みなさま、本日もありがとうございます。




古代中国でうまれた易姓革命の考え方と、
今回もれくす先生の歴史授業です。
古代中国で生まれた文化、制度についてです。
今回は易姓革命です。
1 はじめに
実は、ここまで長々とこの内容を
書いたのは、易姓革命について
ある、伝えたいことが
書きたかったからです。
私の場合は、大学に入るまでは
「テストで点数をとること」
「希望する大学に行くこと」を
目的に勉強していて、ほとんどの時間を
それに費やしました。
社会分野の入試における配点は
私立高校や大学入試では
英語や国語の分野の半分になることが
多いです(理科も)。
私が高校受験生のときは、
3教科受験で、理科と社会は
入試科目にさえなかったところも
ありました。(私立高校受験)
入試は、各教科の足切り点はある
かもしれませんが、基本的には
各教科の点数を
合わせた総合点で合否が決まります。
そのため、私が受験生のときの
高校入試なら
国語、数学、英語に、
大学入試なら、
受ける予定の大学の科目で
配点が大きい科目
(だいたいは、文系なら英語、国語)
の方に力を入れてました。
社会は好きではありましたが、
英語や国語ほど勉強の時間を割けなくて
授業で「ん?」と思ったことは
多々ありました。
でも、暗記してテストで点数取れるように
するための、最低限の情報整理さえ
しておけば良い、というスタンスでした。
例えば、「遣隋使は飛鳥時代、遣唐使は奈良時代から平安時代、の内容で出てくる」「白村江の戦いは飛鳥時代で、大化の改新が行われた後の時期」とか、その程度。そのときに、なぜ、遣隋使や遣唐使が行われたのか?そもそも、遣隋使や遣唐使というのは何か?白村江の戦いの戦いのときに、すでに中国は唐だったのに、飛鳥時代で遣唐使の話題はテスト問題で出ないのはなぜか?
などなど、疑問に思うことは出来たのに、それを疑問に思って追求することは
罪であり、生命の危機だと思い込んでいたのでした。
なぜ罪と、生命の危機、思ったか?というと、
私は小学生のときに同級生にいじめられ、
学校の先生からは迫害され、授業で何度も吊し上げにされた経験がありました。
その理由の一つが
「私が勉強ができないから」
「テストで点数が取れないから」でした。
その後、中学にあがってから、
必死に勉強して、
先生からは、
いじめられることはなくなったので、
ホッとしました。
先生さえ、その生徒をいじめなければ、
クラスメイト全員にいじめられる危険性は
ぐんと減るので。
先生は、授業態度が良くて、
テストの点さえよければ
その生徒は「良い子」と認識する
傾向があるので。(全員ではありません。)
そのため、私にとっては
「テストで点数が取れない」
というのは
「先生や同級生に攻撃される」=「生命の危機」という構図になってしまっていたので、
社会科は
テストである程度は点数をとれるし、
内申点的には問題ないし、
入試では、公立高校入試以外は
英数国よりも配点が低いので
わざと疑問点やモヤモヤ点は
かき消していました。
しかし、大学入試直前になり
「情報整理さえすれば点数をとれる」
というわけにはいかなくなり
高3の夏休みになって、
ある塾の講師の先生の短期講習の
出会いで初めて、
「歴史用語に膨らみをもたせても
先生という存在は私を罰したり
しないんだ」
と安心しました。
先生という立場の人から
「考えることは危険ではないよ」
と言われたのは、
かなりの嬉しさがありました。
それから半年間だけは、問題をとかずに
社会(世界史)だけは
ノートまとめをしまくって、
大学入試に出て、第一志望校に合格する、
という暴挙に出た私でしたが、
それが今の私の授業スタイルの始まり
であったりします。
また大学では、疑問に思ったことを
どれだけ調べようが、質問しようが、
それでいじめられたり、迫害されたり
しない、と安心できる空間と認識できたので
やっと、自分に合う勉強方法を開拓
できました。
塾講師や家庭教師の仕事を通しながら
「本来の自分の再生(個人的ルネサンス)」を行えたのです。
世間は「学校に行かないと、集団生活における社会性は身につかない」と言いますが
「社会性とは、その人が、その集団の中で生活しても、心身ともに安全である、と認識しないと産まれないもの」であると、
心理学の本で読みました。
まさにその通りだと思います。
だから、「学校」が「自分にとって危険な空間」と認識してしまったら、社会性は育ちません。育ってしまうのは、異常なほどの、過剰適応か、過剰防衛か、過剰暴力です。
自分の守り方が、自分に嘘をつく形の「適応」「防御」、または、自分の考えを相手に合わせさせようと強要する「暴力」に向かうだけ。
それは、どちらも、
最終的には、破綻します。
私は「過剰適応」という形で出ました。
高校まではそれで自分の「安全」を確保しましたが、親になって、ホルモンバランスを崩した途端、待ち受けていたのは、10年以上におよぶ「強迫性障害」との闘いでした。
だから、仮に「不登校」になったとき、なりかけたとき、
「学校に行くこと以外では、解決方法はない」と自分たちを追い詰めて、
学校に行けたら大丈夫とはならないかもしれません。
最も怖いのは、不登校そのものより、
それに伴う、うつ病、強迫性障害、などの
障害発症だと思います。
「勉強」だけの問題なら、
「自宅学習」や「図書館」、
「塾や家庭教師」「フリースクール」
などで解決という手もあり、
「集団生活での社会性を身につける」問題は、「学校」にこだわらなくても「本人が安全だと思える場所」をみつける方が良いと思います。
話をもとに戻します。
私は易姓革命という
考え方までは知らないまま、
大学合格までいってしまい、
大学に入って、易姓革命を
知りました。
でも、大学なので、それは知っているでしょ?前提だった講義で、
易姓革命をダイレクトに
教えてもらったわけでもなく
今から考えると易姓革命の考えだったなぁ、
と思った程度です。
易姓革命について、
詳しく知ったときは
結婚し、何度も流産し、
精神的にまいったときに
漢方薬の存在を知って
それの一貫で陰陽五行説を
知ったときです。
それから、道教の神話なども
ある程度ですが知ることで
「私が小学生から疑問に思っていたことの
答えを知るための重要パーツは、
易姓革命にあったんだ!」
「私が苦しかったのは、
易姓革命の存在を認識しないで
それを建前でなく真実と思って
歴史を教えられていたことなんだ」と
気がついたのです。
それがどういうことか?を話す前に
本題へ。
2 易姓革命とは?
易姓革命とは何か?について、
画像を御覧ください。




古代中国でうまれた易姓革命の考え方と、
西洋の「革命(レボルーション)」の
考え方は違います。
どちらも「革命」という用語を使うので
混同する上に、
中国の場合は、「易姓革命」という
用語でなく「王朝交代」や
「◯の王朝は滅び、▲の王朝が開かれた」
と別の言い方が使われます。
確かに、そちらのほうが教科書の書き方としては正しいです。
なぜなら、「易姓革命」の考え方は
「勝者(新しく王朝を開いた方)の都合」とも言えるので、「易姓革命がおきた」と
教科書で書くのは主観的な見方になるので
書けないと思います。
3 私と易姓革命
ただ、教科書でなく、
教える方側だったり、
世の中の風潮(作品など)では
王朝が滅亡するときに
「易姓革命」の考え方で
説明したり、描かれることがあるので
そこに小さい頃の私はひっかかった、
疑問に思ったのです。
例えば、
「フランス革命期の王朝が【民のことを全く考えなくて贅沢三昧だったから】革命がおこった」
とか
「あの歴史人物には、
愛がないから政治に失敗した」とか、
授業で説明されることがあります。
自分も昔は「そういう風に言うことが正しいと言われて、それに疑問に思わないと生きていけないと思って授業をしていた」という悔しさ、申し訳無さ、があります。
実際には、
その王朝で革命がおこったり、
王朝が滅亡したり、
政治に失敗するのは、
様々な要因があって、
必ずしも、そこに「愛」は
必要はないのです。
また、「愛」があれば、
なんでも成功するわけでもない。
私が昔、感じていた違和感は、
「建前」の理由を、まるで本当のことのように語り、「歴史」を「道徳」のように扱う授業そのもの、だった。
その「建前」は「易姓革命」の考え方が
ベースにあったのだろう、と。
易姓革命そのものの考え方が、悪いとは
思いません。
たくさんの民、
とくに、経済的、身分、宗教観や土地柄が
異なる人々をまとめていくためには
「建前」は必ず必要だから。
でも、易姓革命の考え方が「建前」と思って歴史の授業をするのと、
「歴史の真実」と思って歴史の授業をするのでは、生徒さんたちのその後の生き方が変わってくると。
とくに、発達障害の子は、先生や同級生に「悪者」「愚者」にされがちです。
そのため、本来は、自分の生き方を模索する相棒にもなりつつある「歴史」、
発達障害だと思われる歴史人物もたくさんいるため、そこから自分はどう生きるか?を考えることができる「歴史」が、
「自分は悪者だから、歴史も自分を責めていて、怖い」となってしまう恐れがあります。
私がそうでした。
「易姓革命」の考え方を知った今、
「建前をうまく使いこなすことも
リーダーシップを発揮するには
必要」と思えるようになり、
かつては自分を否定するような存在で
あった「易姓革命」が、
今では、
「生きるために知っておくべきものの1つ」
になりました。
そして、西洋の革命は、全く別で
そちらの考え方にも、私は勇気をもらえます。
今回は以上です。
今回は自分語りが多かったですが、
このシリーズを始めたのは
「自分や子供が発達障害であるとわかり、
でも、学校の授業を受けたときの
虚しさ、孤独さ、に押しつぶされないよう
不登校になったときに人生や
この世界に絶望しないように
少しでも自分たちの自我を保てるよう、
過剰適応して強迫性障害が悪化しないに
したい」という気持ちがあったからです。
自分たち以外でも、
学校の授業で自分の存在を否定され
苦しんでいる生徒さんやご家族が
いらっしゃると思いました。
発達障害の有無にかかわらず、
少しでも私の授業で楽になって
いただければ、と。
4 さいごに
今回をもちまして、
こちらのgooブログさんでの
「れくす先生の歴史授業」シリーズ更新は
終了させていただきます。
(お知らせや、このブログ最後の企画記事はまだまだ随時更新予定)
移転先はAmebaブログさんですが、
育児ブログ(「育児症にない!」という題名のもの)と合併する形で
こちらの内容の一部(勉強内容と塾や受験の内容)を編集しながら、秋までに形を整えていきます。
新しい移転先(ブログ内容の合併先)は
Amebaブログさんです。
ブログ名:「育児書にない&しゃかりき!」
ハンドルネーム:セザール
定期的にAmebaブログさんのほうで
こちらの「れくす先生の歴史授業」シリーズの新作も更新してきます。
(次回は古代ギリシア、古代ローマ)
まだ、約20年の
このブログでの思い出語りや
最後のあいさつは更新していきますが、
「れくす先生の歴史授業」はこれにて
いったん終了させていただきます。
みなさま、ありがとうございました。