社会科塾講師☆ブログ~しゃかりき!~

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歴史模擬授業(第14回 平安時代②)②-2

2010年09月30日 15時51分23秒 | 歴史☆模擬授業

先ほどの記事(歴史模擬授業 平安時代② ②-1)の続きです。

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「・・・それで、武士が中央に乗り込むきっかけがおこったの?」

「うん、ついにおこったの。

それが、1156年、保元の乱(ほうげんのらん)よ。」

「おーついに!」

「天皇と上皇があとつぎをめぐって対立し始めて、それに藤原氏も入ってきて、天皇側と上皇側と言う風に2つ分けられた。」

「ずっと、天皇・上皇・藤原氏で色々対立していたから、ついにそれが始まったのね。」

「でも皇族や貴族たちって実際に戦えるの?前回習った国風文化を見る限り、のほほーんとした草食系っぽい暮らしをしているように見えるんだけど・・。」

「お、良いところに気がついたね。もちろん、天皇・上皇・貴族たちで戦わない。戦いのプロたちが、それぞれの従っている人たちの代わりに戦うの。その戦いのプロたちっていうのが・・。」

「あ!武士団?!武芸に長けた武士たち!」

「そういうこと。実質的に武士団の戦いになるの。

最終的に天皇側が勝利したんだ。その天皇側について活躍した武士団の有名な人が、平清盛源義朝(みなもとのよしとも)。義朝は源義経・頼朝の父ね。」

「あ、1文字づづ息子がもらったのね。」

「うん。よく息子の方と間違える子が多いから気をつけてね。

保元の乱以降、もう武士団の力なしでは朝廷はなりたたなくなってきたのよね。

そうしているうちに、

保元の乱ではともに一緒にがんばり活躍した平清盛と源義朝だったんだけど、

次第に対立していって、

ついに、源義朝が平清盛を討とうと反乱をおこすの。

 

それが、1159年の平治の乱(へいじのらん)。」

「どっちが勝ったんだろう。どきどき・・。」

勝利者は・・・・・・平清盛。」

「義朝さん負けちゃったんだ・・。」

「それで、義朝は死んでしまい、彼らの息子は、流されたりしたの。頼朝は伊豆に、頼朝の弟の義経は鞍馬寺に預けられて・・。」

「そうなんだ。お父さんが負けたせいで、息子たちも・・。」

「でも、このときは小さかったから対抗のしようがないし、義経は自分の出生が知らないまま育ったみたいよ。」

「でも、彼らが大きくなったときに(自分の出自を知れば)、親のかたきうちをしたくなるのでは・・と思うんだけど。」

「うん。良いカンしているね。でも、その前に・・、勝った平清盛の方を見ていこう。」

「はーい。そうだね、歴史とは勝者の歴史だもんね。」

「平治の乱で勝利した平清盛はついに、中央の政治の実権まで握るようになるの。」

「まさか・・天皇に?」

「ううん。天皇は皇族の血がなければいけないので、すぐには無理。」

「じゃあ、藤原氏みたいに、天皇と平氏の娘を結婚させて、その子を天皇にしていく、という形をとればいいんだ。」

「そうなの、そういうことをしたの。ただ、清盛はまだ天皇家と濃い血筋にはならないから、違う地位について、政治の実権についた。かなり、前(飛鳥時代)に習ったけど、律令政治の中央で天皇の次に高い役職なのは?」

「あ、太政大臣!」

「そういうこと。それで、平清盛は太政大臣の位について、政治の実権を行ったの。彼が行った政治で1つ有名なのは、貿易よ。」

「貿易って歴史で初めて聞いた!今までは、遣唐使などの使いを送る系ばっかだった」

「貿易って、対等な国同士でないと出来ないって聞いたことあるよ。」

「それだけ、日本が中国に一人前と認められるようになったんだね。(予想)」

「まだ中国至上主義(中華思想)ではあったし、日本もそうは思っていたけど、奈良時代に比べると大きな進歩だよね。」

「300年の歳月をかけて、しっかりしてきたのね日本。なんだかんだ、言って、天皇制度はなくなっていないもんね。」

「清盛が行った中国との貿易を日宋貿易と言います。日宋貿易を行った日本の港は、大輪田泊(おおわだのとまり)。今の神戸港よ。」

「神戸港って歴史があるところなんだね。今でも貿易がさかんだよね、神戸港。(注意:清盛は大輪田泊を改築して使用しています。)」

「うん。ちなみに当時の輸入品は、宋銭・絹織物・陶器、輸出品は刀剣・砂金よ。」

「日宋貿易ってことは、日は、日本ってことだから・・・中国も宋っていう王朝に代わっていたんだね。」

「そうそう。漢字を見て、そう考えるのは良い傾向よ。

 さて、平氏はどんどん力をつけて、朝廷内で勢力をふるうようになったの。それで、「平氏でないものは人でない。」なんていう言葉もあったそうよ。」

「うわー、いい気になりすぎだよ~。」

「それまで力を持っていない人たちがいったん、権力を握ってしまうと、有頂天になってしまうったのね。」

「それまで、武士なんてお下品、われわれ貴族の捨てゴマ、っていう感じで貴族・皇族に馬鹿にされ続けた武士たちが、貴族・皇族を意のままにできるようになって、かなりテンパっちゃのよね。

それで、清盛の死後にさらに、平家の横柄な態度が助長してね。」

「もうそれくらいのころには、源義朝の子供が大きくなってるんじゃない?」

「そうなの!

   平家は結局、それまで貴族がやっていることと同じことをやっているだけ

   だったのよ。」

「藤原氏が平氏にかわっただけなのね。」

「そう。だから、平氏は、ほかの武士団(源氏などの別の一族)のことなんて無視。くやしいんなら、おまえたちも俺らみたいになれば~って感じで。

だから武士の暮らしは貧しいばかりでね。

また、一族中心の平氏の政治を、それまで政治を動かしてきた貴族たちや、寺社たちも不満をもっていたの。」

「そうなんだ・・。平氏ほぼ味方なしじゃん・・。」

「それで、ついに、義朝の息子である、源頼朝が挙兵するの。」

「おーついに・・。」

「ただ、頼朝はあまり戦争の能力がなくてね、負けちゃうの。」

「あらら。」

「そんなときに、戦闘能力にたけた弟が現れ、次々に勝っていくんだ。」

「それが、源義経?」

「うん、そう。」

「それで、平氏はだんだん追い詰められるんだよ。

関東地方・中部地方で次々勝利をしていった源氏が、

ついに朝廷のあった京都にいた平氏たちのもとに迫り、

平氏たちも逃げていくの。

それでついに、山口県の壇ノ浦で、源義経に平氏は負けて、滅亡してしまうの。

その最後の戦いを、

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)(1185年)と言います。」

「め・・・滅亡?!そこまでさせなくても・・。」

「そうだよね。だから、これが後の頼朝・義経の兄弟対立をうむ1つのきっかけとなっていくの。それでは、詳しい源平合戦は次の鎌倉時代で行うわね。」

「はーい。」

「では、終わります。起立・礼。」

ーーーーー  

 ※わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

また平氏のことを悪く言っているわけではありません。もしそう感じられた方には

大変申し訳ありません。

 

 


歴史模擬授業(第13回 平安時代②)②-1

2010年09月30日 15時50分46秒 | 歴史☆模擬授業

※上の史料は実際の家系図とは異なります。

 

今回は歴史模擬授業14回目です。平安時代その2です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

平安時代は、前期・中期・後期に分け、今回は後期を学習します。

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キンコーンカンコーン

「さて、今日は平安時代の後期を説明するわよ。

・・・とその前に恒例の前回習った時代の復習。」

「平安時代の中期までのお話だったよね。藤原氏の摂関政治とか・・」

「藤原氏が天皇がいるのに、その代わりに政治をしてたんだよね。摂政・関白として。」

「荘園も広がっていったんだよね。」

「そうそう。そうやって、中央では藤原氏の摂関政治、地方では荘園がどんどん広がって力をつけていったね。

さらに、中央の政治が乱れてきたから、地方の政治だって乱れてしまう。」

「地方に派遣される国司も朝廷(中央の政治)の関係者だもんね。」

「そうそう。それで、だんだん乱暴な国司が出現したり、盗賊が多く出現するようになって、物騒な世の中になったの。」

「こわーい。」

「で・・・もちろん、盗賊が狙うものと言ったら・・?」

「財宝!」

「そういうこと。財宝はお金持ちの家にあることが多いよね。それで、そのお金持ちがいる場所といえば・・・。」

「大きい土地や御屋敷があるところ・・・、あ、荘園とか?」

「正解!荘園とかも当てはまるの。また、荘園をどれだけもつかで、政治権力が強くなるか、ということにも関係していたから、荘園は金銭的にも政治的にも大切だったわけよ。そこで、荘園領主とか、土地を持っている地主などが自分の土地や財宝を守るように武装し始めたのよ。」

「ほえー。」

「そこで、土地争いをしていくうちに、弓矢や騎馬などの武芸を専門とするものが現れ、国司などにつかえ始めたの。そのような人々を武士というの。」

「え?!そうなの?!もともとは、ガードマンやボディガードみたいな役目だったんだ、武士って。」

「そうなのよ。それで武士は地方での力を伸ばしていったの。」

「あ、地方に派遣される国司につかえるから、地方で力が伸びるんだ。」

「さらに都では、天皇の子孫で軍事や武芸を専門とする貴族たちが、皇族や有力な貴族たちにつかえるようになったの。その人たちをと言うの。

その侍の例として、源(みなもと)や平(たいら)がいるの。

源、清和天皇の子孫で、平は桓武天皇の子孫らしいわ。

彼らは、貴族・皇族の護衛や地方の争いの取り締まりをしていって、どんどん地位を高めていったの。

やがて、侍たちが、地方の武士を家来して従えて、結束を固めて、武士団という1つのグループをつくっていったんだ。

その武士団として、有名なのが源氏・平氏

ちなみにその武士団のリーダーを棟梁(とうりょう)というよ。」

「ふえー、地方の武士たちと、都の侍が手を組んで、武士団になって、どんどん力をつけていったんだ。」

「そうなので、それでだんだん力をつけていったから、自分たちだけで国をつくれるんじゃないか?と思ったり、地方で反乱をおこす人たちが現れたり。

その代表例が、平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)。彼らの反乱を総称して、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)というの。」

「ふえー。そうだったんだ。」

「あとで、また武士団が出てくるからお楽しみに。」

 

 

「さて、では今度は中央の政治で大きな変化があったから、そちらを見ていきましょう。

この前の授業で述べたように、天皇は存在しているものの摂政・関白が実質的に政治をしていたね。」

「うん、藤原氏が摂政・関白になっていたんだったね。」

「そうそう、ここで一番上の史料を見てみて。今と違い当時は母方の実家を中心に動いていたの。そこで、摂政・関白になることができるのは、天皇の母方のおじさんがなるの。たとえば、この史料で見ると、現天皇の母方のおじさんが関白になっているんだね。」

「あ、じゃあ新しい天皇になったら、藤原氏が摂政・関白になるわけではないことも・・。」

「そうなの。でも、藤原氏は天皇と自分の娘を結婚させて子供を産んでもらい、そしてその子が次の天皇になるようにしていったのよ。だから、ほら史料を見ると、摂政・関白になる人は違うけど、藤原氏一族であることは変わりないよね。」

「あ、ほんとだ。でもこの史料のAが天皇になったら、藤原氏は摂政・関白の地位につけないね。」

「うん。だから、そういう場合には、必死にBが天皇になるように画策したりしてね。たとえば、Aの母親は実は悪いことをした、と言って追い出したりして後ろ盾をなくしたり、天皇候補を出家させて(お坊さんにさせて)候補から遠ざけたり、ひどい場合は天皇候補の暗殺なども・・。(したかどうかは不明です。)。」

「うわー、すごい権力争い。」

「藤原氏一族の間でも、権力争いがあったみたいよ。摂政・関白になるとならないでは権力の強さが違ってくるから。この藤原氏の話は高校の古典などで習うことが多いから楽しみにしてね。」

「・・かなり遠い話だけど楽しみだな。」

「また史料みて。摂関政治に対して、不満を持つ人たちもいるよね。たとえば?」

「藤原氏の他の一族たち。」

「そうだね。では他には?」

「あ・・・天皇!?」

「そう!天皇なんだよ! だって、自分がないがしろにされているんだよ!

  それでもしょうがないや~、藤原氏の言うこと聞いて遊んでおけばいいわ、と思っている天皇もいたんだけど、そういう状態を許さない天皇がいたの。

 この史料で言うと、Bね。」

「あ・・なんかBが文句言ってる。」

「そう。じゃあ、どうすれば藤原氏の摂関政治から逃れられるか・・・。

   彼は考えたわけ。天皇でいるかぎり摂政(関白)に縛られている。

   ・・・では、天皇じゃなかったら、摂政(関白)の言うことを聞かなくてよいのでは?天皇よりも強い位をつくってしまえばいいのでは?とね」

「あったまいいー!」

「それで以前からあった太上天皇(だいじょうてんのう)という、天皇が引退したあとの総称を使って、その太上天皇が政治の実権を握ることを考えたの。

その政治を院政(いんせい)というの。

そして、太上天皇の略称を「上皇」といって、そちらで覚えればいいわ。

上皇が政治をした場所を院と言ったので、院での政治で「院政」と言います。

 

そして、その院政を実際に始めたのが、白河上皇です。」

 「いろいろ考えたんだね。藤原氏もこれで勢力が弱くなって悔しいだろうね。」

この史料はあくまで分かりやすくするために書いた図なので、実際の家系図とは異なるので、それは気をつけてね。

実際には、藤原氏と血縁関係に薄い後三条天皇が天皇になり、その次の天皇の白河上皇が彼の意思を次、院政をはじめています。」

「でもさ、上皇の政治が始まって、天皇はそれでよかったの?」

「いいところに気がついたね。やはり、天皇からすれば、不満たらたら。

   言うこと聞く相手が、摂政・関白から上皇にかわっただけだもん。」

「・・ということは、上皇・天皇・藤原氏の中で色々対立していたんだろうな。」

「そうそう!だから、ほかの貴族たちは、どこに味方につけばいいの?ということで迷ったりもするわけよ。

上皇の力が強いと思うと、上皇の力を頼って、貴族や武士たちから、彼らの所有したいた荘園を院(上皇)に寄進(渡す)ようになってきて・・。」

「荘園を寄進することで、味方ですよ~という印になるってことなのね。」

「うん、それで荘園の争いがもとで、大きい寺院にいる僧が武装して僧兵となって、朝廷に訴えるようになり、それに対抗して院や貴族は平氏や源氏の武士団を警備に当てるようになって・・・。大げさにいえば、もう、朝廷は武士団なしでは守りきれない状況になってきたのね・・。」

「・・・ということは、武士団が院という政治の中心部まで入り込んだってことだよね?!」

「そうなの。・・ということは、いつ武士団が政治の実権を握ってもおかしくない状況になるよね。きっかけさえあれば。そう・・きっかけが・・。」

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文字数の関係で別記事に続きを載せます。

※上の史料は実際の家系図とは異なります。

※わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 


歴史模擬授業(第14回 平安時代②)①

2010年09月30日 15時42分29秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業です。

14回目平安時代②です。

平安時代は3つに分けます。
その中で今回は後期、院政~源平合戦時代の説明になります。

この時期に、天皇中心の貴族政治はいったん終わりになり、
政治は武士政治ー幕府が担当する時代に引き継がれることになります。

貴族たちは私腹を肥やし、自分の財産を守るためにつけたボディガードたちに政権を奪われる結果になるという「飼い犬に手をかまれる」パターン。

自分の財産ってたいせつなんですが、そればかり執着してしまうと、すべてを失う恐れがあるということを、忘れてはならない、ということをこの時代で教えられます。



あと、平氏ファンの方には「平氏のころを悪くいっている!」と怒られるかもしれません。
教科書を見てなるべく公平にはしているつもりなんですが、もしそう感じられてしまったら申し訳ありません。
私はどのように政治をすると長続きするか、という観点でえがいていますので、もしそのうように思われたなら、ごめんさい。


自分がよくツールの使い方を把握していないせいか、1つの記事に1つ画像しかアップできないので、1つの画像ごとに説明できる分だけアップという形にしています。すみません。

「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

近況報告

2010年09月29日 16時26分47秒 | 歴史☆模擬授業
昨日も300以上のアクセスありがとうございます。

先ほど、歴史模擬授業用の平安後期(院政~源平合戦)のまとめの画像を作り終えました。
明日あたりに源平合戦の動きの地図を書いたら、早いうちに、こちらのブログで平安時代後期の記事をアップしたいと思います♪

先週までに、奈良の鹿と触れ合ったり(襲われたり)、
佐渡で朱鷺を拝見したり、
佐渡⇔本土のフェリーでかもめにエサをやったりして、

アニマルパワーを頂いたので、あきらめずに頑張ります。
私は動物が大好きです。


ではでは、これから、高校英語の授業に行ってきます。

歴史模擬授業(第13回 平安時代①)③

2010年09月27日 09時01分22秒 | 歴史☆模擬授業
平安時代のまとめの記事をアップします。


平安時代は、平安時代をモチーフにしたマンガも多いのでイメージしやすいと思います♪
いろいろなマンガがあるので、イメージをつかむためにも色々とご覧になることをお勧めいたします。


歴史模擬授業(第13回 平安時代①)②-2

2010年09月27日 08時58分59秒 | 歴史☆模擬授業

歴史模擬授業(第13回平安時代①)②-1の続きです。

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「以上が、平安時代の大まかな流れよ。では次は文化。」

「え?まだ平安時代の後半をやっていないのに良いの?」

「うん。ふつうはすべての流れをやってから文化はやるんだけど、平安時代の文化は、今日習った時代に華やいだ文化なので。

奈良時代から遣唐使を派遣し、唐の文化を吸収してきた日本だったんだけど、その唐そのものが混乱に陥ってきてね・・。わざわざ危険をおかしてまで行って、現在の唐で学ぶものはあるのか?ということになり、

894年についに遣唐使が廃止されたの。

その廃止をしたのが、菅原道真(すがわらのみちざね)という人よ。」

「あ、学問の神様。」

「うん、菅原道真は後に学問の神様として祀られたので、受験生の神様なんだよね。太宰府天満宮や北野天満宮が道真を祀っているわ。」

「遣唐使を廃止し、外国の文化がほとんど入ってこなくなった日本。

今まで吸収してきた文化を元に、日本独自の文化が発達していくの。

その文化を国風文化(こくふうぶんか)と言います。

国風文化の代表例をあげていくね。

たとえば服装も日本独自ものになった。

男性貴族の着る束帯、女性貴族の十二単(じゅうにひとえ)とかね。」

「十二単って12枚重ねて着ていたから十二単っていうんだよね。」

「うん。そう。実は、このブログの管理人は結婚式のときに十二単を着たそうなの。なんと服の総重量が20キロ以上もあったそうで、途中で肩が赤くなったそうよ。」

「うへー。やだーそんなの!」

「それだけ重いから動けないでしょ。でも動かなくても周りのものが自分のお世話をしてくれたという、貴族のステータスだったともいえるわね。」

「あと、貴族の邸宅も日本独自の様式である寝殿造というものになったの。

この記事の一番上にあるイラストが寝殿造ね。

    まん中の庭で蹴鞠(けまり)をして遊んだり、池に船をうかべて和歌を詠んだり   して優雅にすごしたそうで・・。」

「うわー。ぜいたくきわまりない!(うらやましい・・)」

「あと、この時期に、日本の文学の歴史を大きくかえたあるものが発明されたの。」

「?」

「それまで使っていた文字って何だったと思う?」

「あ、漢字かな?木簡には漢字が書いてあったね。」

「そうそう。でも漢字って、発音できても文字を知らないと書けないから大変だよね。

当時の人々も、しゃべっている言葉を、わざわざ漢文に直し(翻訳し)漢字で記していて面倒だったとか・・。」

「思ったりしゃべったりする言葉をそのまま文字で書けたらいいよね。」

「つまり、1音1文字ものが出来れば、思ったことをそのまま文書にできるよね。」

「あ・・、ひらがなとか?!

「そうそう!ひらがなとカタカナがこの時期に誕生したの。

このひらがなとカタカナの2つを合わせてかな文字と言います。

そして次第に漢字は男性が使い、かな文字は女性が使うものという形が定着し・・。

紀貫之という人物が「土佐日記」でかな文字を使っても高度な作品ができることを証明してからは、女性がかな文字を使って、さまざまな文学作品を作っていくの。

 

その代表として、清少納言の「枕草子」、紫式部源氏物語」があるの。

枕草子」は清少納言の好きなものなどのこだわりを書いたり、宮廷での出来事を書いたエッセイね。今でいう、芸能人のブログみたいなものね。」

「芸能人のブログって、憧れの世界をちらっと見ることができるから楽しいんだよね。当時も同じようなものなんだろうね。憧れの宮廷ライフ生活を知ることができて。」

 

「対して、「源氏物語」は、光源氏という男性を主人公とした宮廷ラブロマンスを、紫式部がえがいた創作作品。当時の大ベストセラーで、貴族の女性たちがすっごく人気あったんだって。紫式部にあこがれて自分もお話を書いた女の子もいたみたいよ。

さらに、この作品は、当時の政治状況や宮廷の儀式などが事細かに書かれているものだから歴史的意義も高い作品で・・。(江戸時代までは宮廷の儀式の順番の参考に「源氏物語」を読んでいたこともあったそうで・・。)

一説には、光源氏のモデルは藤原道長だとも言われているの。

作者の紫式部は、道長の娘の藤原彰子(のちの天皇の妻)の家庭教師として雇われていたので。」

「へー。大ベストセラー作家が家庭教師ってことだけで、その娘さんに注目があつまりそうだね。」

「当時は、だれが天皇の妃になるか、で後の権力者が決まるから必死なんだよね。天皇の母方のおじいさんが摂政・関白になるもので。だから、こぞって娘に良い家庭教師や御つきものもをつけることが大切だったみたい。清少納言も、天皇の妃だった藤原定子の家庭教師だったそうよ。」

「ほえー、すごい権力闘争の世界。」

「あと、日本最古の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)である「古今和歌集」が、「土佐日記」を書いた紀貫之たちによってまとめられたの。」

「勅撰(ちょくせん)って何ですか?」

「天皇の命令によって作られるもののことよ。」

「あれ?日本最古って「「万葉集」じゃなかったの?」

「よくまちがえるんだよね。

一番最初にできた和歌集は「万葉集」なんだけど、これは、天皇は介入しないで大伴家持(おおとものやかもち)たちが勝手にまとめたものなの。

それに対して「古今和歌集」は天皇みずから「和歌集をつくろう!」と言いだしたわけ。」

「部分覚えはいけないんだね。

最古の和歌集は「万葉集」、最古の勅撰和歌集は「万葉集」ね。」

「そういうこと。」

「平安時代にもたくさん和歌がつくられたんだね。」

「うん。当時の貴族の恋愛は、男性が和歌を送って、それを気に入ったら女性が和歌で返答し、それを何度も繰り返してやっと、男性は合うことができるの。」

「えー、じゃあ、ラブレターを送ったあとで初めて相手の顔をみるってこと?!」

「うん。だから。予想外のこともあって・・・。こういうエピソードが「源氏物語」でも描かれているので、よかったら「源氏物語」を読んでみてね。」

「当時の人がえがいた物語だと、現実的で臨場感がありそうだよね。」

「こういう、貴族の恋愛は今でいう、インターネットで出会ったメル友にオフ会で、はじめて会ってつきあうみたいな感覚なのかなァ。」

「あと、最後に、絵画技法も日本らしくなります。

日本の貴族の生活などを描くようになったの。

このような日本独自の絵を、大和絵(やまとえ)と言います。」

「いろんものが日本独自のものになったのね。」

「これは、奈良時代までにいろんな外国文化を模倣して自分のものにしたから、初めて自分らしい(日本らしい)文化をつくることができたと思うのよ。

だから、君たちも、「個性」「個性」と言って突然人と違うことをするのではなく、まずは今までに存在していた通常のことをまねして自分のものにしてから、自分らしさを想像していく方が良いわ。そうすれば、いったん自分らしさがでたら、だれにも負けない「個性」ができると思うの。」

「文化だけでも、いろいろ学べるんだね。」

「うん。ではでは、今日はここで終わり。次回は平安末期をやります。

ここで、話は平和な世界からガラっと変わりますのでお楽しみに(?)。

ではでは終わります。起立・礼!」

ーーーーーーーー

おわり

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 

 


歴史模擬授業(第13回 平安時代①)②-1

2010年09月27日 08時57分41秒 | 歴史☆模擬授業

今回は歴史模擬授業13回目です。平安時代その1です。(詳細は、もう1つ前の記事をご覧ください)

平安時代は、前期・中期・後期に分け、今回は前期・中期の2つをまとめて学習します。

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キンコーンカンコーン

「さて、今日は平安時代を説明するわよ。

平安時代は長いので前期・中期・後期と3つに分けます。

そして今回は中期まで行うわ。

・・・とその前に恒例の前回習った時代の復習。」

「奈良時代だったね。」

「国際色ゆたかで、仏教文化が華やいだ時代だったね。」

「でも、たしか仏教を大切にしすぎたために、お坊さん(僧)たちが政治に口出すようになったんだよね。」

「天皇中心の律令政治の体制が危うくなったんだっけ。」

「みんなすばらしいわ。用語だけを言葉丸暗記をするのでなく、理解して覚えているのね。

そうそう、みんなの言うように、奈良時代の末期は、仏教勢力が強くなって、律令政治の体制が危険にさらされはじめたの。

それで、思い切って都を移して、まっさらな場所で最初からやり直そうとしたの。

それを行ったのが、桓武天皇よ。

最初に長岡京に都をうつし、その後の794年平安京に都を移したの。」

「平安京は奈良じゃないの?」

「うん。平安京は今の京都。」

「だいぶ遠くまで引っ越ししたんだね。」

「なぜ、京都という場所に移したかというと、京都は大きな川もあり、水陸の両方ともの交通の便がよかったそうよ。」

「鴨川とか桂川とかよく聞く川だよね。ドラマの撮影でも時々見る川だよね。」

「平安京と平城京を比較した地図をみてごらん。(記事の一番上にあるイラスト)

   何か違いにきづくかな?」

「あ、寺がない!卍の地図記号が平安京の中にはほとんどないよ!」

「そういうこと!・・それは何を意味しているのかな?」

「あ!仏教勢力をおさえるためだ!」

「そうなの。今までは都を移す時に寺院も一緒に移していたんだけど、今回はわ   ざと奈良に置いたままにしたのよ。」

「たしかに、東大寺や唐招提寺、薬師寺とかそのまま今でも奈良に残っているものね。」

「ただ、すでに人々の心の奥まで浸透した仏教を完全に消すことは無理だから、政治に口出しをしなく、僧は僧らしく修行に励むような仏教宗派を保護することしたの。

その平安時代に新しくできた修行中心の2つの仏教宗派が、

最澄が開いた天台宗と、空海が開いた真言宗というもの。」

「この2つは、寺を山奥に建てて、修行をしたの。

天台宗は滋賀県と京都府の境にある比叡山(ひえいざん)という山に延暦寺を、

真言宗は和歌山にある高野山(こうやさん)に金剛峰寺(金剛峯寺)という寺を。」

 

 「へー。」

「ちなみに空海は別名、弘法大師(こうぼうだいし)ともいうの。」

「あ、もしかして、「弘法も筆もあやまり」の弘法?!」

「そうなの。弘法大師(空海)はとても字が上手だったから、そういうことわざができたの。また、弘法大師にゆかりのある温泉や食べ物も多いの。讃岐うどんも空海が初めて作ったという伝説もあるそうよ。」

「なんだか身近にかんじてきたな~。」

「話を元に戻すね。桓武天皇は平安京に都を移し、仏教勢力から逃れ律令政治の立て直しをしたの。たとえば、国司の不正を取り締まったり、班田収授を奨励(積極的に推し進めた)したり。

また、旧来の寺院や僧の力をおさえ、天台宗と真言宗の新興仏教を保護したり。

そして、もう1つ東北地方に対して、その地に住んでいた、朝廷に従わなかった蝦夷(えみし)という人々を支配しようとしたの。その蝦夷を征伐するための役職が征夷大将軍というものなんだけど、桓武天皇は坂上田村麻呂征夷大将軍に任じて、ついに、蝦夷を支配することになったんだ。」

「蝦夷を征伐するから、夷を征する将軍という名称なんだね。」

「そうそう。漢字の意味で用語を覚えるのは大切だものね。」

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「このようにして、一時的に正しい律令政治が再生して、盛りになるの。それが、平安時代の前期。そして、9世紀後半ごろからその陰りが・・・。それが平安中期。」

「でも200年弱は正しい律令政治が続いていたんだね。長く続いたといえば長いよね。」

「うん。9世紀後半あたりから、摂政・関白という位についた人物が、政治を動かしていくことに・・。」

「あ、摂政(せっしょう)は聞いたことある!」

「飛鳥時代の聖徳太子のときにやったね。」

「天皇が女性か子供のときに、天皇にかわって政治を行う役職のことだったね。」

「よく覚えているね。平安時代には女性は天皇につかなくなったの。なので、子供

が天皇になったときに摂政という位について摂政が政治をするようになったんだよね。」

「でも、いつかは天皇は大人になるよね。そうすれば、今度は摂政にかわって天皇が政治をするの?」

「今まではそうだったの。でも、今度は天皇が大人になったら、「関白」という位について、天皇のかわりに政治をするようになって・・。」

「え!じゃあ、ずっと天皇はお飾りで、摂政(関白)が政治するじゃん!」

「あ、だから、摂関政治というだね。摂政・関白のそれぞれ1字をとって。」

「そういうこと。そして、摂政・関白についたのが、すべて同じ一族だったから、またさらに大変。その一族パラダイスよ! その一族が藤原氏

摂政関白は天皇の母方のおじいさんが就くことが多いので、藤原氏は娘を現天皇の奥さんにして子供を産んでもらい、その子供を天皇にして、自分は摂政(関白)になって・・・とね。」

「あ、奈良時代に聖武天皇が抑えようとしたあの藤原氏。」

「藤原氏を押さえようとして仏教を推進したから、仏教勢力が強くなったんだから、その仏教勢力がなくなれば、残っている藤原氏が強くなるというのは当然といえば当然ね・・。」

「そうなのよね。一方を押さえつけるともう一方が強くなり、かといって強くなった勢力を押さえると、それまで押さえつけれた勢力が盛り返して・・・。バランスというものはむずかしいのよね。

 

それで、摂関政治がもっとも隆盛を誇っていたときに、摂政(関白)の位についていた人物を親子2代で覚えてね。

1人は藤原道長(ふじわらのみちなが)。

もう一人が、道長の息子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)。

二人の「みち」の漢字がそれぞれ違うから気をつけてね。

 

 藤原道長は、自分の絶頂期の気持ちを和歌に詠んでいて、その和歌がよく入試ででるの。その和歌とは、

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

というもの。

この世の中は私のための世の中と思えるぐらいだ。そう望月(満月)のように、欠けている部分がないようにね。

という意味。」

「うわー。酔ってる。ナルシスト!ナルシスト!ナルシー道長!」

 「そんな歌がうたえるぐらい道長に勝てる人がいなかったんだね。ある意味、道長は政治家としてすごかったんだね。」

「やり方はともかく、とにかく凄い人ではあったよ。彼のころに、文化も華やいだしね。

ついでその子の藤原頼通は、京都郊外にある宇治に、極楽浄土をこの世(現世)に作ろう、ということで、豪華絢爛な平等院鳳凰堂(びょうどういんほおうどう)という建物を建てたの。

みんな、ここには行ったことはなくても、平等院鳳凰堂はぜったい見たことあるわよ。」

「?????」

「ヒント。お金。」

「あ!わかった!十円玉!」

「そう!十円玉に描かれている建物が平等院鳳凰堂。今度よく見てみてね。

この平等院鳳凰堂は、当時流行った、浄土信仰という考え方を元につくられたの。

阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土(天国)に行けるという考え方。この世はもう終わりかもしれないという世紀末の不安みたいなのがあってね・・。」

「あー。今でも「ノストラダムスの大予言」とか「2012」とかの世界の終りの考え方ってあるものね。平和な世の中のほうが、かえって不安が募るのかもしれないね。」

「あと、どんどん私有地である荘園が力をつけてきたんだよね。このころになると、荘園の特権があってね。荘園は税を払わなくてもよい、という不輸の権とか、国司が荘園に立ち入ることを断われる不入の権などの権利を荘園はもっていたの。」

「うわー。ますます私腹を肥やす人々がふえるじゃん。」

「その荘園を広げていたのが、有力貴族や寺社だったので、よけいにね。その荘園の領土争いが後に朝廷の弱体化&源平合戦を招くことに・・。」

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文字数の関係で、残りの文化の説明は、もうひとつ別の記事(②-2)にアップいたします。

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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史模擬授業(第13回 平安時代①)①

2010年09月27日 08時56分15秒 | 歴史☆模擬授業
今回は歴史模擬授業です。2日連続になります。

13回目平安時代①です。

平安時代は3つに分けます。
その中で今回は、摂関政治がおこなわれる中期までの説明になります。

平安時代の文化は日本独自の文化が花開いたこともあり、入試でよく出題されます。
とくに、
「かな文字」「源氏物語ー紫式部」「枕草子ー清少納言」「古今和歌集」「寝殿造」
という用語はよく出ます。

また、この時代の文化は現代の文化によく類似しているものもあるかな~とおもったりして、私にとっては新しい作品を作る際のヒントになっています。



自分がよくツールの使い方を把握していないせいか、1つの記事に1つ画像しかアップできないので、1つの画像ごとに説明できる分だけアップという形にしています。すみません。

「歴史模擬授業」という記事を数か月に数回更新していきたいと思います。

これは実際の授業形式を文字であらわしていこうというものです。

劇の台本みたいな感じになると思います。 定期的に内要がまとまったら、HP「しゃかしゃか★ぶりっじ」にて改定してアップする予定です。

読むときに、 →先生、 →生徒その1(ひなちゃん)、 →生徒その2(はむちゃん)、→生徒その3(ねこちゃん) だとだと思って読んでください。

(みんな、びっくりするぐらいいい子ですが、そこはご勘弁を・・)

また、設定は、私立中学入試をひかえた小5の授業(塾)だと思ってください。


今回は文字数が最大数を超えてしまいそうなので、もう一つ記事を作ってアップさせていただきます。

わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方には申し訳ありません。

歴史模擬授業(第12回 奈良時代)③

2010年09月26日 13時10分23秒 | 歴史☆模擬授業

こちらは、平城京の位置とつくりです。

縦線・横線は道です。

上のまん中に天皇のいらっしゃる政治の中心地の内裏(だいり)があり、

そのまん中から、左京・右京と分かれます。

左・右が見ると逆のようですが、北の内裏にいる天皇が南の方を向いて、右・左と見たと考えて左京・右京としています。

それだけ、天皇中心の国家になったということですね。

卍は寺を表していますが、( )に挟まれているものは、聖武天皇以降に作られた寺です。平城京の中にいかに仏教勢力が入っていたのかがわかります。

 

ちなみに、現在残っていて1300年祭も行われている平城宮跡とは、この地図でいう「大内裏」にあたります。

実際に行ってみるわかりますが、大内裏だけでかなり広い!

南から北に行くまでで30分以上かかります。

なので、平城京がどれだけ広いかかがわかります。

 


歴史模擬授業(第12回 奈良時代)②-2

2010年09月26日 13時03分31秒 | 歴史☆模擬授業

記事②-1の続きです。

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「ではここまでが政治の大まかな流れ、次は外交と文化ね。」

「なんか、今までの流れで仏教仏教~って感じだったね。」

「そうなのよ!仏教中心の文化だったの。さらに、お隣の中国が唐という、こちらも政治が安定し文化が華やいだ時代だったもので唐の文化が日本にも入ってきた。

遣隋使に続いて、遣唐使という留学生制度もあったしね。

第一回遣唐使として行った犬上御田鍬(いぶがみのみたすき)と、あまりに優秀すぎて唐でずっと働いた阿倍仲麻呂は覚えておいてね。

あと、さらに唐にペルシャ(現イラン)の発達していた文化も伝わっていたらか、日本にもぺルシャのものが持ち込まれたりしたそうよ。ヨーロッパ・西アジアから中国(唐)・日本を結んだ道をシルクロード(絹の道)と言って、日本はそのシルクロードの終着点だったから、さまざまなものが日本に入ってきたのよね。」

「国際色ゆたかな文化だったんだね。」

「その外国からの宝物や、東大寺がつくられたときに行った祭典で使われたものが納められいるのが、正倉院という倉庫。」

「宝物がいっぱいだあ。」

「正倉院に納められいるもので有名なのが、五弦の琵琶やガラスのコップ。五弦の琵琶にはラクダに乗っている人の絵が描かれていることから、ペルシャのあった西アジアのものが日本に来ていたということがわかるそうよ。

あと、奈良時代ものが現在まで保存状態がよく残っているのは、正倉院の作りが、校倉造(あぜくらづくり)という、湿気に強く地震があっても倒れないつくりになっていたからみたいね。(科学的根拠はないそうですが・・。)」

「地震大国日本(怖いよ・・)で、1000年以上残っていたってことだものね。すごい!」

「このように聖武天皇のころに、唐の文化の影響が強く、仏教との結びつきがつよかった国際色豊かな貴族文化を天平文化(てんぴょうぶんか)と言うので、覚えておいてね。」

「あとは、すこし時代を戻して、元明天皇のころ。」

「平城京に都を移した天皇ね。奈良時代最初の天皇。」

「そのころに、飛鳥時代からの国家の一大プロジェクトだったある事業が完成したの。その事業とは歴史書の編集作成。2つの歴史書があって、「古事記」と「日本書紀」。どちらも、どのように国がつくられていったのか、とか、どのような天皇がいたのか、ということが記してあるんだけど、「古事記」は国内向けの歴史書で、「日本書紀」は外国に見せる用に作られたみたいで、朝廷の隠したい歴史(出雲神話)は日本書記では抹殺されているようで・・。」

「なんか面白そう~。」

「古事記や日本書紀を調べると、色々と面白いんだけど、それはまた別の機会ってことで・・・。入試では、年号や言葉で見わけをつけるといいわ。

「古事記」は712年に稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた内容を太安万侶(おおのやすまろ)が記録して完成し、「日本書記」は720年に舎人親王が中心になって完成した。って。

私は、「日本書紀」が外国向けだから、親王という天皇家に近い人が責任者になって、外国に恥ずかしくないようにしたんだな~、それ以前につくられた「古事記」を読みながらブレがないようにつくったのかな~と想像して、見わけをつけたわ。人の名前はきかれないで、人の名前をみて「古事記」「日本書紀」とこたえる問題なもので。

ちなみに、「古事記」と「日本書紀」の「き」は漢字が違うから気をつけてね。」

「あ!ほんとだ!」

「あと、どの天皇のころかは気にしないで覚えてもらいたい書物が2つ。

1つは、「風土記(ふどき)」、もうひとつは「万葉集(まんようしゅう)」。

「風土記」は、各国にその地域の地名のおこりや特産物を記すように朝廷が命令して各国がつくったもの。各国がつくったんだけど、現在残っているものは「常陸(ひたち)風土記」や「出雲風土記」などの5つだけだそうよ。しかも「出雲風土記」のみ完成形で残っているみたい。」

「特産物がわかれば、税(調)も何をとればいいかわかるからかなァ。(想像)」

「「万葉集」は、和歌を集めたもの。当時は、和歌を詠うことが多くて、その中で良い和歌や、を集めたそうよ。愛する人とのやりとりでも和歌を詠ったことから、愛の歌が入っていたり、当時の仕事や生活の辛さを詠った、防人の歌など。

万葉集で詠われていたもので有名なものを2つ覚えてね。

1つは、山上憶良の「貧窮問答歌」。これは、国司として派遣された彼が農民の苦しい生活を見て詠ったものよ。

あとは、遣唐使として中国(唐)に渡って、あまりに優秀すぎて、唐の皇帝に呼び止められ、唐で働き、最終的に帰国できなかった阿倍仲麻呂が詠んだ和歌よ。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

異国の唐で大空をはるかに仰ぎ見ると(上をみると)、今ちょうど月が昇ってきているじゃないか。この月は、なつかしい故郷の日本の春日にある三笠の山から昇ってきたのと同じ月なんだろうな、という意味。

つまり、自分は遠い異国の地にいるけど、毎日中国に登ってくるあの月は、私がなかなか帰れない日本からいつも来ているのだなー、と故郷を懐かしんでいるんですね。しかも、春日の三笠山(奈良市)という具体的な地名を出すのが、さらに臨場感をわかせてね~。」

「なんか、文化から日本の政治を見るもの面白いね。」

 「うん。そういうこと。ではでは今日はここまで。起立!礼!」

キンコーンカンコーン。

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 わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。不快な気持ちになった方は申し訳ありません。