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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

兵庫県指定重要有形文化財 旧入江家住宅 on 2018-1-30(改訂版)

2022年09月14日 04時26分49秒 | 神戸市以外の兵庫県

標題のブログは2018年3月9日にアップしましたが最近、資料を整理していたら旧入江家住宅の

リーフレットが出てきたのでこの資料等を加えて改訂版として纏めました

高砂市曽根町にある旧入江家住宅(県指定重要有形文化財)への訪問日:2018年1月30日

前回のブログ:兵庫県指定重要有形文化財 旧入江家住宅 on 2018-1-30 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

旧入江家住宅の基本情報

住所:高砂市曽根町493番地1  TEL:079-447-0224

開館日:11月第1土日 イベント開催時(不定期)

問い合わせ先:高砂市教育委員会 生涯学習課 文化財係(TEL:079-448-8255)

公式サイト:旧入江家住宅/高砂市 (takasago.lg.jp)

上の写真は旧入江家住宅付近の地図です 出典:リーフレット

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

略年表

入江家の始祖「濱田清兵衛」は浜田新田を開発したと伝えられ、その子「九郎兵衛」から

入江姓が用いられました。 出典:リーフレット




上の写真は入江家の歴史を示した表です。
出典:神戸建築文化財研究所編 旧入江家住宅表屋保存修理工事報告書(2011.3)Page7

入江家の中で最も知られた人物は入江樵風(1792-1848)で塩田経営のかたわら
俳句の世界にしたっています。入江樵風は江森月居、井上士郎、桜井梅室、葛垣守三ら
当時の著名な俳人、文人と交流しています。曽根天満宮の霊松の前の句碑には
枯れて猶 千とせの花や 曽根の松」と刻まれています。

句碑の写真は下記ブログ記事に添付しています。
 曽根天満宮 梅まつり on 2018-3-4

外観







上の3枚の写真は敷地(1,436㎡)の南面からの外観です。撮影:2018-1-30


上の写真は敷地の北面の長屋蔵の外観です。撮影:2018-1-30


上の写真は高砂市教育委員会が平成29年11月1日に作成した現地説明板
平成13年(2001)入江悦郎氏から高砂市に土地・建物が寄贈された。撮影:2018-1-30

配置図


上の写真は旧入江家住宅の配置図です。
出典:神戸建築文化財研究所編 旧入江家住宅表屋保存修理工事報告書(2011.3)Page8

西から土塀、表門、表屋が並び、表門正面に母屋、その他に「酔古亭」と呼ばれる
新座敷や、道具蔵、醤油蔵、米蔵などがあり製塩業で栄えた入江家の往時の面影を
留めています。

高砂市では8年前から毎年旧入江家住宅を公開されています。
2017年は11月4日と5日の2日間
機会があれば是非、公開日に内部を見学させてもらおうと思っています。

外観の写真しかないので文献などより内部の写真を添付しておきます。

主屋


上の写真は主屋 天明5年(1785)築 棟札あり 現存建築では最古

出典:神戸建築文化財研究所編 旧入江家住宅表屋保存修理工事報告書(2011.3)Page7

上の写真は主屋の様式、間取り、立面図 出典:リーフレット


新座敷

上の写真は新座敷 文政11年(1828)頃築

出典:神戸建築文化財研究所編 旧入江家住宅表屋保存修理工事報告書(2011.3)Page7

上の写真は様式、間取り、内部の写真など 出典:リーフレット

入江家を代表する人物である入江樵風(1792-1848)は、家業のかたわら俳諧をたしなみ、

この家で多くの文人たちと交流しました。

新座敷は入江樵風が増築し「酔古亭(堂)」と命名しています。

土蔵


上の写真は土蔵

出典:神戸建築文化財研究所編 旧入江家住宅表屋保存修理工事報告書(2011.3)Page

上の写真は土蔵の建築年、様式及び蔵の写真  出典:リーフレット

庭園

上の写真は庭園の説明と写真 出典:リーフレット

表門

上の写真は表門の外観 撮影:2018-1-30

上の写真は表門の建築年、様式など  出典:リーフレット

表屋

上の写真は表屋の外観 撮影:2018-1-30

上の写真は表屋の建築年、様式、間取りと内部写真 出典:リーフレット

 

曽根塩田

上の写真は文化1年(1804)刊行の播州名所巡覧図絵(作者 秦石田、絵師 中井藍江)

で描かれた曽根天神、西国街道、曽根塩田






上の2枚の写真は昭和46年(1971)に塩田が廃止される前の塩田の古写真です。
出典:高砂市教育委員会編 旧入江家住宅 総合調査報告書 Page169

入江家の菩提寺の龍澤寺






上の3枚の写真は入江家の菩提寺の龍澤(りゅうたく)寺 臨済宗妙心寺派

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三木市 高木墓地内 一柳直明の墓碑 on 2022-9-3

2022年09月12日 04時45分01秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年9月3日、三木市高木墓地の南側奥にある一柳直明の墓を墓参したので紹介します。

一柳直明(1851-1897)は旗本一柳家の十六代当主で高木藩5,250石の当主です。

城は無く、豊城根神社付近に陣屋があった。

元和7年(1621)以来、幕府の支配地となった三木郡内に寛文5年(1665)に領地没収された

西条藩の復活が許された第7代の一柳直増が元禄16年(1703)10月、三木の15ケ村(高木村、

東這田村、西這田村、花尻村、上石野村、中石野村、下石野村、跡部村、吉田村、安福田村、

井上村、上村、上和田村、四合谷村、興治新田)5,250石を領して高木藩を成立させた。

以降、9代を経て一柳直明の時に明治を迎えた。直明は明治3年(1870)領土を奉還したが

高木陣屋内にあった豊城根神社だけが残った。

直明の子、一柳慎(まこと)は廃藩後、、県会議員となり三木金物の隆盛に力を尽くしたが

明治36年(2003)に北海道旭川に移住した後、三木とは疎遠になった。

一柳家の系譜について『三木の人物史』三木市観光協会刊より引用紹介します。

高木陣屋は一柳氏の陣屋として、初代一柳直増から続いた高木藩の陣屋である。
 天正の三木合戦の際に浅野長政とともに二位谷の奥に付城を構えた一柳直末は、その後の数々の合戦でも戦功を挙げ、その賞として岐阜大垣城主となった。
 が、天正十八年(1590)の山中常の合戦で直末が討死した為、弟の直盛が継ぐことになった。その直盛には三人の男子があり、長子の直重が伊予西条三万石の藩主、二男の直家が播磨小野二万八千六百石の藩主、そして三男の直頼が伊予小松一万石の藩主となり、ここに三つの一柳藩が成立したのである。
 後に西条藩の直興が幕府に対し不興を買うこととなり、領地没収となってしまう。そして貞享三年(1686)に加賀で病死してしまったことで、西条藩は天領となり取り潰しとなった。やがて本家西条藩の建て直しが幕府に認められるが、すでに天領となった西条の地は復興することはできず、かわりに播磨三木の地、五千二百五十石が与えられたことになった。初代直増から明治三年の版籍奉還の時まで当地は一柳氏の支配する地として続いていった。
 
前置きが長くなりました。本題の一柳直明の墓碑に話題を戻します。
上の写真の中央が一柳直明の墓碑です。 撮影:2022-9-3

墓碑には妙法威徳院殿直明豪智日俊大居士(正面の戒名)

 側面に明治三十年九月二十九日卒 高木村他十四ケ村領主 十六代 一柳 直明 

 享年四十六才と刻まれています。

墓碑は昭和27年(1952)3月、18代一柳直通が千葉食糧事務所加工課長を退いた退職金を

元手に石工の大貫梅吉に依頼して建立されたそうです。

上の写真は一柳直明の墓碑の角柱の上部の笠部と宝珠のアップで一柳氏の「二重釘貫」の紋が

くっきりと刻まれています。

 

上の写真は一柳播磨守越智直方室の墓碑で戒名の真如院殿妙境旦馨大姉

明治10年(1877)没 享年61歳

上の写真は一柳播磨守越智直方室の墓碑の左手にある墓碑

明治16年9月5日 戒名は解読できなかったが大姉とついているので女性

上の写真は一柳直明の墓碑の右手の墓碑 こちらも詳細解読できず。女性の墓である。

上の写真は裏側からみた4つの墓碑

上の写真は4つの墓がる茂みの遠景 隙間から一柳直明の墓碑が見えています。

高木墓地の住所は三木市別所町高木

上の写真は高木墓地の位置と高木陣屋跡の豊城根神社の位置を地図上に示した

出典:三木の石造品Ⅲ-別所地区編- 令和3年(2021)9月 三木市教育委員会Page57

 

四国の一柳陣屋について下記サイトで紹介されています。

 一柳氏の陣屋跡を訪ねて - 紀行歴史遊学 (typepad.jp)

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三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2022-9-3

2022年09月08日 04時55分54秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年9月3日(土)、三木市立みき歴史資料館の企画展「三木飛行場の記憶」の
展示説明会 講師:宮田逸民さん(郷土史家、三木飛行場を記録する会の会長)
が13:30よりありそれに参加するために三木に出かけていました。

その際、ビストロ・ド・ノブでランチをいただきましたので写真紹介します。

ビストロ・ド・ノブはコスト面の安さと味の良さで三木のグルメ処では一押しのスポットです。

ビストロ・ド・ノブの基本情報
住所:三木市本町2丁目3−1  TEL:0794-82-4988
料理ジャンル:洋食
フランス語表記は Bistro de nov
営業時間:11:30~14:00 17:00~20:30
定休日:火曜日


所在地のGoo地図を添付しておきます。 

当日は表の看板に掲載の日替わりランチ 1,100円(税込)を注文しました。

上の写真はメインの海老入り玉子焼き、パスタ、ナス、おくら&ライス

上の写真は玉子焼きの中の海老が入っている断面をアップで撮ったもの

上の写真は最初に出てくるスープです。

食後にはデミタスのコーヒーが出ます。

いつもながら、納得の味でした。 ごちそうさま

上の写真は店頭の掲示

上の写真はNovの店の入口にある立石の道標です。気をつけていないと見逃して
しまいそうな場所にあります。そういった方のために三木市が作製したリーフレット
「街道をゆく」の中の地図(部分コピー)を掲載しておきます。(下の写真)
道標には 右 ひめぢ道 左あかし道と書かれています。
また、宝暦11年(1761)三木町西国同行中建設/大破傾キタルヲ以テ昭和七年十一月再建
とも書かれています。

下津の道標については下記ブログで書いていきます。

 三木市散策記 on 2013-2-3 その3 立石の道標と下津の道標 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

上の写真はお店の外観

 

過去の訪問記

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2020-2-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2018-6-13 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2017-1-22 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2013-5-22 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2013-4-21 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

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斑鳩寺の赤松顕彰碑(赤松政秀、赤松広英親子の供養碑)

2022年09月05日 03時31分27秒 | 神戸市以外の兵庫県

斑鳩寺については下記ブログで書いた。

 斑鳩寺訪問記 on 2018-4-18 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

斑鳩寺の基本情報を再掲します。

斑鳩寺の基本情報

住所:兵庫県揖保郡太子町709  TEL:079-276-0022
宗派:天台宗  山号:斑鳩山
御本尊:如意輪観世音像(左手)、釈迦如来像(中央)、薬師如来像(右手)
    毎年2月22日・23日の太子春会式で御開帳
創建:推古天皇14年(606) 開基:聖徳太子(574年2月7日-622年4月8日)
霊場:新西国霊場第32番、西国薬師霊場第23番、聖徳太子御遺跡霊場第28番
   播州薬師霊場第18番


御詠歌:かみつ代の 聖の徳は いかるがの 蓮(はちす)の花と かをるなりけり

公式サイト:斑鳩寺公式ホームページ (ikarugadera.jp)

 

斑鳩寺の境内に赤松政秀赤松広秀(斎村政広)の顕彰碑があります。

今回はこの顕彰碑を中心に書いていきます。

顕彰碑には次のように書かれています。

上の写真は赤松正秀(1510?-1570)とその子、赤松広英(秀)=斎村政広の供養塔
龍野城主で斑鳩寺の再建の功労者です
元兵庫県知事 金井元彦氏などが発起され昭和38年(1963)10月に建立

撮影:2018年4月18日

この供養塔の裏面に赤松正秀と赤松広秀を顕彰する文章が刻まれています。

龍野城主赤松政秀文武の誉高く、その子広英亦文雅の才あり。藤原惺窩と善し、朝鮮の役

に捕虜となりし大需姜沆の三人、伏見の赤松邸に於て慶長三年九月より一年有半、四書五経

の訓点刊行を企て、戦乱の世にはじめて文芸復興の烽火(のろし)をあげ、但馬竹田で仁政を

布き、名君として慕われしが、関ヶ原の戦いに石田三成に味方し、家康の怒りにふれ、慶長五年

十月二十八日鳥取真教寺で自刃、年三十九才、赤松氏は悲しくも断絶した。斑鳩寺の鐘楼は、

国宝三重塔を創建した父政秀の遺志を襲(つ)ぎ、竹田より寄進したものである。ここに有縁の

士相寄り、政秀、広英父子の霊を弔い、その文化的偉業を永遠に顕彰するため、この碑を建立す。

昭和三十八年十月建立

  東大教授文学博士  阿部 吉雄

  作家        有馬 頼義

  兵庫県知事     金井 元彦

  聖徳太子奉賛会長  嵯峨山作一

  太子町長      上田 勝信

  竜野市・医学博士  田中 敬三

  元竹田町長     足立壮太郎

  斑鳩寺住職     大谷 智真」

赤松広英は関ヶ原の戦いでは最初西軍に属し細川幽斎篭る田辺城を攻め、その後蟄居して

いたところ亀井茲矩(これのり)に誘われて西軍の鳥取城を攻め開城させますが、鳥取城下を

放火した罪を家康より厳しく咎められ亀井茲矩に罪を擦り付けられ自刃しています。

 

この顕彰碑の両脇に五輪塔があり由来が刻まれています。

赤松満祐が室町時代の将軍義教を謀殺したため、細川・山名の大軍に攻められ、その最後の

本拠地とした城山(きのやま)城で一族郎党が全滅した(嘉吉元年九月十日)。

そのとき、援軍の将である東播磨の小田城主依藤左衛門大尉源惟次およびその家臣が、城山城

の落城を聞き、いまの新宮町千本の草庵で自刃した跡に散乱していた遺骸をまとめて、赤松氏

のシンボルとして政秀、広秀親子の碑の両側に合祀したものである。

嘉吉の乱(1441)
嘉吉元年(1441)6月24日播磨、備前、美作3国の守護赤松満祐(あかまつ みつすけ)
は京都の私邸(京都西洞院二条)で室町幕府6代将軍足利義教公を殺害します。
さらに将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰ります。そこから
足利ゆかりの安国寺(加東市東条町)で盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
この事件を嘉吉の乱と呼び「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しく書かれています。
足利義教の首級は7月1日、季瓊真蘂が赤松満祐に会い、義教の首の返還を求めた。
赤松満祐は快く首を返還した。真蘂が京都へ首を持ち帰り、7月6日に等持院で
義教の葬儀が行われた。
室町幕府側の管領細川持之の要請で嘉吉の乱から2か月後に朝廷から赤松追討の綸言を得て
幕府軍として赤松勢と明石、塩屋で合戦し、小勢の赤松軍は敗れました。明石での合戦では
赤松満祐の弟の赤松祐尚が大蔵谷に陣を構え幕府軍と戦いました。赤松祐尚は中巌和尚を
敬慕していましたので、居城を三木に移すにあたり、陣屋の跡を寺院にしたと言います。
墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫婦の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名に
なっています。これが大蔵院のはじまりです。

赤松満祐は本拠地赤松村に帰り、城山城で戦ったが敗れて満祐は自害、子の教康も
逃げる途中で自害した。赤松満祐が将軍として擁立した足利義尊も殺されました。
この乱(嘉吉の乱)で播磨、備前、美作3国は没収され赤松氏の嫡流家は滅亡した。





上の写真は斑鳩寺三重塔永禄8年(1565)再建。伽藍内最古の建物。重文(国)。
赤松政秀が、天下泰平を祈願して発願した、との銘文あり。

撮影:2018年4月18日


上の写真は鐘楼(中央)と講堂(左手)

撮影:2018年4月18日

鐘楼は天正3年(1575)、赤松広秀により再建。

赤松広秀は米100石とともに竹田城のほど近くにある、音のすばらしさで知られた

楽音寺の鐘を斑鳩寺に寄進します。

赤松政秀、赤松広英を中心とした赤松氏系図

 

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若一調査隊で紹介された淡路島の松帆銅鐸について

2022年08月25日 04時36分58秒 | 神戸市以外の兵庫県

10ch読売テレビ「かんさい情報ネットten」 2022年8月3日放送「若一調査隊」で淡路島の

松帆銅鐸が紹介されました。番組内容は下記Youtube動画。

 【若一調査隊】淡路島が考古学史を揺るがす!? “鉄器”と“銅鐸”に関する歴史的大発見とその謎に迫る! - YouTube

【若一調査隊】淡路島が考古学史を揺るがす!? “鉄器”と“銅鐸”に関する歴史的大発見とその謎に迫る!

まず、番組で紹介された内容をレビューしておきます。

松帆銅鐸発見地

南あわじ市の株式会社マツモト産業加工工場(三原工場)で2015年4月8日、
銅鐸7点が発見され大きな話題となりました。

 

発見された7点の松帆銅鐸


発見された銅鐸は出土地から松帆銅鐸と命名されました。松帆銅鐸は全国で初めて
音を鳴らすための青銅の棒「舌(ぜつ)」と舌のつりひもが同時に見つかった
点で銅鐸の創生期に近い歴史を探る上で貴重であり注目されています。

松帆銅鐸7点の玉青館での展示

南あわじ市の玉青館(ぎょくせいかん)で「奇跡の松帆銅鐸展」が開催中です。

2022年9月11日まで。

上の写真は玉青館に7年ぶり帰ってきた7点の松帆銅鐸。5号銅鐸は破損。

玉青館(ぎょくせいかん)の基本情報

〒656-0314 南あわじ市松帆西路1137番地1
Tel:0799-36-2314
開館:9時~17時
休館日:毎週月曜・年末年始
入館料:大人300円・大学高校200円・小中学生100円

公式サイト:南あわじ市滝川記念美術館 玉青館 - 南あわじ市ホームページ (city.minamiawaji.hyogo.jp)

公式FB:南あわじ市滝川記念美術館 玉青館 Gyokusei Museum | Facebook

玉青館は日本南画界の第一人者直原玉青画伯(1904-2005)の美術館です。

7つの銅鐸のうち3組が入れ子

1号・2号銅鐸、3号・4号銅鐸及び6号・7号銅鐸は対になっており入れ子と呼ばれる。

4つの奇跡

 奇跡① 1号銅鐸は「菱環紐式」弥生時代前期~中期初頭の銅鐸 全国で11例のみ

  

 

 奇跡② 音を鳴らす振り子「舌」が7点とも残っていた。

 

 奇跡③ 全国初 銅鐸と舌を結ぶヒモを発見(3・6・7号のみ)

 

 奇跡④ 全国初 入れ子の中に植物が付着 これのC14放射性同位元素分析で年代を特定

 

銅鐸は弥生時代の祭祀の道具

1・2号銅鐸の復元

銅鐸出土数

銅鐸の出土数は約500だそうです。兵庫県の出土数 全国第1位の68点

淡路島からの出土は21点

 

若一調査隊の番組に刺激を受けて松帆銅鐸について現在までの知見を纏めてみました。

ベースとなった資料は以下のとおりです。

 1)兵庫県立考古博物館編「淡路島 松帆銅鐸と弥生社会」季刊考古学・別冊28雄山閣(2019)

 2)兵庫県立考古博物館開館10周年シンポジウム「松帆銅鐸と淡路の青銅器をめぐって」2017年11月11日

 3)兵庫県立考古博物館開館10周年記念 講演会 定松佳重「松帆銅鐸の発見」2017年10月7日

 4)兵庫県立考古博物館開館10周年記念 特別展「青銅の鐸と武器-弥生時代の交流-」(2017)

 5)松帆銅鐸の展示 in 兵庫県立考古博物館 on 2016-3-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

鳴らす銅鐸の各部名称

上の写真は鳴らす銅鐸の模式図(パネル展示) 出典:5)

銅鐸は鳴らすために舌が当たる部分が盛り上がっている(内面突帯)が、そこが

すり減っていました。ですから何回も鳴らされ使用されてきたと思われます。

発見された7つの銅鐸と舌



上の写真が7個の銅鐸です。(写真パネル展示)5号銅鐸は破損。
出典:5)2016年2月27日(土)~3月27日(日)開催の兵庫県立考古博物館の特別公開イベント

   写真展示、撮影は2016-3-8

上の2枚の写真は松帆銅鐸3号・4号の発見された状態での写真と3次元画像 

出典:4) Page11-12

上の2枚の写真は松帆銅鐸6号・7号の発見された状態での写真と3次元画像 

出典:4) Page11-12

上の写真は松帆5号銅鐸と7本の舌 出典:1)口絵

舌を下げる紐は三つ編みのように編まれた組紐であった。また、ひもの痕跡を解析した

ところ、銅鐸を吊り下げる際には太さ2~3ミリの細い紐で何重にも巻き付けていた

ことが確認されました。手に持って鳴らしていたものではなく、吊り下げて使用して

いたことがはっきりしました。

発見された松帆銅鐸の一覧表 

上の写真は7つの松帆銅鐸の一覧表 出典:3)

発見された銅鐸は出土地から松帆銅鐸と命名されました。松帆銅鐸は全国で初めて
音を鳴らすための青銅の棒「舌(ぜつ)」と舌のつりひもが同時に見つかった
点で銅鐸の創生期に近い歴史を探る上で貴重であり注目されています。

舌のつりひもが残存した理由は銅イオンによるもので銅と接触している部分が残存。

1号・2号銅鐸、3号・4号銅鐸及び6号・7号銅鐸は対になっており入子と
呼ばれる。銅鐸と青銅製の舌が近くで見つかったのは、鳥取県の「池ノ谷第二遺跡」と
兵庫県南あわじ市の中ノ御堂の2例(3点)で今回が3例目で全国的にも貴重。

 

1号銅鐸は菱環鈕(りょうかんちゅう)2式 ・・弥生時代前期 約2300年前

2号銅鐸から7号銅鐸は外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式で弥生中期 
                              約2100年前


銅鐸の出土数(7個)としては、島根県の加茂岩倉遺跡(39個)、滋賀県大岩山24点
兵庫県神戸市の桜ヶ丘14点に次ぎ4番目である。

銅鐸の出土数は約500だそうです。兵庫県の出土数 全国第1位の67点

淡路島からの出土は21点。

実際に作られた銅鐸の総数は、少なくとも1,200個、最大で4,400個ほどで、「聞く銅鐸」

の製作総数は約830~3,000個と推定できた(難波2000)以上の出典は2)Page3


入れ子状態が確認されているのは他に加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)からで
12組の入子の銅鐸が発掘されています。 
発掘された39個の銅鐸は平成20年7月10日に国宝に指定されました。

上の2枚の写真は松帆1号銅鐸(上)と松帆2号銅鐸(下) 出典:1)口絵

上の2枚の写真は松帆3号銅鐸(上)と松帆4号銅鐸(下) 出典:1)口絵

上の写真は松帆5号銅鐸 出典:1)口絵

上の2枚の写真は松帆6号銅鐸(上)と松帆7号銅鐸(下) 出典:1)口絵

 

銅鐸の形式




上の写真は2015年5月19日兵庫県教委と南あわじ市教委が発表の資料からで
銅鐸の形式分類が書かれています。

弥生時代の前期、中期、後期について諸説があり確定していないが下記と
定義します

  前期 2400年前~2200年前

  中期 2200年前~2000年前

  後期 2000年前~1700年前

上の写真は銅鐸の分類と変遷年表  出典:4)

松帆銅鐸の形式について再掲します。

1号銅鐸は菱環鈕(りょうかんちゅう)2式 ・・弥生時代前期 約2300年前

2号銅鐸から7号銅鐸は外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式で弥生中期 
                              約2100年前

上の写真は鳴らす銅鐸から見せる銅鐸の変遷 出典:2)Page16

上の写真は複数出土銅鐸型式組み合わせ 出典:2)Page16

 

同范銅鐸

 

松帆銅鐸の2号と4号と松帆地区で1686年に出土した慶野中の御堂銅鐸
(南あわじ市・日光寺蔵)が同笵(どうはん)銅鐸であると同定されています。
御堂銅鐸(日光寺銅鐸)の4区袈裟襷文(けさだすきもん)左下にはシカの
絵が描かれており4号銅鐸で同じシカの絵が確認できたそうです。

松帆銅鐸の3号と出雲の加茂岩倉27号銅鐸が同范銅鐸であることも確認されています。

松帆銅鐸の5号と荒神谷6号銅鐸が同范銅鐸であることも確認されています。

上の写真は兵庫県出土の銅鐸の同范銅鐸 出典:4)Page20

兵庫県出土銅鐸一覧表

上の2枚の写真は兵庫県出土銅鐸一覧表です。 出典:4)Page59-60

字がハッキリと判読不能ですが67の銅鐸が出土しています。

 

 

淡路島における青銅器の分布

淡路島では松帆銅鐸が発見される前から銅鐸を中心に弥生時代の青銅器の存在が知られて

いました。現存するものが7点、松帆銅鐸が7点、文献などで記録があるものの所在不明

のものが5~12点を加えると19~26点の銅鐸が出土していたことになります。

出典:4) Page7

 

神戸市内から出土の銅鐸一覧

銅鐸名    所在地         出土数発見年&形式
森銅鐸   東灘区森北町6丁目   1口 昭和33年(1958)袈裟襷文
生駒銅鐸  東灘区本山北町    1口 昭和39年(1964)袈裟襷文
本山銅鐸  東灘区本山南町    1口 平成2年(1990) 袈裟襷文
渦森銅鐸  東灘区渦森台1丁目   1口 昭和9年(1934) 袈裟襷文
桜ヶ丘銅鐸 灘区桜ヶ丘町神岡   14口 昭和39年(1964) *1
伝大月山銅鐸 灘区大月山     1口  不明     袈裟襷文
投上銅鐸  垂水区舞子坂3丁目  1口 昭和3年(1928) 袈裟襷文

*1 1~3号銅鐸 流水文  4~14号銅鐸 袈裟襷文

神戸市灘区桜ヶ丘町から出土の銅鐸(14個)について簡単に記載しておきます。

桜ヶ丘銅鐸・銅戈群として国宝に指定されています。

種別:考古資料  銅鐸 14口、銅戈(どうか) 7口  時代:弥生時代

  国宝指定年月日:昭和45年(1970)5月25日

  桜ケ丘遺跡の所在地:神戸市灘区桜ヶ丘町  保管:神戸市立博物館

上の写真は企画展「神戸考古学 BEST50」 平成18年7月22日発行
 神戸市教育委員会文化財課発行 神戸市埋蔵文化財センター編集のPage1より引用
 昭和39年(1964)12月に神戸市灘区桜ヶ丘町の丘陵で土取り工事中に出土したもので、
  袈裟襷文(けさだすきもん)が11口
  流水文(りゅうすいもん)が3口 
 桜ヶ丘銅鐸と呼ばれています。

 大きさは一番大きい6号で高さ64.1cm、一番小さい14号で高さ21.3cm
 他は高さ43cm前後のものが多いようです。
 1,2,4,5号銅鐸には人物、鹿などの動物、昆虫などが描かれた絵画銅鐸です。
 銅戈(どうか)7本は長さ27.1~28.9cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を
 複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈である。

 大きさのデータは文化庁監修重要文化財28考古1昭和51年毎日新聞発行より引用

さらに詳細は下記のブログで纏めています。  

神戸市立博物館の銅鐸展示 on 2016-3-6

 

銅鐸を使用した祭祀の様子

女性シャーマン(呪術師)のイメージを浮かべるために兵庫県立考古博物館に展示

されている弥生時代の女性呪術師の展示を紹介します。(下の2枚の写真)

撮影は2021年7月4日

女性シャーマンは豊作の願いや悪霊退散などを願った祈りをした

銅鐸や土器さらに鹿などのいけにえ、桃などの捧げものも呪術において重要な役目を果たしました

上の写真は私の銅版画作品で弥生時代に祈る人々を表現したものです。

銅鐸は上の写真の様に対で吊るしていました。

定松佳重さんの実験で銅鐸を上手く鳴らすためには上の写真のように木に対で吊るして

鳴らすのが良いことが判っています。

次に女性シャーマンを描いた土器が見つかったニュースの紹介です。

2021年9月17日、大阪府茨木市の教育委員会は市内の東奈良遺跡で、多くの点を使って

女性シャーマン(呪術師)を表現したとみられる弥生土器が見つかったと発表しました。

詳細は下記ブログで書いています。

 大阪府茨木市の東奈良遺跡から出土の土器に描かれた女性シャ-マン(呪術師)の点描画 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 
 上の写真は海辺での祈りを現したスケッチ展示
 出典:平成31年度(2019)神戸市埋蔵文化財センター春季企画展「海を見つめて」
松帆銅鐸はこのような海辺に埋納されていました。



銅鐸は農耕の祭礼に用いられ、鳴らして五穀豊穣(ほうじょう)を祈念したとされ
上記の2つの写真奈良県の橿原考古研究所の展示より

 出典:2015-6-26 夕方の読売テレビの報道

松帆銅鐸及び舌の成分分析(ICP及びICP-MS)

 奈良国立文化財研究所(奈文研)の難波洋三氏のグループが報告されています。

上の表が分析結果の一覧表です。 出典:1)Page33

外縁付紐Ⅰ式末より古い型式の銅鐸は以後の銅鐸に較べてスズ(Sn)の濃度が高い。

松帆銅鐸と舌のスズ含有率は夫々11.27~15.28%、10.70~15.96%です。

但し、例外として扁平紐式新段階から突線紐式でも高スズ含有率の銅鐸もある。

具体的には桜が丘4・5号鐸型、加茂岩倉8号鐸型、加茂岩倉35号鐸型、桜が丘6号銅鐸、

横帯分割型の生駒銅鐸、笹野家旧蔵1号銅鐸。

スズの含有率約15%の銅鐸では金色であるが、外縁付紐Ⅱ式以降はスズ含有率が約5%

のレベルとなり色は赤みが強くなります。

 

松帆銅鐸の鉛同位体比分析

上の3枚の写真は鉛同位体比分析の分析結果です 出典:1)Page32-33

分析機関は日鉄住金テクノロジー株式会社尼崎事業所の分析技術室

銅鐸7個と舌6本は朝鮮半島系遺物ライン(ラインD)上に位置する。

舌2の鉛同位体比は弥生時代の青銅器には例があまりない位置(A領域の右下)にあり、

朝鮮半島北部あるいは遼寧省や山東省などの鉛を含む可能性がある。

 

松帆銅鐸に関わる14C年代一覧

上の写真は松帆銅鐸に遺された有機物の放射性炭素年代測定の分析結果

出典:2)Page12

松帆4号銅鐸の植物は炭素含有率やグラファイト量が多く信頼度が高い

銅鐸の埋納時期BC4世紀~BC2世紀との測定結果であった。

弥生時代中期末より古い時期に銅鐸が埋納されたことが証明された。

一方、2号と7号銅鐸の植物は炭素含有率やグラファイト量が低いため、前処理による

汚染除去が充分でなく4号と較べて著しく古い年代BC9~8世紀、BC14~12世紀となった。

 

兵庫県では松帆銅鐸の国宝・重要文化財指定に向け調査報告書で成果を公表するとともに

地元での公開・活用のため保存処理を実施しています。

何年か先には必ず国宝・重要文化財に指定されると思います。

 

月刊誌「KOBECCO」2016年3月号(電子版)で松帆銅鐸に関する講演の内容を平易に

纏めておられますのでリンクさせていただきます。

 松帆銅鐸から何がわかるのか | 神戸っ子 (hpg.co.jp)

 

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きょうは何の日 8月24日

2022年08月24日 09時30分36秒 | 神戸市以外の兵庫県

NHKラジオ5時台の「きょうは何の日 8月24日」を聴取しましたので内容を紹介します。

・1968年(昭和43年)南太平洋でフランスが初の水爆実験。

         米国、ロシア、中国、イギリスに次いで5番目の水爆保有国となった。

・1991年(平成3年)ソビエト連邦の崩壊: ミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦

         共産党書記長の辞任と党の解散を宣言。共産党支配の時代が終わる。

・2015年(平成27年)宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機(HTV5)が、

         国際宇宙ステーション(ISS)とのドッキングを完了

         こうのとりには油井亀美也(ゆい・きみや)宇宙飛行士

         ISSには若田孝一さんが乗りこみました。

・2021年(令和3年)東京パラリンピックが開幕

         日本は金13個、銀15個、銅23個

         コンセプトは We have Wings

以上がNHKラジオ第1「マイあさ」で紹介があったものです。

 

本日(8月24日)のラジオで紹介以外のものでは

ウクライナがソビエト連邦から独立があります。

下記のニュースが話題となっています。

ロシアによる攻撃の脅威が高まっているとしてソ連からの独立宣言の祝賀行事の

開催を8月25日まで禁止した。

8月24日は侵攻開始から半年にも当たり、ウクライナのゼレンスキー大統領は、

ロシア軍が「特に醜悪な」攻撃を仕掛ける可能性があると警告している。

キーウは戦闘の前線から離れており、首都制圧に向けたロシア軍の地上攻撃をウクライナ軍が3月に撃退して以降、ミサイル攻撃はほとんど受けていない。

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兵庫県立図書館へ行こう

2022年08月19日 03時44分07秒 | 神戸市以外の兵庫県

兵庫県立図書館は明石公園内にある公立図書館で、私はよく利用させて頂いています。

兵庫県立図書館から表題のリーフレットを入手しましたので紹介します。

 

上の2枚の写真が兵庫県立図書館へ行こうのリーフレットです。

私は郷土資料を調べたり関連の本を借りることで利用させていただいています。

ここで兵庫県立図書館の基本情報を書いておきます。

兵庫県立図書館の基本情報

住所:明石市明石公園1番27号 TEL:078-918-3366

開館時間:9:30~18:00 休館日:毎週月曜日、毎月第3木曜日、年末年始(12/29~1/3)

蔵書数:666,912冊(令和4年1月末現在) 

貸出:個人36,279件、公共図書館など11,612件(令和4年1月末現在)

レファレンスサービス:3,544件(令和4年1月末現在)

ホームページ:兵庫県立図書館 (hyogo.lg.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

令和4年度図書館夏祭

 ホームページでも紹介されています。昨年に続き今年も開催されます。

 8月20日(土)10:00~15:00

 これまで兵庫県立図書館を利用する機会のなかった方や図書館を改めて利用したい方に

 図書館のことをより知っていただくためのイベントです。

 昨年(2021年)の参加者は734人だったそうです。夏休みの宿題にピッタリか・・

 連携協力:人と自然の博物館・・・移動博物館車「ゆめはく」、昆虫展示

      日本教育公務員弘済会・・・メダカのコータロー劇団による「絵本劇場」他

雀庵のオープン(2022年2月9日より)

上の写真は外から見た談話室「雀庵」の外観です。撮影:2022-2-22

上の写真は県立図書館が作製したPR用の掲示 撮影:2022-2-22

県立図書館のサイトにも掲載されています。

談話室では昼食を食べることもできます。 撮影:2022-2-22

上の写真は内部の様子です。椅子10席、テーブル10台がゆったりと置かれています。

当日、早速食事に利用させていただきました。撮影:2022-2-22

詳細は下記ブログで書いています。

兵庫県立図書館に談話室「雀庵」が誕生 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

自習室

 期間:8月6日(土)~31日(水)

 場所:1階第2研修室 35席

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加古川飛行場跡 尾上公民館の展示(加古川飛行場資料館)より

2022年08月15日 04時24分31秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日(8月15日)は終戦から77年ということで戦争関連のテーマを選びました。

また、今年は沖縄の本土復帰(1972年5月15日)から50周年の節目の年でもあります。

今から約85年前の昭和12年(1937)加古川市尾上町に500m~1,700mの滑走路5本、

総面積150haの加古川飛行場が存在していました。当時の尾上村の総面積の約4分の1

を占める規模でした。

滑走路が三角に交わるため、三角飛行場、地元の名をとって尾上飛行場

呼ばれたりもしました。

本ブログでは昨年、尾上公民館に整備された加古川飛行場の常設展示の写真や資料を

利用して陸軍の重要な防空拠点であった加古川飛行場の歴史を綴っていきます

尾上公民館には加古川飛行場資料館の他に、デジタル資料館も有り公表されています。(下記サイト)

 デジタル資料館 加古川飛行場 (kakogawa-airfield.work)

尚、加古川飛行場資料館の資料の大半は「加古川飛行場を記録する会」代表の上谷昭夫氏

から提供されたものだそうです。

加古川飛行場の概要

当時の陸軍大臣の「関西の最重要地区に防空の飛行隊を設置する」との命により、

加古川の地が選ばれ、戦前の昭和12年(1937)1月に建設着手、12月に加古川河口

近くの旧尾上村に加古川飛行場が開設されました。

面積約150ヘクタールの土地に700m×110m級の舗装された滑走路3つと1,300m×300m級

の滑走路2つが備えられました。

飛行場を中心として航空分廠、航空通信学校、陸軍病院、高射砲隊、憲兵隊、

爆弾貯蔵施設などがあった。配備された戦闘機は当初、95式戦闘機(キ-10、川崎)

その後、97式(キ-27、中島飛行機)が主力であった。

ここで編成された飛行13戦隊、第246戦隊は関西地方の防空はもとより南方方面にも派遣された。

飛行機の整備や少年飛行兵の教育などの役割も担っていました。

戦争末期の1945年頃になると、関東・中部地方から知覧基地(鹿児島県)に向かう

特別攻撃隊の中継・出撃基地にも使われました。

 

上の写真は昭和35年(1960)に撮影された加古川飛行場跡

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

昭和12年(1937)12月に完成した加古川飛行場は柏(千葉県)、菊池(熊本県)の

2飛行場と並んで、全国の三大防空拠点の位置づけで重要な役割を果たしていました。

兵庫県には陸軍の飛行場が4つ ありました。

・加古川飛行場

・伊丹飛行場

・三木飛行場

・由良飛行場(淡路島)

そして海軍の鶉野飛行場が1つ ありました。

上の写真は加古川飛行場の施設平面図

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

上の写真は陸軍が記録した加古川飛行場の施設概要

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

加古川飛行場跡を歩いて調査したサイトが参考となるのでリンクさせていただきます。

 【戦争遺跡】加古川飛行場と高射砲道路を歩く | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)

 

加古川飛行場の沿革

 昭和10年(1935)3月15日 林陸軍大臣の「関西防衛のため大阪から姫路に防空部隊を設置」発言

 昭和11年(1936)6月5日 姫路第10師団のもと加古川尻に飛行場建設決定

 昭和12年(1937)2月14日 軍、民間による地鎮祭が行われる

         12月   飛行第13連隊が大刀洗飛行場より配備につく

 昭和13年(1938)8月30日 飛行第13戦隊になり(神谷正男大佐)防空の任務に就く

 昭和15年(1940)9月   95式戦闘機より97式戦闘機が主力の体制となる

上の写真は95式戦闘機(左)と97式戦闘機(右)

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

 昭和16年(1941)12月8日 真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる

             第13戦隊は南方方面に進出。英国軍と戦う。

 昭和17年(1942)6月5日  ミッドウェー海戦で日本海軍が大敗

 昭和18年(1943)    第246戦隊が加古川で編成

 昭和19年(1944)10月25日 比島レイテ沖海戦で神風特攻隊が初めて編成

            関行男中佐が「敷島隊」を指揮し米海軍セント・ローを撃沈し戦死

 昭和20年(1945)4月6日 米軍、沖縄に上陸。本土の陸海軍より特攻隊が編成され初出撃

             (第76、213、214振武隊)。以降、特攻は6月22日まで続く

         8月14日 ポツダム宣言受諾

         8月15日 終戦 飛行場では残務整理 一部兵の帰郷

         8月24日 残存機による納めの飛行

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

 昭和23年(1948)11月 飛行場が農地になり一般人が畑に使用

 昭和27年(1952)   民間飛行機による遊覧、宣伝飛行に使用される

 昭和29年(1954)   大学航空部の学生によるグライダー練習が行われる

 昭和30年(1955)   保安隊が自動車訓練に使用

            近江絹糸紡績を加古川市に誘致し工場建設が始まる

 平成15年(2003)   中村家旅館の特攻隊の碑、鶴林寺に移築建立

 平成20年(2008)   はじめて加古川飛行場展を松風ギャラリーで開催

 平成21年(2009)   尾上公民館建立にあわせ加古川飛行場展を行う

 平成27年(2015)   加古川東ライオンズクラブ開設40周年記念事業により

            「平和之祈念碑」が加古川飛行場跡(尾上公民館前)に建立 

上の4枚の写真は加古川飛行場跡の碑などの写真(撮影:2021-11-25)
 
尾上公民館の展示
 
ここからの写真はすべて尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25
上の写真は加古川飛行場を記録する会が作成した「展示にあたって」の文章
 
上の2枚の写真は展示遠景
 
上の写真は兵舎の前で撮られた加古川飛行場のパイロットたち
 
加古川飛行場は航空母艦の離発着訓練基地であった。
上の写真は陸軍初の空母「秋津丸」と甲板に停機している三式連絡機
 
独立飛行隊1中隊編成される(昭和19年(1944)6月)
上の写真は三式指揮連絡機
上の写真は昭和20年(1945)7月23日、24日、30日の加古川空襲の様子
上の4枚の写真は加古郡東二見に住む国民学校学校高等科の森本隆さんが書いた日誌
加古川空襲について詳しく書かれています。
上の写真は平成24年(2012)5月19日 産経新聞の記事「特攻の母 宮田たまさんを紹介」
 
上の3枚の写真は特攻関連の展示
 
加古川飛行場を紹介した新聞報道
 特攻の地「加古川飛行場」を語り継ぐ 跡地の公民館で常設展示 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
 
 旧陸軍加古川飛行場に配備「97式戦闘機」 模型自作の男性が加古川市に寄贈|東播|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
 
 加古川飛行場跡で特攻隊員たちの遺書展示 「白鷺隊」秘話紹介も - 加古川経済新聞 (keizai.biz)
 
 加古川飛行場の実像発信 戦争末期、特攻隊の中継基地に 加古川・尾上公民館|東播|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
 
 神戸新聞NEXT|連載・特集| 防空は担えず 陸軍加古川飛行場 |(1)特攻の中継地 訓練だけ、敵機に挑まず (kobe-np.co.jp)
 
 <私の戦争 戦後75年>薬も往診もなく衰弱していった|東播|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
 
 「ひろかずの日記」も、お暇なときにご覧ください - ひろかずのブログ (goo.ne.jp)
 
 「ご飯食べてたら爆音」「商船学校の子だいぶん死んだ」 日記が語る13歳が見た戦時下の日常|総合|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)
 
 太平洋戦争中の“わが家の新聞”~13歳が見た終戦の日 | NHK | WEB特集
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三木市立みき歴史資料館の企画展「三木飛行場の記憶」が開催中です

2022年08月09日 05時46分00秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日(2022-8-9)77年目の長崎原爆の日です。そこで戦争関連のテーマを選びました。

三木市立みき歴史資料館の企画展「三木飛行場の記憶」が開催中です。

本ブログでは企画展の概要を紹介すると共に三木飛行場について調べた結果を

書いていきます。

企画展「三木飛行場の記憶」の基本情報

会期:2022年7月16日~9月25日 開催場所:三木市立みき歴史資料館

開催場所住所:三木市上の丸町4番5号 TEL:0794-82-5060

開催時間:8:00~17:00 休館日:原則月曜日(詳細はリーフレットに記載)

協力:三木飛行場を記憶する会

公式サイト:みき歴史資料館  - 三木市ホームページ (miki.lg.jp)

みき歴史資料館の所在地のGoo地図を添付しておきます。

上の2枚の写真は企画展のリーフレットの内容です。

興味のある方は是非ご観覧ください。

私はまだ見ていませんがこれから観覧しようと思っています。

7月26日付け神戸新聞 三木地方版で紹介されていますのでリンクしました。

 戦争の悲惨さ伝える「三木飛行場」の企画展 特攻隊員の手紙など74点展示 みき歴史資料館|三木|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

三木飛行場(相野飛行場)は戦局がひどくなった昭和19年(1944)2月
陸軍によって着工され同年9月に部分的に完成、同年10月教育飛行隊訓練開始
昭和20年(1945)5月、三木飛行場で訓練を受けた操縦士が加古川から特攻隊
として出撃、同年の8月20日の最終飛行ま続行されました。
 
滑走路としては1,900m、1,700m、1,350mの3本
以上の記述は下記サイトによります。
 
旧三木飛行場又は旧相野飛行場の滑走路を現在の地図に書いてみました。
上の写真、滑走路の長さは2,000mと1,700mで書いています。
他の資料で滑走路としては1,900m、1,700m、1,350mの3本としているのが
正しいようにも思えるが今後、調査確認していきたい。
 
『三木(相野)飛行場に関する調査』(丸尾嘉宏著)では滑走路の他に諸設備の位置を
調査され地図上に表示されています。
詳しくは下記サイト。
 
この資料をもとにひろかずのブログさんが大きな地図に描かれています。
 
私はこの地図をさらに加工しています。(下の写真)
 

①   滑走路  ⑦飯場1

②   格納庫  ⑧飯場2

③   整備場  ⑨境界の杭1

④   炊事場  ⑩境界の杭2

⑤   事務所  

⑥   兵舎

 
 
上の写真はGoogleストリートビューより撮った中央池付近の遠景です。
現在も直線の道路が残っているのは飛行場の滑走路の影響か?
 
2021年11月12日、現地に出向き旧三木飛行場の痕跡を探したが成果なし。
 
三木飛行場に関してのリンク集
 
 ひろかずのブログ
 
 
 
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皇紀2600年記念植樹の石碑 in 明石市旧中崎遊園地 on 2021-10-5

2022年08月08日 07時02分46秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年10月5日、明石市の市役所の近所の旧中崎遊園地で皇紀2600年記念植樹の石碑

の写真を撮りましたので紹介するとともに皇紀2600年についても概略記しておきます。

上の写真は旧中崎遊園地に建てられた「皇紀2600年記念植樹」と書かれた石碑です。

皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元(歴史上の年数を数える出発点となる年。

紀年法)で、明治5年(1872)に明治政府が、神武天皇が即位したBC660年を紀元とした。

上の2枚の写真は「皇紀元年」の定義 神武天皇の即位をBC660年とした。

明治5年(1872)明治政府により建国の年であると定め「皇紀元年」とした。

出典:2022年4月16日放送、BSTBSの関口宏の一番新しい古代史「弥生時代」

皇紀2600年にあたる昭和15年(1940)には多くの記念事業が行われました。

種々の神社で2600皇紀を記念して奉賛事業が行われていた痕跡を垣間見ることができます。

上の2枚の写真は昭和15年(1940)11月10日、内閣主催の「紀元二千六百年式典」。

昭和天皇・香淳皇后出御の下、宮城外苑で挙行された。

出典:2022年4月16日放送、BSTBSの関口宏の一番新しい古代史「弥生時代」

式典のために寝殿造の会場(光華殿)が設営された。当時の首相は近衛文麿。

[日本ニュース] 皇紀2600年記念行事・式典・催しのYoutube動画をGooで共有させていただきました。

これまでは皇紀2600年に関する事項を書いてきましたがここからは再び旧中崎遊園地

に関する事象について書いていきます。

中崎公会堂は1911年(明治44年)4月に、当時の明石郡の1町・11村が共同で「明石郡公会堂」

として建設した。明治40年(1907)明石郡長に任じられた三輪信一郎が明石郡の中心施設

として公会堂の必要性を提唱した。公会堂建築委員5名を選定し調査し奈良県公会堂をモデル

建設費は地元の寄付などで賄われた。建築当時は明石海峡に面した海岸沿いで、一帯は

中崎海岸と呼ばれていた。公会堂周辺は、中崎遊園地として整備(明治36年(1903))

されており、松並木は中崎海岸の面影を残している。

上の写真は中崎遊園地のラヂオ塔。

ラジオ塔への訪問記(下記リンク)

 明石市相生町の中崎遊園地内のラジオ塔 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

上の写真は明石海岸(中崎遊園地)の絵葉書 時期は明治36年(1903)以降  

出典:明石市立文化博物館編 企画展「幕末維新と人々のくらし」明石藩の世界Ⅳ(2021)

上の2枚の写真は皇紀2600年記念植樹の石碑の周辺の光景

 

周辺の有名なものとしては中崎公会堂があります。

詳しくは下記ブログで綴っています。

 明石市立中崎公会堂(旧明石郡公会堂) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

あまり有名ではありませんが周辺の目立つものとして中崎忠魂碑下の写真)があります。

大正8年(1919)に起工 帝国在郷軍人会明石市分会が主催して建立

 第1次世界大戦までの戦没者の慰霊碑。毎年8月15日に慰霊祭を実施

撮影:2021-10-5

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