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社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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れくす先生の歴史授業17 古代中国の思想4易姓革命、と最終回

2025年05月13日 16時52分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回もれくす先生の歴史授業です。  
古代中国で生まれた文化、制度についてです。

今回は易姓革命です。


1 はじめに

実は、ここまで長々とこの内容を
書いたのは、易姓革命について
ある、伝えたいことが
書きたかったからです。


私の場合は、大学に入るまでは
「テストで点数をとること」
「希望する大学に行くこと」を
目的に勉強していて、ほとんどの時間を
それに費やしました。
社会分野の入試における配点は
私立高校や大学入試では
英語や国語の分野の半分になることが
多いです(理科も)。
私が高校受験生のときは、
3教科受験で、理科と社会は
入試科目にさえなかったところも
ありました。(私立高校受験)
入試は、各教科の足切り点はある
かもしれませんが、基本的には
各教科の点数を
合わせた総合点で合否が決まります。

そのため、私が受験生のときの
高校入試なら
国語、数学、英語に、
大学入試なら、
受ける予定の大学の科目で
配点が大きい科目
(だいたいは、文系なら英語、国語)
の方に力を入れてました。

社会は好きではありましたが、
英語や国語ほど勉強の時間を割けなくて
授業で「ん?」と思ったことは
多々ありました。
でも、暗記してテストで点数取れるように
するための、最低限の情報整理さえ
しておけば良い、というスタンスでした。
例えば、「遣隋使は飛鳥時代、遣唐使は奈良時代から平安時代、の内容で出てくる」「白村江の戦いは飛鳥時代で、大化の改新が行われた後の時期」とか、その程度。そのときに、なぜ、遣隋使や遣唐使が行われたのか?そもそも、遣隋使や遣唐使というのは何か?白村江の戦いの戦いのときに、すでに中国は唐だったのに、飛鳥時代で遣唐使の話題はテスト問題で出ないのはなぜか?
などなど、疑問に思うことは出来たのに、それを疑問に思って追求することは
罪であり、生命の危機だと思い込んでいたのでした。


なぜ罪と、生命の危機、思ったか?というと、
私は小学生のときに同級生にいじめられ、
学校の先生からは迫害され、授業で何度も吊し上げにされた経験がありました。
その理由の一つが
「私が勉強ができないから」
「テストで点数が取れないから」でした。
その後、中学にあがってから、
必死に勉強して、
先生からは、
いじめられることはなくなったので、
ホッとしました。

先生さえ、その生徒をいじめなければ、
クラスメイト全員にいじめられる危険性は
ぐんと減るので。

先生は、授業態度が良くて、
テストの点さえよければ 
その生徒は「良い子」と認識する
傾向があるので。(全員ではありません。)

そのため、私にとっては
「テストで点数が取れない
というのは
「先生や同級生に攻撃される」=「生命の危機」という構図になってしまっていたので、
社会科は
テストである程度は点数をとれるし、
内申点的には問題ないし、
入試では、公立高校入試以外は
英数国よりも配点が低いので
わざと疑問点やモヤモヤ点は
かき消していました。



しかし、大学入試直前になり
「情報整理さえすれば点数をとれる」
というわけにはいかなくなり
高3の夏休みになって、
ある塾の講師の先生の短期講習の
出会いで初めて、
「歴史用語に膨らみをもたせても
先生という存在は私を罰したり
しないんだ」
と安心しました。
先生という立場の人から
「考えることは危険ではないよ」
と言われたのは、
かなりの嬉しさがありました。

それから半年間だけは、問題をとかずに
社会(世界史)だけは
ノートまとめをしまくって、
大学入試に出て、第一志望校に合格する、
という暴挙に出た私でしたが、
それが今の私の授業スタイルの始まり
であったりします。

また大学では、疑問に思ったことを
どれだけ調べようが、質問しようが、
それでいじめられたり、迫害されたり
しない、と安心できる空間と認識できたので
やっと、自分に合う勉強方法を開拓
できました。
塾講師や家庭教師の仕事を通しながら
「本来の自分の再生(個人的ルネサンス)」を行えたのです。


世間は「学校に行かないと、集団生活における社会性は身につかない」と言いますが
「社会性とは、その人が、その集団の中で生活しても、心身ともに安全である、と認識しないと産まれないもの」であると、
心理学の本で読みました。
まさにその通りだと思います。
だから、「学校」が「自分にとって危険な空間」と認識してしまったら、社会性は育ちません。育ってしまうのは、異常なほどの、過剰適応か、過剰防衛か、過剰暴力です。
自分の守り方が、自分に嘘をつく形の「適応」「防御」、または、自分の考えを相手に合わせさせようと強要する「暴力」に向かうだけ。


それは、どちらも、
最終的には、破綻します。


私は「過剰適応」という形で出ました。
高校まではそれで自分の「安全」を確保しましたが、親になって、ホルモンバランスを崩した途端、待ち受けていたのは、10年以上におよぶ「強迫性障害」との闘いでした。

だから、仮に「不登校」になったとき、なりかけたとき、
「学校に行くこと以外では、解決方法はない」と自分たちを追い詰めて、
学校に行けたら大丈夫とはならないかもしれません。
最も怖いのは、不登校そのものより、
それに伴う、うつ病、強迫性障害、などの
障害発症だと思います。

「勉強」だけの問題なら、
「自宅学習」や「図書館」、
「塾や家庭教師」「フリースクール」
などで解決という手もあり、
「集団生活での社会性を身につける」問題は、「学校」にこだわらなくても「本人が安全だと思える場所」をみつける方が良いと思います。




話をもとに戻します。

私は易姓革命という
考え方までは知らないまま、
大学合格までいってしまい、

大学に入って、易姓革命を
知りました。
でも、大学なので、それは知っているでしょ?前提だった講義で、
易姓革命をダイレクトに
教えてもらったわけでもなく
今から考えると易姓革命の考えだったなぁ、
と思った程度です。

易姓革命について、
詳しく知ったときは
結婚し、何度も流産し、
精神的にまいったときに
漢方薬の存在を知って
それの一貫で陰陽五行説を
知ったときです。

それから、道教の神話なども
ある程度ですが知ることで

私が小学生から疑問に思っていたことの
答えを知るための重要パーツは、
易姓革命にあったんだ!」
が苦しかったのは、
易姓革命の存在を認識しないで
それを建前でなく真実と思って
歴史を教えられていたことなんだ」と
気がついたのです。


それがどういうことか?を話す前に
本題へ。




2 易姓革命とは?

易姓革命とは何か?について、
画像を御覧ください。










古代中国でうまれた易姓革命の考え方と、
西洋の「革命(レボルーション)」の
考え方は違います。


どちらも「革命」という用語を使うので
混同する上に、
中国の場合は、「易姓革命」という
用語でなく「王朝交代」や
「◯の王朝は滅び、▲の王朝が開かれた」
と別の言い方が使われます。

確かに、そちらのほうが教科書の書き方としては正しいです。

なぜなら、「易姓革命」の考え方は
「勝者(新しく王朝を開いた方)の都合」とも言えるので、「易姓革命がおきた」と
教科書で書くのは主観的な見方になるので
書けないと思います。



3 私と易姓革命

ただ、教科書でなく、
教える方側だったり、
世の中の風潮(作品など)では
王朝が滅亡するときに
「易姓革命」の考え方で
説明したり、描かれることがあるので
そこに小さい頃の私はひっかかった、
疑問に思ったのです。


例えば、
「フランス革命期の王朝が【民のことを全く考えなくて贅沢三昧だったから】革命がおこった」
とか
「あの歴史人物には、
愛がないから政治に失敗した」とか、
授業で説明されることがあります。
自分も昔は「そういう風に言うことが正しいと言われて、それに疑問に思わないと生きていけないと思って授業をしていた」という悔しさ、申し訳無さ、があります。


実際には、
その王朝で革命がおこったり、
王朝が滅亡したり、
政治に失敗するのは、
様々な要因があって、
必ずしも、そこに「愛」は
必要はないのです。
また、「愛」があれば、
なんでも成功するわけでもない。

私が昔、感じていた違和感は、
「建前」の理由を、まるで本当のことのように語り、「歴史」を「道徳」のように扱う授業そのもの、だった。
その「建前」は「易姓革命」の考え方が
ベースにあったのだろう、と。

易姓革命そのものの考え方が、悪いとは
思いません。
たくさんの民、
とくに、経済的、身分、宗教観や土地柄が
異なる人々をまとめていくためには
「建前」は必ず必要だから。

でも、易姓革命の考え方が「建前」と思って歴史の授業をするのと、
「歴史の真実」と思って歴史の授業をするのでは、生徒さんたちのその後の生き方が変わってくると。


とくに、発達障害の子は、先生や同級生に「悪者」「愚者」にされがちです。
そのため、本来は、自分の生き方を模索する相棒にもなりつつある「歴史」、
発達障害だと思われる歴史人物もたくさんいるため、そこから自分はどう生きるか?を考えることができる「歴史」が、
「自分は悪者だから、歴史も自分を責めていて、怖い」となってしまう恐れがあります。
私がそうでした。

「易姓革命」の考え方を知った今、
「建前をうまく使いこなすことも
リーダーシップを発揮するには
必要」と思えるようになり、
かつては自分を否定するような存在で
あった「易姓革命」が、
今では、
「生きるために知っておくべきものの1つ」
になりました。

そして、西洋の革命は、全く別で
そちらの考え方にも、私は勇気をもらえます。


今回は以上です。

今回は自分語りが多かったですが、
このシリーズを始めたのは
「自分や子供が発達障害であるとわかり、
でも、学校の授業を受けたときの
虚しさ、孤独さ、に押しつぶされないよう
不登校になったときに人生や
この世界に絶望しないように
少しでも自分たちの自我を保てるよう、
過剰適応して強迫性障害が悪化しないに
したい」という気持ちがあったからです。

自分たち以外でも、
学校の授業で自分の存在を否定され
苦しんでいる生徒さんやご家族が
いらっしゃると思いました。

発達障害の有無にかかわらず、
少しでも私の授業で楽になって
いただければ、と。


4 さいごに

今回をもちまして、
こちらのgooブログさんでの
「れくす先生の歴史授業」シリーズ更新は
終了させていただきます。
(お知らせや、このブログ最後の企画記事はまだまだ随時更新予定)

移転先はAmebaブログさんですが、
育児ブログ(「育児症にない!」という題名のもの)と合併する形で
こちらの内容の一部(勉強内容と塾や受験の内容)を編集しながら、秋までに形を整えていきます。



新しい移転先(ブログ内容の合併先)は
Amebaブログさんです。
ブログ名:「育児書にない&しゃかりき!」
ハンドルネーム:セザール 




定期的にAmebaブログさんのほうで
こちらの「れくす先生の歴史授業」シリーズの新作も更新してきます。
(次回は古代ギリシア、古代ローマ)





まだ、約20年の
このブログでの思い出語りや
最後のあいさつは更新していきますが、
「れくす先生の歴史授業」はこれにて
いったん終了させていただきます。

みなさま、ありがとうございました。


れくす先生の歴史授業17  陰陽五行説

2025年05月11日 07時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回もれくす先生の歴史授業の続きで
古代中国で生まれた文化、制度です。

今回は陰陽五行思想(陰陽五行説)。


1 はじめに

陰陽五行説の場合、
アニメやマンガ、ゲームなどの
題材にされやすいので、
知っている人も多いと思います。
青龍、朱雀、麒麟、白虎、玄武、
という言葉を聞いたことがある人も
いるでしょう。






私の場合、心療内科で漢方薬を
処方されているので、漢方について
勉強していくと、漢方の根底には
陰陽五行説があるのがわかり、
今でも陰陽五行説にはお世話になっている
んだな、と思います。

また、日本でも陰陽五行説の考えは伝わり、
古代の都づくり(平城京や平安京など)は
陰陽五行説に基づいたものです。

他にも、時刻(丑の刻など)や、方角(丑寅の方向など)、節句行事(端午の節句など)も、陰陽五行説の考えからできています。




陰陽五行説は、いわゆる哲学なのですが、
「この世界の時間の移り変わりなどの法則を考えたもの」という哲学で、
あらゆるカテゴリーを5つのカテゴリーに
分けて考えます。

元となるカテゴリーが、
木火土金水、で
そこに、季節、食べ物、動物、
などをあてはめていく、というもの。

そして、自然な移り変わり(相生)の
順番(バトンタッチする相手)、と、
強い、弱いの関係(相克)があります。

今回の画像では、簡易的なものだけを
ピックアップしていますが、
陰陽五行説は調べるとめちゃくちゃ
面白いので、もし、気になったら、
本などを読むこともオススメです♪




2 陰陽五行説の法則


さて、今回、陰陽五行説については
易姓革命についてから話したいための
導入の形です。




相生、相剋の関係を王朝に当てはめて
考えられたのが、易姓革命です。

下の画像は、
秦王朝と、漢王朝が
それぞれ、自分の王朝を正当化するために
考えられたものです。
(そのため、強引な感じのものもあります。)
※この説はあくまで1つの説です。



陰陽五行説に儒教の考え方を
合わせると、易姓革命の考え方になります。

それについては、
次回でお話したいと思います。







れくす先生の歴史授業16古代中国で生まれた思想3 中華思想

2025年05月10日 07時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回も、続きで
れくす先生の歴史授業です。
古代中国で生まれた考え方、制度についての続きです。


今回は、中華思想(華夷思想)についてです。


1 はじめに

この思想について、
現在の価値観からして、良いか、悪いか?
を考え、
「悪い」から「学ぶ必要はない」と
思う人がいたら、
それは歴史を学ぶ意義は半減します。

現在の価値観が「絶対的に正しい」か?
と問われて、「絶対的に正しくて、他はすべて愚かなもの、古くて駄目なもの」と
答えるなら、それは、とても怖いと思います。

私も今の「すべての人に基本的人権があり、民族によって文化的に優劣はつけられない」という民主的な考え方が大好きで
それが「正しい」と思っていきています。

でも、「絶対的に」か?は、
実は思ってません。

ただ、そういうと
「差別オッケーなのか?!文化的な優劣があるとおもっているのか?」というわけではなく、もし仮に「絶対的に正しい」はずなら、人類が生まれてから、ずっと、この思想の価値観で動いていくはずなのに、そうではないです。時間的長さで言えば、
中華思想で東アジア諸国の世界の秩序が成り立っていた時間のほうが、日本が民主主義国家になってからの時間のほうより圧倒的に長いです。

そうなると、長年、
受け入れられてきたシステムが
ある以上、今の価値観が「絶対的正義」と
結論づけるのは、傲慢だと思います。




私は「自由」と「平等」の価値観が
何よりも大好きです。
それが
それと相反する価値観を嫌って
見ないことをする理由には
なりません。 
中華思想には、一定のコミュニティ内で
その考え方が国に秩序をもたらしたのは
確かです。
私は「自由」と「平等」によって
国家に安全な秩序をもたらすことが好きで
しかし、同時に
「自由」や「平等」の暴走で
秩序が崩れることも知っているので

中華思想を考えることは好きです。

中華思想により、
侵略戦争は確実に少なくなったのでは?
と思うこともあります。

(侵略戦争がまったくなかった、とは
言ってません。)


何を話しても、誤解する人は誤解するので
あまり長々と話すつもりはないのですが、
「今の世界以外の価値観も知ること」
「自分の価値観が絶対的正義ではないこと」の大切さを伝えたかっただけです。


歴史を学ぶとは、
「真似る」ためではなく
「自分の脳内で、あらゆる情報を処理するための、とても有益な情報の1つで、それにより、自分が「独立した個」として、どう生きるか?を自ら作り出すため」だと思います。

そのとき、中華思想や身分制社会による
秩序は、民主主義的な秩序とは違うけれど
その秩序を知ることで、秩序のもららす恩恵も考えることができるのです。







2 中華思想とは、何か?

では、具体的な中華思想について
見ていきます。(画像参照)



この中華思想は、日本にも入ってきて
それを、日本の朝廷を基軸に置き換えて
物事を考えていた時期もありました。

歴史用語で習う
「征夷大将軍」の「夷」は「東夷」を
表していて、朝廷(京都)から見て、
朝廷に従わない民族を「夷」として
朝廷の敵を征討するために朝廷から
派遣された役職が「征夷大将軍」です。
それを源頼朝が「征夷大将軍」に
任命されてからは、しだいに
「征夷大将軍」=「武士をまとめる役職(武士の棟梁)」=「幕府の施政者(政治のトップ)」と
いう形で形骸化しています。


また、南蛮貿易の南蛮も
「日本の南の方の地から来た異民族」
なので「南蛮人」と称されてますが、
当時、そこに来たのは
スペイン人やポルトガル人なので
地理的には、南というより西に
近いのでは?と思いますが、
当時の日本人にとっては、
東南アジア経由で日本に来ている外国人
なので「南蛮」と
なるのでしょう。
(最初に日本に来た西洋人が種子島に
上陸しているので、その位置から、も。)

(南蛮そのものは元は蔑称でしたが、
現在はスペイン人やポルトガル人を
差別したり侮蔑しているわけでは
ないです。)


今回は以上です。
まだ画像があるので、また後日アップいたしますね。

れくす先生の歴史授業16古代中国で生まれた思想と制度2朝貢貿易

2025年05月09日 07時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

本日は昨日の続きで、
れくす先生の歴史授業シリーズで、
古代中国の価値観、文化についての
続きです。

今回は朝貢貿易についてです。 


【古代中国で生まれた文化、制度】


1 はじめに

中国を中心とした東アジア文化圏を
知ることによって、歴史の流れが
クリアになることがあります。


古代中国で生まれた価値観で
日本史にも関係してくるものを
4つのカテゴリーに分けました。

それが、儒教の考え等を応用してできた

1:朝貢制度(朝貢貿易)
2 :中華思想(華夷思想)
3:陰陽五行思想(陰陽五行説)
4:易姓革命

です。




今回は朝貢制度(朝貢貿易)について
見ていきます。


2 朝貢制度(朝貢貿易)











朝貢貿易については、
「貿易」という名称がついているので
「使節」と結びつかないことも
あります。

「使節を派遣」=「貿易」、
というわけではありませんが、
「使節」の一側面は、
この朝貢貿易の考えの延長線上に
あるところもあります。
 

また、日本の場合は、
「朝貢貿易」を必ずしも
しているわけでは
ありません。

朝貢貿易は、多くの場合は
国のトップ同士の公的な貿易になります。
民間の人々の個人的な貿易は
朝貢貿易にはなりません。

なので、誰が貿易したか?を
教科書を読むときに、チェックをすると
良いでしょう。(ただし、勘合貿易に関しては、特殊ケースにあたるので注意。)

奴国は
金印を授けられているのだから、
こちらは朝貢貿易に当たります。


また、朝貢貿易は古代だけでなく、
明の時代、清の時代もあります。

そうなると、
足利義満の動き、や、
大航海時代のヨーロッパの行動範囲、
江戸時代の薩摩の動き、
アヘン戦争はなぜおこったのか?

なども、その根底に朝貢貿易の考えが
あることがわかります。


今後、れくす先生の歴史で、
朝貢貿易に関連する内容のときは
それについて述べていく予定ですので
今回の記事を参考にしていただけると
幸いです。


今回は以上です。
古代中国で生まれた制度や価値観についての
画像はまだまだあるので、次回、続きをアップします。






れくす先生の歴史授業13 古代中国で生まれた思想1

2025年05月08日 07時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

またしても更新頻度が減ってしまい、申し訳ありませんでした。

「れくす先生の歴史授業」を再開します。(こちらのgooブログさんが秋に閉鎖されるので、今回の古代中国の記事までこちらで書いたらら、以降は、Amebaブログさんの方で更新を続けます。Amebaブログさんの方は、今まで使っていた育児&ASD&マンガブログと統合して、更新していく予定なので、現在、編集作業中です。)



【古代中国で生まれた価値観】

1 はじめに

今回に関しては、
実際にはテストに出ない用語、内容です。

しかし、古代中国が作り出した
易姓革命陰陽五行説儒教
などの価値観は、中国だけでなく、
日本を含んだ、東アジア諸国も
同じような価値観になっていきます。


古代の日本(とくに飛鳥時代以降)は
積極的に中国の文化や制度を取り入れて
いきます。

小学生、中学生は日本史メインの授業に
なるので、視点が日本にいきがちですが
日本のあのときの行動は古代中国で
できた価値観由来だった、とわかると
もう少し、理解しやすくなる、と
思って、画像にまとめました。

ただ、画像が思った以上に多くなったので
何回かの記事にわけて、アップします。

2 導入

今回は導入部分です。
(詳しくは画像部分を御覧ください。)





3 歴史書の意義

次は中国の歴史書の話です。










中国の歴史書は、高校の古典で習うと
思います。そうすると、具体的に
よりわかりやすくなるかもしれません。
(高校に行かなくても、書店で
原文と現代語訳つきのものもあるので
そちらで読んだ方が、好きなものを
見つけられる可能性も高くなります。)


今回は以上です。

また続きは後日アップします。




れくす先生の歴史授業12  漢王朝の政治

2025年03月28日 16時12分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回も、れくす先生の歴史授業シリーズの
続きです。

前回は、秦の始皇帝の中国統一
行いました。

今回は、その続きで漢王朝についてです。


1 はじめに

漢についての細かい歴史は
高校レベルの歴史の内容で行います。
中学では、全体にサラッと見ていきます。

中学までは、日本の歴史に大きく関係する
世界史分野のみを習うためです。

「れくす先生の歴史授業」シリーズは
高校入試対策、もしくは、
中学校に通わずに自宅学習を選んだご家庭で
中学レベルで知っておくと、後々に勉強が楽になるもの、というコンセプトで説明しています。
中学の定期テストでは出ない内容や
それは直接入試には出されない用語を
出しているのは、そのためです

あくまで「学校」の教育方針が合わなくて
苦しんでいる方々の精神的救いになれば、
と思って作成しています。


高校レベルのものを
そのままブログで
書くなら、
高校用のテキストや大学入試対策の
市販の参考書を読めば良いわけです。

そのスキマの時代、
中学のボンヤリした形で教えられる
偽善的なアプローチの歴史は合わないけれど、まだ高校レベルの難しい(細かすぎる内容)までは、まだ無理!という、はざまの世界の中学生や小学生に届いたらいいな、
と思ってます。

話を元に戻します。

中学では、漢の歴代の皇帝は習いません。
こまかい
「新」という王朝も習いません。
「前漢」→「新」→「後漢」という 
動きもなく、前漢も後漢もまとめて「漢」!
「新」の存在は語られません。

日本が中国と大きく関係するのは
「後漢」からです。
しかし、「漢」について習うのは
「前漢」の場合のものも多いので
ごっちゃになってるなぁ、とは
思います。

今回のこの記事も、そこらへんは
詳しく分けてはありません。



中学レベルでは、
漢はどういう政治をしたのか?
のみに主軸をおいて、お話したいと
思っているからです。

なので、日本が交流を始めたのは
後漢だけれど、その後漢の元となる
前漢がどのように世界をつくって
いったのか?を見てほしいと思います。

漢の政治思想や文化、世界の考え方は
のちの日本の歴史にも大きく影響を与えますので、そのあたりのものは、
次回の記事(陰陽五行説、易姓革命、歴史書などの記事)にて書かせていただきます。

前置きがいつも以上に長くなって
しまいましたが、今から始めます。




2 秦の滅亡


紀元前221年に中国を統一した秦でしたが
急激すぎる統一政策などのため反感も多く、秦の始皇帝の死後、わずか15年で
滅亡しました。

そして、また、争乱の時代になりました。

この時期の争いは、
高校教科書の古典(漢文)の分野で習う
「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」
の争いの時期です。

項羽と劉邦という人物は、
文学や歴史が好きな人なら
聞いたことある、というか、
常識で知っている人物名でしょ!
と思う人がいるレベルの人物なのですが
中学の歴史では習いません。

国語で習う故事成語では
出てくることはあります。


「四面楚歌」は聞いたことが
あると思います。
この故事成語は、項羽と劉邦の争いの
話から生まれた言葉です。

項羽と劉邦の争いで、
最終的に勝ったのは、劉邦でした。

そして、その劉邦が開いた王朝が
漢です。

(中学では、中学の王朝を開いた人物名は
秦の始皇帝以外では、ほとんど出ません。)




2 漢による統治の開始

漢は、紀元前202年に
中国の統治を開始しました。


漢は、
秦の制度の多くを受け継ぎ、
秦の失敗を教訓として
政治をしました。

秦と漢で決定的に違うのは
どの政治思想をベースに統治したか?
というものと
何代かけて国の形を作ったか?の 
国づくりのペースです。


秦は、法家の思想をベースに1代だけで
一気に国の形を作ろうとしました。

法家の思想は、
今の法治国家の思想に通じるものもあり
さらに現実的なので、
その結果、意味のある統治の制度を
秦の始皇帝がつくることができたのは
確かです。
しかし、問題だったのは、
「急すぎた」ということ。

どれだけ「正しい」だとしても
「急に」の変化は反発を招きます。

人間って、
「正しいから動く」という人
ばかりではないので。


漢の場合、
秦の始皇帝が統治の形の基礎を
作ってくれたので、その形をベースに、
時間をかけて、何代もかけて、
国をまとめていきました。
さらに、漢の政治思想は、儒家のもの。
儒家の思想とは、いわゆる
儒教、儒学のことですね。

(中学では、儒教という名称で
使うことが多いので、
以後、儒教と書きます。)

儒教は、「孝」という家族道徳を政治の世界にもあてはめ、「徳」による政治で、愛情をもって社会秩序を実現しようとするもの。
リーダーは、真面目で慈悲深い人が理想です。一言で言うと「徳のある人」が理想。



これだけ話すと、
漢というのは
「マンガやアニメの世界の、
民のことを常に考え、
愛情ゆたかな皇帝。
そして、その皇帝のことを慕う国民が
幸せに暮らしている国。」
みたいなイメージを持つでしょう。

それが、間違いというわけではないですが
現実というのは、そこまで甘くない。

ただ、漢が、
「人間というのは、感情がある生き物だ」と
思っているのは間違いなくて、
それをベースに統治をしたからこそ、
長く続いたことは間違いないかな?と
個人的には思います。


また、「徳のある人が皇帝になる」と
いう考え方を正しいとしたほうが
漢にとっては都合が良いのは確かなんです。

それまでの皇帝の血筋を
もっていない人が
次の皇帝の地位につく、というのに
「徳をもっている人が皇帝になるのが
ふさわしい」としたら
「漢王朝の存在は正しい」と
できますので。(漢を開いた劉邦は
秦の始皇帝の血筋ではありません。)


このあたりは、儒教だけでなく
陰陽五行説の考え方も出てくるので
次の記事でお話しますね。


漢は統治を開始し、何代もかけて、
領土を広げ、大帝国を築きます。





《国内(領土拡大)》

秦の始皇帝の時代でも中国を圧迫していた
騎馬民族を、漢は撃退しました。(前漢7代目皇帝の武帝のときに、匈奴を撃退。)

それにより、西方(タリム盆地あたり)まで
漢の支配を広げました。

また、匈奴との戦いの過程や
西方まで領土が広がったことから、
西側(オリエントやヨーロッパ側)に
中国の存在が知れ渡り、
漢に使者をおくる国もあり、
それに伴って、交易路も徐々に
でてきました。

それがシルクロード(絹の道)です。

また、漢は行政区画も整備し、
領地を支配しました。

その中で「郡」とい行政区画のタイプで
まとめられたものの1つに、
楽浪郡(らくろう ぐん)」という
場所(区画地域)があります。

楽浪郡は
北東部から朝鮮半島にかけての
地域におかれたものす。
この地を征服した漢王朝が
楽浪郡をおいて、支配しました。





《国外(外交、貿易)》

次に
外国との関係(貿易、交易)は
どうだったのか?
を見ていきます。

歴代の中国王朝の貿易を見る際に
気をつけなければならないことが
あります。



東アジアを除く他の国(西方)の貿易の
歴史を見ていくときは、今の世界観で見ても
大きな理解のズレはありません。
(完全に一致するわけではないですが
中学レベルなら大丈夫、という意味)

物品の売り買い、国同士の公的な貿易か
商人同士の民間貿易か?
だけに焦点をおいて見ることでオッケーです。


しかし、歴代の中国王朝では、
その視点だけでなく、
東アジア内の国々との貿易は
朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)」という
独特な貿易をしています。

東アジア圏内でなく、
西方の、たとえば、
ペルシアやローマ帝国等との交流は
朝貢貿易ではないので、
中学レベルなら
「シルクロードを通して、
貿易していたんだ。」
と思えば良いです。

しかし、東アジア圏内の諸国との貿易は
国の施政者同士、つまり、
中国の皇帝と、各国の王、同士の
公的な貿易であり、
かつ、中国を絶対的に上とした貿易に
なります。
それを朝貢貿易と言います。

朝貢貿易の「朝貢」について
説明します。
周辺諸国が、「中国の徳」を敬い、慕い、
中国の臣下になり、
その証に中国に使者を送り、
貢物(みつぎもの を差し出します。
貢物を贈られた中国側は、
贈られた貢物の数倍以上の価値のある物を
与える。
これが、朝貢の考え方です。


中国側からしたら、
戦争などをしないまま、
周辺の国々を自国の配下におけます。

周辺諸国からしたら、
自国の中で何かあったら
中国が守ってくれるうえに
中国の最新の文化や物品が
手に入ります。

双方に
メリットありありなんです。

もちろん、中国が
「技術や文化が最先端であること」、
「中国が、あらゆる地域の文化や物品が
とりそろっていること」
「中国が強い国であること」
という前提があるからこそ、
この朝貢貿易は成り立ちます。

そして、当時の中国は、まさに
その通りでした。

日本も、中国の強さや文化、技術に惹かれ、
使いを出しています。

「奴国が漢に使いを出して、金印を授かった」というのも、いわゆる朝貢貿易の一種です。
奴国の国王は、中国の最新の文化を手に入れるだけでなく、中国皇帝の権威を後ろ盾に
日本の中の国々の中で優位にたとうと
したのです。

金印は、正式に中国皇帝の臣下と認めた諸国の王に与えられたものです。

このあたりは、のちに書く別記事(易姓革命や朝貢貿易の話)で詳しく書きます。




中学レベルで習う内容としては。
漢と西方の貿易では、

中国からローマ帝国には
中国の絹が運ばれました。

中国側には
西方からは
馬や葡萄(ぶどう)、
インドからおこった仏教
が伝えられました。


つまり、漢より以前には仏教は
中国には信者がいなかった、
とも言えます。

今でこそ、
「仏教」=「中国の宗教というイメージ」
をもつ人もいますが、
これは、中国や朝鮮半島の国々を通して
仏教が伝わったから、
また後の中国で仏教がさかんになったから
でしょう。

何が言いたいか?というと
漢以前の中国の歴史を
「仏教」の価値観や視点で見ると
わけがわからなくなります。

中国の元々の宗教は「道教」です。

道教は伝説の人物(三皇五帝)や
王朝(夏王朝)などの神話も含んだもので
道教が、諸子百家の儒教や、のちの陰陽五行説に大きく関係してきます。


《貿易まとめ》
中学レベルの話に戻します。

この分野で中学のテストで最も出るのは
先ほどもチラッと出た
シルクロード(絹の道)」という
名称です。

地中海地域、西アジア、と中国を
結ぶ陸路の交易路をシルクロード
言います。
シルクロードという名称は
「絹」が交易品であったからです。

中国の「絹」というのは
当時、格別な品物です。
あんなに光沢のある美しい糸、織物は
他にはないもので。
美しい絹を作り出す技術は
当時は中国のみの独占技術です。


それだけ、中国の技術はすごかった、
ということです。








先ほども話したので重複になりますが
漢の政治は
儒教が重んじられました。

漢では、儒教が重んじられ、
それに基づいた政治をした形式が
この後の中国の世界の基礎となって
いくため、「儒教」の価値観を知って
中国の歴史を見ていく必要がある、
ということです。


儒教については
「古典」の漢文で習うことで
ある程度はわかります。
中学の教科書の故事成語でも
儒教の本(「論語」など)のお話が
載っているときはありますし
高校だと古典でダイレクトに習います。
(学校に行けばわかる、という意味でなく
教科書で自分で読むことでわかる、と
いう意味。)

中国や、東アジア諸国の歴史を習う時
行間がよくわからないときは
国語の内容を知ることでわかるときも
あります。

中学のときにわからなかった歴史が 
高校生になったときにわかったり
大人になってから本を読んでわかったり
することもあるので
中学のときに歴史をならって
「わからない」と思ったことがあっても
それは「理解できる力」があるゆえに
その「理解に必要な情報」が欠けていると
理解できないときがあります。

人によって「わかる」という言葉の
意味合いは違います。
「問題がとける」=「わかる」
「テストで高得点をとれる」=「わかる」
という人もいれば
「自分の中で言語化できる」=「わかる」
「違和感が感じられず、その内容を
受け入れることができる」=「わかる」
と思う人もいます。


もし、「違和感を感じるが、その違和感の正体がわからなくて困っている」=「わからない」と思っている内容のとき、

他の人から
「この内容は簡単だから大丈夫だよ!」
「何度も問題解けばわかるようになるよ!」という善意の言葉、
「こんなん、わからないやつは馬鹿じゃん!」と悪意ある言葉を
言われたとき、
「自分だけがわかってない」と
パニクらなくて良いです。


高校、大学、社会人になって
わかることはあります。


ただ、入試という点では、
覚えてないと合格できませんので
「わからないまま、今は飲み込む」と
いう応急処置はしても良いと思います。


勉強というのは、高校や大学に行くため
だけのツールではなく、
「自分で自分を定義づけられるための、
そして
自分の人生は自分で決めるための
最高の相棒」
のためにするものなので。

話をもとに戻します。

漢は、その後の中国や東アジア諸国の世界の
基礎をつくった王朝ですが、
儒教ベースの政治以外でも、
漢以降のスタンダードになったものがあります。

それが、歴史書作成です。

歴史書をつくる、というのは
「自分の国」を知っていること、
そして、現時点で自分たちがその国における
正統なる統治者である、という証明をできる
最適なツールです。

(詳しくは次回の記事以降で書きます。)

漢でつくられた歴史書の形式が
その後も続けられ、
のちの日本でも、中国を習って
歴史書(「日本書紀」など)を
作っています。



また、他にも漢は「紙」を発明しました。

「紙」があるからこそ
詳しい歴史を何ページも書くことができ
さらに伝達もしやすいですので
紙は政治や文化に欠かせないものです。



今回は以上です。
ご覧いただき、ありがとうございました。

次回は、時系列的には
この記事でも書いている
「易姓革命や朝貢貿易」の話です。
入試や定期テストには直接出ませんが
それを知るとわかりやすい、
というシリーズです。
(スピンオフ的存在)

ただ、スピンオフ的存在なので、
その記事の完成より先に

古代ギリシアの歴史の方を
先にアップする可能性は
あります。

とにかく、原稿を完成しないと!な
状態です。

ではでは、これからも
よろしくお願いいたします。




れくす先生の歴史授業11 秦の始皇帝の政策

2025年03月25日 21時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

しばらく間があいてしまいましたが
「れくす先生の歴史授業」を
再開します。


前回は、
古代中国の春秋時代&戦国時代
行いました

今回は
秦の中国統一と、始皇帝の政策
についてです。




1 秦の中国統一


春秋時代&戦国時代は、
いわゆる戦乱の時代でした。


どの時代でも戦争はおきますが、
「戦乱」というワードが使われる時代と
いうものは、
「コロコロと、力の強い人(国)が
かわり、政局が安定しない」
「強い国の配下にくだる国や、
戦争で負けて滅ぼされる国、も多くある」
など、政治形態やトップが
安定しない状態を言うことが多いです。


「戦乱」状態であった
春秋時代、戦国時代は
紀元前8世紀から紀元前3世紀まで
続きます。約500年間です。
とてつもなく長いです。

この「戦乱」状態を終わらせたのが
(しん)です。

秦は、戦国時代に存在していた国の一つで
戦国時代に次々と戦争に勝ち、他の国々を次々と征服していきます。

そして、最終的に、
当時の「中国」という地域範囲での
すべての国が秦国の王に
従う形になりました。

このことを別の言い方で言えば
秦による中国統一」です。

この秦による統一の時代を
本日、見ていきます。



による中国統一は、
紀元前221年と
なります。

年号(正しくは西暦)を
覚えることに固執して
教科書をまとめない、
問題を解かないぐらいなら
覚える必要はありませんが

教科書まとめ、問題演習も行うつもりなら
年号(西暦年)覚えておいたほうが
理解や想像の幅は
広がります。

なぜなら、
この「統一王朝の秦の成立」の前と後では
中国の政治や文化の世界観が異なりますので。
紀元前221年は歴史の
大きな転換期となります。


秦、そして、次に習う漢、
この2つの王朝は、
19世紀まで続く、東アジアにおける
中国中心の世界観(中華思想)と
それに伴う、政治、貿易(外交)体制の
世界観の基礎が作られた王朝です。
日本の歴史にも大きく関係してきます。





2 始皇帝という名称

これから習っていく中国の王朝のトップ(政治の頂点にたつもの)は、
皇帝」という
名称(称号)を使います。

この「皇帝」の称号を
初めて使った(使い始めた)のが
秦です。

中国を統一した
秦王であった政(せい)という人物が
統治者の称号を、
それまで使われていた「王」に代わって
「皇帝」としました。

「皇帝」という名称は
「王」を超える存在という位置づけの
ものです。

秦の統一前の、戦国時代は
各地の国々のトップが「王」を名乗り
「王」同士の覇権争いの時代であったので

いくら秦が他の国を征服したからといって「王」を称しても、争いは再開するかもしれません(戦国時代の再開)。

そこで、
「王」をまとめる(超える)存在として、
新しい名称「皇帝」を使うのです。

では、「皇帝」という言葉は
どうやって成立したか?というと、
中国の神話(伝説)の存在から
作った造語(略語)です。

中国の神話(伝説)で、
中国の統治者に、「三皇五帝」と
まとめられる8人の人物(政治のトップ)が
いました(伝説上の人物なので実在していたか?は不明。)。

この三皇の「皇」、五帝の「帝」、から
「皇帝」という名称が生まれました。

この「三皇五帝」の時代の統治者は
世襲制(親から子に、などの血族者に位が譲られる制度)でなく、
徳のある人物に位を譲っていた、と
されています。
その三人の「皇」、五人の「帝」のあとは
世襲制になりました。
伝説上の王朝である「夏(か)」が
世襲制を始めました。
(歴史上では、「殷」から習いますが、伝説上では「夏」→「殷」の順番です。
歴史では、実際に遺跡等が、出土されないと、存在したとは言えないので。
夏王朝の遺跡は存在してないので
実際にあった王朝なのか、想像上の王朝なのかは、現時点では、不明です。)

三皇五帝のことについては、後日、
別記事(徳とは何か?陰陽五行説、「禅譲」と「放伐」、「易姓革命」等)で
お話します。



秦による統一を果たした秦王(政)は、
初めて皇帝を名乗った人(それ以後、中国の統治者が名乗る皇帝の名称を使い始めた人)のためら「始皇帝」と呼ばれます。

テストでは「始皇帝」が
固有名詞、人物名のように
使われます。

テストでは「始皇帝」と書けば
基本的には大丈夫
です。



3 秦の始皇帝の統治

秦の始皇帝の統治の仕方は
中央集権的です。

中央集権とは
一つの組織(中央の組織)、
今回でいうと「皇帝」に権力が
集中する、ということです。

戦国時代は、それぞれの王が、力を持って
それぞれ独自に政治をしていた状態だったのを、きちんと終わらせるには、中央集権という形にしないと、また戦乱がおこってしまいます。


中央集権を悪いように言う
人もいましたが
中央集権そのものが
完全に悪いわけではなく 
一つの統治方法の一つで
そのときに必要だった統治方法を
したにすぎません。

歴史を学ぶうえで
「良い」「悪い」という価値観で
見ないことは大切です。
あくまで「良い」「悪い」は
現代の価値観、個人的価値観
からにすぎないので。
他を知ることが歴史を学ぶうえで
必要です。
「良し悪し」の価値観で
歴史を見るということは、
自分の世界からしか歴史を
見ることができず、
永遠に、歴史人物の行動原理を
理解できません。

理解とは、同調ではありませんので。
ただ「事実のみを受け入れること」です。

話を元に戻しますね。

秦の始皇帝は
政治的な制度の統一だけでなく 
あるゆる単位(度量衡)の基準も
統一しました。

度量衡(どりょうこう)とは、
度は長さ、量は体積(容積)、衡(こう)は重さの単位のことをまとめた言い方です。

今では、長さや体積はセンチメートル(cm)の単位、重さはグラム(g)というヨーロッパの単位基準を使ってますが、
単位基準は、時代や場所によって違いました。

中国では、戦国時代に国ごとに、単位がありましたが、その基準を中国内(秦の始皇帝の領土内)では統一しました。

また、他にも、文字や貨幣も統一しました。


それにより、中国全土で、
同じ文字、同じ基準で動けるのは
とても効率がよくなります。


今は、それ(単位や文字の統一)が
あたりまえになっているので、
「統一する」というのが
どのように人々の生活に影響を与えるか?
の想像がしづらくなってますが

この度量衡等の単位統一は
かなり生活がかわります。

基準が場所によってマチマチだと
不平等や不便さ
が生じやすくなりますから。


また、当時は、北方の異民族(中国にとっての異民族)が、定期的に、移動をして、
中国の領地に入ってくることがありました。
戦国時代にも、北方の異民族の侵入のおそれがあるため、侵入防止のための砦(城塞)いわゆる横長の城(長城)を、
各地(各国)がつくっていました。

その点在していた砦(城塞、長城)を
秦の始皇帝は連結しました。

そのことを教科書では
万里の長城を整備した
と書かれています。

「万里」の「里(り)」は
長さの単位ですね。
「万里」というのは、
正確な数値でなく、
「めちゃくちゃ長い」みたいな
意味合いで考えて大丈夫です。

時々、秦の始皇帝が万里の長城を「造った(作った)」と思う人や、
現在存在している形の「万里の長城」を
秦の始皇帝が造った、と思っている人がいますが、秦の始皇帝より前の時代から作られていた長城を整備しただけであること、今の万里の長城は、のちの明の時代に改修された姿のものです。


万里の長城が整備された理由を
記述問題で出されることがあります。

しかし、問題集によって、答えは様々。
「北方の異民族の侵入を防ぐため」
「北方の遊牧民族の侵入を防ぐため」
「匈奴の侵入を防ぐため」
など、北方の異民族と書くか、北方の遊牧民族と書くか、ダイレクトにそのときの「北方異民族(遊牧民族)」の名称の「匈奴(きょうど)」と書くか、の違いがあります。
匈奴という名称は、高校レベルの歴史で
習いますので、中学では、そのような書き方をされません。


おそらく、20年前だと、「北方の異民族が〜」と教えられた人が多いのでは?と思います。

ただ、「異民族」という呼称は
「中国側」という片方側からの視点ですので、今は、「遊牧民族」という書き方のほうが良いとは思います。 
「遊牧民族」という名称は「遊牧」を生活基盤している「民族」という意味合いです。


遊牧民族は、世界中の色々な地域で
生活しています。
高校レベルの世界史を習うと
「遊牧民族」の動きが歴史を大きく
変えることも多々あります。

また、遊牧民族とひとくくりに
考えるのでなく、様々な遊牧民族が
歴史で登場します。


戦国時代、秦の始皇帝の時代には
中国側から見て北方で生活していた
遊牧民族の動きがさかんで、
そのために、中国は万里の長城が必要に
なりました。


北方以外にも、
遊牧民族の人々は生活していますので、
記述問題では「北方の」まで書く必要があります。本当は「中国から見て北方の」と書いたほうが良いのでは?と思いますが
質問内容が中国側からの話になっているので、「北方の」からで良いと思います。


また、秦の始皇帝の権力の大きさを物語っている遺跡があります。

それが、兵馬俑坑(へいばようこう)。
兵馬俑坑は、始皇帝の墓の近くから発見された、人や馬の形をかたどった、実寸大の焼き物がたくさん並べられているところです。

(兵は兵隊、
馬は馬(馬車の馬、戦車の馬など)、
俑は殉死者の代わりに埋葬した人形(ヒトガタ)の像、
坑は穴(生き埋め用の穴や鉱物を取り出すために掘られた穴)のことです。)

精巧でリアルな、大量の像をつくることが
できること、それをやりとげたことは、かなりの権力がないと難しいです。






ただ、このような制度改革を急いで一気に
やりとげた、ということは、
かなりの反発も招きます。

制度改革だけでなく、
反乱をおこす地域、人々とも
戦うので、疲弊もおきます。


反発、反乱を抑えるために
かなりの威圧、厳しい政策も
しています。

そのため、秦の始皇帝が
生きている間は、秦は続きましたが
彼が亡くなったあと、ほどなくして、
また争乱の時代になり
秦は、滅びます。

そして、争乱ののち、
漢による統治が始まります。




今回は以上です。


よく、「秦」については
悪く言われることは
あります。
確かに「被害者」であった人々は 
多くいるため、「悪く思う」ことは
個人の自由です。(悪く思うから、
攻撃するは駄目です。)

ただ、「歴史を習う、歴史を教える」と
いう立場のときは、どの歴史人物、どの王朝でも、その時代に真剣に生きた、彼らの信念や考えがあった、と「個としての尊重」をして説明したいと私は思います。


敗者や短期間で滅んだ王朝を
「愚弄して終わる授業」や
「勧善懲悪(片方を善人、片方を悪人、悪人は必ず滅びる)という視点での授業」を
しないよう、心がけてはいます。

歴史の学びとは
「流れを知り、未来を予測する」
「予測した未来に向けて、自分は
どう生きるか?を模索する力をつける」
ものだと思うので。



秦の始皇帝がどうしてこのような政策を
行う必要があったのか?の背景や、 
秦が短期間で滅んだ理由を知る、
歴史分析することが
大切なのかな?と。



ご覧いただき、ありがとうございます。

次回は「漢王朝」について、です。

完成しだい、アップいたしますね。



れくす先生の歴史授業10 古代中国の春秋時代と戦国時代

2025年02月13日 21時32分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回は、「れくす先生の歴史授業」の
続きです。

今回は、古代中国の
春秋時代戦国時代です。


1 春秋時代と戦国時代について


この時代、
よく「周王朝がなくなって、
そのあとに、春秋&戦国時代が始まった」
と思われがちなのですが、
実は違います。

春秋時代には、周王朝そのものは
存在しているのですが、
ほぼ実権がないというか、
地方のトップ(諸侯)同士が
争って、その権力争いで
勝った諸侯が
周王朝を動かした、
というイメージです。



下の画像が春秋時代のイメージです。



春秋時代は、王そのものは一人(周王)です。実権は持っていても、地方のトップは「諸侯」のままです。


しかし、戦国時代になると
「王」を自称する人々が増えました。
(戦国時代になったから、「王」を自称したわけでなく、「王」を自称する人が増えた時期あたりを、後世の人々が、そこで、区切って名称をつけた、という形ですが。)

周王朝の周王も
他の諸侯をまとめる唯一王ではなく
数いる王の中の一人の王となります。

イメージとしては、
春秋時代よりも、各国が
それぞれ独自の政治形態、思想、文化を
持ち、国同士で手を組んだり、
実質的な配下に下ったり、
そういう、
各国同士が独立したような状態に
なりました。

下の図がイメージ画像です。








この春秋・戦国時代
分裂と抗争(戦争)の時代で
500年以上、続いています。

500年以上です。

とてつもなく長いですね。

この分裂と抗争の間に
各国は自国が負けないように(滅びないように、勝てるように)、色々と行動した結果
あらゆるものが生まれました。

その中でも、現在、国語の古典でも習う
諸子百家の思想が生まれたことが
後の中国、そして、日本を含む
東アジアの国々の歴史を大きく
影響していきます。







諸子百家という漢字を「諸氏百家」と
書き間違える方もいます。
「氏」でなく「子」です。
「子」とは「先生」の意味です。

春秋時代、戦国時代には
諸侯や王が自国を守るため、強くするため
自国の統治方法や戦法、
つまり、リーダーシップのとり方を
模索します。

そのリーダーシップのとり方を
話した、まとめたのが、諸子(先生)たち
なのです。


今の平和な時代で考えるリーダーシップは
「絵空事」「偽善的」「理想論だけ」な
「実のないリーダージップ論」
だったりすることもありますが、

春秋時代、戦国時代は
「結果の出せるリーダーシップ」が
必要になります。

「キレイゴト」ではすまされない、
現代での「キレイゴト(皆仲良く、皆で話し合うことのみでしか力がつかない、という、一部の人に都合が良いだけの空虚なもの)」の価値観からすると
「ん?!」と思う人もいるかもしれませんが

諸子百家の人々の著作(本人が記したものだけでなく、話したことをまとめたもの)を
読むと、「人間というのを、きれいなところも汚いことも知ったうえで、どうリーダーシップをとるか?」がベースになってます。

つまり、「現実的なリーダーシップ」
なのです。


とてつもなく長い戦乱の時代だったのだから
「実力」がすべて。
「実力」とは「何も努力しないで、知識を持たなくても、なんとなくできてしまう」という意味のものでなく
「あらゆる努力、知識をもってして、結果を出せること」を「実力」と言うと私は思います。


このように、春秋時代、戦国時代には
諸子百家の考え方が
多く生まれました。


その中で、
韓非子法家
孔子儒家儒教)のみ、
中学では習います。

ただし、社会(歴史)では孔子の儒家(儒教)のみ用語が出てくることが多いです。

韓非子は国語(古典)で習った
「矛盾(むじゅん)」の話の作者です。

韓非子(法家)の考え方を元に
政治をしたのが、のちに中国を統一した
秦の始皇帝です。

儒家の考え方をベースに政治をしたのが
漢王朝になります。
そして、漢王朝をベースにして
その後の多くの
中国の王朝は進んでいくので
儒家の考え方(儒教)は
中国、そして、中国と貿易した東アジアの
歴史人物の行動原理にもなってきます。



今回は以上です。

次回は、

秦王朝と漢王朝の成立、

そのあとで、
諸子百家の儒家と法家、そして、
中国の王朝交代のときに考えられる
陰陽五行説の放伐、禅譲(ぜんじょう)の
考え方、そして、朝貢貿易の考え方を
説明したいと思います。


ご覧いただき、ありがとうございました。





れくす先生の歴史授業9  周王朝の成立

2025年02月05日 15時41分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

れくす先生の歴史授業、の続きです。


前回から中国の歴史(中学生で習う範囲)
始めました。

前回は殷王朝の時代をお話しました。

今回は、周(しゅう)王朝です。


1 はじめに

周については、中学では、
ほとんど習いません。

しかし、周王朝、
さらに、春秋&戦国時代を
理解することが

中国史、さらに、日本史の
全体がより鮮明に理解しやすくなります。



それはどうしてか?というか、
殷王朝までは宗教と、かなり大きく
結びついた王朝でしたが

周王朝からは、「人間」同士の
結びつきで歴史が動いていきます。
 

そして、王朝の政治形態、そして、
春秋時代戦国時代で生まれた
政治形態や、
政治思想&哲学(諸子百家の考え方)、
などが
秦の時代以降の歴史の基礎を作っていきます。

さらに、のちの日本でも
春秋時代、戦国時代に生まれた
諸子百家の考え方が大きく影響して
歴史が作られていきます。


諸子百家の考え方の中で
「儒学(儒教)」は、日本で多大な
影響を与えています。

儒学をベースにした漢王朝から
日本は中国の王朝に大きく影響して
いきます。
中国の王朝は、漢王朝から儒学ベースの
王朝と見ることもできるため、
日本はその後の中国王朝を手本に
国の政治をつくっていくので
かなり「儒学(儒教)」は重要です。
かなりあとの歴史、たとえば、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、
徳川綱吉の政治、なども
儒教について知っていると
歴史の流れが理解しやすくなります。


さて、話を周王朝に戻します。





2 殷王朝滅亡と周王朝の成立

まずは、殷王朝のおさらい。
(↓画像を参考してください。)


殷でも周でも、同じことが言えますが

殷という、1つのまとまりで
すべての地域が殷の王様が直接支配している、というわけでなく、
各地域にその地域の首長(トップ)がいて
その各首長が各地域をまとめます。

ただ、あらゆる地域の首長が、
殷の首長(トップ)を首長のトップとして
まとまることにした形です。

つまり、殷の王が、トップの
トップとしての
役割を果たさなくなったとき、
他の地域のトップが、
殷グループから
離脱しよう、
でも、それを殷はゆるさない、
そして、最終的には
殷を倒さなければ、
解決しない、という形になり、
戦争がおこり、
最終的に殷は滅亡し、
別の地域のトップだった周が
他の地域のトップのトップに
なって、まとめていきました。

いわゆる「地方分権」という
やりかたです。

下の図に書いてみました。
(イラストのイメージはあくまで
地方分権の説明イメージで、
周王朝そのものの王を
表しているわけではありません。)



そして、地方分権で、
各地域の土地は、
その土地のトップの土地として
保証されます。

このように、
その地域のトップが
その地域の「土地」を領有したまま
地域をまとめ、
各地域のトップ(諸侯)が、
従うのは王
という形のことを
封建制度と言います。

諸侯(しょこう)というのは、
地方のトップで、
土地を領有してその地域の政治を
している役目(身分)の名称、

というのは、
各地域のトップ(諸侯)を
まとめている役目(身分)
と思ってください。


周王朝成立時、
諸侯は、地方ごと(国ごと)にいるため
多く存在しますが、王は一人です。
その王に就くのが、周の国の人だった、
ということです。


このような形は、
細かな違いはありますが
日本の封建時代
(鎌倉時代から江戸時代)
でも同じです。

封建制度を完全理解するのは
難しいのですが
ここを自分の中で
ある程度、理解しておくと
あらゆる歴史の流れが
わかりやすくなります。


画像にもまとめました。↓↓





このように、紀元前11世紀ごろに
地方分権でまとまった周王朝
でしたが、紀元前8世紀ごろから
王の力が衰えてきます。

そのため、諸侯たちが周の王の意見を
聞かなくなります。
そして、諸侯たちで権力争いがおこるのが
春秋時代です。

春秋時代には、まだ周王朝そのものは
存在しています。

では、春秋時代、戦国時代は
どういう時代だったのか?は
次回説明します。


ご覧いただき、ありがとうございました。

れくす先生の歴史授業8 中国文明の始まりと殷

2025年01月31日 15時52分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

れくす先生の歴史授業の続きです。

前々回はメソポタミア文明、エジプト文明、
前回はインダス文明(+その後のインド文化)を行いました。

今回は、中国文明です。




1 はじめに

他の文明と違い、中国文明のみ、
中学では「王朝」名を
習います。
(高校レベルだと、
他の文明でも王朝名を習います。)

また、教科書によっては、そのまま、
中国の王朝の歴史に進みます。

そのため、中国文明というくくりで
あまり習わないことが多いです。


そもそも「文明」というくくりも、
歴史の情報を整理しやすくするために
つけたものにすぎなく、
どこまでの時期を「文明」とするか?
にこだわるよりも
「文明という名がつくのは、その地域の
大規模な集団生活が始まったんだよ、
ということなんだな」という程度で
考えても良いと思います。




2 黄河の文明、長江の文明

中国の文明そのものは
黄河流域でも長江流域でも
おこったとされています。


地理でアジア地方を習ったときに
中国の2つの大きな川として
黄河長江を習います。

「河」も「江」も、
「河川」の意味が入っているので
「〜川」とはつけません。
河川名と聞かれれば
「黄河川」「長江川」としずに、
「黄河」「長江」と書く形になります。


また、黄河と長江では、気候や植生も
違ってきます。

古代の黄河では、畑作で
稗(ひえ)や粟(あわ)を、
長江流域では稲作で、稲(米)が
栽培されて
そこで多くの人が住み、
それぞれの文明が
築かれました。

黄河流域は乾燥している地域が多く、
長江流域は温暖で夏に雨が多い(温暖湿潤気候)である地域が多いです。

今は品種改良されて、稲(米)は涼しいところでも、水が少なくても作ることができますが、元々の稲は、
暖かくて、育つ時期の夏に雨が多い
ところである必要がありました。

そのため、長江では稲が栽培できますが、
乾燥して涼しい気候である黄河流域では
水を多く必要としなくても育つ(畑作で育つ)、稗や粟が栽培されました。

中学生の習う歴史では
それぞれの河川で生まれた文明を
習うわけではありません。

中学では、黄河流域
生まれた王朝の
(いん)」から始まり、
さらに黄河流域の王朝をメインに
勉強していきます。


他の地域の歴史でも同じことが
言えますが、
その国の歴史を考える時、
今の国の領土という広さで
歴史を見ないようにします。


今の価値観からすると、
小規模な地域での歴史です。
今の中国という国の規模で
考えるのでなく
黄河流域での都市の規模(都市国家)での
王朝と考えてください。

そして、黄河流域の王朝が、
あたらしい王朝にうつりかわっていくうちに
初期には、いわゆる連合を組んで
グループ内で
まとまっていた形(地方分権)から、
1つのトップ(皇帝)が地方までまとめていく形(中央集権)に変化し、
だんだんと領土を広げていきます。

殷は地方分権の王朝で、
中国が中央集権国家になったのは
秦のときです。

(地方分権と中央集権については
後日、別記事でアップします。)

今の中国の、長江流域まで領土が
広がるのは、かなり時間がかかりました。

教科書や資料集には
地図が載っているので
各王朝、各時期、の
勢力図を見てみると
よりわかりやすくなります。






3 殷

さて、中学レベルで習う中国の王朝名で
最初に出てくるのが「(いん)」です。  


殷王朝以外で「殷」という漢字を
日本では、ほぼ使うことはありませんので
初めて習うと「難しい」という印象を
うける人もいるかもしれません。

しかし、そこで焦らず
じっくりと勉強していただければ
良いと思います。

中国の王朝で、黄河流域で成立し、
現在歴史上で最も古い王朝と言われている
のが「殷(いん)」です。

神話や伝説では、「殷」より前に「夏(か)」という王朝があったと
言われていますが、
「夏」の遺跡や遺物などが出ていないため
「歴史」という点では
「現存していると歴史で確約されている」のは遺跡が出ている「殷」となります。




殷の遺跡のことを
殷墟(いんきょ)」といいます。

「墟」とは
「歴史的なできごとがあった場所(跡)」という意味なので、
「殷という王朝があった痕跡のあるところ」=「殷墟」となります。


殷は、メソポタミア文明やエジプト文明で栄えた国々と同様、宗教と強く結びついた王朝です。

ノートに殷について
まとめました。









殷では
戦争など、何かの決定で大きく後の歴史が変わるような出来事を考えるときには
占いをして、決めていました。


その占いの結果を記した文字を
甲骨文字と言います。



甲骨文字は、亀の甲羅や牛の骨などに刻まれた文字なので、「甲羅の甲」、「骨」の文字をとって、甲骨文字と呼ばれてます。


甲骨文字は後の漢字の元になる文字で
今、使っている「山」などの文字は
「甲骨文字」に似た漢字です。


殷王朝の時期には
まだ鉄器は使われておらず
青銅器が使われていました。

殷の青銅器なのですが、
かなり複雑な文様や形のものがつくられ
高度な技術がないと作るのが
難しいと思われるものだそうです。
現代でも、その作り方の詳細は
不明らしいです。

失われた技術、とも言えます。


私達が歴史を習う時、
とくに技術や学問に関して言えば
「現代に近づけば近づくほど
技術や学問は発展している」
「昔の人は、何も知らなく、
技術は今の技術よりも遥かに劣っていた」
と思い込みやすいです。

しかし、実際にはそうではありません。
もちろん、「ファスト」という意味では
現代のほうが先進的でしょう。
一度に同じレベルのものを定価価格で
作りだす技術は、今のほうがあるかも
しれません。(もしかしたら、新しい歴史の発見があれば、それも変わるかもしれませんが。)


しかし、「技術力」のみに特化すれば
過去に、現代より優れた技術を作って
いることもあるんです。

また、私はふだん生活して
金属を作り出す技術を自ら発見
できる才能はありません。
しかし、過去に、人類初の金属生成を
発見し、発展させた人々がいるからこそ
今があるわけです。


過去のもの、昔の人々が
現代の我々より
「無知」「劣っている」
「かわいそう」など
と思って歴史を見ると
歴史を理解できません。

必ず、「敬意」を払って、
その時代、その時代の人が
どう生き抜いてきたのか?を
考えて見る必要が私はあると
思います。


今回は以上です。

次回は、周王朝成立時と、その後の
春秋時代、戦国時代を行います。

なるべくはやく、完成して記事をアップできたらいいな、と思います。

ご覧いただき、ありがとうございました。