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社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

元社会科塾講師が勉強方法や社会科について
書いています。

歴史模擬授業も展開中♪

れくす先生の歴史授業12  漢王朝の政治

2025年03月28日 16時12分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回も、れくす先生の歴史授業シリーズの
続きです。

前回は、秦の始皇帝の中国統一
行いました。

今回は、その続きで漢王朝についてです。


1 はじめに

漢についての細かい歴史は
高校レベルの歴史の内容で行います。
中学では、全体にサラッと見ていきます。

中学までは、日本の歴史に大きく関係する
世界史分野のみを習うためです。

「れくす先生の歴史授業」シリーズは
高校入試対策、もしくは、
中学校に通わずに自宅学習を選んだご家庭で
中学レベルで知っておくと、後々に勉強が楽になるもの、というコンセプトで説明しています。
中学の定期テストでは出ない内容や
それは直接入試には出されない用語を
出しているのは、そのためです

あくまで「学校」の教育方針が合わなくて
苦しんでいる方々の精神的救いになれば、
と思って作成しています。


高校レベルのものを
そのままブログで
書くなら、
高校用のテキストや大学入試対策の
市販の参考書を読めば良いわけです。

そのスキマの時代、
中学のボンヤリした形で教えられる
偽善的なアプローチの歴史は合わないけれど、まだ高校レベルの難しい(細かすぎる内容)までは、まだ無理!という、はざまの世界の中学生や小学生に届いたらいいな、
と思ってます。

話を元に戻します。

中学では、漢の歴代の皇帝は習いません。
こまかい
「新」という王朝も習いません。
「前漢」→「新」→「後漢」という 
動きもなく、前漢も後漢もまとめて「漢」!
「新」の存在は語られません。

日本が中国と大きく関係するのは
「後漢」からです。
しかし、「漢」について習うのは
「前漢」の場合のものも多いので
ごっちゃになってるなぁ、とは
思います。

今回のこの記事も、そこらへんは
詳しく分けてはありません。



中学レベルでは、
漢はどういう政治をしたのか?
のみに主軸をおいて、お話したいと
思っているからです。

なので、日本が交流を始めたのは
後漢だけれど、その後漢の元となる
前漢がどのように世界をつくって
いったのか?を見てほしいと思います。

漢の政治思想や文化、世界の考え方は
のちの日本の歴史にも大きく影響を与えますので、そのあたりのものは、
次回の記事(陰陽五行説、易姓革命、歴史書などの記事)にて書かせていただきます。

前置きがいつも以上に長くなって
しまいましたが、今から始めます。




2 秦の滅亡


紀元前221年に中国を統一した秦でしたが
急激すぎる統一政策などのため反感も多く、秦の始皇帝の死後、わずか15年で
滅亡しました。

そして、また、争乱の時代になりました。

この時期の争いは、
高校教科書の古典(漢文)の分野で習う
「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」
の争いの時期です。

項羽と劉邦という人物は、
文学や歴史が好きな人なら
聞いたことある、というか、
常識で知っている人物名でしょ!
と思う人がいるレベルの人物なのですが
中学の歴史では習いません。

国語で習う故事成語では
出てくることはあります。


「四面楚歌」は聞いたことが
あると思います。
この故事成語は、項羽と劉邦の争いの
話から生まれた言葉です。

項羽と劉邦の争いで、
最終的に勝ったのは、劉邦でした。

そして、その劉邦が開いた王朝が
漢です。

(中学では、中学の王朝を開いた人物名は
秦の始皇帝以外では、ほとんど出ません。)




2 漢による統治の開始

漢は、紀元前202年に
中国の統治を開始しました。


漢は、
秦の制度の多くを受け継ぎ、
秦の失敗を教訓として
政治をしました。

秦と漢で決定的に違うのは
どの政治思想をベースに統治したか?
というものと
何代かけて国の形を作ったか?の 
国づくりのペースです。


秦は、法家の思想をベースに1代だけで
一気に国の形を作ろうとしました。

法家の思想は、
今の法治国家の思想に通じるものもあり
さらに現実的なので、
その結果、意味のある統治の制度を
秦の始皇帝がつくることができたのは
確かです。
しかし、問題だったのは、
「急すぎた」ということ。

どれだけ「正しい」だとしても
「急に」の変化は反発を招きます。

人間って、
「正しいから動く」という人
ばかりではないので。


漢の場合、
秦の始皇帝が統治の形の基礎を
作ってくれたので、その形をベースに、
時間をかけて、何代もかけて、
国をまとめていきました。
さらに、漢の政治思想は、儒家のもの。
儒家の思想とは、いわゆる
儒教、儒学のことですね。

(中学では、儒教という名称で
使うことが多いので、
以後、儒教と書きます。)

儒教は、「孝」という家族道徳を政治の世界にもあてはめ、「徳」による政治で、愛情をもって社会秩序を実現しようとするもの。
リーダーは、真面目で慈悲深い人が理想です。一言で言うと「徳のある人」が理想。



これだけ話すと、
漢というのは
「マンガやアニメの世界の、
民のことを常に考え、
愛情ゆたかな皇帝。
そして、その皇帝のことを慕う国民が
幸せに暮らしている国。」
みたいなイメージを持つでしょう。

それが、間違いというわけではないですが
現実というのは、そこまで甘くない。

ただ、漢が、
「人間というのは、感情がある生き物だ」と
思っているのは間違いなくて、
それをベースに統治をしたからこそ、
長く続いたことは間違いないかな?と
個人的には思います。


また、「徳のある人が皇帝になる」と
いう考え方を正しいとしたほうが
漢にとっては都合が良いのは確かなんです。

それまでの皇帝の血筋を
もっていない人が
次の皇帝の地位につく、というのに
「徳をもっている人が皇帝になるのが
ふさわしい」としたら
「漢王朝の存在は正しい」と
できますので。(漢を開いた劉邦は
秦の始皇帝の血筋ではありません。)


このあたりは、儒教だけでなく
陰陽五行説の考え方も出てくるので
次の記事でお話しますね。


漢は統治を開始し、何代もかけて、
領土を広げ、大帝国を築きます。





《国内(領土拡大)》

秦の始皇帝の時代でも中国を圧迫していた
騎馬民族を、漢は撃退しました。(前漢7代目皇帝の武帝のときに、匈奴を撃退。)

それにより、西方(タリム盆地あたり)まで
漢の支配を広げました。

また、匈奴との戦いの過程や
西方まで領土が広がったことから、
西側(オリエントやヨーロッパ側)に
中国の存在が知れ渡り、
漢に使者をおくる国もあり、
それに伴って、交易路も徐々に
でてきました。

それがシルクロード(絹の道)です。

また、漢は行政区画も整備し、
領地を支配しました。

その中で「郡」とい行政区画のタイプで
まとめられたものの1つに、
楽浪郡(らくろう ぐん)」という
場所(区画地域)があります。

楽浪郡は
北東部から朝鮮半島にかけての
地域におかれたものす。
この地を征服した漢王朝が
楽浪郡をおいて、支配しました。





《国外(外交、貿易)》

次に
外国との関係(貿易、交易)は
どうだったのか?
を見ていきます。

歴代の中国王朝の貿易を見る際に
気をつけなければならないことが
あります。



東アジアを除く他の国(西方)の貿易の
歴史を見ていくときは、今の世界観で見ても
大きな理解のズレはありません。
(完全に一致するわけではないですが
中学レベルなら大丈夫、という意味)

物品の売り買い、国同士の公的な貿易か
商人同士の民間貿易か?
だけに焦点をおいて見ることでオッケーです。


しかし、歴代の中国王朝では、
その視点だけでなく、
東アジア内の国々との貿易は
朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)」という
独特な貿易をしています。

東アジア圏内でなく、
西方の、たとえば、
ペルシアやローマ帝国等との交流は
朝貢貿易ではないので、
中学レベルなら
「シルクロードを通して、
貿易していたんだ。」
と思えば良いです。

しかし、東アジア圏内の諸国との貿易は
国の施政者同士、つまり、
中国の皇帝と、各国の王、同士の
公的な貿易であり、
かつ、中国を絶対的に上とした貿易に
なります。
それを朝貢貿易と言います。

朝貢貿易の「朝貢」について
説明します。
周辺諸国が、「中国の徳」を敬い、慕い、
中国の臣下になり、
その証に中国に使者を送り、
貢物(みつぎもの を差し出します。
貢物を贈られた中国側は、
贈られた貢物の数倍以上の価値のある物を
与える。
これが、朝貢の考え方です。


中国側からしたら、
戦争などをしないまま、
周辺の国々を自国の配下におけます。

周辺諸国からしたら、
自国の中で何かあったら
中国が守ってくれるうえに
中国の最新の文化や物品が
手に入ります。

双方に
メリットありありなんです。

もちろん、中国が
「技術や文化が最先端であること」、
「中国が、あらゆる地域の文化や物品が
とりそろっていること」
「中国が強い国であること」
という前提があるからこそ、
この朝貢貿易は成り立ちます。

そして、当時の中国は、まさに
その通りでした。

日本も、中国の強さや文化、技術に惹かれ、
使いを出しています。

「奴国が漢に使いを出して、金印を授かった」というのも、いわゆる朝貢貿易の一種です。
奴国の国王は、中国の最新の文化を手に入れるだけでなく、中国皇帝の権威を後ろ盾に
日本の中の国々の中で優位にたとうと
したのです。

金印は、正式に中国皇帝の臣下と認めた諸国の王に与えられたものです。

このあたりは、のちに書く別記事(易姓革命や朝貢貿易の話)で詳しく書きます。




中学レベルで習う内容としては。
漢と西方の貿易では、

中国からローマ帝国には
中国の絹が運ばれました。

中国側には
西方からは
馬や葡萄(ぶどう)、
インドからおこった仏教
が伝えられました。


つまり、漢より以前には仏教は
中国には信者がいなかった、
とも言えます。

今でこそ、
「仏教」=「中国の宗教というイメージ」
をもつ人もいますが、
これは、中国や朝鮮半島の国々を通して
仏教が伝わったから、
また後の中国で仏教がさかんになったから
でしょう。

何が言いたいか?というと
漢以前の中国の歴史を
「仏教」の価値観や視点で見ると
わけがわからなくなります。

中国の元々の宗教は「道教」です。

道教は伝説の人物(三皇五帝)や
王朝(夏王朝)などの神話も含んだもので
道教が、諸子百家の儒教や、のちの陰陽五行説に大きく関係してきます。


《貿易まとめ》
中学レベルの話に戻します。

この分野で中学のテストで最も出るのは
先ほどもチラッと出た
シルクロード(絹の道)」という
名称です。

地中海地域、西アジア、と中国を
結ぶ陸路の交易路をシルクロード
言います。
シルクロードという名称は
「絹」が交易品であったからです。

中国の「絹」というのは
当時、格別な品物です。
あんなに光沢のある美しい糸、織物は
他にはないもので。
美しい絹を作り出す技術は
当時は中国のみの独占技術です。


それだけ、中国の技術はすごかった、
ということです。








先ほども話したので重複になりますが
漢の政治は
儒教が重んじられました。

漢では、儒教が重んじられ、
それに基づいた政治をした形式が
この後の中国の世界の基礎となって
いくため、「儒教」の価値観を知って
中国の歴史を見ていく必要がある、
ということです。


儒教については
「古典」の漢文で習うことで
ある程度はわかります。
中学の教科書の故事成語でも
儒教の本(「論語」など)のお話が
載っているときはありますし
高校だと古典でダイレクトに習います。
(学校に行けばわかる、という意味でなく
教科書で自分で読むことでわかる、と
いう意味。)

中国や、東アジア諸国の歴史を習う時
行間がよくわからないときは
国語の内容を知ることでわかるときも
あります。

中学のときにわからなかった歴史が 
高校生になったときにわかったり
大人になってから本を読んでわかったり
することもあるので
中学のときに歴史をならって
「わからない」と思ったことがあっても
それは「理解できる力」があるゆえに
その「理解に必要な情報」が欠けていると
理解できないときがあります。

人によって「わかる」という言葉の
意味合いは違います。
「問題がとける」=「わかる」
「テストで高得点をとれる」=「わかる」
という人もいれば
「自分の中で言語化できる」=「わかる」
「違和感が感じられず、その内容を
受け入れることができる」=「わかる」
と思う人もいます。


もし、「違和感を感じるが、その違和感の正体がわからなくて困っている」=「わからない」と思っている内容のとき、

他の人から
「この内容は簡単だから大丈夫だよ!」
「何度も問題解けばわかるようになるよ!」という善意の言葉、
「こんなん、わからないやつは馬鹿じゃん!」と悪意ある言葉を
言われたとき、
「自分だけがわかってない」と
パニクらなくて良いです。


高校、大学、社会人になって
わかることはあります。


ただ、入試という点では、
覚えてないと合格できませんので
「わからないまま、今は飲み込む」と
いう応急処置はしても良いと思います。


勉強というのは、高校や大学に行くため
だけのツールではなく、
「自分で自分を定義づけられるための、
そして
自分の人生は自分で決めるための
最高の相棒」
のためにするものなので。

話をもとに戻します。

漢は、その後の中国や東アジア諸国の世界の
基礎をつくった王朝ですが、
儒教ベースの政治以外でも、
漢以降のスタンダードになったものがあります。

それが、歴史書作成です。

歴史書をつくる、というのは
「自分の国」を知っていること、
そして、現時点で自分たちがその国における
正統なる統治者である、という証明をできる
最適なツールです。

(詳しくは次回の記事以降で書きます。)

漢でつくられた歴史書の形式が
その後も続けられ、
のちの日本でも、中国を習って
歴史書(「日本書紀」など)を
作っています。



また、他にも漢は「紙」を発明しました。

「紙」があるからこそ
詳しい歴史を何ページも書くことができ
さらに伝達もしやすいですので
紙は政治や文化に欠かせないものです。



今回は以上です。
ご覧いただき、ありがとうございました。

次回は、時系列的には
この記事でも書いている
「易姓革命や朝貢貿易」の話です。
入試や定期テストには直接出ませんが
それを知るとわかりやすい、
というシリーズです。
(スピンオフ的存在)

ただ、スピンオフ的存在なので、
その記事の完成より先に

古代ギリシアの歴史の方を
先にアップする可能性は
あります。

とにかく、原稿を完成しないと!な
状態です。

ではでは、これからも
よろしくお願いいたします。




れくす先生の歴史授業11 秦の始皇帝の政策

2025年03月25日 21時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

しばらく間があいてしまいましたが
「れくす先生の歴史授業」を
再開します。


前回は、
古代中国の春秋時代&戦国時代
行いました

今回は
秦の中国統一と、始皇帝の政策
についてです。




1 秦の中国統一


春秋時代&戦国時代は、
いわゆる戦乱の時代でした。


どの時代でも戦争はおきますが、
「戦乱」というワードが使われる時代と
いうものは、
「コロコロと、力の強い人(国)が
かわり、政局が安定しない」
「強い国の配下にくだる国や、
戦争で負けて滅ぼされる国、も多くある」
など、政治形態やトップが
安定しない状態を言うことが多いです。


「戦乱」状態であった
春秋時代、戦国時代は
紀元前8世紀から紀元前3世紀まで
続きます。約500年間です。
とてつもなく長いです。

この「戦乱」状態を終わらせたのが
(しん)です。

秦は、戦国時代に存在していた国の一つで
戦国時代に次々と戦争に勝ち、他の国々を次々と征服していきます。

そして、最終的に、
当時の「中国」という地域範囲での
すべての国が秦国の王に
従う形になりました。

このことを別の言い方で言えば
秦による中国統一」です。

この秦による統一の時代を
本日、見ていきます。



による中国統一は、
紀元前221年と
なります。

年号(正しくは西暦)を
覚えることに固執して
教科書をまとめない、
問題を解かないぐらいなら
覚える必要はありませんが

教科書まとめ、問題演習も行うつもりなら
年号(西暦年)覚えておいたほうが
理解や想像の幅は
広がります。

なぜなら、
この「統一王朝の秦の成立」の前と後では
中国の政治や文化の世界観が異なりますので。
紀元前221年は歴史の
大きな転換期となります。


秦、そして、次に習う漢、
この2つの王朝は、
19世紀まで続く、東アジアにおける
中国中心の世界観(中華思想)と
それに伴う、政治、貿易(外交)体制の
世界観の基礎が作られた王朝です。
日本の歴史にも大きく関係してきます。





2 始皇帝という名称

これから習っていく中国の王朝のトップ(政治の頂点にたつもの)は、
皇帝」という
名称(称号)を使います。

この「皇帝」の称号を
初めて使った(使い始めた)のが
秦です。

中国を統一した
秦王であった政(せい)という人物が
統治者の称号を、
それまで使われていた「王」に代わって
「皇帝」としました。

「皇帝」という名称は
「王」を超える存在という位置づけの
ものです。

秦の統一前の、戦国時代は
各地の国々のトップが「王」を名乗り
「王」同士の覇権争いの時代であったので

いくら秦が他の国を征服したからといって「王」を称しても、争いは再開するかもしれません(戦国時代の再開)。

そこで、
「王」をまとめる(超える)存在として、
新しい名称「皇帝」を使うのです。

では、「皇帝」という言葉は
どうやって成立したか?というと、
中国の神話(伝説)の存在から
作った造語(略語)です。

中国の神話(伝説)で、
中国の統治者に、「三皇五帝」と
まとめられる8人の人物(政治のトップ)が
いました(伝説上の人物なので実在していたか?は不明。)。

この三皇の「皇」、五帝の「帝」、から
「皇帝」という名称が生まれました。

この「三皇五帝」の時代の統治者は
世襲制(親から子に、などの血族者に位が譲られる制度)でなく、
徳のある人物に位を譲っていた、と
されています。
その三人の「皇」、五人の「帝」のあとは
世襲制になりました。
伝説上の王朝である「夏(か)」が
世襲制を始めました。
(歴史上では、「殷」から習いますが、伝説上では「夏」→「殷」の順番です。
歴史では、実際に遺跡等が、出土されないと、存在したとは言えないので。
夏王朝の遺跡は存在してないので
実際にあった王朝なのか、想像上の王朝なのかは、現時点では、不明です。)

三皇五帝のことについては、後日、
別記事(徳とは何か?陰陽五行説、「禅譲」と「放伐」、「易姓革命」等)で
お話します。



秦による統一を果たした秦王(政)は、
初めて皇帝を名乗った人(それ以後、中国の統治者が名乗る皇帝の名称を使い始めた人)のためら「始皇帝」と呼ばれます。

テストでは「始皇帝」が
固有名詞、人物名のように
使われます。

テストでは「始皇帝」と書けば
基本的には大丈夫
です。



3 秦の始皇帝の統治

秦の始皇帝の統治の仕方は
中央集権的です。

中央集権とは
一つの組織(中央の組織)、
今回でいうと「皇帝」に権力が
集中する、ということです。

戦国時代は、それぞれの王が、力を持って
それぞれ独自に政治をしていた状態だったのを、きちんと終わらせるには、中央集権という形にしないと、また戦乱がおこってしまいます。


中央集権を悪いように言う
人もいましたが
中央集権そのものが
完全に悪いわけではなく 
一つの統治方法の一つで
そのときに必要だった統治方法を
したにすぎません。

歴史を学ぶうえで
「良い」「悪い」という価値観で
見ないことは大切です。
あくまで「良い」「悪い」は
現代の価値観、個人的価値観
からにすぎないので。
他を知ることが歴史を学ぶうえで
必要です。
「良し悪し」の価値観で
歴史を見るということは、
自分の世界からしか歴史を
見ることができず、
永遠に、歴史人物の行動原理を
理解できません。

理解とは、同調ではありませんので。
ただ「事実のみを受け入れること」です。

話を元に戻しますね。

秦の始皇帝は
政治的な制度の統一だけでなく 
あるゆる単位(度量衡)の基準も
統一しました。

度量衡(どりょうこう)とは、
度は長さ、量は体積(容積)、衡(こう)は重さの単位のことをまとめた言い方です。

今では、長さや体積はセンチメートル(cm)の単位、重さはグラム(g)というヨーロッパの単位基準を使ってますが、
単位基準は、時代や場所によって違いました。

中国では、戦国時代に国ごとに、単位がありましたが、その基準を中国内(秦の始皇帝の領土内)では統一しました。

また、他にも、文字や貨幣も統一しました。


それにより、中国全土で、
同じ文字、同じ基準で動けるのは
とても効率がよくなります。


今は、それ(単位や文字の統一)が
あたりまえになっているので、
「統一する」というのが
どのように人々の生活に影響を与えるか?
の想像がしづらくなってますが

この度量衡等の単位統一は
かなり生活がかわります。

基準が場所によってマチマチだと
不平等や不便さ
が生じやすくなりますから。


また、当時は、北方の異民族(中国にとっての異民族)が、定期的に、移動をして、
中国の領地に入ってくることがありました。
戦国時代にも、北方の異民族の侵入のおそれがあるため、侵入防止のための砦(城塞)いわゆる横長の城(長城)を、
各地(各国)がつくっていました。

その点在していた砦(城塞、長城)を
秦の始皇帝は連結しました。

そのことを教科書では
万里の長城を整備した
と書かれています。

「万里」の「里(り)」は
長さの単位ですね。
「万里」というのは、
正確な数値でなく、
「めちゃくちゃ長い」みたいな
意味合いで考えて大丈夫です。

時々、秦の始皇帝が万里の長城を「造った(作った)」と思う人や、
現在存在している形の「万里の長城」を
秦の始皇帝が造った、と思っている人がいますが、秦の始皇帝より前の時代から作られていた長城を整備しただけであること、今の万里の長城は、のちの明の時代に改修された姿のものです。


万里の長城が整備された理由を
記述問題で出されることがあります。

しかし、問題集によって、答えは様々。
「北方の異民族の侵入を防ぐため」
「北方の遊牧民族の侵入を防ぐため」
「匈奴の侵入を防ぐため」
など、北方の異民族と書くか、北方の遊牧民族と書くか、ダイレクトにそのときの「北方異民族(遊牧民族)」の名称の「匈奴(きょうど)」と書くか、の違いがあります。
匈奴という名称は、高校レベルの歴史で
習いますので、中学では、そのような書き方をされません。


おそらく、20年前だと、「北方の異民族が〜」と教えられた人が多いのでは?と思います。

ただ、「異民族」という呼称は
「中国側」という片方側からの視点ですので、今は、「遊牧民族」という書き方のほうが良いとは思います。 
「遊牧民族」という名称は「遊牧」を生活基盤している「民族」という意味合いです。


遊牧民族は、世界中の色々な地域で
生活しています。
高校レベルの世界史を習うと
「遊牧民族」の動きが歴史を大きく
変えることも多々あります。

また、遊牧民族とひとくくりに
考えるのでなく、様々な遊牧民族が
歴史で登場します。


戦国時代、秦の始皇帝の時代には
中国側から見て北方で生活していた
遊牧民族の動きがさかんで、
そのために、中国は万里の長城が必要に
なりました。


北方以外にも、
遊牧民族の人々は生活していますので、
記述問題では「北方の」まで書く必要があります。本当は「中国から見て北方の」と書いたほうが良いのでは?と思いますが
質問内容が中国側からの話になっているので、「北方の」からで良いと思います。


また、秦の始皇帝の権力の大きさを物語っている遺跡があります。

それが、兵馬俑坑(へいばようこう)。
兵馬俑坑は、始皇帝の墓の近くから発見された、人や馬の形をかたどった、実寸大の焼き物がたくさん並べられているところです。

(兵は兵隊、
馬は馬(馬車の馬、戦車の馬など)、
俑は殉死者の代わりに埋葬した人形(ヒトガタ)の像、
坑は穴(生き埋め用の穴や鉱物を取り出すために掘られた穴)のことです。)

精巧でリアルな、大量の像をつくることが
できること、それをやりとげたことは、かなりの権力がないと難しいです。






ただ、このような制度改革を急いで一気に
やりとげた、ということは、
かなりの反発も招きます。

制度改革だけでなく、
反乱をおこす地域、人々とも
戦うので、疲弊もおきます。


反発、反乱を抑えるために
かなりの威圧、厳しい政策も
しています。

そのため、秦の始皇帝が
生きている間は、秦は続きましたが
彼が亡くなったあと、ほどなくして、
また争乱の時代になり
秦は、滅びます。

そして、争乱ののち、
漢による統治が始まります。




今回は以上です。


よく、「秦」については
悪く言われることは
あります。
確かに「被害者」であった人々は 
多くいるため、「悪く思う」ことは
個人の自由です。(悪く思うから、
攻撃するは駄目です。)

ただ、「歴史を習う、歴史を教える」と
いう立場のときは、どの歴史人物、どの王朝でも、その時代に真剣に生きた、彼らの信念や考えがあった、と「個としての尊重」をして説明したいと私は思います。


敗者や短期間で滅んだ王朝を
「愚弄して終わる授業」や
「勧善懲悪(片方を善人、片方を悪人、悪人は必ず滅びる)という視点での授業」を
しないよう、心がけてはいます。

歴史の学びとは
「流れを知り、未来を予測する」
「予測した未来に向けて、自分は
どう生きるか?を模索する力をつける」
ものだと思うので。



秦の始皇帝がどうしてこのような政策を
行う必要があったのか?の背景や、 
秦が短期間で滅んだ理由を知る、
歴史分析することが
大切なのかな?と。



ご覧いただき、ありがとうございます。

次回は「漢王朝」について、です。

完成しだい、アップいたしますね。



いじめられたときに受けた試験の記憶がないためにおきた困りごと

2025年03月21日 17時23分00秒 | 私自身のヒストリー
みなさま、本日もありがとうございました。

2月後半あたりから、
なかなか更新できなくて、すみません。

先日、ある習い事(芸術系)の、
子どもの昇級試験があり、
ほとんどの時間をそちらに費やさないと
合格できない状態だったので
なかなか更新できませんでした。


自分が、その昇級試験を受けたのは
小学生のとき。
親友だった子が中心になって
当時、友達だったクラスメイトたちに
いじめられて、
学校の先生からも迫害されて、
精神的に追い詰められたときに
受けた試験だったのもあり、
落ちてしまった過去があります。


その後、2回目の昇級試験で合格し、
習い事の先生からは
「この級は、どれだけ頑張っても
受からない子は受からないレベルの
ものだから、自信を持ってね!」
と言われましたし、
その後も「君には才能があるよ」とも
言われましたが

学校でのイジメの後、
そして、学校の先生から人格否定され、
「知恵お◯れ」と、当時の差別的発言を
同級生に言われまくっていた私に対して
同級生の方の言い分が正しいとした先生の
発言が、「正しい」と信じてしまい、

母や習い事の先生が
どれだけ褒めようが
どれだけ
「あなたは頭の回転がはやいので、
これから難しい内容になればなるほど
伸びる」と言われようが

「学校の先生が言うことが正しいのだから、
そして、母や習い事の先生もそう思ってるはずだ。

だから、私への褒め言葉は嘘の内容。

母や習い事の先生は
私にその習い事をやめてほしくないから
私を嘘の褒め言葉を言ってるんだ(母は世間体のため、習い事の先生は月謝を手に入れる目的として。)」と本気で思ってました。


どうしてそう思うか?というと

母も習い事の先生も
「学校の行事が優先」だったし
「学校の先生の悪口は言わなかった」ので
私の中では
「母も習い事の先生も
学校の先生が正しいと思っているから
そういう行動に出るのだ。」
という図式ができあがってました。

母にはときどき、
「学校が辛い」という内容を
ぼかして言っていたことは
ありましたが、
あまりにボカしすぎて
伝わりませんでした。
どちらかというと、わたしの発言は
ワガママに
見えたのでしょう。

母には、
私が学校の先生にされた仕打ちを
話すことはなかったうえに
先生は母には「セザールさんは
とても良い子です。」と
褒めていたそうなので
私がどれだけ学校の先生に
「バカ」「邪魔者」扱いされたか
どれだけ迫害されたか
人格否定されたか、
私に冤罪をかけ、私だけ行事に参加させないことをしたのか、を
母は知らないのです。

後から考えれば、
母に学校の先生が私にした仕打ちを
伝えればよかったのですが、
学校の先生から
「親に泣きつくような子は、
だめな子。将来困るよー。(ニヤニヤ)」
と言われ続けた私は、
言えなかったんですよね。



今なら、学校の先生の言う事は無視して
母や習い事の先生の言う事の方を
信じて、習い事を頑張り続ければ良かった
と思うんですが、
あのとき、2回目に昇級試験が受かり、
当時は年齢制限のため、
それ以上、
上の級の試験は受けられなかったため
習い事は続けていましたが
まあ、真剣味にやらなくなりました。

「どーせ、がんばったって。」
という、やさぐれた気持ちでした。



その後、色々とあって、
勉強のほうが楽しくなり今にいたり、
勉強の楽しい世界を維持するために
当時のトラウマ級の記憶は
忘れてしまったようです。
もう二度と、他人からの悪意ある評価で
自分の評価を決めたくなく、
自分で、論理的に対等な立場で
自分の評価や自分を定義できる
世界にい続けたいんですね。

そのため、
「その試験を受けた記憶はあるけど、
当時の自分のスキルレベルがどれだけ
だったか?」が記憶にないんです。


子供のスキルレベルと
私のスキルレベルを照らし合わせて
私のスキルレベルと同等、もしくは、
それ以上なら、あとは練習あるのみ、
とすることも可能なのですが
なにせ、細かい記憶がなく、
今のスキルレベルしか指標がないため
非常に困りました。

娘が私よりスキルレベルがないとき
どこまで頑張らせればよいのか?
また、スキル獲得するのに
必要な方法やスキル獲得に要する時間や
精神的体力の配分が、
勉強関係と違ってわからないのが
苦しかったです。

勉強関係は、自分の生徒時代、塾講師時代の経験から、逆算して
「このレベルの内申点や偏差値を手に入れたいなら、今はこの問題レベルができれば良い」とか
「できなければいけない必須のもの、と、
できれば強みになるもの、
できなければ切り捨てても問題ない内容」
の取捨選択が一瞬でわかります。


でも、お稽古のものは
そこが、手に取るようにわからないので
手探り状態であったので、
精神的にキツかったです。


とりあえず、
「受けてよかった(がんばったこと、そのものが爽快感で、結果は二の次。落ちてもまたがんばりたい気持ち。)」
という状態で追われて、ホッとしました。

結果はまだなのでドキドキですが

やっと、芸術分野から、
学問(勉強)分野のほうに
頭をシフトできそうです。

私は、
芸術分野メインにしていると
勉強関係のブログが書けない状態、
(逆もしかり)
になるので、
それをやめようと、どちらもこなそうと
無理すると強迫性障害や、うつ病に
移行する癖?がついてしまったため、
勉強分野の「れくす先生の歴史授業」は
しばらくかけませんでしたが、
なんとか書けそうになってきたので
はやいうちに、再開いたしますね。





古代ギリシアの歴史の内容が色々と混ざってしまった中学生のお話

2025年03月11日 18時52分00秒 | 社会の勉強方法
更新がとまってしまって、
失礼いたしました。

諸事情で高校世界史の内容のテキストを
作成していたため、それで時間的余裕が
なくなってしまってました。


ある方に
中学の内容だと、世界史の内容が
ボンヤリしすぎて、かえってパニックに
なるので、詳しく行間を教えて欲しい、
と言われたので、
アテネの民主政の完成の流れや
ヘレニズム文化などを、高校の世界史レベルの形で説明しました。






どうも、教えて欲しいと言っていた本人は、
アテネの民主政とヘレニズム文化を
一緒に習ったため、
「ギリシア全土が民主政になり、
ギリシアの中心都市(首都)がアテネで。
アテネの文化はギリシアの文化で、
その文化をヘレニズム文化と言う」
と思い込んでいました。



実際には、
古代ギリシアは、ポリスごとに生活して、
ポリスごとに特色があり、アテネは民主政を確立していましたが、他のポリスでは貴族政のところもあります。

そして、ヘレニズム文化は、
アテネを含むギリシアのみの文化でなく、
マケドニアのアレクサンドロス大王が
東方遠征をし、その結果、ギリシアとオリエントの文化が融合した文化です。
ただ、ギリシアベース(ギリシア主体)の文化ではあるので、ヘレニズム文化がギリシアの代表的な文化であるとも見えた人もいる
かもしれません。


中学の教科書を、
「歴史」を知ったうえで読めば、
きちんと
「ポリスごとに違う生活をしていた」
「ギリシャ全体でなくアテネの歴史」
「ヘレニズム文化は、アレクサンドロス大王の東方遠征のあと」と
わかるように書かれているのですが、

45分で、アテネの民主政確立もアレクサンドロス大王の東方遠征もヘレニズム文化も、
さらに古代ローマの歴史も一気に習うので、
すごく短いスパンに感じられてしまい、
あらゆる情報がくっついてしまいがち
なんですよね。


こういうときの対処方法としては

自分できちんと、
教科書を読み、資料集、可能なら用語辞典も活用して、ノートにまとめていくと、
間違えないことも多いです。

ただ、今の学校教育は
「他人向けに発表するのを想定した
調べ学習」は推進してますが
「個人で、情報をまとめるノート作成」は
推進している人は少ないです。


先生によっては
「ノート作成を馬鹿にする人(ノート作成をすると、子供の人格形成に問題が出る?自己肯定感が下がり勉強できなくなる?
などの脅しをする人。)」
「ノート作成は促すが、ノートのまとめ方は教えない。」という人もいるので

せっかく教科書、資料集が手元にあるのだから、もったいないなぁ、と思います。

ノート作成は、子供の勉強の敵でなく
むしろ、相棒になるのに!と。

ただ、ノート作成が合う合わない人はいるので、一律にノート作成を強要するのもどうかな?と思うので、ノート作成はしたい人はぜひしてみてね!というスタンスでこれからもお話していきたいです。


れくす先生の歴史授業も
作成中なので、またよろしくお願いします。