心、まさしく音に生命力を編み込む作業だった。



空を飛び回ることはシャルリーに任せて、シャルリーは私に地下で繋げる作業を任せる、この辺の呼吸がピッタリと合った。


最初は手探りで始まった現場だったのだけれど、数ヶ月にわたるセッションの後、先日ファイルコンサートで、子供たちが初めて老人たちに直に出会って、目の前で彼らの絵を即興で音に表したとき、彼らの間に深い交流が芽生えたのが分かった。これには、このプロジェクトに関わった全ての人たちが感慨を覚えたと思う。



老人ホームコンサートのひとこま

そして何よりそのあと、今年初めての、どこまでも青空の突き抜ける夏日に、船上で自分達を即興という表現で解放した時の子供たちの清々しい表情といったら!自由即興とは、こんなに素晴らしいものだったのか、と逆に私が教えられたほど、忘れられない瞬間だった。





子供たちの最高の笑顔の写真がこのプロジェクトの成功を何より象徴しているのだけれど、肖像権の関係でここでお見せできないのが残念!






この日はパリで数百というイベントが行われるnuit blanche(白夜)と呼ばれる特別な日だったのだけれど、前衛船ラ・ポップ船内作品展示の我々のオープニングコンサートは、なんとル・モンド紙推薦イベントのベスト10に選出されたのだそうな。


私の中で、まさしく伝統から現代への変換の過渡期に出会ったシャルリー。


またこれからも絶対一緒にやろう!シャルリーとはそう約束して別れたのでした。



左がシャルリー・オブリーさん。To be continue!

では、ここまで読んでくださった方に特別に、音楽院の子供たちの即興セッションの一部を公開いたします。






初夏と井戸2023

2023-05-10 21:01:00 | Essay-コラム

2023年に年が変わる周辺ごろから、強制リセット宣言が色んな所からかかっていて、しまいに4月の誕生日周辺は、もう身体が根を上げて実質休養を余儀なくされました。ほんとうに人生とは、小さな声に良く耳を澄ませていないといけないと思う今日この頃。


これまで40代はがむしゃらに自分のやりたいことをなんとか全力で走って形にしてきた感じがあるが、人生後半に向け、それらを一度リセットしてもっとクリアーに深く掘っていく必要がある。


それにはもっと透明で静かな精神性が必要になる。


あくせくイライラして色んなことを忘れたりせず、もっと静かに時間をかけて物事に取り組めないものか。


これまでだって自分のしたいことにいっぱい時間をかけてきたはずだけど、けっこう色んな人を助けたいがために四方八方に散っていたこともあるので、もっと集中して私の見つけたものにもっともっと、たっぷり時間をかけて、磨きをかけないとならないと思う。


腰を落ち着けて理論的に考えたり、感覚的にも深く感じる時間を持たなければ。



演奏方面、自分の即興や即興アトリエでは、これからこれまでやってきたことを、もっと自由な方向に解放させていきたいと思う。学生のころやっていた自由即興への、しかし同じ次元ではないスパイラル的回帰。それにはもっと自分が論理的に突き詰めて、楽器でもっと細部まで表現できるようになれることが必須。


書く方面では、この9月、新学期から始まる1910区音楽院合同の学生オーケストラセッションに向けて、私の作品とマックス・シラの作品併せて6点のオーケストレーションという、人生初の大きな宿題がある。


これを機会に、これまで四方八方に書き飛ばしていたこの新しい方面も、もっと精密にちゃんと出来るようにならないと。


これまでアトリエや色んなコンサートで実践してきたアレンジをオーケストラという大きなパレットで、どうやって書くか。一緒にお仕事をさせていただく新進女性指揮者、ジャンヌ・ラトロンさん(若くしてこんなに醸成した人もいるのね。またしても前世で修行したのだろうか、、、)と協議の結果、うーん、オケって楽器が多くて気が遠くなりそうだわ、、、しかも各楽器それぞれの難しさよ。えーっと、簡単なところから着手していこうっと。(ローテクでハイブリッド脳を持ち合わせてない私は、キース・ジャレットの言うように、書いては消し、消しては書いて進んで行くしかないのです。


先ずは各楽器を知るため、同僚の先生方にレッスンを受けようと思います。



それに、この10月から11月にかけて、ウルクズノフ・デュオに佐藤洋嗣さんのコントラバスを加えたトリオでの日本ツアーを計画しているところです!



日程出揃い次第、ブログ上でも発表しますね。


来年度は、フランスの教授として最高の国家公務員地位を得ること、また娘の学校がパリ中心部になり得ることで、生活もかなり変わるはず。


ということで、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読み返していて、とても心に響く言葉がありました。


「僕は負けるかもしれない。僕は失われてしまうかもしれない。どこにもたどり着けないかもしれない。僕に側に掛ける人間はこの辺りには誰もいないかも知れない。しかしこれだけは言える。少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある」


私にとってこの4月は、心楽しい季節だというのに、心迷って行き場を失くし、身体もついていかず、久々に何も出来ない、まさしく「井戸」に入っているような日々だったわけです。


この小説は真夏の描写がたくさん出てきますが、(ノルウェーの森の春の描写といい、季節の匂い立つような描写が登場人物の心理を際立たせて素晴らしい今、全ての緑が噴き出し萌え始める初夏の、生命の圧倒的な匂いが断続的な雨の中にかき立つ季節に、この言葉は「自分はゼロだ」と思うことへの勇気を与えてくれます。


ゼロで空っぽだからこそ、これから入れられるものがあるのですね。


最近先述のジャンヌや、前々回のブログカオスの中の真珠に登場のシャルリー・オブリーなど、20代で若くして卓越したヴィジョンを持った人たちと仕事をする幸運に恵まれました。


シャルリーなんて、その末恐ろしいハイブリッド脳で、ひょいと地球上の全ての事象をアートで繋げて、乗り越えてしまう。


私なんてネットやテクノロジーに苦戦し、飲み込まれないよう対抗しよう、っていう力んでる世代だけど、彼はテクノロジーを逆に飲み込んでしまう度量があるんだよね。彼のヴィジョンでものを見ていると、脳が組み変わってしまうようなクラクラした感覚を覚える。


50歳になった今、もう一度生まれ変わってこういう若い人たちとスタートに立ち、探し求めるもののために人生を始められるかも、なんて思っていたら、なんと服飾アーチスト安藤福子さんから「タブーがタブーを超える」新しい黒いドレスが送られてきました。


私がローテク脳で地道に掘り起こしてきたタブーは、ついにタブーを越えるのか?!()



同僚に激写された、仕事の帰り際(笑)



覚醒した犠牲者

2023-04-21 20:58:00 | Essay-コラム

歯の矯正器具を付けてフルートを吹くことに関し、寛容な先生と寛容でない先生がいると思う。


もちろん生徒の口の形や感受性によりけりだけども、たぶん私は実はまったく寛容じゃないほうだと思う。


別に矯正器具自体に反対、とかそういうんじゃない。私だって、このひどい歯並びを子供の時に治しておけば、長い目で見てフルートがもっと楽に吹けたのかもしれないし、美しい口もとになって、歯に問題の多い今とは違った人生を生きていたのかも知れない。私は今の私を受け入れているけれど、それはそれで違う人生だったのだろう。要するにそれは個人の選択の問題だし、どのみち現実とはパラドックスに満ちている。


しかし、矯正中(2-3年という長い期間になる)に、レッスンが妥協になってしまう事は、私にとっても生徒にとっても多大なストレスであることは確か。


異物のせいで自分ではコントロール出来ないことだから、おいそれとここをこうしなさい、とは言えなくなる。音程が悪くても、器具のせいで細かいコントロールが出来ないからという理由で直せないし、ニュアンスが出せなくても、リズムやアーティキュレーションがはっきり出来なくても、アンブシュアに柔軟性がないせいで息が足りなくても、3点支持の一点を失うわけだから姿勢が悪くなっても、表現が思うように出来ないから力んでなんとか表現しようとしてヴィヴラートが不自然になっても__残念なことに、音楽性がある子ほど犠牲になる__こうなってくるともう、がんじがらめで、双方どんなに着地点を探そうと頑張っても、霧の中を彷徨っているまま数年が過ぎてしまう。


何より感覚の麻痺に慣れること、これが一番恐ろしい。


「すぐ慣れるでしょ」という先生もいっぱいいらっしゃる事は事実。しかし悪い音程や自分の本来の音とは違う不自然な音に耳が慣れてしまったり、「コントロール出来ない事」に体が慣れてしまう、本当にそれで良いのだろうか?


器具を取り払ったあとも、新たに自分の音を取り戻す、自由な体本来の感覚を取り戻すのに時間がかかる。それはもう2度と取り返せないかも知れないし、新しく生まれ変わるかも知れないし、その辺は経験上生徒の数だけバリエーションがあり未知数で、何とも言えない。


だから私は「みんなやってる事でしょ」とか「慣れるから大丈夫」「気にしなくていい」また「やる気さえあれば乗り越えられる」とか単純に言いたくはないと思っている。


一つの感覚は全ての感覚に繋がっている。

管楽器で口の感覚を殺しおいて、でもヴィヴラートには関係ないでしょ?でも指は練習出来るでしょう?でも身体の重心ぐらいは感じられるでしょう?と言うのは、私は嘘だと思う。


感覚は全て繋がっている。

一つのバランスが崩れたら全部崩れる。



先程「音楽性のある子ほど犠牲になる」と書いたけれど、世紀の大即興家、ピアニストのキース・ジャレットが、その著書「インナー・ヴューズ」の中で全くそのようなことを書いている。


彼曰く「ひとつの感覚を殺したことの犠牲になる」、それこそその人が覚醒している証拠なのだ。


以下。読んでみてください。