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いもりんのヒルズ的生活+貧乏昔話

教師から起業家へ。無一文の外国人夫との超ビンボーな暮しから脱出、奮闘の末つかんだ、ちょこリッチな生活をおバカ調で公開。

被災地の恩師を探しにいくその2

2011年11月30日 07時50分15秒 | 東日本大震災311

先生の家は無人・・・・。

ちょうど道路工事が入っていたので、作業員のおじさんに「この家の人は?」と尋ねました。
すると口々に「わがんねぇな」とか「俺たちゃ、工事の人間だから」と言われ、
最後には「あんだ、いづ奥さんもらったのや。ガハハ!」と、軽いセクハラまでされて、途方に暮れてしまいました。

それで、2軒先の老夫婦が庭仕事をされていたので、近づいて行って、
「鈴木先生(仮名)のお宅を訪ねてきた元教え子ですが、先生はお元気でしょうか」を声をかけました。

老夫婦は私をじろじろと眺め、いろいろと質問をします。
それで私は、身分証代わりに持ってきた「先生からの手紙」※を見せて「怪しいものではないです」と訴えてみました。
※アイテムとしての「手紙」は、ドラクエなどのゲームでは重要だったりする(「王様の手紙」とかね)ので、反射的に持ってきた感じ。

東松島は、のどかな海岸線が続く地帯です。
大都会でもないのに、こんなに怪しまれることは、以前はありませんでした。
やはり3.11以後、様々な人が内外から入ってきたので、用心深くなっているのだな、と思いました。

老婦人は「あ~週末には帰ってきて、家の整理をしているみたいだよ。東名(とうな)駅に事務所があって人がいるから、聞けば連絡先が分かるかもしれない」と親切に教えて下さいました。

先生はご無事でいらっしゃる!

それで、津波ですっかり流されて跡形もなくなってしまった、JR東名駅を目指しました。

続くのさ。

震災前の駅

震災後

駅周辺には、多くのモノが散らばっていた。

津波が来るまで、当たり前の日常がそこにあったのです。

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こんな記事に不謹慎ですが、買えたのが嬉しいのでUPします。

8個集まるとキングスライムになって、食べきれなくなるそうです(笑)

子供は、ピザまんの「スライムベス」はどう?なんて言ってましたが。


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被災地の恩師を探しにいくその1

2011年11月28日 08時05分57秒 | 東日本大震災311

年賀状を整理していて、中学時代の恩師の住所が東松島市になっていることに、飛び上がるほど驚きました。
印刷をプリンターで自動でやっていると、住所を記憶してないことが多いんですね。失態です。

まずGoogle earthでお宅を確認しました。
被災直後の地図で、屋根はあるようですが、1階は浸水した模様・・・。
ここにお住まいなのだろうか、仮設にいらっしゃるのだろうか・・・・。

次の休日、めずらしくスポーツの予定も学校行事もない空いた日。
「先生に会いたい」と、気づいた時には、既に車を出して向かっていました。
(思ったことをすぐに行動するのは、私の欠点でもあります)

夫が止める暇もなかったくらい、それは衝動的な行動でした。
(来年で結婚20年ですが、こんな活動的な私とよく生活してくれたと思う)

しかしその割には、寒くない格好(スポーツウェア)、がれきを歩ける運動靴、ボロい宮城ナンバーの大衆車を選び、被災地域に行くマナーみたいなものはバッチリで、先生からの手紙を持参(この手紙が後で役に立ちます)。

ご無事だろうか。いただいた恩を返したい。うまく会えるだろうか・・・・。

松島までの道は観光客で混んでいました。ありがたいことです。

カーナビが案内したその家は、無人でした。
玄関にはべニア板が張られており、壁には青いビニールシートがかかっています。
ブロック塀が跡形もなく、電柱が折れ曲がっていました。
しかしよく見ると、庭木に手入れした跡があるし、ガラスも磨かれているような感じ・・・・。

今はお住まいではないけれど、週末にはお帰りになって、片づけている?
私はそう直感しました。

続きます。

今回訪ねた場所は、この地域です。水田が地盤沈下しており、海水魚がいます。

前に新聞記事を紹介していました↓


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怖い・・・・子供と震えあがった被災者が描いた絵

2011年09月25日 10時00分27秒 | 東日本大震災311

 今、河北新報で「私がみた大津波」という連載をやっています。

30代の看護師の女性が描いたこの絵・・・・・朝から震えあがりました。
なんてリアルな絵なんだろう。体験した人しか書けない壮絶さがこの絵にはある。

ステージにいる人は、ぎりぎり助かっている。
階段を上った2階(ギャラリー)で、なすすべもなく見ている人たち。
構図も素晴らしい。何が起こったのか、誰にでも分かる。

紅白が見えるが、3月11日に卒業式があったのか?
ステージ横の木の板には、「校歌」や「学校目標」が掘られていたのだと思う。
当たり前の学校の日常が、そこにはあった。

体育館で津波が渦を巻いている。体操用のマットレスや跳び箱と一緒に人も・・・・。

子供たちは体育館の作りがよく分かっているので、余計に怖がった。

 この本も読んだけど、

怖い絵
中野 京子
朝日出版社

こんなに怖い絵なんて、初めてでした。


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こんな震災ボランティアもある(児童受け入れ)

2011年07月25日 19時08分12秒 | 東日本大震災311

これに応募しました。

つまり、被災した子どもを週末預かって、自分の子どもと楽しく過ごしてもらう取り組み。
夫に言ったら、即「OK」というので一安心。

ところがウチの子供たちが「知らない子を家に泊めるのはチョット・・・」と尻込みをするんです。
はにかみ屋の人見知り、という性格的な面もありますが、
「どうせ、うゎ、ガイジンだとか言われるし」という、彼らなりの理由があるようなんです。

なので、津波の被害を見ることで気持ちを変えてくれたら、と思って石巻に連れて行ったんです。
もし実現するのなら、こんなことをしたいです。

○ファミリーレストランに出かける
○子供の習い事(スポーツ)に連れて行って、体験してもらう
○科学館や文学館など市内の施設に行く

私が正月に児童養護施設に行ったことは書きました。
園長によると「学校用品、衣類、本は、国からの補助もあり間に合っている」とのこと。
必要なのは、「焼き肉を食べに行く」「スポーツ観戦をする」「携帯電話を所有する」といった、補助ではなかなか実現しない「日常の経験」だという事実を、私は学んだのです。

避難所では食べられない、ラーメン屋に行くというのもありかな?(単に自分が食べたいだけなのですが)と考えています。

子供の意識の問題は後回しにして、学校に申し込んできました。(我が家は学校全体で二番目。応募者少ないのね・・・)
これからなんとか頑張って説得して、受け入れ態勢を整えます。。

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ノルウェーテロ・・・・夫はノルウェー系なので、犯人と血縁があるかも?と思ったり。
何しろ人口500万人の国ですからねぇ・・・で、移民人口が10%?
犯人は「日本は最高」と言ったそうですが、それは日本人が移民しないからでは?


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松島から石巻方面へ、海の思い出を探しに行く

2011年07月20日 08時50分47秒 | 東日本大震災311

連休中、石巻方面に行ったので報告です。

ピンクがたどったルートです。子ども時代からよく利用していました。

行った理由は多々ありますが、実家の父が釣り用に維持している中古ボートを探すのが一つ目。

松島付近につないでいたのですが、津波は150センチまで到達した模様。うっすらと線が見えます。

ボートは津波でどっかに行って、穴のあいた姿であがりました。

廃船でしょうね。

この舟を松島沖に停泊させて、花火大会を見た時の写真です。(2004年8月)海から花火を見たのは初めて。

第二に、父が仕事で関わっていた運河が無事か確認しに。

野蒜(のびる)のあたりの被害はひどいものでした。コンビニは天井まで津波が達していた。

お花が供えてあったので、お亡くなりになった方もいるらしいです。ご冥福をお祈りします。

これが震災前のお店です。↑

まるで廃線されて年月が流れたかのような、野蒜(のびる)駅

3月11日まで電車が走っていたとは、とても信じられない。

案内表示も地面に落ちてました。

これが震災前の駅です。↑

東名(とうな)運河を見ます。

鳴瀬(なるせ)川から海を見ます。結構な高さがあるのに、家屋まで津波は到達しています。

1階部分が破壊され、無人になった野蒜築港(のびるちっこう)資料館

そして、思い出の場所がどうなっているかを確認しに、石巻市に向かいます。

以前食べに行った海鮮料理の「友福丸」は跡形もなく・・・・。地図のAの付近です。
ここは網地(あじ)島に行った際に立ち寄ったお店です。

食べログから、震災前の写真を持ってきました↑↓

室内はこんな感じで料理もおいしく、活気にあふれていたのに・・・。

石井閘門(いしいこうもん)を見ます。明治11年に造られたそう。

石巻駅前で、名物の焼きそばを食べました。少しでも被災地にお金を落としたい。
石ノ森萬画館が近いので、ヒーローの像がたくさんあります。
子供たちにも「ドラえもんの作者とトキワ荘に住んでいた漫画家だよ」と説明します。

市内中心部はどこもこんな感じです。

歩道橋の上まで津波が来たんでしょう・・・・ここに逃げた方は無事だったんでしょうか。

大量のがれきの山を目にしながら、1年前に行った、サン・ファン・バウティスタ公園を目指します。

ここでは自衛隊の方が、キャンプをしながら活動をしていました。「お疲れ様です」と声をかけます。

船のマストが折れていました。

展示室のガラスが割れて、中はめちゃめちゃです。
でも復旧に向けて作業をされている方も見えましたので、早期開館を目指しているのでしょう。

実はこの後、知人の家があった鮎川に行きたかったのです。
が、牡鹿(おしか)半島(地図の黄色)は地盤沈下もあり、満潮時には通れない道路があると聞きました。
午後から満潮に向かっていたので、あきらめて引き返しました。

これらの他にもう1点、子供を連れて被災地を訪れた理由があるので、後日書きます。


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続:色んな意味で震災を思い出した東北六魂祭

2011年07月18日 07時17分02秒 | 東日本大震災311

祭りの二日目の17日(日)再び市役所前に行ってきました。
仙台七夕の短冊(たんざく)

秋田の竿灯(かんとう)

青森ねぶたがパレードの為に出てきます。

こんなに近くで「政宗ねぶた」が見られて感激

後ろから見るとこんな感じ

後ろのビル、カメイは仙台の商社です。

これは金曜日に取ったパレードの車道です。

青森ねぶたの『ハネト』のお嬢さんたち

12時スタートのパレードの為に混み始めてきたので、私は10時半ごろ帰ります。

パレードの写真はこちら(河北新報より)

コメント (2)
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色んな意味で震災を思い出した東北六魂祭

2011年07月17日 06時07分57秒 | 東日本大震災311

新幹線が満席、レストランとホテルが取れないという噂から、その予感はありました。
・・・・・エライ目に遭ってきました。

この「政宗ねぶた」が見たかったのですが見られず、河北新聞社の写真を貼ります。

まず、仙台市街地までが大渋滞で近づけない。中心部の駐車場が全くない。

これは朝日新聞から借りてきた写真です。

これは河北の。

車で100メートル進むのに20~30分かかります。震災当日の帰宅大渋滞みたい。
ガス欠の車も出るかも、と思った位です。
1時間半くらいの渋滞の末、仙台駅東側のヨドバシ駐車場に入れて、パレード会場である定禅寺通りまで(地下鉄2駅)歩きました。

「地下鉄で来てたら良かった」と大後悔しました。ところが・・・・・。

実は、地下鉄さえも機能してなかったのです。
まず地下鉄の駅に人が入りきれない。入っても改札の前で30~40分。プラットホームでは満員で何台も電車が通過。乗れても「重量超過」のブザーが。

とにかく、パレードの進路にまで人があふれかえって、青森ねぶたと秋田竿灯は動けなくなり、途中で中止。竿灯は竿を立てられなかったそう。

これは読売さんの写真(よく撮ったなぁ)

そして晩御飯。
私たちは地元の店を予約して行けたのでありつけましたが、どこも食事難民、長蛇の列!食糧がなかった震災後を思い出しましたよ。

あとで聞いたら、この日の人出は5万人を大きく上回る13万人!仙台市の警備のキャパシティをはるかに超え、生命の危険を感じる位のもの凄い人出でした。

遠くからツアーで来て下さった観光客、復興ボランティア、建築関係者、帰省した仙台出身の人たち・・・・せっかく来て下さったのに、この有様でごめんね。


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大地震を日本ではない国で迎えたら(夫の考え)

2011年06月21日 08時42分03秒 | 東日本大震災311

私は宮城県地震を経験しているし、そもそも地震の多い国に住んでいるのだから、覚悟はあった。
だけど夫は地震のほとんどない地域から来ているから、被災して可哀そうだな、と思っていたの。

だから聞いてみた。どこの国で被災するならいいか?と。
すると下記のような答えが返ってきた。

○アメリカ・・・・・大停電するくらいで、店舗が店じまい、銃を恐れて市民が逃げ回る・・・。
とても先進国とは思えない。

○東南アジアも人が多いし暑いし・・・・。
宗教の異なる人が住む国では、救援も混乱するだろうから大変だ、と。
単一民族で宗教問題も無い(少ない)日本はいいと言うのです。

じゃあ、地震のないアフリカ大陸はどう?

○南アフリカ共和国を見なさい。ヨハネスブルグなんて、この世の終わりのような街だ。ライオンは人を恐れるが、彼らは恐れず襲ってくると言うじゃない。
住むにしろ、鉄線を張り巡らせて、銃を持ったガードマンを何人か雇って、白人の住むエリアに暮らして・・・・とんでもない、と言う。

災害に遭うなら日本で、と彼は言っている。そういう発想がすごい・・・・。

これは片づけの終わった、ある不動産の和室。
新婚の頃、こんな感じの部屋に住んでいました。
今の家は畳がないので、ちょっと懐かしい。
*******************************
町内で防災訓練をやるんだって。
土曜日を登校日にして、子供が家庭で被災し、避難所に行く訓練。月曜日は振り替え休日。
しかし、あんだけの大災害を乗り切った地域住民には、ノウハウは不要なのでは?


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出来れば遭遇したくなかった1000年に一度の・・・ その3

2011年06月15日 08時42分29秒 | 東日本大震災311

仙台には上場企業は数えるほどで、片手に足りる位。
電力会社とイナカ銀行と経営者苗字の商社くらい、と思っていた。
・・・が、最近は増えて、足の指を使って数えるほどにまで増えたのが、嬉しい。

大企業は、東京本社の仙台支店が多いので、商工会議所に出ても、上場企業の参加者は経営者ではなく、支店長やそのほかの役職の方が来る。

しかし私の子ども時代には、こんなクラスメートがいた。

実家が丸光デバート(現さくらの)、関兵製麦(不動産ブローカー、現在は倒産)、老舗のおでん屋さん、どら焼き屋さん、エンドーチェーン(今は西友かな?)、造り酒屋などなど、地元の経営者の子供が多く、家業を聞くのも楽しかった。

でも今では、自分の子どものクラスメイトは、大手企業の転勤属の子息が多い。
それと同時進行で、地元企業が中央資本に買収されたり、めっきり力を失っていった。

私が震災で何よりも恐れているのは、東北が衰退してしまうこと・・・なんである。

サントリーの佐治会長の「東北熊襲(くまそ)発言※」(東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い)はご存知でしょうか?

あんな風に言われたのが悔しくって、寒いのを我慢してみんなで頑張ってきた・・・という気持ちがある。
なのに大震災で、フリダシに戻りはしないか?と怖いのである。

※私の父は大激怒し、神奈川出身の癖に以降、サントリーの製品を買わないでいる。

地震の後、オフィスや倉庫やらを整理したら、いろいろとお宝が出てきた。
62円切手とか(珍しい?よね)、デパートの商品券とか。


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出来れば遭遇したくなかった1000年に一度の・・・その2

2011年06月12日 13時14分28秒 | 東日本大震災311

そう。全国からの転勤属がどっと増えた。これが都会の証しなんだ、と感じ始める。
それまでは、県北・県南から、進学や就職で「仙台さ行ぐ」のが多かったが、全国区になったのだ。

そのうちに、ハワイやグアムに行った際にしか買えなかった海外ブランドが、商店街で買えるようになった。
シャネル、フェラガモ、ヴィトン、プラダやフェンディ(現在は二つとも撤退)などが来た時には、仙台も都会になったんだ~と興奮した。

今までは、東京まで出ないと(!)買えない物が多かったけど、洋服やお菓子などほとんど仙台で買えるようになった。

私は仙台に生まれたことを幸運に感じ始めていた。

観光産業についても考え始める。
日本三景の一つ、松島があるので、遠方の客が来た時には便利。
しかしもっと観光客をよべないものかな~と思っていた。

例えばオーストラリアのケアンズに行った際には、こんなことを考えた。
ケアンズの人口は13万人。
それなのに、大型高級ホテルがハワイのワイキキビーチ並みにずらりと立ち並ぶ。
ハイシーズンは、世界中からの観光客でごった返す。

同じく港町の宮城県石巻市の人口は16万人。
町のサイズや人口はケアンズと同レベルなのに、あちらには「グレート・バリア・リーフ」という世界遺産があるので、その差は歴然。
何か世界遺産になるものは?と思索したり、ね。

こんな風に、地元のことを常に考えて生きてきた、と言っても過言ではないのです。

続くのさ。

テラスを開け放してみる。東北の梅雨入りは遅い。

鳩が羽伸ばしているし。

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今日は宮城県沖地震から33年だそうです。30~40年周期でやってくるこの地震、小学生だった私は「次回は結婚して子供もいるかな?」程度に思っていましたが、こんな大災害になるとは。

コメント (2)
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出来れば遭遇したくなかった1000年に一度の・・・

2011年06月09日 08時49分34秒 | 東日本大震災311

最近の研究には、貞観(じょうがん)津波869年との比較をするのが多い。
ああ、平安時代の人もこんな津波を経験したんだなあと、古代に想いをはせている。

しかし1000年に一度、惑星が直列するとか、美しい彗星か集まってやって来るとか、そういう宇宙のロマンを感じさせるような巡り合わせなら、是非とも経験したい。
でもこんなひどい災害、どうして私たちが生きている時代に起こったんだろう・・・・という気持ちでいっぱいなのである。

私はこの震災以来、強いストレスに悩まされて来た。
家族や友人たちが無事で、住む家もあって、仕事も継続できている・・・大した被害がないのに、なぜこんなに落ち込むんだろう?
それは、自分の地元が滅茶苦茶になってしまったのが、とにかく悲しいのである。

私の子供時代、仙台市は人口60万人規模。
東北の、少し大きな田舎まちという感じであった(今もそうだけどさぁ)。

それが、ワイロでとっ捕まった※昔の仙台市長が政令指定都市にした辺りから、様子が変わってきた。

まず、東北以外の方が転勤してくるようになった。(仙台は支店経済都市に)
しかも「田舎に左遷」という悲壮感に満ちた感じも無くて、「福岡、札幌、仙台と転勤できてラッキー!」みたいに、嬉々としてやってくるんである。

私は「へぇ~、仙台って人気都市になっていたんだ」と嬉しくなったのである。

続きますねぇ。

義母が作ったミートローフと、マッシュポテトはさすがに上手!美味しかったです。
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津波被害のあった沿岸部は、仮設住宅を建てられる平地が少ないらしい。
夫は、内陸の過疎地に移住して、人手不足の農業をやってもらったら?と言う。

「山幸彦と海幸彦」の話、知らないのかな・・・・漁師が狩人に、狩人が漁師になるのは難しい。
職業の転換は、そんなに簡単には行かないと思うのですが。

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※収賄で捕まった市長は、さながら田沼 意次(たぬま おきつぐ)なんでしょうねぇ・・・政治手腕は良かったので、嫌いじゃないです。彼のお陰で仙台は発展したのかも。
出直し選挙で選ばれた新・市長(故人)は清廉潔白なんだけど、政治力は???でした。松平定信なんでしょうねぇ・・・・。
歴史は繰り返すって、ホントですねぇ・・・・。


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Fukushimaを理解するために義両親に見せた映画はコレ

2011年06月06日 08時41分08秒 | 東日本大震災311

義両親に日本を理解してもらうのに、邦画が一役買っている。
私が映画好きということもあるけど、エジプトの大学の日本講座で「寅さんシリーズ」を教材に使っている、というのを聞いたことがきっかけで、見せるようになった。

「おくりびと」も東北が舞台だしいいかな、と思ったのだけど、いかんせん英語字幕がない。
そしたら、いいのがあったじゃないの。
福島のいわきが舞台なやつが!

「フラガール」
私はもう何度も見ているけど、今回は全く違った風に見ました。
原発事故と重なる点が多いのである!

炭鉱閉鎖で経営者が住民たちに詫びるシーンは、東電経営者の土下座を連想させる。
住民は失業したり、引っ越しを余儀なくされる。

落盤事故で、犠牲者が出る。
炭鉱のお陰で生活していることを住民は理解しているが、気持ちはやりきれなく、悔しい。

設置の経緯も類似している。
ハワイアンがオープンしたのが1966年(昭和41年)。
福島第1原発の着工が、1967年から70年代にかけて。
産業が乏しく、雇用が必要だったから、という理由が共通していると思う。

この映画は、なぜ福島に東京の電力会社が来たのか、理解の助けになると思う。

フラガール メモリアルBOX [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ

福島県は、石炭→石油へ、原子力発電→自然エネルギーへ・・・という感じで、エネルギー改革に翻弄されてしまっている地域なんですねぇ。

***********************************
宮城県も雇用を拡大するために、一生懸命、企業の誘致をやっています。
東京エレクトロンとか、セントラル自動車とか。
これに関しては後で書きます。


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太陽光発電:その設置までの経緯

2011年05月11日 08時29分25秒 | 東日本大震災311

我が家はオール電化で、120アンペアである。
アンペア(A)は普通の一軒家で30A、電気を使う家で50Aというのが多いと思う。
とにかく、2月から太陽光発電を始めた。

震災前のことだけど、高校の先輩二人が自宅を訪ねて下さった。
先輩と言っても、20歳近く年上のAround60である。
一人は開業医夫人、一人は独身の教師。

息子二人を医師に育て上げた、ゴルフ好きの美人医師妻の生き方も興味深いし、
引退したばかりの小学校教師・・・この方はテニス仲間なのであるが、お話はためになる。
同世代のママ友の会話も面白いが、違う世代とお付き合いするのは、自分の指標になると思うのである。

その方たちに自宅を見せて、太陽光発電の設置を伝えた。
すると「私たち60代は、投資をする年代でもない。
30代40代が設置するなら、将来的にも環境的にもいいことだと思う」とおっしゃる。

本当は、お金を持っている60代70代世代が、積極的に環境問題に取り組むといいと私は思うんですけどねぇ~。

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こんなチャリティもあります。

陶芸家の友人の作品、15,000円で買いました。全額被災者に寄付されるそうです。

バラすとこんな感じ。

提供者の彼女の善意に拍手☆*******************************


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みなさん、閲覧有難うございます。励みになっています。


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義父と被災地へ出かける

2011年05月05日 07時20分59秒 | 東日本大震災311

私は心情的には被災地を見たくはない。悲しいから。
しかし義父にせがまれて平日の朝、二人で行ってきました。

仙台市若林区荒浜の様子。

竹林が塩害で枯れているのが目立った。

全て流されて、何もない道路。元は何があったんだろう。

遠くに蜃気楼のように見える、クシの歯が欠けたような松林が海岸線。
この近くの「海岸公園テニスコート」には、試合で行った。
立ち寄ったコンビニも、お握りを食べたクラブハウスも、みんな無くなっていた。
毎週どっかの市営コートでテニスしているので、日曜日の午後だったら津波に遭っていたかもしれない。コート周辺はガレキの捨て場となって、大きな山になっていた。

田んぼが、水のない泥沼のよう。当面は稲作は無理らしい。
だから津波の被害のない水田は休耕せず、田植えを行う。
それでも仙台平野のダメージが大き過ぎて、作付面積は足りない。

この電柱は、最近取り付けたらしく、ま新しい。復旧の工事車両が多く出てた。

今あるボランティアは「個人宅の泥出し」が中心らしい。
70歳の義父に破傷風の予防注射を打って、出かけるのは無理と断念。
別な方向で何かしようと思案中です。

********************************************************
義父は「Fukushimaに行きたい。出来れば原発の近くまで」と言う。
「私の時代には、マイクロシーベルトという単位はなかった。安全だ。」と主張する。
義父は物理学で学位を取っている。

「ろ・・・6号線は閉鎖されている区間があるし、ちょっと無理かも」と答えておいた。


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甲状腺が半分しかない私が思うこと(放射能)

2011年05月02日 06時50分40秒 | 東日本大震災311

ヨウ素被爆は甲状腺がんの比率を高めると聞いた。

前にも書いたけど、私は10代の頃から甲状腺に腫瘍があって、20代で摘出手術を受けている。
手術前に医師から「若いから良性だろうけど、万一悪性でも、甲状腺がんは転移も殆どないし、心配することはない」と説明されたと記憶している。
病理の結果は良性だった。

甲状腺がんを持ったまま天寿を全うする人も多い、とも聞いたことがある。
「知らぬが仏」ということですが、悪さはしないけど癌が体内にあることは、気分のいいものではないですね。

そんなことを、放射能を恐れず、逃げずにいる私はずーっと思っていました。
(だからって、若い世代に甲状腺がんは増えて欲しくないですが)

なんていうか、沿岸部の津波の被害を見たら「どう復旧を?」という方に神経が行って、原発の恐怖はどっかに行ってしまいました。

さて私の今年の被爆対策!
○放射能防止のため、太陽の下でやるテニスを、ナイターか室内でやる
○放射能防止のため、毎年受けている人間ドックのレントゲンを自粛する
○放射能防止のため、飛行機による海外旅行に行かない・・・・・・・船?
ってとこですかね?

私の3人の子供たちは、それぞれ私が妊娠5ヵ月、7ヵ月、2ヵ月の時に飛行機に長時間乗っている。放射能だけ考えたら、危ないことだったのね。

義両親は、高地・鉱山・晴天の多い地域に住んでいて、自然放射能が仙台市の数倍!
・・・なので、仙台市に来ることが放射能除けになる、という不思議な話なのです。

姪っ子たちがお小遣いで、コーンフレークやらお菓子やらを送ってくれたの(泣)

子供にお礼の手紙↑↓を書かせた。我が家の鳥たちや、ポケモン?

英語?

****************************************************
今年のPTAでは、特殊教育(養護)の先生をしている、優しいお母さんと知り合いになりました。
苦労話を聞いて、私が以前受け持った‘ちょっと変わった子’を思い出しました。(普通学級です)
今考えると「アスペルガー症候群」に近い感じだったのかな?と思います。
当時の彼女はひどいイジメに遭っていて、対応が大変でした。
私を慕ってくれていたので、今どうしているのかな、と急に気になっています。


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