石川啄木 いたずらに母を背負いて・・・・

2016-02-01 11:43:43 | Weblog

テレビで文豪の作品を朗読したものの販売の宣伝をしている。
石川啄木の「いたずらに・・・・・」の細部を昔かなり考えたのをを思いだした。
「戯れに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず」
「そのあまり軽き」のところだったのだが、やはりあいまいだ。
あまりの軽さと解している解釈が多いようだが、しっくりこない。
「そのあまり、軽きに泣きて・・・・」だったら、そのあまりはどういう意味なのだろうか。
接続詞的な働きをしていると考えられるのだが。
「そのあまり」を接続詞的に使ったことがあるようなないような。
聞いたことがあるようなないような w
昔悩んだところから一歩もでていないな www
ネットで調べてみた。
母を背負うぐらい簡単にできる大人になった自分、ふざけておぶってみたら、その軽さにびっくりしてしまった。
母にかけた苦労、今でも苦労はかけ続けている、そんなことを思ったら涙が出てきて、ああ、こんなたわむれはするべきではなかったと反省し、歩くのはやめた。
とか書いている。
参考にならないな ><
「そのあまり」はどうなってるんだーーーー ><
それに
「ああ、こんなたわむれはするべきではなかったと反省し、歩くのはやめた。」
とか書いている。
どこにそんなことかいてあるんじゃ~~~~ ><
詩の鑑賞に際しては書いてあること以外に付け加えたもので鑑賞すべきではない。
そのまま読んで感じればいいのじゃないかというのが高校の時からつづく自分の意見だ。
行間を読むのはいいのだが、それは自分の経験とか年輪とかが関係する。
その時その時にどう感じるのかも楽しみなのだが。
最近では日常の会話でも勝手に自分で余分なことを付け加えて意味を違ったものにしてしまっている人を見かける。
困ったものだ。
何か言わないといけない。言うんだったら何か付け加えて博識ぶりをしめさなくっちゃというような考えが底流にあるのだろう。
テレビのコメンテーターに多いのだが、気に入らない。

母のあまりの軽さに驚き、親不孝で母のことなど思ったこともなかった自分をひたすら責めているのだと思う。
その後悔から歩くこともできなくなった状況を表しているのだ。
「こんなたわむれはするべきではなかった」なんて絶対に思わないゾ。

いまはこっちの詩のほうが身に染みてわかるぞ www
そのまんまでいい ww
「働けど働けどなほわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」

ついでに

島崎藤村の 「夜明け前」

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
これだって実際に中山道を通ったみてから読むと昔読んだ時とは受け取り方がだいぶ違ってくる。
山に行くのもこういった感情をあらたにもちたいという願望があるからだ。
心につながるふるさと  血につながるふるさと  言葉につながるふるさと  藤村
春になったら馬籠(まごめ)を歩いてくるのもいいな。

   

「三十路はすべて闇の中である」とか書いている人がいたがこっちの方はしゃれているし、笑える www


アサギマダラの幼虫の食草「イケマ」のこと書こうと思っていたのだが、だいぶそれてしまったな ><
アサギマダラに興味をもったのだって、むかし山で疲れて休んでいるときにであったきれいな蝶のことを覚えていたからだ。

山はイイゾ~~~~ www
ピークだけ求めているのはイモだぞ~~~~ wwww
アサギマダラの幼虫にたべられちゃうぞ ~~~~~ www
(アサギマダラの幼虫はガガイモ科のつる草を食べるらしい。 イモじゃないか www)