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神戸市中央区花隈周辺と旧居留地周辺の散策記 on 2016-6-6

2016年06月07日 11時26分55秒 | 神戸情報
2016年4月4日(月)より月1回第1月曜日、須磨区民センターで近藤 譲先生が
講師の講座「知っているようで知らない 神戸の歴史」を受講しています。

6月6日に神戸市中央区現地見学会がありました。
散策場所は下に添付の地図のとおりです。



拡大版はこちら


当日の散策順路は下記のとおりです。

モダン寺→関帝廟→小泉八雲旧居跡碑→花隈城天守閣之址(福徳寺)→花隈公園
→神戸華僑歴史館(休館)→海軍操練所跡の碑→旧居留地十五番館→三宮神社(神戸事件)



上の地図は中央区歴史トリップmapの上に書いた当日歩いた経路です。

以下巡った順に主に写真紹介していきます。また途中に出会った景色も紹介
していきます。

1.モダン寺



上の写真はモダン寺(本願寺神戸別院)の遠景と近景です。

本願寺神戸別院が通称「モダン寺」と呼ばれ親しまれている寺の正式名称である。
モダン寺は浄土真宗本願寺(西本願寺)を本山とする直属寺院で親鸞聖人
(1173-1262)により開かれた浄土真宗の教義を伝える念仏の道場である。
甲斐国武田信久が本願寺11代顕如宗主に帰依し教祐と号し天正年間(1585年頃)
に摂津郡二つ茶屋村に一寺を建立したと言われ、寛永16年(1639)本願寺13代
良如宗主により善福寺の寺号が授与された。明治4年(1871)鉄道敷設に際し
現在のところへ移った。
明治41年(1908)8月別格別院善福寺となり昭和35年(1960)8月から本山直属
の本願寺神戸別院となった。その後、大正6年(1917)1月25日火災に遭って、
昭和5年(1930)10月に、火災や風雨に強い鉄筋コンクリート造りのモダンな
寺院が建造された。鉄筋コンクリートによる寺院の建築は日本で初めてのこと
である。さらに平成7年(1995)9月には、元の外観を生かして建て替えられた。
震災後最初に竣工された建物でもあります。


住所:神戸市中央区下山手通8-1-1  TEL:078-341-5949

 2008年1月15日の訪問記 http://seiyo39.exblog.jp/7951469/

近藤先生から大谷光瑞のインド遠征や二楽荘(伊藤忠太の設計)、川口慧会の
話がありました。


上の写真は関帝廟に向かう途中にある本寿寺の日蓮像

本寿寺に住所とTEL
 住所:神戸市中央区下山手通7丁目1−35 TEL: 078-341-0982

 大黒様と稲荷社が目立つ

2.関帝廟


上の写真は関帝廟の本堂(金堂)


上の写真は関帝廟の山門


関帝廟は華僑の厚い信仰を集める中国寺院で日本の禅宗の一派黄檗宗に類似
している。
本尊は「三国志」で知られる蜀の劉備に仕えた武将関羽(かんう)で、
道教では武の神、財の神として崇められている。

関帝廟について100円で購入したリーフレットより神戸在住の作家陳舜臣氏の
解説を引用させていただきます。
関帝廟のこと  陳舜臣
 関帝廟に祀られている三国志の英雄関羽は蜀の皇帝劉備に仕えた人物で、この世においては「皇帝」でもなんでもなかった。それなのに中国の人たちは、彼を記念する廟を立て、彼を「関帝」とあがめた。
 関羽が武運拙く津水のほとりで敗死したのは、建安二十四年(二一九)の十二月であった。関羽と戦った呉の総帥呂蒙は、その直後に公安という所で病死している。呉の副将孫咬も関羽の死から一カ月たたぬうちに死んだ。関羽の首級が呉の同盟軍の曹操のところに送られたのは翌年の正月であり、曹操が六十五歳で洛陽で病死したのは、おなじ日であった。『三国志演義』では、呂蒙も曹操も関羽の怨霊にとりつかれて死んだことになっている。
 こんなことから、関帝廟は鎮魂のための「杜」であるとする説が有力だが、では怨霊を鎮めるのは、なぜ関羽かという問題が残る。史上、おびただしい人が恨みをのんで死んでいる。たとえば屈原などはその代表的な人物であろう。
 しかし、この世に怨念をもった悲劇的な武将として、最もよく知られたのはなんといっても関羽である。さらに関羽には、「誠実」という、まことに人間的な面があった。ついには敵となった曹操にも、恩義をうけたことがあり、立ち去るときに、義理堅く恩返しをしている。この信義に厚いことが、関帝さまが商売人に崇拝される一因だという人がいるのだ。契約すれば、どんなことがあってもそれを守る。関羽の義理堅さは、じつは商人だけに必須のものではない。学問であれ、役人であれ、技術者であれ、信義は厳に守るべきなのだ。ただ関羽の故郷の解県は、塩の産地で、全国から塩商が集まる。そんなことで商人と縁が深かったのであろう。
 一般には関公と呼ばれたが、宋代に武安王に加封され、そのころから彼を祀るところは、関王廟と呼ばれるようになった。明の万暦は二十二年(1594)、協護国忠義大帝に追封された。関帝廟という名はそれ以後である。



同じく、リーフレットからの引用ですが神戸の関帝廟の生い立ちについて下記をご参照下さい。
1888(明治21)年、「慈眼山長楽寺」として誕生
 関帝廟は、俗に「南京寺」とも呼ばれますが、その正式寺名は「慈眼山長楽寺」。
 1888年(明治21年)4月、大阪府布施市にあった長楽寺が廃寺になるのを、現在の神戸市中央区中山手通7丁目53-1に移し、関帝、十一面観音、天后聖母をまつりました。これが関帝廟の始まりとされています。
 それまでも、神戸に住む華僑の人々の間では関帝が信仰の対象としてまつられてはいましたが、ここに中国の伝統寺院としてひとつに統合され、以後華僑たちの心の拠り所となったのです。
 長楽寺は、中国福建省の高僧である隠元禅師が、時の徳川幕府より許しを得て宇治に建立した黄栗宗の大本山・萬福寺につながる寺で、初代住職には長崎聖福寺より松井宗峰師が迎えられました。
 現在はどの宗派にも属さず、関帝廟として独立した寺院となっています。


2014年8月23日(土)に関帝廟で開催の普度勝会の行事を観ていますので
リンク紹介(小生のブログ)しておきます。
 神戸 関帝廟での普度勝会 on 2014-8-23



上の写真は2016年度の普度勝会のポスターです。


上の写真は次の訪問地「小泉八雲旧居跡碑」のある兵庫県中央労働センターの
北側にある新聞の先駆者ジョセフ・ヒコの旧居跡の碑です。

ジョセフ・ヒコは神戸時代(明治8年(1875)から明治21年(1888))に
この辺りに12年間住んでいました。

詳しい解説は小生の下記ブログをご覧ください。
 新聞の先駆者ジョセフ・ヒコの旧居跡(その2)

3. 小泉八雲旧居跡碑






兵庫県庁の北側にある県立労働センター玄関前の庭に、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) (1850~1904)の旧居跡の碑(上お写真)が建てられています。
明治27年(1894)神戸に来て、英字新聞「神戸クロニクル」紙の記者となるが、健康を害してすぐ退社した。しかし、彼は1年9ヶ月間神戸で執筆活動をした後東京へ移り住んだ。この時期の代表作のひとつに「日本人の微笑」がある。
月給は熊本五高で200円であったが、月給100円の神戸での新聞記者生活となったもので期するものがあった訳ですが、神戸での生活は彼が思い描いたいたものではなかったようです。
また、約2年間に神戸で3回も転居しているようです。居留地での外国人の行動を批判的に捉えた数少ない外国人でもあります。
例により県労働センターの玄関横の石碑の説明文より引用させてもらいます。
「小泉八雲と神戸小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本の精神文化や民俗、伝統を心から愛し、その作品を通じて、日本を広く世界に紹介、明治の文豪として偉大な足跡を残したが、八雲と神戸との出会いは、後に兵庫県県知事となった服部一三との交友による。
 八雲は松江、熊本で教壇に立った後、明治二十七年神戸に移り住み、英字新聞「神戸クロニクル」の記者として文筆を振るう傍ら文壇生活に入った。明治二十九年に帝国大学講師として東京に転居するまでの間、中央区内の当敷地内に居宅を構え、「心」、「仏の畑の落穂」などを執筆。小泉八雲と改名し、日本に帰化したのもこの時期である。
 平成六年は、八雲が神戸に住んでから百年目にあたる。これを記念してここに小泉八雲の道徳を偲び、神戸との関わりをこの碑にとどめる。」



上の写真は福徳寺まで途中で撮った神戸教会の写真です
神戸教会と新島襄との関係について若干触れておきます。
明治11年(1878)11月21日 神戸教会の献堂式に新島襄夫婦で出席
明治22年(1889)1月18日神戸の有志が発起人となり神戸教会で同志社大学設立
              のための支援集会が行われる 
        


4.花隈城天守閣之址(福徳寺)



上の写真は福徳寺の山門前の「花隈城天守閣之址」の石碑です


浄土宗福徳寺の山門の横に「花隈城天守閣之碑」の石碑が建てられている。
花隈城の天主(殿守)がこの付近にあったと考えられている。


天守閣に似せた建物が福徳寺の中にあります

5.花隈公園



上の2枚の写真は花隈城跡の碑と説明板

上の写真の説明板には下記のように書かれています。
「花隈城跡 花隈城は永禄10年織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段としてこの土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。後に天正6年村重が織田信長にそむいたとき、花隈城は池田信輝らに攻められて天正8年8月2日に落城した。城の地点は海に突き出たハナクマの名の通りの台地で海陸の要害地である。城の規模は古図によると本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二ノ丸、三ノ丸と北に続き、その東に侍町と足軽町があり近世城郭の形態を完備した偉容を示していたと伝えられるが、建物の構造などは詳しく分からない。城の西には花隈町があった。現在の地形では大体東は県庁、西は善福寺(モダン寺)、南は国鉄高架線、北は市電山手線の区域で東西約350m、南北約200mであったと思われる。 昭和44年3月」

さらに詳細は添付の小生のブログに記載しています。
 花隈城跡と天守跡


6.神戸華僑歴史博物館

休館のため入館できず。以前に訪問したことがあるが画像をなかなか
見つけられないので。この項を飛ばします。

7.海軍操練所跡の碑

上の写真は海軍操練所跡の碑


神戸海軍操練所について現地の碑文から引用紹介します。

 万延元年〈1860)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸
〈300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果した
のである。日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。
文久三年(1863)4月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。
当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港で
あることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。
 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。
勝海舟はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした.
その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを 数え、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐享など幾多有為の
人材が輩出したのである。
 元治元年=1864年〉海舟は禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加したため、激徒養成の
嫌疑を被って解職され、操練所もまた翌慶応元年(1865)3月、ついに閉鎖されるの止むなきに
至ったのである。 当時は、この「記念の錨」から東へ長くひろがり、南は京橋詰から税関本庁舎を
望むあたりの、長方形の入堀約一万坪の一帯が海軍操練所であった。惜しくも現在では阪神高速道路
の下に埋めたてられて当時の盛観をしのぶに由もない
 今はただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことのできるのがせめてもの
救いである。


詳細は下記ブログを参照してください。
 http://seiyo39.exblog.jp/7771439/



8.十五番館


上の写真は十五番館の遠景です。

旧居留地が造営された当時の建物が現存する建物である。
平成元年(1989)に国の重要文化財に指定された。
平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災で建物は全倒壊しましたが、
平成10年(1998)4月に復元されました。

現在はカフェ・ド・神戸旧居留地という名前の洋食カフェレストランになっています。
レストランの訪問記へのリンク
  トゥーストゥース メゾン ジュウゴ でのランチ on 2012-9-25


上の写真は卵型の煉瓦造りの下水管で平成5年4月1日に作成の説明文があります。
説明文の内容は下記のとおりです。

旧神戸外国人居留地の下水道

神戸外国人居留地は慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港に併せて設けられました。
居留地の下水道は、神戸付近で焼かれたレンガを用いて円形管と卵型管が南北道路に沿って
6本1880mが施設された。明治5年(1872)ごろに完成されたものです。
近代下水道としては日本で一番古いもので、現在でもその一部が下水道の雨水幹線として
使われています。 


9.三宮神社
 

上の写真は三宮神社の遠景です。


上の写真は神戸事件発生地

備前藩士の一行(約500名の隊列)は3門の大砲をもって三宮神社付近を
通行中に下記に詳述の神戸事件が起きた。
フランス兵2名が隊列を横切りにたいして槍でその兵に軽傷を負わせた。
死者が出ていない事件に対して1人の切腹は刑が重過ぎるという考えも
 あったが、備前藩士瀧善三郎正信の切腹で問題は解決した。

三宮神社の一角に神戸事件の石碑がありその説明文が英文とともに書かれています。
神戸事件の概要(神社前の説明文より引用)は以下のとおりです。
神戸開港早々の明治元年(1868)正月11日、尼崎へ出向を命じられた岡山
備前藩の隊士の行列が三宮神社前を通過するとき、神戸沖に停泊中の外国軍艦の
乗組員数名が行列を横切った。隊士の瀧善三郎正信は日本の風習から無礼を怒って
相手を傷つけた。それがもとで外国兵と備前藩士の一行との間に砲火を交える
騒ぎとなった。その結果、神戸の街は外国兵によって一時占拠されてしまった。
同月15日、東久世通禧は勅命で神戸へ来て明治維新で天皇新政となったことを
初めて外国側に知らせ同時にこの事件について交渉をした。
結局、瀧善三郎は責任を一身に負い外国人代表ら立会いの面前で切腹して
問題は解決した。






上の写真は同年代の大砲と説明板

下の写真は明治元年(1868)2月9日午後11時30分兵庫の永福寺において
各国代表者の立会いのもと行われた瀧善三郎正信の切腹の様子が描かれた画と
背景などが書かれた説明書きの写真です。2008-8-8撮影











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