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社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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書いています。

歴史模擬授業も展開中♪

れくす先生の歴史授業13 古代中国で生まれた思想1

2025年05月08日 07時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

またしても更新頻度が減ってしまい、申し訳ありませんでした。

「れくす先生の歴史授業」を再開します。(こちらのgooブログさんが秋に閉鎖されるので、今回の古代中国の記事までこちらで書いたらら、以降は、Amebaブログさんの方で更新を続けます。Amebaブログさんの方は、今まで使っていた育児&ASD&マンガブログと統合して、更新していく予定なので、現在、編集作業中です。)



【古代中国で生まれた価値観】

1 はじめに

今回に関しては、
実際にはテストに出ない用語、内容です。

しかし、古代中国が作り出した
易姓革命陰陽五行説儒教
などの価値観は、中国だけでなく、
日本を含んだ、東アジア諸国も
同じような価値観になっていきます。


古代の日本(とくに飛鳥時代以降)は
積極的に中国の文化や制度を取り入れて
いきます。

小学生、中学生は日本史メインの授業に
なるので、視点が日本にいきがちですが
日本のあのときの行動は古代中国で
できた価値観由来だった、とわかると
もう少し、理解しやすくなる、と
思って、画像にまとめました。

ただ、画像が思った以上に多くなったので
何回かの記事にわけて、アップします。

2 導入

今回は導入部分です。
(詳しくは画像部分を御覧ください。)





3 歴史書の意義

次は中国の歴史書の話です。










中国の歴史書は、高校の古典で習うと
思います。そうすると、具体的に
よりわかりやすくなるかもしれません。
(高校に行かなくても、書店で
原文と現代語訳つきのものもあるので
そちらで読んだ方が、好きなものを
見つけられる可能性も高くなります。)


今回は以上です。

また続きは後日アップします。




れくす先生の歴史授業12  漢王朝の政治

2025年03月28日 16時12分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回も、れくす先生の歴史授業シリーズの
続きです。

前回は、秦の始皇帝の中国統一
行いました。

今回は、その続きで漢王朝についてです。


1 はじめに

漢についての細かい歴史は
高校レベルの歴史の内容で行います。
中学では、全体にサラッと見ていきます。

中学までは、日本の歴史に大きく関係する
世界史分野のみを習うためです。

「れくす先生の歴史授業」シリーズは
高校入試対策、もしくは、
中学校に通わずに自宅学習を選んだご家庭で
中学レベルで知っておくと、後々に勉強が楽になるもの、というコンセプトで説明しています。
中学の定期テストでは出ない内容や
それは直接入試には出されない用語を
出しているのは、そのためです

あくまで「学校」の教育方針が合わなくて
苦しんでいる方々の精神的救いになれば、
と思って作成しています。


高校レベルのものを
そのままブログで
書くなら、
高校用のテキストや大学入試対策の
市販の参考書を読めば良いわけです。

そのスキマの時代、
中学のボンヤリした形で教えられる
偽善的なアプローチの歴史は合わないけれど、まだ高校レベルの難しい(細かすぎる内容)までは、まだ無理!という、はざまの世界の中学生や小学生に届いたらいいな、
と思ってます。

話を元に戻します。

中学では、漢の歴代の皇帝は習いません。
こまかい
「新」という王朝も習いません。
「前漢」→「新」→「後漢」という 
動きもなく、前漢も後漢もまとめて「漢」!
「新」の存在は語られません。

日本が中国と大きく関係するのは
「後漢」からです。
しかし、「漢」について習うのは
「前漢」の場合のものも多いので
ごっちゃになってるなぁ、とは
思います。

今回のこの記事も、そこらへんは
詳しく分けてはありません。



中学レベルでは、
漢はどういう政治をしたのか?
のみに主軸をおいて、お話したいと
思っているからです。

なので、日本が交流を始めたのは
後漢だけれど、その後漢の元となる
前漢がどのように世界をつくって
いったのか?を見てほしいと思います。

漢の政治思想や文化、世界の考え方は
のちの日本の歴史にも大きく影響を与えますので、そのあたりのものは、
次回の記事(陰陽五行説、易姓革命、歴史書などの記事)にて書かせていただきます。

前置きがいつも以上に長くなって
しまいましたが、今から始めます。




2 秦の滅亡


紀元前221年に中国を統一した秦でしたが
急激すぎる統一政策などのため反感も多く、秦の始皇帝の死後、わずか15年で
滅亡しました。

そして、また、争乱の時代になりました。

この時期の争いは、
高校教科書の古典(漢文)の分野で習う
「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」
の争いの時期です。

項羽と劉邦という人物は、
文学や歴史が好きな人なら
聞いたことある、というか、
常識で知っている人物名でしょ!
と思う人がいるレベルの人物なのですが
中学の歴史では習いません。

国語で習う故事成語では
出てくることはあります。


「四面楚歌」は聞いたことが
あると思います。
この故事成語は、項羽と劉邦の争いの
話から生まれた言葉です。

項羽と劉邦の争いで、
最終的に勝ったのは、劉邦でした。

そして、その劉邦が開いた王朝が
漢です。

(中学では、中学の王朝を開いた人物名は
秦の始皇帝以外では、ほとんど出ません。)




2 漢による統治の開始

漢は、紀元前202年に
中国の統治を開始しました。


漢は、
秦の制度の多くを受け継ぎ、
秦の失敗を教訓として
政治をしました。

秦と漢で決定的に違うのは
どの政治思想をベースに統治したか?
というものと
何代かけて国の形を作ったか?の 
国づくりのペースです。


秦は、法家の思想をベースに1代だけで
一気に国の形を作ろうとしました。

法家の思想は、
今の法治国家の思想に通じるものもあり
さらに現実的なので、
その結果、意味のある統治の制度を
秦の始皇帝がつくることができたのは
確かです。
しかし、問題だったのは、
「急すぎた」ということ。

どれだけ「正しい」だとしても
「急に」の変化は反発を招きます。

人間って、
「正しいから動く」という人
ばかりではないので。


漢の場合、
秦の始皇帝が統治の形の基礎を
作ってくれたので、その形をベースに、
時間をかけて、何代もかけて、
国をまとめていきました。
さらに、漢の政治思想は、儒家のもの。
儒家の思想とは、いわゆる
儒教、儒学のことですね。

(中学では、儒教という名称で
使うことが多いので、
以後、儒教と書きます。)

儒教は、「孝」という家族道徳を政治の世界にもあてはめ、「徳」による政治で、愛情をもって社会秩序を実現しようとするもの。
リーダーは、真面目で慈悲深い人が理想です。一言で言うと「徳のある人」が理想。



これだけ話すと、
漢というのは
「マンガやアニメの世界の、
民のことを常に考え、
愛情ゆたかな皇帝。
そして、その皇帝のことを慕う国民が
幸せに暮らしている国。」
みたいなイメージを持つでしょう。

それが、間違いというわけではないですが
現実というのは、そこまで甘くない。

ただ、漢が、
「人間というのは、感情がある生き物だ」と
思っているのは間違いなくて、
それをベースに統治をしたからこそ、
長く続いたことは間違いないかな?と
個人的には思います。


また、「徳のある人が皇帝になる」と
いう考え方を正しいとしたほうが
漢にとっては都合が良いのは確かなんです。

それまでの皇帝の血筋を
もっていない人が
次の皇帝の地位につく、というのに
「徳をもっている人が皇帝になるのが
ふさわしい」としたら
「漢王朝の存在は正しい」と
できますので。(漢を開いた劉邦は
秦の始皇帝の血筋ではありません。)


このあたりは、儒教だけでなく
陰陽五行説の考え方も出てくるので
次の記事でお話しますね。


漢は統治を開始し、何代もかけて、
領土を広げ、大帝国を築きます。





《国内(領土拡大)》

秦の始皇帝の時代でも中国を圧迫していた
騎馬民族を、漢は撃退しました。(前漢7代目皇帝の武帝のときに、匈奴を撃退。)

それにより、西方(タリム盆地あたり)まで
漢の支配を広げました。

また、匈奴との戦いの過程や
西方まで領土が広がったことから、
西側(オリエントやヨーロッパ側)に
中国の存在が知れ渡り、
漢に使者をおくる国もあり、
それに伴って、交易路も徐々に
でてきました。

それがシルクロード(絹の道)です。

また、漢は行政区画も整備し、
領地を支配しました。

その中で「郡」とい行政区画のタイプで
まとめられたものの1つに、
楽浪郡(らくろう ぐん)」という
場所(区画地域)があります。

楽浪郡は
北東部から朝鮮半島にかけての
地域におかれたものす。
この地を征服した漢王朝が
楽浪郡をおいて、支配しました。





《国外(外交、貿易)》

次に
外国との関係(貿易、交易)は
どうだったのか?
を見ていきます。

歴代の中国王朝の貿易を見る際に
気をつけなければならないことが
あります。



東アジアを除く他の国(西方)の貿易の
歴史を見ていくときは、今の世界観で見ても
大きな理解のズレはありません。
(完全に一致するわけではないですが
中学レベルなら大丈夫、という意味)

物品の売り買い、国同士の公的な貿易か
商人同士の民間貿易か?
だけに焦点をおいて見ることでオッケーです。


しかし、歴代の中国王朝では、
その視点だけでなく、
東アジア内の国々との貿易は
朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)」という
独特な貿易をしています。

東アジア圏内でなく、
西方の、たとえば、
ペルシアやローマ帝国等との交流は
朝貢貿易ではないので、
中学レベルなら
「シルクロードを通して、
貿易していたんだ。」
と思えば良いです。

しかし、東アジア圏内の諸国との貿易は
国の施政者同士、つまり、
中国の皇帝と、各国の王、同士の
公的な貿易であり、
かつ、中国を絶対的に上とした貿易に
なります。
それを朝貢貿易と言います。

朝貢貿易の「朝貢」について
説明します。
周辺諸国が、「中国の徳」を敬い、慕い、
中国の臣下になり、
その証に中国に使者を送り、
貢物(みつぎもの を差し出します。
貢物を贈られた中国側は、
贈られた貢物の数倍以上の価値のある物を
与える。
これが、朝貢の考え方です。


中国側からしたら、
戦争などをしないまま、
周辺の国々を自国の配下におけます。

周辺諸国からしたら、
自国の中で何かあったら
中国が守ってくれるうえに
中国の最新の文化や物品が
手に入ります。

双方に
メリットありありなんです。

もちろん、中国が
「技術や文化が最先端であること」、
「中国が、あらゆる地域の文化や物品が
とりそろっていること」
「中国が強い国であること」
という前提があるからこそ、
この朝貢貿易は成り立ちます。

そして、当時の中国は、まさに
その通りでした。

日本も、中国の強さや文化、技術に惹かれ、
使いを出しています。

「奴国が漢に使いを出して、金印を授かった」というのも、いわゆる朝貢貿易の一種です。
奴国の国王は、中国の最新の文化を手に入れるだけでなく、中国皇帝の権威を後ろ盾に
日本の中の国々の中で優位にたとうと
したのです。

金印は、正式に中国皇帝の臣下と認めた諸国の王に与えられたものです。

このあたりは、のちに書く別記事(易姓革命や朝貢貿易の話)で詳しく書きます。




中学レベルで習う内容としては。
漢と西方の貿易では、

中国からローマ帝国には
中国の絹が運ばれました。

中国側には
西方からは
馬や葡萄(ぶどう)、
インドからおこった仏教
が伝えられました。


つまり、漢より以前には仏教は
中国には信者がいなかった、
とも言えます。

今でこそ、
「仏教」=「中国の宗教というイメージ」
をもつ人もいますが、
これは、中国や朝鮮半島の国々を通して
仏教が伝わったから、
また後の中国で仏教がさかんになったから
でしょう。

何が言いたいか?というと
漢以前の中国の歴史を
「仏教」の価値観や視点で見ると
わけがわからなくなります。

中国の元々の宗教は「道教」です。

道教は伝説の人物(三皇五帝)や
王朝(夏王朝)などの神話も含んだもので
道教が、諸子百家の儒教や、のちの陰陽五行説に大きく関係してきます。


《貿易まとめ》
中学レベルの話に戻します。

この分野で中学のテストで最も出るのは
先ほどもチラッと出た
シルクロード(絹の道)」という
名称です。

地中海地域、西アジア、と中国を
結ぶ陸路の交易路をシルクロード
言います。
シルクロードという名称は
「絹」が交易品であったからです。

中国の「絹」というのは
当時、格別な品物です。
あんなに光沢のある美しい糸、織物は
他にはないもので。
美しい絹を作り出す技術は
当時は中国のみの独占技術です。


それだけ、中国の技術はすごかった、
ということです。








先ほども話したので重複になりますが
漢の政治は
儒教が重んじられました。

漢では、儒教が重んじられ、
それに基づいた政治をした形式が
この後の中国の世界の基礎となって
いくため、「儒教」の価値観を知って
中国の歴史を見ていく必要がある、
ということです。


儒教については
「古典」の漢文で習うことで
ある程度はわかります。
中学の教科書の故事成語でも
儒教の本(「論語」など)のお話が
載っているときはありますし
高校だと古典でダイレクトに習います。
(学校に行けばわかる、という意味でなく
教科書で自分で読むことでわかる、と
いう意味。)

中国や、東アジア諸国の歴史を習う時
行間がよくわからないときは
国語の内容を知ることでわかるときも
あります。

中学のときにわからなかった歴史が 
高校生になったときにわかったり
大人になってから本を読んでわかったり
することもあるので
中学のときに歴史をならって
「わからない」と思ったことがあっても
それは「理解できる力」があるゆえに
その「理解に必要な情報」が欠けていると
理解できないときがあります。

人によって「わかる」という言葉の
意味合いは違います。
「問題がとける」=「わかる」
「テストで高得点をとれる」=「わかる」
という人もいれば
「自分の中で言語化できる」=「わかる」
「違和感が感じられず、その内容を
受け入れることができる」=「わかる」
と思う人もいます。


もし、「違和感を感じるが、その違和感の正体がわからなくて困っている」=「わからない」と思っている内容のとき、

他の人から
「この内容は簡単だから大丈夫だよ!」
「何度も問題解けばわかるようになるよ!」という善意の言葉、
「こんなん、わからないやつは馬鹿じゃん!」と悪意ある言葉を
言われたとき、
「自分だけがわかってない」と
パニクらなくて良いです。


高校、大学、社会人になって
わかることはあります。


ただ、入試という点では、
覚えてないと合格できませんので
「わからないまま、今は飲み込む」と
いう応急処置はしても良いと思います。


勉強というのは、高校や大学に行くため
だけのツールではなく、
「自分で自分を定義づけられるための、
そして
自分の人生は自分で決めるための
最高の相棒」
のためにするものなので。

話をもとに戻します。

漢は、その後の中国や東アジア諸国の世界の
基礎をつくった王朝ですが、
儒教ベースの政治以外でも、
漢以降のスタンダードになったものがあります。

それが、歴史書作成です。

歴史書をつくる、というのは
「自分の国」を知っていること、
そして、現時点で自分たちがその国における
正統なる統治者である、という証明をできる
最適なツールです。

(詳しくは次回の記事以降で書きます。)

漢でつくられた歴史書の形式が
その後も続けられ、
のちの日本でも、中国を習って
歴史書(「日本書紀」など)を
作っています。



また、他にも漢は「紙」を発明しました。

「紙」があるからこそ
詳しい歴史を何ページも書くことができ
さらに伝達もしやすいですので
紙は政治や文化に欠かせないものです。



今回は以上です。
ご覧いただき、ありがとうございました。

次回は、時系列的には
この記事でも書いている
「易姓革命や朝貢貿易」の話です。
入試や定期テストには直接出ませんが
それを知るとわかりやすい、
というシリーズです。
(スピンオフ的存在)

ただ、スピンオフ的存在なので、
その記事の完成より先に

古代ギリシアの歴史の方を
先にアップする可能性は
あります。

とにかく、原稿を完成しないと!な
状態です。

ではでは、これからも
よろしくお願いいたします。




れくす先生の歴史授業11 秦の始皇帝の政策

2025年03月25日 21時30分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

しばらく間があいてしまいましたが
「れくす先生の歴史授業」を
再開します。


前回は、
古代中国の春秋時代&戦国時代
行いました

今回は
秦の中国統一と、始皇帝の政策
についてです。




1 秦の中国統一


春秋時代&戦国時代は、
いわゆる戦乱の時代でした。


どの時代でも戦争はおきますが、
「戦乱」というワードが使われる時代と
いうものは、
「コロコロと、力の強い人(国)が
かわり、政局が安定しない」
「強い国の配下にくだる国や、
戦争で負けて滅ぼされる国、も多くある」
など、政治形態やトップが
安定しない状態を言うことが多いです。


「戦乱」状態であった
春秋時代、戦国時代は
紀元前8世紀から紀元前3世紀まで
続きます。約500年間です。
とてつもなく長いです。

この「戦乱」状態を終わらせたのが
(しん)です。

秦は、戦国時代に存在していた国の一つで
戦国時代に次々と戦争に勝ち、他の国々を次々と征服していきます。

そして、最終的に、
当時の「中国」という地域範囲での
すべての国が秦国の王に
従う形になりました。

このことを別の言い方で言えば
秦による中国統一」です。

この秦による統一の時代を
本日、見ていきます。



による中国統一は、
紀元前221年と
なります。

年号(正しくは西暦)を
覚えることに固執して
教科書をまとめない、
問題を解かないぐらいなら
覚える必要はありませんが

教科書まとめ、問題演習も行うつもりなら
年号(西暦年)覚えておいたほうが
理解や想像の幅は
広がります。

なぜなら、
この「統一王朝の秦の成立」の前と後では
中国の政治や文化の世界観が異なりますので。
紀元前221年は歴史の
大きな転換期となります。


秦、そして、次に習う漢、
この2つの王朝は、
19世紀まで続く、東アジアにおける
中国中心の世界観(中華思想)と
それに伴う、政治、貿易(外交)体制の
世界観の基礎が作られた王朝です。
日本の歴史にも大きく関係してきます。





2 始皇帝という名称

これから習っていく中国の王朝のトップ(政治の頂点にたつもの)は、
皇帝」という
名称(称号)を使います。

この「皇帝」の称号を
初めて使った(使い始めた)のが
秦です。

中国を統一した
秦王であった政(せい)という人物が
統治者の称号を、
それまで使われていた「王」に代わって
「皇帝」としました。

「皇帝」という名称は
「王」を超える存在という位置づけの
ものです。

秦の統一前の、戦国時代は
各地の国々のトップが「王」を名乗り
「王」同士の覇権争いの時代であったので

いくら秦が他の国を征服したからといって「王」を称しても、争いは再開するかもしれません(戦国時代の再開)。

そこで、
「王」をまとめる(超える)存在として、
新しい名称「皇帝」を使うのです。

では、「皇帝」という言葉は
どうやって成立したか?というと、
中国の神話(伝説)の存在から
作った造語(略語)です。

中国の神話(伝説)で、
中国の統治者に、「三皇五帝」と
まとめられる8人の人物(政治のトップ)が
いました(伝説上の人物なので実在していたか?は不明。)。

この三皇の「皇」、五帝の「帝」、から
「皇帝」という名称が生まれました。

この「三皇五帝」の時代の統治者は
世襲制(親から子に、などの血族者に位が譲られる制度)でなく、
徳のある人物に位を譲っていた、と
されています。
その三人の「皇」、五人の「帝」のあとは
世襲制になりました。
伝説上の王朝である「夏(か)」が
世襲制を始めました。
(歴史上では、「殷」から習いますが、伝説上では「夏」→「殷」の順番です。
歴史では、実際に遺跡等が、出土されないと、存在したとは言えないので。
夏王朝の遺跡は存在してないので
実際にあった王朝なのか、想像上の王朝なのかは、現時点では、不明です。)

三皇五帝のことについては、後日、
別記事(徳とは何か?陰陽五行説、「禅譲」と「放伐」、「易姓革命」等)で
お話します。



秦による統一を果たした秦王(政)は、
初めて皇帝を名乗った人(それ以後、中国の統治者が名乗る皇帝の名称を使い始めた人)のためら「始皇帝」と呼ばれます。

テストでは「始皇帝」が
固有名詞、人物名のように
使われます。

テストでは「始皇帝」と書けば
基本的には大丈夫
です。



3 秦の始皇帝の統治

秦の始皇帝の統治の仕方は
中央集権的です。

中央集権とは
一つの組織(中央の組織)、
今回でいうと「皇帝」に権力が
集中する、ということです。

戦国時代は、それぞれの王が、力を持って
それぞれ独自に政治をしていた状態だったのを、きちんと終わらせるには、中央集権という形にしないと、また戦乱がおこってしまいます。


中央集権を悪いように言う
人もいましたが
中央集権そのものが
完全に悪いわけではなく 
一つの統治方法の一つで
そのときに必要だった統治方法を
したにすぎません。

歴史を学ぶうえで
「良い」「悪い」という価値観で
見ないことは大切です。
あくまで「良い」「悪い」は
現代の価値観、個人的価値観
からにすぎないので。
他を知ることが歴史を学ぶうえで
必要です。
「良し悪し」の価値観で
歴史を見るということは、
自分の世界からしか歴史を
見ることができず、
永遠に、歴史人物の行動原理を
理解できません。

理解とは、同調ではありませんので。
ただ「事実のみを受け入れること」です。

話を元に戻しますね。

秦の始皇帝は
政治的な制度の統一だけでなく 
あるゆる単位(度量衡)の基準も
統一しました。

度量衡(どりょうこう)とは、
度は長さ、量は体積(容積)、衡(こう)は重さの単位のことをまとめた言い方です。

今では、長さや体積はセンチメートル(cm)の単位、重さはグラム(g)というヨーロッパの単位基準を使ってますが、
単位基準は、時代や場所によって違いました。

中国では、戦国時代に国ごとに、単位がありましたが、その基準を中国内(秦の始皇帝の領土内)では統一しました。

また、他にも、文字や貨幣も統一しました。


それにより、中国全土で、
同じ文字、同じ基準で動けるのは
とても効率がよくなります。


今は、それ(単位や文字の統一)が
あたりまえになっているので、
「統一する」というのが
どのように人々の生活に影響を与えるか?
の想像がしづらくなってますが

この度量衡等の単位統一は
かなり生活がかわります。

基準が場所によってマチマチだと
不平等や不便さ
が生じやすくなりますから。


また、当時は、北方の異民族(中国にとっての異民族)が、定期的に、移動をして、
中国の領地に入ってくることがありました。
戦国時代にも、北方の異民族の侵入のおそれがあるため、侵入防止のための砦(城塞)いわゆる横長の城(長城)を、
各地(各国)がつくっていました。

その点在していた砦(城塞、長城)を
秦の始皇帝は連結しました。

そのことを教科書では
万里の長城を整備した
と書かれています。

「万里」の「里(り)」は
長さの単位ですね。
「万里」というのは、
正確な数値でなく、
「めちゃくちゃ長い」みたいな
意味合いで考えて大丈夫です。

時々、秦の始皇帝が万里の長城を「造った(作った)」と思う人や、
現在存在している形の「万里の長城」を
秦の始皇帝が造った、と思っている人がいますが、秦の始皇帝より前の時代から作られていた長城を整備しただけであること、今の万里の長城は、のちの明の時代に改修された姿のものです。


万里の長城が整備された理由を
記述問題で出されることがあります。

しかし、問題集によって、答えは様々。
「北方の異民族の侵入を防ぐため」
「北方の遊牧民族の侵入を防ぐため」
「匈奴の侵入を防ぐため」
など、北方の異民族と書くか、北方の遊牧民族と書くか、ダイレクトにそのときの「北方異民族(遊牧民族)」の名称の「匈奴(きょうど)」と書くか、の違いがあります。
匈奴という名称は、高校レベルの歴史で
習いますので、中学では、そのような書き方をされません。


おそらく、20年前だと、「北方の異民族が〜」と教えられた人が多いのでは?と思います。

ただ、「異民族」という呼称は
「中国側」という片方側からの視点ですので、今は、「遊牧民族」という書き方のほうが良いとは思います。 
「遊牧民族」という名称は「遊牧」を生活基盤している「民族」という意味合いです。


遊牧民族は、世界中の色々な地域で
生活しています。
高校レベルの世界史を習うと
「遊牧民族」の動きが歴史を大きく
変えることも多々あります。

また、遊牧民族とひとくくりに
考えるのでなく、様々な遊牧民族が
歴史で登場します。


戦国時代、秦の始皇帝の時代には
中国側から見て北方で生活していた
遊牧民族の動きがさかんで、
そのために、中国は万里の長城が必要に
なりました。


北方以外にも、
遊牧民族の人々は生活していますので、
記述問題では「北方の」まで書く必要があります。本当は「中国から見て北方の」と書いたほうが良いのでは?と思いますが
質問内容が中国側からの話になっているので、「北方の」からで良いと思います。


また、秦の始皇帝の権力の大きさを物語っている遺跡があります。

それが、兵馬俑坑(へいばようこう)。
兵馬俑坑は、始皇帝の墓の近くから発見された、人や馬の形をかたどった、実寸大の焼き物がたくさん並べられているところです。

(兵は兵隊、
馬は馬(馬車の馬、戦車の馬など)、
俑は殉死者の代わりに埋葬した人形(ヒトガタ)の像、
坑は穴(生き埋め用の穴や鉱物を取り出すために掘られた穴)のことです。)

精巧でリアルな、大量の像をつくることが
できること、それをやりとげたことは、かなりの権力がないと難しいです。






ただ、このような制度改革を急いで一気に
やりとげた、ということは、
かなりの反発も招きます。

制度改革だけでなく、
反乱をおこす地域、人々とも
戦うので、疲弊もおきます。


反発、反乱を抑えるために
かなりの威圧、厳しい政策も
しています。

そのため、秦の始皇帝が
生きている間は、秦は続きましたが
彼が亡くなったあと、ほどなくして、
また争乱の時代になり
秦は、滅びます。

そして、争乱ののち、
漢による統治が始まります。




今回は以上です。


よく、「秦」については
悪く言われることは
あります。
確かに「被害者」であった人々は 
多くいるため、「悪く思う」ことは
個人の自由です。(悪く思うから、
攻撃するは駄目です。)

ただ、「歴史を習う、歴史を教える」と
いう立場のときは、どの歴史人物、どの王朝でも、その時代に真剣に生きた、彼らの信念や考えがあった、と「個としての尊重」をして説明したいと私は思います。


敗者や短期間で滅んだ王朝を
「愚弄して終わる授業」や
「勧善懲悪(片方を善人、片方を悪人、悪人は必ず滅びる)という視点での授業」を
しないよう、心がけてはいます。

歴史の学びとは
「流れを知り、未来を予測する」
「予測した未来に向けて、自分は
どう生きるか?を模索する力をつける」
ものだと思うので。



秦の始皇帝がどうしてこのような政策を
行う必要があったのか?の背景や、 
秦が短期間で滅んだ理由を知る、
歴史分析することが
大切なのかな?と。



ご覧いただき、ありがとうございます。

次回は「漢王朝」について、です。

完成しだい、アップいたしますね。



れくす先生の歴史授業10 古代中国の春秋時代と戦国時代

2025年02月13日 21時32分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

今回は、「れくす先生の歴史授業」の
続きです。

今回は、古代中国の
春秋時代戦国時代です。


1 春秋時代と戦国時代について


この時代、
よく「周王朝がなくなって、
そのあとに、春秋&戦国時代が始まった」
と思われがちなのですが、
実は違います。

春秋時代には、周王朝そのものは
存在しているのですが、
ほぼ実権がないというか、
地方のトップ(諸侯)同士が
争って、その権力争いで
勝った諸侯が
周王朝を動かした、
というイメージです。



下の画像が春秋時代のイメージです。



春秋時代は、王そのものは一人(周王)です。実権は持っていても、地方のトップは「諸侯」のままです。


しかし、戦国時代になると
「王」を自称する人々が増えました。
(戦国時代になったから、「王」を自称したわけでなく、「王」を自称する人が増えた時期あたりを、後世の人々が、そこで、区切って名称をつけた、という形ですが。)

周王朝の周王も
他の諸侯をまとめる唯一王ではなく
数いる王の中の一人の王となります。

イメージとしては、
春秋時代よりも、各国が
それぞれ独自の政治形態、思想、文化を
持ち、国同士で手を組んだり、
実質的な配下に下ったり、
そういう、
各国同士が独立したような状態に
なりました。

下の図がイメージ画像です。








この春秋・戦国時代
分裂と抗争(戦争)の時代で
500年以上、続いています。

500年以上です。

とてつもなく長いですね。

この分裂と抗争の間に
各国は自国が負けないように(滅びないように、勝てるように)、色々と行動した結果
あらゆるものが生まれました。

その中でも、現在、国語の古典でも習う
諸子百家の思想が生まれたことが
後の中国、そして、日本を含む
東アジアの国々の歴史を大きく
影響していきます。







諸子百家という漢字を「諸氏百家」と
書き間違える方もいます。
「氏」でなく「子」です。
「子」とは「先生」の意味です。

春秋時代、戦国時代には
諸侯や王が自国を守るため、強くするため
自国の統治方法や戦法、
つまり、リーダーシップのとり方を
模索します。

そのリーダーシップのとり方を
話した、まとめたのが、諸子(先生)たち
なのです。


今の平和な時代で考えるリーダーシップは
「絵空事」「偽善的」「理想論だけ」な
「実のないリーダージップ論」
だったりすることもありますが、

春秋時代、戦国時代は
「結果の出せるリーダーシップ」が
必要になります。

「キレイゴト」ではすまされない、
現代での「キレイゴト(皆仲良く、皆で話し合うことのみでしか力がつかない、という、一部の人に都合が良いだけの空虚なもの)」の価値観からすると
「ん?!」と思う人もいるかもしれませんが

諸子百家の人々の著作(本人が記したものだけでなく、話したことをまとめたもの)を
読むと、「人間というのを、きれいなところも汚いことも知ったうえで、どうリーダーシップをとるか?」がベースになってます。

つまり、「現実的なリーダーシップ」
なのです。


とてつもなく長い戦乱の時代だったのだから
「実力」がすべて。
「実力」とは「何も努力しないで、知識を持たなくても、なんとなくできてしまう」という意味のものでなく
「あらゆる努力、知識をもってして、結果を出せること」を「実力」と言うと私は思います。


このように、春秋時代、戦国時代には
諸子百家の考え方が
多く生まれました。


その中で、
韓非子法家
孔子儒家儒教)のみ、
中学では習います。

ただし、社会(歴史)では孔子の儒家(儒教)のみ用語が出てくることが多いです。

韓非子は国語(古典)で習った
「矛盾(むじゅん)」の話の作者です。

韓非子(法家)の考え方を元に
政治をしたのが、のちに中国を統一した
秦の始皇帝です。

儒家の考え方をベースに政治をしたのが
漢王朝になります。
そして、漢王朝をベースにして
その後の多くの
中国の王朝は進んでいくので
儒家の考え方(儒教)は
中国、そして、中国と貿易した東アジアの
歴史人物の行動原理にもなってきます。



今回は以上です。

次回は、

秦王朝と漢王朝の成立、

そのあとで、
諸子百家の儒家と法家、そして、
中国の王朝交代のときに考えられる
陰陽五行説の放伐、禅譲(ぜんじょう)の
考え方、そして、朝貢貿易の考え方を
説明したいと思います。


ご覧いただき、ありがとうございました。





れくす先生の歴史授業9  周王朝の成立

2025年02月05日 15時41分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございました。

れくす先生の歴史授業、の続きです。


前回から中国の歴史(中学生で習う範囲)
始めました。

前回は殷王朝の時代をお話しました。

今回は、周(しゅう)王朝です。


1 はじめに

周については、中学では、
ほとんど習いません。

しかし、周王朝、
さらに、春秋&戦国時代を
理解することが

中国史、さらに、日本史の
全体がより鮮明に理解しやすくなります。



それはどうしてか?というか、
殷王朝までは宗教と、かなり大きく
結びついた王朝でしたが

周王朝からは、「人間」同士の
結びつきで歴史が動いていきます。
 

そして、王朝の政治形態、そして、
春秋時代戦国時代で生まれた
政治形態や、
政治思想&哲学(諸子百家の考え方)、
などが
秦の時代以降の歴史の基礎を作っていきます。

さらに、のちの日本でも
春秋時代、戦国時代に生まれた
諸子百家の考え方が大きく影響して
歴史が作られていきます。


諸子百家の考え方の中で
「儒学(儒教)」は、日本で多大な
影響を与えています。

儒学をベースにした漢王朝から
日本は中国の王朝に大きく影響して
いきます。
中国の王朝は、漢王朝から儒学ベースの
王朝と見ることもできるため、
日本はその後の中国王朝を手本に
国の政治をつくっていくので
かなり「儒学(儒教)」は重要です。
かなりあとの歴史、たとえば、
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、
徳川綱吉の政治、なども
儒教について知っていると
歴史の流れが理解しやすくなります。


さて、話を周王朝に戻します。





2 殷王朝滅亡と周王朝の成立

まずは、殷王朝のおさらい。
(↓画像を参考してください。)


殷でも周でも、同じことが言えますが

殷という、1つのまとまりで
すべての地域が殷の王様が直接支配している、というわけでなく、
各地域にその地域の首長(トップ)がいて
その各首長が各地域をまとめます。

ただ、あらゆる地域の首長が、
殷の首長(トップ)を首長のトップとして
まとまることにした形です。

つまり、殷の王が、トップの
トップとしての
役割を果たさなくなったとき、
他の地域のトップが、
殷グループから
離脱しよう、
でも、それを殷はゆるさない、
そして、最終的には
殷を倒さなければ、
解決しない、という形になり、
戦争がおこり、
最終的に殷は滅亡し、
別の地域のトップだった周が
他の地域のトップのトップに
なって、まとめていきました。

いわゆる「地方分権」という
やりかたです。

下の図に書いてみました。
(イラストのイメージはあくまで
地方分権の説明イメージで、
周王朝そのものの王を
表しているわけではありません。)



そして、地方分権で、
各地域の土地は、
その土地のトップの土地として
保証されます。

このように、
その地域のトップが
その地域の「土地」を領有したまま
地域をまとめ、
各地域のトップ(諸侯)が、
従うのは王
という形のことを
封建制度と言います。

諸侯(しょこう)というのは、
地方のトップで、
土地を領有してその地域の政治を
している役目(身分)の名称、

というのは、
各地域のトップ(諸侯)を
まとめている役目(身分)
と思ってください。


周王朝成立時、
諸侯は、地方ごと(国ごと)にいるため
多く存在しますが、王は一人です。
その王に就くのが、周の国の人だった、
ということです。


このような形は、
細かな違いはありますが
日本の封建時代
(鎌倉時代から江戸時代)
でも同じです。

封建制度を完全理解するのは
難しいのですが
ここを自分の中で
ある程度、理解しておくと
あらゆる歴史の流れが
わかりやすくなります。


画像にもまとめました。↓↓





このように、紀元前11世紀ごろに
地方分権でまとまった周王朝
でしたが、紀元前8世紀ごろから
王の力が衰えてきます。

そのため、諸侯たちが周の王の意見を
聞かなくなります。
そして、諸侯たちで権力争いがおこるのが
春秋時代です。

春秋時代には、まだ周王朝そのものは
存在しています。

では、春秋時代、戦国時代は
どういう時代だったのか?は
次回説明します。


ご覧いただき、ありがとうございました。

れくす先生の歴史授業8 中国文明の始まりと殷

2025年01月31日 15時52分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

れくす先生の歴史授業の続きです。

前々回はメソポタミア文明、エジプト文明、
前回はインダス文明(+その後のインド文化)を行いました。

今回は、中国文明です。




1 はじめに

他の文明と違い、中国文明のみ、
中学では「王朝」名を
習います。
(高校レベルだと、
他の文明でも王朝名を習います。)

また、教科書によっては、そのまま、
中国の王朝の歴史に進みます。

そのため、中国文明というくくりで
あまり習わないことが多いです。


そもそも「文明」というくくりも、
歴史の情報を整理しやすくするために
つけたものにすぎなく、
どこまでの時期を「文明」とするか?
にこだわるよりも
「文明という名がつくのは、その地域の
大規模な集団生活が始まったんだよ、
ということなんだな」という程度で
考えても良いと思います。




2 黄河の文明、長江の文明

中国の文明そのものは
黄河流域でも長江流域でも
おこったとされています。


地理でアジア地方を習ったときに
中国の2つの大きな川として
黄河長江を習います。

「河」も「江」も、
「河川」の意味が入っているので
「〜川」とはつけません。
河川名と聞かれれば
「黄河川」「長江川」としずに、
「黄河」「長江」と書く形になります。


また、黄河と長江では、気候や植生も
違ってきます。

古代の黄河では、畑作で
稗(ひえ)や粟(あわ)を、
長江流域では稲作で、稲(米)が
栽培されて
そこで多くの人が住み、
それぞれの文明が
築かれました。

黄河流域は乾燥している地域が多く、
長江流域は温暖で夏に雨が多い(温暖湿潤気候)である地域が多いです。

今は品種改良されて、稲(米)は涼しいところでも、水が少なくても作ることができますが、元々の稲は、
暖かくて、育つ時期の夏に雨が多い
ところである必要がありました。

そのため、長江では稲が栽培できますが、
乾燥して涼しい気候である黄河流域では
水を多く必要としなくても育つ(畑作で育つ)、稗や粟が栽培されました。

中学生の習う歴史では
それぞれの河川で生まれた文明を
習うわけではありません。

中学では、黄河流域
生まれた王朝の
(いん)」から始まり、
さらに黄河流域の王朝をメインに
勉強していきます。


他の地域の歴史でも同じことが
言えますが、
その国の歴史を考える時、
今の国の領土という広さで
歴史を見ないようにします。


今の価値観からすると、
小規模な地域での歴史です。
今の中国という国の規模で
考えるのでなく
黄河流域での都市の規模(都市国家)での
王朝と考えてください。

そして、黄河流域の王朝が、
あたらしい王朝にうつりかわっていくうちに
初期には、いわゆる連合を組んで
グループ内で
まとまっていた形(地方分権)から、
1つのトップ(皇帝)が地方までまとめていく形(中央集権)に変化し、
だんだんと領土を広げていきます。

殷は地方分権の王朝で、
中国が中央集権国家になったのは
秦のときです。

(地方分権と中央集権については
後日、別記事でアップします。)

今の中国の、長江流域まで領土が
広がるのは、かなり時間がかかりました。

教科書や資料集には
地図が載っているので
各王朝、各時期、の
勢力図を見てみると
よりわかりやすくなります。






3 殷

さて、中学レベルで習う中国の王朝名で
最初に出てくるのが「(いん)」です。  


殷王朝以外で「殷」という漢字を
日本では、ほぼ使うことはありませんので
初めて習うと「難しい」という印象を
うける人もいるかもしれません。

しかし、そこで焦らず
じっくりと勉強していただければ
良いと思います。

中国の王朝で、黄河流域で成立し、
現在歴史上で最も古い王朝と言われている
のが「殷(いん)」です。

神話や伝説では、「殷」より前に「夏(か)」という王朝があったと
言われていますが、
「夏」の遺跡や遺物などが出ていないため
「歴史」という点では
「現存していると歴史で確約されている」のは遺跡が出ている「殷」となります。




殷の遺跡のことを
殷墟(いんきょ)」といいます。

「墟」とは
「歴史的なできごとがあった場所(跡)」という意味なので、
「殷という王朝があった痕跡のあるところ」=「殷墟」となります。


殷は、メソポタミア文明やエジプト文明で栄えた国々と同様、宗教と強く結びついた王朝です。

ノートに殷について
まとめました。









殷では
戦争など、何かの決定で大きく後の歴史が変わるような出来事を考えるときには
占いをして、決めていました。


その占いの結果を記した文字を
甲骨文字と言います。



甲骨文字は、亀の甲羅や牛の骨などに刻まれた文字なので、「甲羅の甲」、「骨」の文字をとって、甲骨文字と呼ばれてます。


甲骨文字は後の漢字の元になる文字で
今、使っている「山」などの文字は
「甲骨文字」に似た漢字です。


殷王朝の時期には
まだ鉄器は使われておらず
青銅器が使われていました。

殷の青銅器なのですが、
かなり複雑な文様や形のものがつくられ
高度な技術がないと作るのが
難しいと思われるものだそうです。
現代でも、その作り方の詳細は
不明らしいです。

失われた技術、とも言えます。


私達が歴史を習う時、
とくに技術や学問に関して言えば
「現代に近づけば近づくほど
技術や学問は発展している」
「昔の人は、何も知らなく、
技術は今の技術よりも遥かに劣っていた」
と思い込みやすいです。

しかし、実際にはそうではありません。
もちろん、「ファスト」という意味では
現代のほうが先進的でしょう。
一度に同じレベルのものを定価価格で
作りだす技術は、今のほうがあるかも
しれません。(もしかしたら、新しい歴史の発見があれば、それも変わるかもしれませんが。)


しかし、「技術力」のみに特化すれば
過去に、現代より優れた技術を作って
いることもあるんです。

また、私はふだん生活して
金属を作り出す技術を自ら発見
できる才能はありません。
しかし、過去に、人類初の金属生成を
発見し、発展させた人々がいるからこそ
今があるわけです。


過去のもの、昔の人々が
現代の我々より
「無知」「劣っている」
「かわいそう」など
と思って歴史を見ると
歴史を理解できません。

必ず、「敬意」を払って、
その時代、その時代の人が
どう生き抜いてきたのか?を
考えて見る必要が私はあると
思います。


今回は以上です。

次回は、周王朝成立時と、その後の
春秋時代、戦国時代を行います。

なるべくはやく、完成して記事をアップできたらいいな、と思います。

ご覧いただき、ありがとうございました。


れくす先生の歴史授業7 インダス文明とその後のインド文化

2025年01月20日 08時00分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。


前回の続きで、
れくす先生の歴史授業シリーズの続きです。


前回は、メソポタミア文明とエジプト文明の
中学生で習う内容について説明しました。



今回はインダス文明です。



1 インダス文明の特徴

インダス文明は、
メソポタミア文明やエジプト文明と違い
現時点では、インダス文明の時代に
使われていた文字(インダス文字)が
解読されていないため、
詳しい歴史はわかっていません。

そのため、
テストという場面という意味では
覚える用語は他の文明に比べて少ない
です。 


これから、何か大きな発見等があれば
詳しい歴史が明らかになるかも
しれません。

2 遺跡の注意点

インダス文明を習う時、覚えるうえで
注意したいのは
遺跡のある場所(現在の国名)です。


インダス文明は
「インド」の文明の発祥地と
習うことも多いと思います。

しかし、
インダス文明の遺跡で
習うところ(モヘンジョ=ダロ、ハラッパー)はパキスタンになります。


インダス文明という用語の元になる
インダス川も、多くはパキスタンを
流れています。(一部はインド、中国を
流れています。)

現在のインドで有名な川は
ガンジス川です。
(ガンジス川も、インド以外の国も
通っています)
地理のアジア州で習っている川ですね。


ガンジス川インダス川
混同しないように気をつけましょう。



どうしてこういう状態になっているの?と
思われるかもしれませんが
近代、現代の歴史を知っていると
その理由はわかります。


パキスタンのある地は、
元々はインドでした。
しかし、近代になり
イギリスの植民地化に
インドはおかれました。

第二次世界大戦後に独立するとき、
宗教上の関係からインドだった地域は
ヒンドゥー教徒地域としてインド、
イスラム教徒地域としてパキスタン
として分離独立しました。
(のちに東パキスタンはバングラデシュとして分離独立。)




古代の時点、そして、長い間、
古代インダス文明は、
今の国家の枠組みのみで考えるのではなく
昔のインドという枠組みで考えると
良いでしょう。



3 インダス文明で中学生が習うところ

インダス文明のおきた川は
インダス川で、
文字はインダス文字です。

インダス文字は現時点では
解読されていません。


遺跡としては
モヘンジョ=ダロハラッパー
どちらもパキスタン内にあります。

中学の教科書では、
モヘンジョ=ダロのみを
明記しているものも見かけます。




4 インダス滅亡後のインド世界

インダス文明そのものは
上記の内容(3)のみです。

中学の教科書だと、
そのまま、インダス文明後の
インドの歴史を少しだけ書いてあります。

そのときの歴史で生まれたものが
世界全体の歴史につながっていきます。

その内容についてお話します。

インダス文明のころの
都市国家が滅亡した
理由は決定的な説はありません。


今からお話するのは
インダス文明のあとの
インドの世界と考えてください。


宗教としてはバラモン教
学問的なものとして
アラビア数字0という数字の概念が
誕生しました。
(バラモン教成立の時期は、
おそらくその頃、という意味です。)




〈バラモン教とヒンドゥー教〉

バラモン教というのは、今のインドで
多くの人々に信仰されている
ヒンドゥー教は、のちの時代に生まれた
宗教で、バラモン教の影響を受けている
宗教です。
(バラモン教=ヒンドゥー教、ではありません。)

バラモン教ヒンドゥー教は、
他の宗教と違った
特徴的な考え方があります。
バラモン教、ヒンドゥー教は
身分、そして、それに伴う職業に
結びついている
宗教です。
このような独特な階級制度を
カースト制度
と言います。

このあたりの内容は、地理の方で
習っているので覚えている人も
いるでしょう。





〈アラビア数字 と 0の概念〉

また、インドは、現代の数学に必要不可欠な
アラビア数学0という数の概念を
作り出しました。

アラビア数字は、1、2、3という
現在の数学で使う数字のことです。

なぜインド数字と言わずアラビア数字と
言うのか?というと
インド数字がアラビアに伝わり
ヨーロッパにアラビアからインド数字が
伝わったことから、「アラビア数字」と
呼ばれるようになりました。


0という数字が誕生したことは
数字の歴史において大きな出来事です。





0というのが、何が凄いか?というと、
これにより計算がしやすくなったのは
もちろんなのですが、
0というのがあると、ある1つの法則に
従って、さまざまなことを定められる
ことも多いと思います。


たとえば、「0」という数値がないと
「リンゴがある」「リンゴがない」という
2つの現象を個別に考えなきゃいけないですが、「0」という数値があると
「リンゴがある」という1つの現象で
説明できます。 
さらに代数という考え方で
0という概念があると、
「リンゴがa個ある」として、
aに0を代入することも可能です。
計算の上では代入するだけですが
もし、この世に存在する具体的イメージを
書く必要がある限り、「リンゴが0個ある」=「リンゴはない」とします。
(代数学はインド発祥ではありません。)


このように0があると、非常に
頭の中をシンプルにでき
様々なことを考えられるようになります。


(0のことについては、私の個人的な意見を入れて書いてます)


今回は以上です。

ノートにもまとめました。
下図の画像もご参考にどうぞ。







今回は以上です。

次回からは中国文明なのですが、
まだ画像が作成途中なので、
完成次第、またアップさせて頂きますね。


画像を作成しつつ、別の記事も定期的にアップしていきたいと思います。

ご覧いただき、ありがとうございました。


れくす先生の歴史授業6 メソポタミア文明とエジプト文明 2

2025年01月19日 20時46分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。

前回の続きで「れくす先生の歴史授業」の
続きです。


前回は、メソポタミア文明エジプト文明
中学生で習う歴史の内容を具体的に見ていきました。

今回は、メソポタミア文明とエジプト文明についての相違点(似ているところ、違うところ)に焦点をおいて、見ていきます。


テストそのものには出ないものですが
理解する上で、少しでもイメージが
ついたらいいな、と思って
ノートにまとめました。








あくまでイメージで描いてます。


今回は短いですが、
コラム的な感じで
書かせていただきました。


次回はインダス文明です。

ご覧いただき、ありがとうございました。



れくす先生の歴史授業「メソポタミア文明とエジプト文明 1」

2025年01月18日 23時09分00秒 | れくす先生の歴史模擬授業
みなさま、本日もありがとうございます。



「れくす先生の歴史授業」を再開させて
いただきます。
ただ、以前のように、
パソコンで画像を
作成する時間がないため
手書きのものが多くなりますが

「手書きだと、勉強する気がそれる」とか
「パソコンで書けない先生だと、きちんと教えられるか不安」
という気持ちの方は、
そもそも、このブログをご覧にならない
のでは?と。
今までの記事でも手書きのものもあるし、
今は現役の肩書もないですし。

私のブログは
勉強について、あらゆるものを読んでいる
中で、私のブログも活用している、
つまり、数ある読み物の1つ、
と思って、参考程度にご覧になられている
方が多いと思います。


ただ、パソコンで書いたほうが
読みやすいという方もいらっしゃるのは
わかりますので、可能な限りは
パソコンで書きたいですが、
それだといつまで経ってもブログを書けないので、手書きのものも活用したいと思います。

理想的なことがやれないまま、
グスグスブログなってしまっていますが
可能な限り、更新していきたいです。




ではでは、「れくす先生の歴史授業」を
始めさせていただきます。





前回は、古代文明の導入で
どうやって古代文明の内容を
まとめていくか、覚えていくか、
という話をしました。

今回から具体的に見ていきます。


今回は、
メソポタミア文明エジプト文明




1 この文明を習うにあたって

この文明は、それぞれ独立して覚える、
というより、
近くの地域で交流があり、
相互作用があった文明という認識で
歴史を見ていく必要があります。


交流というのは、
人の行き来、貿易などの
平和的交流はもちろんですが
それ以外、つまり、戦争もあったと
いうことです。



そのあたりも踏まえて
歴史の流れを見ていくのが大切ですが
中学生が習う内容は
各文明の文化的な面、つまり、
暦や文字、建物、などがメインで、
各文明でおこった王国の特徴や
王国同士の交流や戦いは習いません。
このあたりは高校生で習います。

この記事シリーズは私立中学受験と高校受験向けの内容なので、今回は、各王国の細かい部分は明記しません。



まずは、下の画像を見てください。




これから、「文明」というククリで
習う文明についての全体的な特徴について
簡易的に記したものです。

ではでは
前回、お話したように
文明名、その文明がおきた大河、文字、などにカテゴリー分けをしてみていきます。

今回は
メソポタミア文明とエジプト文明に
ついて、見ていきます。


2 メソポタミア文明とエジプト文明


1 河川名と暦

どちらの文明も、大きな川の近くで
文明が生まれています。


川は古代(近代まで)において
交通の要であり、農業を行う上でも
水があることは大切です。

ただ、そうだとしたら、どの川でも
文明は発達するじゃん、ということ。

川の周りに小さな村(ムラ)はできますが、
文明というのは、村のレベルを大きくした
かなり大きい集団コミュニティである
都市国家が母体となって生まれます。


では、
メソポタミア文明エジプト文明
おきた、川は他の川とどんな違いがあったのか?というと、
洪水が定期的におき、その洪水で運ばれた土が栄養がたくさんあったので、農業に適していた、ということが大きいです。

農業というのは、水だけでなく、土も大切で、植物にとっての栄養がどれだけつまっているか?で、農作物が育つか?が変わってきます。


メソポタミア文明では、
チグリス川ユーフラテス川
という2つの大きな川、



エジプト文明では、
ナイル川が、



そのようなタイプの川(大河)でした。

洪水というと、もちろん、
大きな災害であることは間違いないです。
人的被害阻止のため、そして、
農作物をとる周期もわからないと
安全に確実に農作物を収穫できるために
洪水のおきる法則を見つけ出すことが
必要です。

その法則から導き出されたものが、
(こよみ)です。

暦はカレンダーです。

メソポタミア文明では、月の満ち欠けから、
エジプト文明では、太陽の動きから、
それぞれ暦が作られました。


の満ち欠けから割り出された暦を太陰暦
太陽の動きから割り出された暦を太陽暦
言います。

陽と真反対のもの(対極をなすもの)になるものを陰というので、太陰は、太陽と対極を
成すもの、つまり月ということです。


メソポタミア文明では、60進法という
数学の考えも使われました。

60進法は、現代の我々でも使っている
考え方です。


60秒で1分、
60分で1時間、
というように、
60の単位で1つ上の単位に繰り上がる
ものです。

暦とは、時間を人間の考えで区切ったものなので、この60進法で時間を区切ることで、日にち、年を区切ることができることが可能になります。

2 文字

文字というのも、
暦などを記すものとしても必要です。
また、
だんだんと集団の規模が大きくなると
一斉に遠くまで伝達するのに便利なものが
文字とも言えます。
文字は、地域だけでなく時(とき)さえも
超えます。

時空の伝達手段が文字なのです。



同じ文字を使い続けていたら、
未来人にも、当時にどんな人がいたか、
どんなことが起きたのか?
未来までに伝えたいこと(洪水や地震などの災害など)を伝えてくれます。

でも、その文字を使う人々が未来に
いない場合、当時の歴史は闇のまま。
少しの遺跡は残っているかもしれません。
でも、そこで、当時、どんな風に
彼らが考え、何を楽しみにし、生きていたか?は、出土された遺物から想像するしかありません。さらに、遺跡も遺物も少なかったり残されてなかったものは、未来には知られてない歴史になります。


古代エジプトの文字(ヒエログリフ)も、
遺跡としては
残っていましたが、近世、近代の世界には
誰もその文字を使っている人はいませんでした。だからこそ、その解読をするのは
かなりの労力が必要で、
運が良いことに、古代エジプトの文字と
並列されて記された文字が、近代に使われていた文字とリンクすることができ、
解読できました。


文字だけでなく、
伝説、神話などの口頭で伝わったもの、
その口頭伝達したものを文章化したもの、
過去にみつけた法則や公式など、
これらをまとめて「学問」と言えます。
学問というものは、
「テストで点数をとるだけ」
「学歴や就職先を得るため」ための
個人的問題に帰結するものだけでも
ないですし、
「現代の生活に直結するノウハウ」のものだけを学ぶものでもありません。


現代の我々が一度でも、
過去から積み重ねた学問を
断絶すると、過去のものが未来まで
伝わりません。


過去に積み重ねてきたものを未来までに
伝えるために、現在では
公的機関である学校教育が
その一端を担っていると
思うことがあります

だから、学校という存在は必要だと
思いますが、学校で習う内容を習って
一人一人が未来に繋げていくことが
大切であるだけで、
別に、(国家資格取得目的以外では)
学校という場所で学ぶ必要は
必ずしもありません。
学校の先生以外に
勉強を教えてもらうこと、
自分一人で家で勉強することは
別に悪いことでも
劣ったことでもありません。
逆に学校に行けば、
何でも良いわけでもないかな?と。


学校に行くこと、と、勉強をすること、は
別に分けて考えると良いと思います。

もちろん、学歴、職歴を手に入れるために
勉強するのは、私は好きです。

でも、それだけに特化すると
不登校になったときに残る感情は
「絶望」です。

私達の歩む歴史は、
歴史の「到達点」ではありません。

あくまで通過点です。

なので、
「今は、これだけ科学技術が進んでいるから、昔のような勉強方法(学校がない時代の学び方、本を個人で読んで勉強する、座学で学ぶ、古典を勉強するなど)は悪だ」
「一人で黙々と勉強する人は、将来困るよ!」と決めつけて、
過去の人間が築いたものを否定して、
ぶち壊してしまうのは、
現代人の驕り高ぶりだと思います。

今、現在、生きている私達が、
昔ながらの学び方も肯定し、
未来につなげていくことも
大切だと思います。

同調はする必要はないですが
肯定していくとで未来につなげていく。

この科学技術が突然失われることだって
ありますので。


なぜなら、今の科学技術とは
違う方向ではありますが、
古代文明の時期に生まれた技術は
現在の科学では復刻できないものも
あるそうです。

つまり、過去のものは、今よりも
すべて技術が劣っていたわけでは
ないということです。

少し話が、ズレてしまったので
メソポタミア文明とエジプト文明で
それぞれ使われていた文字の話に
戻します。



メソポタミア文明では、
くさび形文字を、

エジプト文明では、
象形文字
使っていました。


くさび形文字(楔形文字)の
「くさび(楔)」とは、先の尖った道具の
ことで、その「くさび(楔)」のような「形」をしていることから「くさび形文字」と呼ばれます。

下の画像がくさび形文字の一例です。

くさび形文字は、水を含んだやわらかい粘土の板に、葺(あし)という植物を削ってペンの形にしたもので削って、文字を記しました。
この粘土板を焼けば長期保存も可能です。
残しておきたい文章などは、そのように焼いていました。
そのような文書が現在発見されているので
我々は歴史を知ることができます。




「くさび形文字(楔形文字)」は
固有名詞ですが
エジプト文明で教科書に書かれている
象形文字というのは
固有名詞ではなくカテゴリー名詞です。

象形文字とは、何かの形の線画抽出したもの。一見、絵にみえますが、文字としての記号になります。
中国で生まれた漢字の一部も象形文字です。
山の形を形どったのが「山」という漢字です。

エジプト文明だと、
鳥の形を文字化したものがあります。
下の画像が一例です。 



エジプトの文字でヒエログリフという
言葉を聞いたことがある人もいるかも
しれません。

昔の教科書だと、
エジプト文明の文字は「ヒエログリフ」と
表記しているところもありました。


しかし、ヒエログリフは、古代エジプトの
使われた象形文字ではありますが、
古代エジプトでは使われた文字は他にも
ありました。ヒエログリフは、石碑や彫像などの石に刻まれたものです。ヒエログリフという文字そのものに神の力が宿っているようなイメージで、神の力を必要とする石碑や彫像などに刻まれていました。


その他にも筆記用の文字などもありました。


それで、ヒエログリフ=エジプト文字、ではなく、ヒエログリフもエジプト文字の1つ、という認識なので、古代のエジプトは、
象形文字を使っていた、と表記されます。





3 建物

建物に関してだと、
古代には、ほぼどの地域でも
宗教と密接に結びついてます。

今の学問のように「理科」の内容の
自然や医療のしくみが
ハッキリしてません。

人間というのは、理解できないことに
対して不安感を抱きやすい生き物だと
思います。
そのときに、理解できない現象に対して
「神々」という存在を作り出して
その「神」や「神の使い」が行っているもの、と定めます。
いわゆる、現象を公式化(キャラクター化)
した、とも言えます。
今だと、数字で説明するものを、
「神」で説明しているだけで、

数字による秩序か、神による秩序か?
だけで、「秩序」を維持しているだけの
違いなので。
「秩序」がないと、戦争が常におきたり
理不尽で横暴な人の天下になってしまうので。

ただ、やはり、今の価値観、
いわゆる、数字や法の秩序のほうが
より理不尽さが減るとは思いますが
「秩序」という観点だけで見れば
今の秩序でも昔の秩序でも
どちらも秩序はできていると思います。

今、とくに今の日本の価値観は
第二次世界大戦の経験から
「宗教というのは怖いもの」
「宗教を信じることは悪い事(危険なこと)」と思う人がいると思います。
個人個人がそのように思うのは
かまいません。

でも、「歴史」を見るにあたって、
「宗教を信じて生きている人」
「宗教が根底に根付いている歴史」を
バカにしては、
真実を見ることができません。

さらに、歴史を教える側が
本来は宗教的価値観に結びついていたことでおきた事件や創作物であったものなのに、
「宗教」と分離して、おきた事件や創作物を扱うと、何か矛盾を感じるというか、
事件と事件、その事件をおこした歴史人物と事件が、うまく繋がらなかったりすることが多々あります。


別に歴史を学ぶというのは
「その歴史人物のマネをするため」
「個人の人生の模範にするもの」では
ありません。
その「歴史」を理解することが必要で、
今の価値観では「法律違反」「不適切」「マナー違反」というものもたくさんあります。
でも、その「現在不適切」なものは、
 過去にはあったことは事実なのだから、
「現在の価値観」とは切り離して
「このときはこうだった」と
見ることが、歴史を理解することです。


「同調」と「理解」は別物です。
「同調」は同じ価値観で初めて受け入れられますが
「理解」は、同じ価値観でなくても
かまいません。


メソポタミア文明もエジプト文明も
それぞれの宗教がありました。

そして、それぞれの神殿などの
建物が建てられました。


メソポタミア文明では、
ジックラトという神殿、聖塔、
エジプト文明では
ピラミッドやあらゆる神殿
の建物が建てられました。



ピラミッドというのは、四角錐の巨大な建築物をあらわしているカテゴリー名詞なので、
エジプトに建てられたものだけを
ピラミッドと言うわけではありません。
しかも、ピラミッドを建てられたのは
エジプト王朝の歴史の中でも最も古い時代
の建築物です。
多くの人が知っているツタンカーメン王や
ラムセス2世などは、ピラミッドが建てられた時代のエジプトの王(ファラオ)では
ありません。


中学生の習う歴史は
エジプト文明の細かい王朝は習わず、
めちゃくちゃ長い歴史の遺物をかいつまんで習うので、ピラミッドがいつの時代のものなのか?は習わないので、
ぶっちゃけテストでは、年代を
ぼんやりして覚えてても問題はありません。

ただ、テレビでよく見るエジプトの王の歴史は、多くはエジプトのピラミッド建設の時期よりかなり後の時代、と思って見たほうが
より鮮明に歴史を見ることできます。


また、ピラミッドそのものが
王の墓というのは絶対的な答えではなくて
王の墓であるかもしれないし、
それ以外の目的の建物かもしれない、
と様々な説があります。
ピラミッドの作られた方法も
決定的な答えはありません。

今、我々が、知っている歴史は
すべて明らかになってないです。
これからの未来、明らかになる楽しみは
あります。
空白こそ、楽しさが詰まっていて
だからこそ、学問、勉強を根気強く続ける
意義や楽しさもあると思います。

ノートにまとめてみました。

まずはメソポタミア文明。




ついで、エジプト文明。




今回は以上です。

次回は、メソポタミア文明とエジプト文明の
違いを説明し、その後、インダス文明、中国文明と続けていきたいと思います。



ご覧いただき、ありがとうございました。





れくす先生の歴史授業第5回「新石器時代(世界全体)」

2024年11月18日 07時00分11秒 | れくす先生の歴史模擬授業

みなさま、本日もありがとうございます。

 

 

やっと「れくす先生の歴史授業」が再開できました。

可能な限り、定期的に更新できるようにしたいです。

これ以上、プライベートで何もおこらないと良いのですが・・・。

 

れくす先生の歴史模擬授業シリーズです。

今回は、第4回 新石器時代 の話です。

 

 

※この授業のコンセプトは第1回の内容をご覧ください。

 

 

「新石器時代そのもの」は、私立中学入試ではあまり出ない分野で、中学になってから初めて習う内容のことが多いです。

(私立中学入試で絶対に出ない、とは言えないので、受験予定の学校の過去問の確認をオススメします。)

 

テスト勉強のために用語を覚える、という意味では

最初から用語をしっかりバシバシ入れた方がわかりやすいと思います。

ただ、今回のシリーズは、

「はやく覚えないと誰かに人格否定される、という不安感でパニックになることを

防いで、落ち着いて、学校とは関係なく、受験勉強し続ける」というのが目的の1つなので

「用語を受け入れる前に下地を作る→その後でテストで用語をバシバシ出す」

・・・という形にしています。

 

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第5回 「新石器時代」

 

今回は新石器時代です。

「新石器時代」という名称は世界史では使いますが、日本史では「新石器時代」は表記しません。

日本史では「新石器時代」に当たる時代は「縄文時代」に当たります。

 

まずは、新石器時代全体(世界史全般)を見ていきましょう。

 

1:旧石器時代から新石器時代に

 

(1)時代が変化したきっかけ

 

 旧石器時代から新石器時代と時代区分を分けて、現代の私たちが見ている理由は、

「生活形態が大きく変化」したので、そこに名称をつけて分けた、ということです。

 

では、どうして「生活形態が大きく変化」したのでしょうか?

 

それは、氷期が終了したことが大きいのです。

氷河時代は、定期的に氷期・間氷期が交互におとづれる時代であることを以前お話しました。

 

今から約1万年前に、氷期から間氷期に移り変わりました。現在では、この間氷期の期間に当たります。

この内容は、よく「最後の氷期が終わり、地球は温暖な気候になった」と書かれるものです。

「今のところ、最後である氷期から、氷期より温暖である気候である間氷期になった」という意味です。

 

 

氷期では、地球上のいたるところに氷河がありました。

氷河というのは氷が浮いている、というイメージをしている人もいますが、

そうではなくて、陸地が氷で覆われていたり、山間に氷の川がある、というものです。

 

その氷期が終了し、暖かくなるとどうなるか?想像できますか?

 

暖かいと、氷は水になります。山間にあった氷の塊は溶けて水になった・・と考えると、

洪水が当時起きたのだろう、と思います。当時の人々も、この災害の被害にあったのかもしれません。とても怖かったでしょう。

溶けた氷は水になり川となって、海に注がれていきます。

陸地を覆っていた氷河も多くは溶けていきます。

 

そうなると、海の水が多くなります。この状態を「海面上昇」と言います。

それまでの海面だった高さより高くなったのです。

 

 

そうなると、氷期のときは歩いて移動できた場所の一部は海となります。

(下図も参照してみてください。)

 

結果、海や川に行く手を阻まれ、行き来が難しくなるところも増えました。

日本列島もこのときに、ユーラシア大陸から切り離される形になりました。

日本はここから縄文時代が始まります。

 

 

 

 

(2)新石器時代の生活

 

氷期が終わり、比較的暖かくなったことから、その気候変動と、それに伴う生活変化に対応できず、絶滅する動物もいました。

環境に適応するために動物は身体的変化を遂げて生き残ってきました。

(今回の氷期の終わりの時期ではありませんが、地球上では何度も環境変化がおきていて、

我々、人類の先祖も、環境に適応して生き残るために、直立二足歩行ができるようになったり、

道具を作れるような手の形に身体的変化を遂げました。)

 

環境変化に適応できた動物は生き残ります。

新しい環境にうまく適応できるか?によって、

生き残り&変化、絶滅、の結果の境界線ができたのでしょう。

 

 

新石器時代になり、減った動物は大型動物が多かったです。

絶滅した大型動物の例だと、マンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなど。

 

 

大型動物が減ったけれど、小型動物や、木の実などの植物は増えました。

このことが、生活形態が変わる要因の1つになります。

 

 

それまでは(旧石器時代には)、大型動物の狩りで、食料や衣類を調達していました。

大型動物の狩りの場合、集団で動物を追い込んで、穴や沼地で動けなくなったところを、石や石槍などで狩りました。

 

新石器時代になると、大型動物が減ったので、狩りの対象は、小型動物、中型動物などになります。

小型&中型動物は、大型動物よりも動きがすばやく、人間が近くに行くと、すばやく逃げます。

なので、狩りを成功させるには、遠くからでも狩ることができる、弓矢は狩りの主役となります。

また、狩りをするために犬を家畜にしました。

犬が小型動物を、人間が待ち構えているところや、捕らえるワナに追い込んで・・という、

人間の狩りの相棒となりました。

 

 

 

 

 

また、川が多くなる、ということは、水分を多く必要とする植物も多くなったということです。

つまり、農作物を育てる環境にもなったということです。

農作物を育てるには、そこに田畑をつくり、1年中同じ場所で、

種をまき、水をまき、育て、刈って・・というのをしていく必要があります。

つまり、一定期間、同じ場所に住む(定住)をする必要があります。

このように、食べ物を追い求めて移動をしていく形から、定住生活をして農耕を行うような生活形態に変化しました。

また、農作物が豊富に育たない地は、野生の動物たちを家畜化して、

その動物たちの毛や乳や肉を使って、生活(衣食住)をしていく形、つまり、牧畜をする形で人々は生活するようになりました。

 

 

このように、新石器時代になり、定住生活を行うようになり、そこで農耕牧畜が行われました。

その結果、食料を計画的に生産できるようなりました。

 

さらに、食料を蓄えること(保存すること)もできるようになりました。

そのときに使った物が土器です。土器を作るようになり、その土器で、食料を保存したり、調理をしました。

 

土器を作るようになったことで、食べ方のレパートリーが増え、

それまでは食べられなかったものも食べられるようになりました。

 

 

「土器をつくる」というのは、現代の視点から考えると「当たり前」「簡単なこと」のように思えるかもしれません。

でも、当時の意識を降りたって、土器をつくることを考えて見てください。

そうなると、「土器の作成」って「初の化学」とも言えるんです。

「化学」とは

「物質aと物質bは、どちらも自然界に存在しているもので、2つは全く別のもの。

しかし、その物質aと物質bを、何か別のエネルギーを加えると、別の物質cとして生まれる」というものです。

つまり、土器で言うと、自然界に存在している物質aが土(粘土)、物質bが水、で、

それを混ぜ合わせて焼くこと(熱エネルギーを加えること)で、物質cの土器がうまれた、ということ。

物質aの土だと、水が加わると泥になってしまうけど、物質cの土器になると、そこに水を加えても、

形状は変わらないので、鍋として使うことが可能になります。

 

土器の誕生以前でも、肉は焼いたり、蒸して食べることは可能でした。

しかし、木の実などは生で食べられないものもあり、また焼いても食べられないことが多いです。(人間の消化器官の関係で。)

しかし、そのような木の実でも、煮てしまうと、食べられるのです。

例えば、ドングリは渋みがあるので、水にさらして、土器でも煮ることで、初めて食べられるようなりました、

 

 

 

 

 

 

土器は世界中のあらゆる場所で作られ、使われました。

 

 

新石器時代には、石器も、打ち砕いたり磨いて、

必要な鋭さや滑らかさをもつ石器も使うようになりました。

このような石器を磨製石器と言います。

 

磨製石器を使い始めた時代を新石器時代と言う」と

習うことも多いです。

テストそのものでは、「磨製石器」「新石器時代」という用語を

書かせる程度で、「テストで点数をとる」、「入試で合格する」、という目標の上では

新石器時代はあまり重要な分野ではありません。

しかし、

「私たち人類はいったい何者だろう?」とか

「私は、誰からも愛されない、誰からも蔑まれているのに、なぜ、この世に生まれてきたんだろう。」という

答えのない疑問の答えを探し出すには、この新石器時代はそのヒントになるかもしれない、と私は思います。

また学問的な意味で言えば、テスト用語そのものは出なくても、新石器時代を勉強することで

「歴史を学ぶ思考」がついていく第一歩のもの、だとも思います。

 

 

今回は以上です。

 

ご覧頂き、ありがとうございました。

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次回は古代の文明を見ていきます。