goo blog サービス終了のお知らせ 

社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

元社会科塾講師が勉強方法や社会科について
書いています。

歴史模擬授業も展開中♪

個人的に学校のテスト対策授業で辛かったこと

2024年11月27日 07時00分00秒 | 教育について考える
みなさま、本日もありがとうございます。

最近は「発達障害」のことか
「歴史」のことか?
の話ばかりしていましたが、
それだけでなく、
このブログは
元々、「五教科すべての塾講師」としてのブログだったので、
自分を必要以上に縛りもせず、

歴史だけでなく、英語、数学、理科、社会(地理、公民)について、

また、入試勉強とは?

塾講師として辛かったこと、

など、定期的に
色々とお話できたらいいな、と
思います。
(水面下では、歴史授業記事を書いています。)


今回は、
自分が塾講師として
中学校のテスト対策授業で
辛かったことを話したいと思います。


自分がバリバリの現役塾講師として
仕事をしていたとき、
まだ「学校の先生」に対して
「聖職神話」もありましたし、
「倍率が高く、多くの大学生にとっても
憧れの職業」でも
あった時期です。


教育実習に行った時
「本気で学校の先生になる子以外は
迷惑。正直、邪魔なので、
教育実習に来ないで欲しい」と
平気で皆の前で
言えちゃう先生が多かったです。


当時の就職状況では、
一般企業は新卒生のみで、
就職浪人したら取ってもらえない業種も
ある中、公務員は就職浪人しても
合格可能な職種が多いので

自分が一般企業に就職できるか否か
わからない大学4年生が
教員免許を取得するために教育実習を
受けに来て、何が悪いのでしょう?
いいかげんに実習を受けているわけでも
なかったのに。



今はどうか?はわかりませんが、
当時、「塾講師」は
「学校の採用試験に落ちた、二流、三流の 人物が仕方なくやっている職業」と蔑視されることも多く、
保護者の方も生徒さんも一定数の方々が
そう思っていて、
塾講師の中でも「学校の先生の憧れ」が
ある人も多かったです。


例えば、
塾講師の先生の態度が、生徒さんの父親、母親の方が「学校の先生」だと明らかに、その方への態度がかわるんです
どの職業よりも、学校の先生である保護者の方が、「最も、勉強できて、優秀」と本気で
思っていたり。

学校の先生が、「勉強できる」のは
確かですが、
「すべての職業の中で最も勉強ができる人が
なる職業」となると、
それは要検討なのでは?と。

人間的な価値は偏差値や学歴に関係は
しませんが、塾講師の方でも
「学校の先生が、どの職業より
勉強できる」と思い込んでいる時点で
どれだけ当時、塾講師の身分が低く
他人からも自分自身でも思っている人々が
多かったんだな、と思います。

学校の先生が、明らかに学術的に
間違ったことを教えていて、
それに対して、私が、「それは違うよ」と
教科書やテキストを見せて説明しても、
多くの生徒さんたちは
「だって、学校の先生が言ったこと
だから、それが正しいんだよ」
と平気で言いました。

私自身を信じないのはしょうがないけれど
「教科書」にも明らかに書いてあることさえ
信じない生徒さん。
そして、そういう間違ったことを言う先生は
教科書を使わない先生であることも多く、
さらに、教科書に載ってない内容を
テストでバンバン出してきたりします。
難しい内容というより、先生が授業で話したプライベートの話とか、
調べる授業も事前告知もしていない
地元(その学校周辺)の地区名や祭りなどを
出してきたり。

もしくは、「入試では、絶対に、
その用語は出ないよ!
それよりも、きちんと教科書に
載っている用語を先に
出してあげて欲しい。」
というレベルのものを出したり。



そうなると、生徒さんたちからも
「塾講師の言う事聞いたって、
学校の成績は上がらない」と
思ってしまいます。

ただ、そういう先生って、
毎年、同じ問題を出す人もいるので
去年、その先生が担当だった生徒さんが
通っていて、そのときに、学校のテストを
コピーして保存してあれば、
それを印刷して、何度もやらせれば
生徒さんにテストで点数を取らせることが
できます。


でもね、丸暗記になるんですよ。

なぜなら、勉強で習うことって
教科書通りに沿った内容なら、
体系的にまとめられ、情報が整理しやすく、
教科書順番通りに習えば、
「まじめに」勉強さえしていれば
力がつくようになってます。

でも、教科書ガン無視の授業とテストを
出される先生は、

生徒さんに
「体系的に」「理解をさせたい」
のではなく、


「生徒さんたちをいかに、自分の支配下におくか?」しか考えてないのです。

「塾なんか行っても点数とれんぞ!
テストで点数とれなきゃ、内申点やらんぞ!高校に行きたいんだろ!だったら、
自分に従えよ!」
というスタンスです。

「塾講師つぶし」
「塾に通って学力をつけた生徒さんつぶし」をする気満々なんです。


別に、学校の先生が、
塾講師を敵視するのはかまいませんが
そこに巻き込まれる「生徒さん」が
いることを、その学校の先生が考えてない
ことに、私は腹を立てていました。

本来の「正規の勉強」をして、
「正規の勉強で点数をとれて、高校受験して、志望校に合格する」という
体験が、高校生、大学生、社会人に
なっても、その経験が心の支えに
なります。

目の前の点数をとるためだけに
無意味な内容(と思われる内容のもの)
の過去問を解かせるのに
生徒さんの貴重な時間を取らせるのが
精神的に辛くて。
この時間に、入試に直結する学力を
とらせてあげたい、と思うけれど、
そう、思うけれど
学校の定期テストで点数をとる方の
丸暗記対策ないと、退塾されたり
塾の悪い噂を流される。
生徒さん自身も、定期テストで点数を
とれないと自信喪失してしまいますし。



なので、そのあたりのバランスを
とるのが、非常にキツかったです。

対して、入試対策だけに特化すると
学校の先生の個人的感情や
彼らの学力や価値観には縛られないので、
「自分が思う正しい手順」で
まじめに公平に
勉強を生徒さんに
教えられるので、大変でしたが
とても楽しかったです。


私立入試対策、大学入試対策の授業の
方が、精神的には楽でしたね。

ただ、教える内容としては
中学生が習う内容が一番好きなので
高校入試対策もしたいけれど、
中学校との関係が非常にキツかったですね。

 

今でも、そういう先生は一定数いて、
「かわらないんですね、先生たち」とは
思いました。


テスト対策を久々に行い、
すごく絶望しました。
「生徒たちの時間を何だと思ってるんだ?!」
「真面目な生徒さんたちが、
本来なら彼らが頑張れば自信を持てるところを、わざとできなくさせるイジワルをしているように見えるけれど。支配下におきたいんだろうなぁ。」と。

疲れました、学校の先生に合わせるのが。

若い時だと理想に燃えてがんばることも
できたと思いますが
年齢を重ねたこと、
発達障害という存在を知った以上
「学校に合わせることを生徒さんに
強要することが、
どれだけ、その子の将来を考えたら
危険なことか!」と思うことも出てきました。


学校の先生が悪いというより
私には相性悪い先生が
学校の先生には多いな、と
塾講師時代でも、母親としても
感じたこの頃です。

学校の先生のやり方が合う人は合うので
先生を批判する気はないですが
私には合わないなぁ、と。



「良い子にしてないとサンタさん来ないよ」の言葉が子供に与える怖さ

2019年12月22日 23時10分00秒 | 教育について考える


そろそろクリスマスですね。

日本では、
大人だと、
クリスマスディナーとか、
クリスマスイルミネーションで楽しむ!というクリスマスですが、

子供にとってのクリスマスといえば、

やはり

サンタさんからもらえるプレゼント


だと思います。


私自身はサンタさんに関しては嫌な思い出はないのですが、娘がサンタさん関連で辛い経験をしたので、今回、お話しさせて頂こうと思います。



娘が通っていた幼稚園は

良く言えば
すごく熱心に教育をしてくださる
幼稚園


でした。

例えば、

挨拶を笑顔でしましょう

自分でできることは、ちゃんと自分でやりましょう

食べ物は残さず好き嫌いなく食べましょう


親にちゃんと感謝しましょう


などなど。


なので、幼稚園の先生のおかげで
自分の子が、しっかりとした子になったわ!と喜ぶ保護者の方も多かったです。



…そして、娘は、その幼稚園が合いませんでした。


娘は、動作がのろく、食べるのが苦手な子でした。
これは、私の育て方、という問題よりも、生まれながらの性質でした。
なにせ、母乳やミルクさえ飲むのを新生児のころから嫌がる子だったので。
それで、いつ死ぬか、いつも不安になりながらも、とにかく、何か口にできるものをとりあえず胃の中まで入って吸収してくれれば!な状態で過ごしてました。

幼稚園でも、食べるのが遅く、多く食べられない。不安なことがあると、一口も食べられない、そういうことが続きました。
偏食というレベルではないのです、拒食です。

家に帰っても、明らかにお腹が減っているのに、「食べはじめて、遅かったり、一口でも残したら責められる」と言い出して、私が「残してもいいよ」と言っても、震えだし、一口も食べません。

あまりにひどいときは、病院に行って栄養点滴をしてもらったりもしました。


本人も

「農家の人や作ってくれた人、そして食べ物自身に感謝しなきゃいけないし、偏食やお残しが悪いことはわかってる。

自分だって、時間内に残さず食べたい!

でも、どうしても、口に入っていかない!


口に入れようとする、食べ物のことを考えるだけで、吐き気がする。


それで食べられない自己嫌悪。」

そういう状態で、ずっと自分を責めていました。

私や私の母(娘にとっての祖母)が
どれだけ、「残してでもいいから、食べたいぶんだけ、自分のペースで食べろ」と言おうが、「残しても、あなたのことを愛していることには変わらない。」と言っても、

「だって、幼稚園の先生が…」


という状態の娘でした。



そんな状態の12月、
娘に
「サンタさんからのプレゼントは何が良いかな?」

と聞いたら、
娘は「なんでもいい…」
と小さな声でぽつりと言うだけです。

「じゃあ、これにする?前ほしいと言ってたもんね。」
と言ったら、
「うん、そうする」
とだけ娘は言いました。



それが年少さんのとき。


そして、年中さんの冬。

同じようにサンタさんの話をしたら、

「サンタさん、いないんだよね?サンタさんの正体は…」

と言い出して、ぎょっとしました。

そのときは、
「私からは今は何も言わない。
いる、といったらナポちゃんは疑う。
いない、と言っても疑うから。
だから、

信じたいか、信じたくないか?
で決めて。(意訳)」

と言ったら、
今は信じることにしました。



小学生になった娘から聞いたら、
幼稚園の先生は

いい子にしてないと、
サンタさん来ないよ!」

と、

給食を残す娘に
毎日のように言ってたそうです。

先生としては

完食させてあげたい!

という善意の気持ちだったのでしょう。

でも、娘には

それがきつかった。



だから、年少さんのとき、
娘は私にサンタさんのプレゼントについて聞かれたとき


私は、いい子、じゃないから、
どうせ、サンタさんは来ないよ」

という気持ちだったから

「なんでもいい」
という返答だったのです。

でも実際には、
お母さんと決めたプレゼントが
クリスマスの朝に枕元にあった。




これは、おかしい。




娘はそう思ったそうです。




それで年中さんのときは、


「サンタさんはいない」


という結論に達したのです。


これを話すと、

「娘さん、頭良いじゃん!すごい!」

とよく言われるんですが、

私はこれは悲劇の話だと
思ってるんです。


だって、娘は

年少さんのとき


「サンタさん来たじゃん!
やった!私は良い子だったんだ!


という結論にならなかったのです。



娘の中では、

ずっと、ずっと、ずっと…

自分は悪い子

と思い続けたってことなんです。
しかも一年以上!

親にこのことを言うには、
3年以上かかったんですよ。

本来、一番、夢が見られる幼稚園時代。
自分も仮面ライダーやプリキュアになれる!と思っても良い幼稚園時代。
将来なりたい職業だって、何を夢にしても良いんです!
もちろん、サンタさんのことだって!



それを、娘はできなかった


ひたすら
給食を完食できない自分を
責め続け
自分を

「悪い子」

と思い続けた幼稚園時代
でした。


引っ越しをし、誰も幼稚園時代の自分を知らない人達しかいない小学校で過ごすうちに、やっと、幼稚園の呪いから抜け出ました。


聞いたら、

「そんなんだと、お母さん、悲しむよ

「そんなことしてると、お母さんにいつか怒られるよ」

とまで幼稚園の先生は言ってたそうです。

そりゃ、娘は、母親の私にも、なかなか本音は言えなかったんでしょう。


年中さんに拒食症になり、死にかけたとき、母親の私は絶対に自分を裏切らない、と気がついた娘。

そのあとに出した、サンタさんの正体。


「幼稚園の先生が言っていたような、ママはこの世にいなかった。
だったら、幼稚園の言うようなサンタさんだって、いないじゃないか!」

と。

娘にとっては、サンタさんがいるという夢より、先生が自分を思い通りにしようとして使うサンタさんのほうが、嫌だったんでしょう。


私は


「いい子にしてないと
サンタさん
来ないよ」


という言葉が死ぬほど恐いです。


「いい子って何?サンタさんは、子供の夢の結晶であり、大人の部下ではない!」

という怒り。


子供は子供である限り、
サンタさんは来てくれる。


先生の言う通りにならないとき、
言う通りにさせたかったら、
そのことのみを怒るべきであり、

サンタさんを脅しに使わないでほしい、

と私は思います。

サンタさんは
子供のものであり
大人のものではありません。

まあ、あくまで、うちの家庭は…、という意味なので、他のご家庭について批判しているわけではないです。💦

左利きだから裁縫が苦手だとわかったこと

2019年12月04日 21時09分55秒 | 教育について考える


最近は、ニードルフェルトぬいぐるみ作りを定期的にしていて、それを販売するときもあります。

自分の考えたキャラをぬいぐるみに気軽にできる、というのは私の夢の1つだったので、ニードルフェルトの存在はありがたいです。

高校以降の私しか知らない方には

裁縫が得意なのね

と時々言われますが

そんなことはありませんでした。
むしろ、裁縫は大の苦手です。

未だに、針に糸も通せない、ミシンも使いこなせない、うまく手縫いできないレベルで、かなりひどいです。

それはどうしてか?

というと、

私が左利きであり、相手が矯正させようとすると、イライラして、癇癪おこしてしまうから。


でも小学生、中学生のとき

学校の先生には

左でやることを禁じられ右手でやれ

と言われるか

左でやりたければ自分で教科書や先生の手の動きを頭の中で自分だけで反転させてやれ!


と言われたから。
うまく反転させてやれないんですよ。


簡単だと思うでしょ。

じゃあ、右利きの人、左利きの人がやった動作を一瞬で反転させてください。
無理でしょ!

もし楽々と反転でいるなら
それは、反転できる才能、があるのでしょう。でもそのような才能はごくまれ。


右利きの人しか優遇されない針仕事が
私にとってどんだけ辛くて
吐き気と自信喪失に繋がったことか!




しかし、ニードルフェルトは違うんです!針をチクチクさしていくだけ。
だから、左で針を使っても良いわけです!


私は一生、裁縫の世界では何もできないまま今世を終えると思ってました。
しかし、ニードルフェルトだけはできる!

とてもうれしいこと!


左利きの人は
思った以上に
実は生きづらい。

左利きのまま、問題なく生きられたら
どんだけ埋もれた才能を生かせる人が増えること!と
最近思います。










娘への父親の対応について考える

2015年12月09日 16時48分18秒 | 教育について考える
なかなか更新できなくて、失礼いたしました。


この前、娘の幼稚園のお遊戯会(歌や楽器演奏、ダンスの発表会)でした。


娘は、がんばって歌ったり、踊ったりしてました。

私は、ただただ、娘が一生懸命舞台に立っているだけで喜んでいたのに、横にいる旦那は、悪いことばかりつぶやいていました。

「運動神経が悪いから、動きがぎこちない」とか「口パクじゃないのか?」とか。

確かに、始まったときは、動きはぎこちない、どころか、固まって動けないレベルでしたが、次第に動けるようになり、客席に私がいることに気がついてからは、ノリノリで踊っていて、全然、運動神経が悪い感じはしませんでした。


実際には、運動神経悪いなぁ、と思うこともありますが、ダンスや楽器演奏での、最初の動きのぎこちなさ、は、運動神経が問題ではなく、「緊張」そして「自信のなさ」によるものなんです。
表情や筋肉の動き、などを見ても、それを、旦那は気がつかないんですよね。

原因追求が間違っていると、その後の成長に支障をきたします。

運動神経が悪いという原因なら、もう、才能の限界、のレベルなので、努力してもどうせ… 、というように、やる気は失せます。
でも、緊張や自信のなさ、なら、親の対応や本人の心の持ちようによって、成功する可能性も高いです。 

実際に、自信がつくと、解けなかった問題が突然解けるようになったりすることがありますから。


旦那は、「人に文句言われないようにしよう、批判されないようにしよう、馬鹿にされないようにしよう」という、「逃げ」の生き方を良し、として生きてきました。

なので、旦那からしたら、「私は、他の人と違って運動神経が良くありませんから、こんな風に舞台でうまくできなくても、しかたありません。」という言い訳をすることが、彼にとって、一番安心できる考え方なのです。
彼にとっては、「努力しても、結局失敗すること」が最も怖いから。
その失敗を他人に笑われることが、彼の中で最大の屈辱だから。



でも、私は違います。
「努力」する過程は、失敗もするし、悩みもするし、他人に批判されたりバカにされたりすることはしばしば。
でも、その「努力」の結果、得られた、「成功」は、何よりもうれしいいし、それまでの「努力の過程でおきた、失敗」は、すべて、チャラになっちゃうことを、経験で知ってるから。

娘にも、その経験をさせてあげたいんです。
その経験さえあれば、たとえ、私がこの世から去るときがあろうとも、娘は一人で乗り越えられるから。

20才までに、そういう経験をしているか否かで、その後の生き方って変わってくるから。

だから、大変だけど、育児、がんばりたいです。

私が小学生のときに勉強苦手だった理由

2015年10月13日 10時24分51秒 | 教育について考える
なかなか更新できず、すみませんでした。

この前、娘の幼稚園の運動会がありました。


運動会前は、毎日、幼稚園で運動会の練習があった娘。


運動が苦手な娘は、
「運動会の練習で、自分だけ出来なかった」と毎日しょんぼりして幼稚園から帰ってきていました。


しかし、
当日の運動会で、そうじゃない、とわかりました。

娘以外にも、出来ない子はいたんです!


できないことには
かわりないですが、
娘だけが突出してダメなわけじゃないんですよね。


でも、娘には、目の前に映る、できる子を見ると、目に見えていない他の子は、みんな出来ているような不安感が出てくるんですよね。

そして、その不安感が、
うまくなりたい、出来るようになりたい!という気持ちが出るのを止めてしまう。

それで、さらにできなくなり、
「自分だけが他の人より、突出して劣っている」という思いこみによる劣等感が生まれる。


私もそうでした。


私は小学校のとき、勉強が自分だけ出来てない気がし、算数で0点をとったことがあります。
それをきっかけに、何もかもに自信がなくなりました。


自信がないから、余計、同級生にバカにされる。
つらかった小学校生活。




しかし、中学入学を機に、考えを変えて、勉強をしたら、成績はあがりました。

算数が数学に変わったこと、英語という新しい科目(私の中学当時)、という、大きな後ろ盾もありました。


結果的には、
ちゃんと大学(一応、難関レベルの大学)まで行けたし、
そのあと、塾講師にもなった。

勉強が他の人よりとりわけ苦手だった、とは、今になると、そうじゃない、ことがわかります。

小学校のとき、どうしても、体積と面積(表面積)の違い、かけ算と足し算の違い、が分からなくて、それで、頭がこんがらがったんですよね。

学校の先生に、「体積と表面積がよくわからない!」と言ったら、「簡単だ!」と一喝され、体積と表面積の計算式だけを何度も教えられた。
でも、当時の私からしたら、体積、表面積、というものに対してイメージがつかず、それで頭が真っ白になって、計算式が頭に入らなかったんです。
あのとき、先生に、「計算式はわかってます。私が質問しているのは、体積と表面積の定義で、その定義を小学生にわかる言葉で簡潔に説明してください!」と言えばよかったんですが、当時は、自分の頭に突っかかっているものの正体がわからず…。
まあ、上記のような言葉を言ったら、おそらく、 「教師に何て失礼なことを言うんだ!」とか「そんなことはテストに出ない!」と怒られ、下手すれば、親が呼び出されるだろうから、ただただ先生の言うことについて黙っておいたあの時の選択は間違ってはいなかったとは思いますが…。


しかし、中学からは、とにかく、点数をとりたかったんです、私。

定義や違いについて考えなきゃ、小学校のとき、点数そのものは点数とれた、と思います。面積求めろ!なら、面積を出す求め方で計算すればいいのだから。
でも、小学校のわたしはそれにこだわった。こだわったために、点数そのものがとれなくなり、どんどん劣等感が強くなりました。
中学のときに、こだわりを捨てて、点数とるものはとる、しかし、こだわるなら、信頼出来る人に質問する、としたら、かなり勉強できるようになりました。


ラッキーなことに、身近に、一番の先生がいたんですよね、母という役割の人物が。



体積と面積、かけ算と足し算の違いは、高校に入って、確率や三角関数、ベクトルなどを習ったら、自分で答えを導き出せました。

最終的には、定義とかイメージを得ようとする人物の方が勉強できるようになりますが、小学生のときは、それが邪魔になることもあります。天才的な子供なら、その定義やイメージも小学生のころからできるのでしょうが、私はそうではありませんでした。




小さいころに必要以上に劣等感を持つと、ツラい子供生活をおくる恐れもあるので、娘の劣等感を少しでも軽減できたらいいなぁ、と思います。

また、小学生のときに勉強できなくても、できない理由次第では、後々に、勉強できるようになりますので、中学受験をしない限り、あまり、小学生のときは、勉強に固執しなくてもいいかな?と、個人的には思います。

子供の色塗りの力を伸ばすには?

2015年07月22日 11時18分44秒 | 教育について考える
毎日、たくさんのアクセスをありがとうございます。

今年から、娘の幼稚園生活が始まり、この前、初の夏休みに突入!!
娘の幼稚園は、夏休みの宿題が出され、毎日、朝にちょこちょこ、娘と宿題をしています。
娘は、ずっと、「ひとりの幼稚園やだー!かーちゃん先生の幼稚園がいい!!いっしょの幼稚園がいいー!抱っこの幼稚園がいいのー!」と毎日泣き叫んで、幼稚園に通っていたので、幼稚園という場所ではないけど、毎日、かーちゃんと幼稚園の作業を、かーちゃんに抱っこされながらできるので、幸せなようです。


宿題は、工作&お絵かき。




幼稚園で先生が色の指定に厳しい人で、毎回、自分が選んだ色を先生に怒られないか?ビクビクしながら塗っている娘。
しかし、家では、ちゃんとした基準を設けながら色を塗ることにしたので、楽しく塗れるようです。

幼稚園の先生は、雨の色を紫で塗ろうとした子供を怒ったり、花びらを緑で塗ったら、怒ったり、のようです。確かに、写実的な色塗りは大切ですし、一般常識も必要なので、先生が一概には間違っている、とは言えませんが、うちの娘の場合は、そういう教育だと、楽しんで色を塗れなくなり、常に顔色を伺って、間違えないように怯えて、お絵かきしています…。
なので、せめて、家では、のびのびとお絵かきさせてあげたい。でも一般常識も教えたい。

…ということで、服とか屋根など自由に好きな色を塗れるもの 、と、晴れの空の色や花びらなど色に一定の制約はあるものの、その中から好きな色を選ぶもの、国旗や山手線のラインの色などの決まった、絶対的な色、の三種類があることを娘に伝えたいな、と。
たぶん、今の娘は、すべてのものに、一定の色があり、それ以外で塗ることに恐怖を抱いているようだから。

自由、と、制約(選択制、絶対制)、を、明確に分けることで、自由な発想も育つし、知識も得られるかな?と。


ただ、美術関係の教育は、いまだかつてやったことはないので、試行錯誤&失敗、の積み重ねにはなってしまいますが、親子で力を合わせてがんばりたいなぁ、と思います。

テレビを見る時間は規制した方がいいのか?

2014年04月08日 22時42分08秒 | 教育について考える

なかなか更新が定期的にできなくてすみません。

 

娘が2歳半近くになりました。

 

1歳を過ぎると、いろいろと、どのような育児をしていくか?で色々と悩むことがあります。

 

ただ、妊娠中ほど、必要以上の心配をしたり、世の噂や通説に悩まされたりはしないです。

妊娠中は、たとえば、転倒するのが怖いのでお風呂の掃除ができなくなり旦那に代わりにやってもらったり、

「妊娠中に電磁波が悪いって言う人がいるけど、

電子レンジやPC、ケータイを使ってはいけないのだろうか?」と

世の中の「かもしれない通説(医学的に立証されていない説)」で心配になったり・・。

(結局、電磁波は気にしないようにし、ふつうにPCもケータイも使って、普通に元気な子が産まれましたが)

妊娠中は、「私は、なぜ産婦人科医を目指さなかったのか!」とわけのわからない怒りが出たりも(笑)。

 

ただ、出産して、娘が大きくなってくると

 

「塾講師やっててよかった!」

 

と思えるようになりました。

 

なぜかというと、世の中の通説や噂に必要以上に惑わされなくて済むから。

 

もちろん、子育ては初めてだし、子供の性格によってケースバイケースなので、完璧な育児はできないのですが、

少なくとも、「子供に必要以上のがまん」を強要しなくても済むのは助かっています。

 

 

たとえば、

「テレビは1時間以上見せると、わがままな子になる」

とか

「小さいうちからの教育が将来を握る(1歳からの知育教育を始めると良い)」

などは、それが間違ってはいるとは言わないけれど、どの子供にも当てはまるものではない、と

心の底から思えるので、自分には合わないな~と思うことは無理して従わなくても平気だったりします

 

 

たとえば、塾講師時代に生徒さんを見ていて、

アニメをよく見ている子でも勉強する子はするし、わがままではない子もいるし、

逆に、アニメを見る時間が規制されても、勉強をしない子もいるし、わがままな子もいました。

 

でも、傾向としては、親に決められた時間に従っている子は、わがままではない子は多いです。

 

これだと、

「アニメの時間を親に言われた時間内に見ている子はわがままにならない」

と結論をだされるかもしれませんが、

私はそうだと思いません。(あくまで、私は・・、という意味ですよ。)

 

おそらく、

 

アニメの時間を親に言われたように時間内に見ることで満足できる子は、

元々の性格がわがままでなく、人の言うことを聞く子か、

アニメそのものにそこまで興味がない子

 

 

アニメを好きなだけ、見てしまう子は、

もし親が規制しても見てしまう場合なら元々わがままなタイプなのか、

親が規制しない状態の内で親が子供に無関心の場合は、

子供は親や他人の気を引くためにわがままな行動に出るのでは?」と。

 

なので、表面上に現れるのが「1時間以内のアニメの鑑賞をする子はわがままにならない」ということでは?と。

(あくまで、例外はありますが・・・)

大切なのは、「規制」ではなく、「子供を愛すること」「子供を理解すること」では?と。

 

ちなみに、

私は小さいころ、テレビを見る時間の規制が全くなく、テレビの優先権は子供にありました。

今と違って、夜6時~8時(6~7時は古いアニメの再放送)は、

毎日のようにアニメがやっていて、ほぼ見ていました。

でも、いくつも見ていると、自分に合わないアニメは見なくなるんですよね。

見たいアニメだけ見るようになって、「アニメ」という存在に執着しなくなるんです。

 

 

逆に、旦那の場合は、アニメは禁止の家庭で育ちました。

旦那は、子供のころは歴史と活字本を読むが好きだったので、アニメが見えなくてもさほど気にしなかったそうです。

 

で、私と旦那、どっちも「わがまま」ではありません。

むしろ、もう少し「自分の好きなもの」を優先してもいいのに・・・、と。

 

ただ、小さいころに得られなかったもので、自分の性格的に内在的に好きであったものは、

小さいころに消化しておかないと、大きくなってから、それに執着する傾向はあると思います。

 

旦那は、「アニメ」が好きな性格だったらしく、高校時代に友人の影響で「アニメ」を見るようになったら、

「アニメのトリコ」になって、現在に至ります。

私は、「アニメ」も「漫画」も好きではありますが、それに執着する性格ではないです。

どちらかというと、「漫画を作って他人に評価されたい」という執着が強いです。

それは、私が「他人から評価されなかった」という時代を小さいころに過ごしたからです。

 

だから、

「規制」は大切だけど、

「必要以上の規制」は将来にその規制された(得られなかった)ものに「執着」する可能性があります。

 

では、「アニメを好きなだけ見せたら良いのか?」というと、そうではありません。

 

みんなといるときは、みんなとの会話を楽しむことを優先する、という前提で

時間は気にせず見せればいいかな?と私は思います。

 

まだ娘はアニメではなく幼児番組しか見ないのですが、規制をしなくても1時間くらいしか見てくれません。

「お外に行こう!」と言い出したり、ほかのおもちゃなどで遊びだします。(テレビを見てくれていた方が楽なのに・・)

また、テレビを見ている際も、一緒に見て、内容についてお話したりしているので、

一緒に会話している感があります♪

また、1時間以上、テレビを見ているときもあるんですが、そういうときって、

娘は疲れているんですよね。受動的な遊びをするしかできない状態らしく・・・。

 

自分の育児は絶対ではないと思うんです。規制することが悪いことだとも思いません。

でも、私は「アニメやテレビ番組でいろんな知識を得たタイプなので、娘にもいっぱいテレビを見てほしいな」という

気持ちがあるので、それを優先したいな。

世の中の「こうなるといけないから説」に

自分が納得してなければ無理に従わなくてもいいな、と経験上感じるのです。

 

 

色々と育児は難しいですが、あきらめずにがんばりたいと思います!

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

ランキングに参加しております。ぽちっと押して頂けるとうれしいです。

にほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

 

 


テストは悪いものなの?

2013年01月27日 23時50分36秒 | 教育について考える

私はテスト入試という存在が好きです

中学のころからずっと好きですが、

塾講師になってからは好きを通り越して、まで感じられるようになってきました。(笑)



中学のころは、

テストは,

がんばった成果を出す絶好の機会であり,

入試

目標設とその目標にむかってするべき努力が正しかったのかの証明になる

 

という理由で好きでした。

そのころは、

まわりの人はなぜテストが嫌いなんだろう?入試を憎むんだろう?と不思議に思っていました。

 


テストや入試の世界から離れるのが嫌で、

大学に入ってからは学習塾の講師バイトを、

就職先も進学塾の講師に決め、

結婚後も家庭教師を続け・・と,

10年以上,テスト&入試の世界に触れていました。(それが良いか悪いかは別として)

 

テスト・入試を受ける側で6年(小学校・大学まで含めれば16年)、

テスト・入試の分析をするようになって約10年の月日がたち、

ようやくテスト本来の良さと周りの人々がテスト・入試を嫌う理由がわかってきました。

 



テスト&入試を嫌うのは

他人の評価を気にしたり、

自分とほかの人と比べて上か下かで自分の自信を確立する傾向にある人が、

嫌っている、もしくは蔑んでいる相手が自分より上の順位をとっていたり、

勉強でまわりに評価されていることをみて、

「テストで良い点がとれる人」=「勉強ができる人」=「まわりに評価される人」と図式しちゃって、

「勉強」そのものが「悪」だと見なしてしまうからなのかな?と。

また、テストの結果や成績が芳しくないことで、

蔑まれ辛い思いをして、テストそのものを憎み、そのままになってしまったりで。

人の本来の評価は、学力とは関係ありません。


だから、人間としての評価を学力ではかるやり方に対して異議を唱えるべきであって、

テストそのものまで否定する必要はないと思うんです。

「1つの欠点=完全否定」をしないで、

テストに付随する様々なものを取り払い、

テストだけを見れば、テストそのものの良い点・悪い点が見えてくるのではないかな?と。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

※現在,過去の記事を削除・編集しております。その中の記事の中でいくつかピックアップして

 

ブログに再度アップしています。この記事はその1つです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ランキングに参加しております。ぽちっと押して頂けると嬉しいです♪

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 


言葉の一部だけを覚えて いい気になったらダメ!

2011年04月18日 13時12分07秒 | 教育について考える

ひさびさの連続投稿です。

この前、弟がPSPで新しくソフトを買ってきて、

実家に来ていた私に「いっぺんやってみない?」と勧めてきました。

そのとき、弟は

「モンハン日記アイルー村というソフトで・・。」と説明してくれました。

かわいい猫ちゃんが、穴を掘ったりして楽しむゲームで、私も楽しみました。

 

その後、旦那のもとに帰り、テレビで

「モンハンが、今、若者の間で大人気・・。」という記事がテレビで流れていました。

そのとき、私は「あ、モンハンやったことあるよ!この前、弟が持ってて、やったよ。」

そうすると、旦那「弟君はさすがにゲーム通だね。・・・でも、君にはモンハンは難しかったんじゃない?」と。

 

そこで私「え?簡単だったよ。」

旦那「すごいね!僕もやろうか迷っててね~。初心者でもやりやすいのかなぁ。」

私「うん。簡単だよ。かわいい猫ちゃんたちが、ウロウロしててさ♪かわいいよ。」

 

「は?」

旦那がきょとんとした顔。

そして、「それはモンハンじゃないんでは?」

反論して私「モンハンってモンスターハンターのことでしょ!それに、弟はちゃんとモンハンって言ったもん!」

「ええええええええー????」旦那は困ってしまいました。

私があまりに自信をもって本気で力説していたので。

 

それで、インターネットで調べたら、

猫ちゃんたちが出てくるのは、「モンハン」のスポンオフ作品、アイルー村だと判明。

そのあとで、弟にこのエピソードを話したら、

「モンハン日記アイルー村、って僕言ったよ!」と怒られました(笑)。

 

今回は、100%私が悪いです。旦那にも弟にも平謝り。

言葉の一部分だけを適当に覚えて、いい気になっていました。反省。

 

このような私の失敗って、勉強でも言えるんですよね。

塾や家庭教師先の生徒で、教科書通りに教えたら、

「学校の先生は、こう言ってた!」と反論する子が

ときどきいます。

中には、複数の説があって学校の先生が偏った説のみ説明している場合や先生のうっかりミスなども

あるのですが、大半は生徒の勘違い。

学校のノートを見せてもらうと、たいがい、教科書通りのことが書いてあるんですよね。

 

このように生徒が言う場合って、さっきの私のように一部だけを覚えて、勝手に解釈して、という間違いを

してしまっているのですね。

 

先生の授業を聞いて、一言一句すべて完ぺきに覚えている子はいないので、

ノートや教科書ってすごく大切だと思います。教科書には、いつでもどこでも真実しか載っていないので。

 

また、先生たちも、生徒の言うことを真に受けて、

真実を確かめずに、他の先生を責めたりすることがあります。

私も新人のころ、「生徒が、君がこう言ってた!なんてひどい教師なんだ!」とある方に言われ、

私は身に覚えがなかったので、当時は、自分がその生徒に嫌われていると落ち込んでいたのですが、

長い間、多くの生徒に接していると、そうなのではなく、

生徒のただの勘違い(中途半端な記憶)がほとんどだったんだろうな~と思います。

だから、私は、すぐに他の先生を責めたりせずに、ノートを見せてもらったり、

先生の言い分も聞いてあげたいです。

 


勉強は熟成していくもの

2010年07月01日 11時34分22秒 | 教育について考える
今日で期末対策の授業は終わります。

今日は古典です。「徒然草」です。

高校のころに「徒然草」を読んだときは、「この作者、人の悪口か、理想論ばっか言っている~。」という気持ちで読んでいることが多かったのですが、10年で社会にもまれて生きていたら、だんだんと、「徒然草」で話していることに対して、「うんうん!」と納得できることが多くなりました。

古典は、人生を歩んでいくことで、どんどんと味が出てくるものだな~と改めて思いました。

でも、高校のときに、作品を読まなければ、そのときに感じた疑問も知らないまま生きていたので、この10年間で得るものが、古典を読んだときよりも少なかったでしょう。

勉強してすぐにすべて結果がでるわけではなく、味噌やお酒のように、長い時間をあけて熟成していくものです。
だから、勉強は、そのときに生徒は「?」でも、それでも教え続けていくのも大切だと思いました。


cf イラストは特に本文の内容とは関係ないです。