社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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歴史模擬授業(第23回 自由民権運動)②-1  

2010年12月17日 23時06分32秒 | 歴史☆模擬授業

歴史模擬授業第22回、明治時代②自由民権運動です。詳細は、この前の記事①をご覧ください。

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「では、今日は明治時代の続きを行いましょう。」

「明治初期の改革で、ある程度、ヨーロッパっぽくなっていったんだよね。」

「そうそう。ヨーロッパのような民主主義の国にしようと日本はしていたの。

しかし、まだまだ真の民主主義には程遠かった。

それで、今回は、さらに日本が民主化していく第一歩を行うね。(第二歩目は大正デモクラシーで)」

「はーい。」

「まず、民主主義というものはどういうものか、を簡単に確認していきましょう。」

「うん。よく民主主義という言葉聞くけど、よく考えると何だろう?」

「民主主義とは、簡単に言うと、最終的には国民が中心となって手数決で国の動きを決める、というもの。」

「じゃあ、国民がみんなで集まって、国の動きを決めるの?戦争するかしないか、とか、

   何にお金を使うとか・・話しあったり。」

 

「さすがに、みんながみんな全員で政治をするわけにはいかない。」

「そうだよね。それぞれのお仕事があるわけだから。」

「だから、国民の代表者を選挙で選んで、その人たちに政治をしてもらうんだけど、

その代表者は自分の好き勝手にしていいわけではなくて、

自分を選んでくれた国民のため、国民の意思に

沿った政治をしなければならないの。」

「あ、だから、最終的には国民が中心となった政治だ、ってことね。」

「そういうこと。つまり、代表者を選ぶのが選挙であり、

選ばれた代表者が集まって会議をして国の動きを決めるのを場所(機関)のことを国会と言います。」

「国会ってそういう仕事をする場所だったんだ。」

「さらに、国会と内閣の違いも説明しておくね。」

「内閣も聞いたことある。」

「国会は会議して動きを決めるところで、

その決められた動きに基づいて実際に行動にうつすのが内閣。

その内閣のトップが内閣総理大臣だと思えばいいわよ。

(厳密に言うと、違う点もありますが、ここではこのように説明しました。)」

「はーい。会議→国会、実行→内閣、だと思えばいいんだね。」

「そういうこと。・・ということは、真の民主主義には、国会・内閣というのは欠かせないものだよね。」

「うん。そうだよね。」

「でも、明治初期の民主主義の政治には、国会というものが存在しなかった。」

「ええええ!」

「どういう風に政治をしていたかというと、幕末で活躍した、

長州藩薩摩藩などの一部の藩の出身者が政治家になって、

その人たちで新政府(明治政府)は占められていたの。

このような政治の仕方を藩閥政治(はんばつせいじ)と言います。」

「国民のための政治をしていたとしても、

その政治をできる人は、最初から決まっていたようなものなのね。」

「そういうこと。それだとおかしいでしょ。多くの国民は政治に参加できないんだから。」

「そうだよね。」

「だから、国会を開設しろ!という運動がおこるの。それが、自由民権運動というもの。

で、この自由民権運動をさかんにした1つの原因が、

士族たちの行き場のない状態だったと言われているの。

さて、ではこれからが本番です。

今までは背景を説明したので、

これから時間軸に沿って(一部少し前後するところもありますが・・)説明します。」

「え?士族って、武士のことだよね。」

「うん、そうそう。大名クラスを除く武士たち。

この人たちって、江戸時代までは特権階級だったでしょ。

しかし、四民平等によって、とつぜん職を失った。

農民や商人たちは、もともと身分が低いし、

彼らの仕事そのものは江戸時代とそんなに変わらないけど、

武士は仕事そのものがない。商売を始めようとしても、プライドが邪魔して出来ない。

「ほこり高き我らが商人のまねごとができるか!」という人や、

商売を始めて見ても、おぼっちゃま感覚で行ってしまうので、うまく稼げないとかね。

もちろん、みんながみんなではないけど。

(「三菱」の創始者の岩崎弥太郎さんのように成功している武士たちもいるので)」

「たしかに、士族の人たちにとっては、180度価値観が変わってしまったのでつらいよね。

精神的にも金銭的・生活的にも・・。」

「でしょ。それで、行き場のない士族たちは藩閥政治に対して不満を高め

各地で反乱を次々と起こすようになったの。」

「ふむふむ。」

「ここで、少し視点を変えて、政府内のことを見ていきましょう。

明治政府は、将来の条約改正のために欧米の制度や技術など学ぶことなどを目的に、

使節団を派遣します。

その使節団を、岩倉使節団と言います。

この使節団は、

公家出身の岩倉具視、

長州藩出身の木戸孝允・伊藤博文、薩摩藩の大久保利通などに

よって構成されていました。」

「あ、幕末で活躍した人達がいる。」

「で、この人たちが海外に行っている間に、留守の政府を任せられたのが、

薩摩藩出身の西郷隆盛や、土佐藩出身の板垣退助や、

肥前藩(佐賀)出身の大隈重信(おおくましげのぶ)。

実は西郷たちが、四民平等の実現や徴兵令などを出したの。」

「へー。」

「実は、使節団に行ったか否かが、(結果的&偶然にも)それぞれの未来を変えたの。」

「え?」

「使節団は、西洋のすごさを目の当たりにして、日本はまだまだだ、と感じた。

そして、海外の視察から返ってきた大久保利通たちと、

留守を守っていた西郷隆盛板垣退助との間で意見が対立するの。」

「えええ。」

「何について対立したかというと、当時の朝鮮という国に対して。

当時の日本政府は、朝鮮と国交を開きたいと思い、交渉をしていたんだけど、なかなかうまくいかない。

今までの外交様式とは違っていた日本の開国要求に朝鮮が反発したんだよね。」

「ペリーが来る以前の日本と一緒だよね。」

「そうそう。突然、そう言われても・・と朝鮮も思っちゃうよね。

 なかなか朝鮮とうまく交渉がいかないから、武力を使ってでも朝鮮と国交を結ぼうというする考え方

西郷隆盛板垣退助たちはし始めるの。

そのような武力を用いてでも朝鮮と国交を結ぼう、という考え方

征韓論(せいかんろん)と言います。」

「こわい、考え方だ・・。」

「で、留守の政府をまかされた西郷隆盛板垣退助征韓論を唱えているのに対し、

 外国の視察から返ってきた大久保利通たちが、

「外国との関係より、まずは、日本国内の工業化や、

民主主義の政治や憲法をしっかり作った方が良い。(内治優先論)」と

言って、対立し始める。

そして、結局、征韓論を唱えた西郷隆盛や板垣退助が負けて、彼らは政府を去ります。」

「ほえー。」

「そして、政府を去った板垣退助中心に自由民権運動始まるの。

自由民権運動が始まるきっかけとなったのは、

1874年の民選議院設立建白書(みんせんぎんせつりつけんぱくしょ)を政府に提出したことから。

民選議院とは、国会のことだと思えばいいよ。」

「つまり、国会を設立しろ!と板垣退助が言ったんだね。」

「そういうこと。」

「板垣退助と同じく政府を去った西郷隆盛はどうなったの?」

「では、さっき話した行き場のない士族の話に戻りましょう。」

「戻るんだ。」

「なぜ、このような順番で話したかというと、

ここで西郷と士族が結びつき、大きな事件がおこるからです。」

「え??!!」

「士族は藩閥政治に不満をもって、各地で反乱をしていたよね。

 そんなときに、西郷隆盛が政府を去る。行き場のない士族たちは西郷を頼る。

 西郷だって、今の政府のやり方に不満は持っているわけだし、何よりも、士族たちの気持ちがよくわかる。

 それで、ついに西郷隆盛が中心となって、大規模な士族の反乱がおこるの。

 それが、西南戦争というもの。」

「西郷は武力で政府に訴えたんだね。」

「しかし、西南戦争は政府軍にしずめられます。西郷隆盛は、自決(自害)し、

この西南戦争を最後に士族の反乱はおさまります。」

「幕末には、ともに力を合わせて幕府を倒した人たちの運命が、どんどん変わっていくんだね。」

「そうなのよね。

力を合わせて成功したあとに、だんだんとそれぞれの意見の違いが出てくるのは

どの時代でもあることだけど、それで命を落とす人々が出てくるのはかなしいことだよね・・。」

「そうだよね・・。」

「西南戦争以降、士族たちは武力で反抗しても勝てない、と悟ります。

そこで、言論によって反抗をし、すこしでも自分たちにとって住みやすい世の中にするために、

自由民権運動に加わります。それによって、自由民権運動はどんどん激化します。」

「すべての不満への行き場が自由民権運動に集まったんだね。」

「そういうことだね。

どんどん自由民権運動が激化していったこともあり、

ついに1881年、政府が、10年後に国会を開設することを約束します

(数え年で10年なので、1890年に国会開設)」

「おお!」

「まあ、政府自体も国会はつくるつもりだったんだけど。

ただ、政府自体も国会開設をゆっくりやるか、すぐにやるか、の違いで対立していてね。」

「10年後、ということは、ゆっくりやる、という方で政府の方針が固まったのね。」

「うん。すぐに国会開設を!と言っていた大隈重信が、ゆっくり派の伊藤博文に負けてね。」

「また、対立していたのね・・・。」

「うん。それで大隈重信も政府から去って、民間で動くようになります。」

「へー。」

「政府が、10年後に国会を開くから!と約束したので、

民間では、それに向けて、さまざまな政党を作り始めます。」

「政党って何?」

「同じ政治の考え方を持った人々で集まった団体のことでね。

 一人一人の意見をみんなに示すのって難しいでしょ。

 だから、だれがどの政党に入っているかで、

この人はどういう政治へのビジョンがあるんだろう、ということが

人目でわかるので便利だよね。」

「そうだよね。」

「それに、同じ意見の人たちと一緒に頑張れるのいいよね!

一人じゃできなくても大勢だったら出来ることだってある!」

「そういうこと。」

「で、つくられた有名な政党が2つ。

 1つは、板垣退助がつくった、フランス流の自由党

 もう1つは、大隈重信がつくったイギリス流の立憲改進党。」

「板垣も大隈もどっちも、政府と対立して政府から去った人だね。」

「そうだよん。そうやって、人の名前を丸暗記するだけでなく、

どういう人か、と分けて覚えるのは良いことだよ。」

「えへへ。」

「そして民間が政党をつくっている間に、政府はどうしたか、を見ましょう。」

「はーい。」

「政府は、伊藤博文をドイツ(プロシア)に留学させます。」

「え?なんでドイツ?イギリスやフランスの方が民主主義が進んでいたんだよね?」

「うん。なぜ、ドイツかというと、日本が今後どのような国にしたいか、

でドイツが一番合っていたから。

日本にはあくまで天皇中心の民主主義国家にしたかったの。

そうしたら、同じようにドイツも皇帝を中心といた政治をしていた。」

「へー。」

「政治の一番の基本は、国のきまり、つまり憲法が大切でしょ。

だから、伊藤博文はドイツの憲法も学び、

それを日本での憲法作りに役立てようと思います。

よく入試の記述問題で、

「なぜ伊藤は、ドイツに留学したのか、理由を説明せよ。」というのが出るんだけど

その場合は、「ドイツの憲法は君主権が強かったから。」と書けばいいよ。」

「はーい。」

 

「そして、ドイツからの帰国後の1885年に、内閣制度がつくられて、

初代内閣総理大伊藤博文が就任します。」

「内閣の方が国会より先に出来たんだ・・。」

「うん。今とは逆だよね・・。(今は、国会が内閣総理大臣を決め、選ばれた内閣総理大臣が内閣をつくる)」

「そうだよね。」

「そして、ついに、憲法もつくられ、発布(世間に公表されること)される。

それが、1889年2月11日。憲法の名前は、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)。」

「おお!」

「大日本帝国憲法の発布の年月日はよく出るから覚えてね。

この大日本帝国憲法の発布によって、

日本はアジアで初めての立憲君主国(憲法によって政治を行う国のこと)となります。」

「おおお!」

「ただ、この憲法は、主権(国の政治を動かす中心の力)は天皇にあって、

天皇は大きな権限をもっているので、

完全なる民主主義とは言い難かったんだよね・・。」

「んー、でも一歩前進なのはいいことだね。」

「たしかにそうだよね。1つ1つ進んでいけばいいんだもんね。

それに当時の日本には天皇という存在は大きなものだったろうしね。」

「そして、ついに1890年に、みんなが待ち望んでいた国会がついに開設されます。

当時は国会と言わず、帝国議会と言います。

帝国議会は2つに分かれます。貴族院衆議院の2つ。

貴族院は、貴族・華族などから選ばれ、国民が選挙で選べませんでした。

国民が選挙で選べたのは衆議院のみ。

衆議院の選挙権(代表者を選べる選挙を行える権利)は、

直接国税15円以上納める満25歳以上の男子です。

この条件はよく記述問題ででるから、しっかり覚えましょう。」

「直接国税って何?」

「直接国税とは、地租とか所得税(財産によって払う税金)のことで、

直接国税15円というのは当時としてはすっごく高い!

だかた、選挙権を持つことができた国民は、全人口の約1、1%しかいなかった。」

「えー!そんなに少ないの?!」

「結局、身分がなくても、お金がなければ選挙できないじゃん!」

「うん、だから、またこれに反対して、運動がおこるの、それが大正時代です。」

「ほえー。そうつながるのね。」

「女性も選挙権がないんだよね・・。」

「そうなんだよね!だから、このころはいかに女性差別がひどかったか、がわかるよね。

それが、また大正時代につながる。」

「大正時代が楽しみになってきた!」

「ではでは今日はここまで!

今回は、色々とごたごたしてたけど、

政府の動き、政府内の対立で政府に残った人・去った人、民間の動き、と分けて、時間軸を見ながら

覚えると良いよ。上の表も活用してみてね。」

「はーい。」

 

「ではでは終わります。起立・礼!」

ーー

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


歴史模擬授業(第23回 自由民権運動)①  

2010年12月17日 23時04分56秒 | 歴史☆模擬授業

歴史模擬授業です。

予定がどんどん遅くなってしまい、申し訳ありません。

今回は明治時代②自由民権運動です。

明治時代は内容が濃いので、4つに分けていきたいと思います。

1:戊辰戦争と明治の改革

2: 自由民権運動

3:条約改正と日清・日露戦争

4:文明開化と明治時代の文学・医学

となります。

今回の自由民権運動は、少し独自のまとめ方をしているため、

もしわかりずらかったらもうしわけありません。

文字数の関係で(10000字以上を超えるとPC動作が鈍くなる)

さらに細かくに分けてアップしたいと思います。


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「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、
HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。


天橋立に行ってきました(かなり前の話ですが・・)

2010年12月17日 12時14分50秒 | おすすめ☆歴史スポット

昨日も500以上のアクセスありがとうございます♪

訪問者数では、

 

7433位に入ることができました。7000位代なんて、かなりひさしぶりなのでは♪

そういえば、かなり前のこと(数ヶ月ぐらい前?)のことですが

日本三景の1つ、天橋立(あまのはしだて)に行ってきました!

旦那が一度行ってみたい!というので(私も社会の先生として、一度行ってみたかったんです。)

 

 すっごく楽しかったです。

他では見ない、形、美しさ。

たしかに、この地形が神話になるのはわかる気がしました。

(日本神話で、神によって、この天橋立の地形ができた、

と言われています。)

中を歩くとこんな感じです。↓

夏には海水浴場になるとか。天橋立で海水浴とはぜいたくな!

こちらにも羽衣伝説があるようで、ゆかりの松も見ることができました。

 

また、天橋立のちかくに、籠神社(このじんじゃ)という神社があるのですが、

そちらは元伊勢神社です。

元伊勢神社とは、現在の三重県に伊勢神宮が移るまえに、

転々としていた伊勢神宮の前身の神社です。

都だけでなく神宮も何回か昔は移っていたんですね。

いくつか元伊勢神社はあるのですが、

私ははじめて元伊勢系に行ったので、うれしかったです。

籠神社は、浦島太郎伝説ゆかりの場所でもあります。

たしかに、まわりの地形や雰囲気を見ていると、

浦島太郎がいてもおかしくない!って感じでした。

 

天橋立は、交通の便があまり良くないので、なかなか行きづらいですが、

一見の価値あり!の場所なので、社会の勉強としてでなく観光とて、

おすすめしたい場所の1つです。