廃炉選択「容認できぬ」
連合福島運動方針「脱原発」盛らず
10月22日の朝日新聞に載った記事をみて気持ちが落ちこんでしまいました。
県議会が原発の廃炉を求めた請願を採択したことを連合の影山会長が「拙速で容認できない」と批判したというのです。
もっともこれは連合大会の会長の冒頭あいさつで「脱原発の議論を中心にすると組織が割れかねない」とのべ政府の方針が固まるまでは話し合わない方針をしめしたというから、福島連合としての方針は棚上げされたうえでの会長見解ということであろうと思われます。
しかしそうであっても県議会が「原発の廃炉を求めた請願」を採択したことが「拙速で容認できない」などと連合の会長たるものが言うべきことなのでしょうか。
町ぐるみ村ぐるみ十数万人もの人々が先祖代々住み慣れた土地を追われ、県土の大半を放射能で汚染され、幼子を抱える家庭は子の放射能被曝におびえ、あるいは福島を脱出し、どれだけ多くの家庭が離散の悲しみに耐えているのか・・・・ 農漁民は生産できず、かろうじて生産したものも誰にも喜んでもらえない、売れない、高齢者中心に頑張ってきた第1次産業はわずかばかりの希望も放射性セシウムにかき消されてしまいました。 苦労してつくった野菜や米をかわいい孫に食べさせられない悲しさを、孫と一緒に暮らせない悲しさを考えてみてください。
これだけ大変な、多くの人々が悩み苦しんでいる問題を話し合わずにいったい何を議論しようというのでしょう。 労働組合組織は組織の利己的利益のみ追求していればことがすむとは思われません。 組織内の組合員の多くも地域の住民としてこの苦しみを共有しているはずです。 震災・津波の影響はもちろんですが原発震災の影響で撤退を余儀なくされた企業、事業を大幅に縮小した企業なども多数にのぼります。 これらは直ちに労働者の雇用や労働条件に影響するでしょう。 その時に政府の保証がなければ「脱原発などとはいえない」などといっていられるのでしょうか。 それで連合の社会的責任をはたせるのでしょうか。
もうひとつ疑問があります。 電力関係の労働組合の考え方はいったいどうなっているのでしょう。 これまで原発推進の立場できたにしても、この原発震災の惨状をみても今の雇用を守るためには原発を動かし続けなければならないと考えているのでしょうか。
私はそうは思いません。 多くの原発立地町村の被災者もそうであったように原発の潜在的危険性その被害の大きさについてはある程度の認識はあったはずです。 (私自身、長年双葉地方に住んでいました。) 電力職員はもとより関連企業で働く労働者はより切実に・精確に内容を把握していたはずです。 しかしそこで生活し、働く以上は安全・大丈夫と思わなければ毎日の生活ができないのです。 いつしか重大事故の心配は心の奥底にしまいこんでいたのです。 そしてこの大事故です。 これまでもメルトダウンを伴うような原発事故は人的にも経済的にも破滅的影響がでると考えられていましたが、それが現実になってしまいました。
大東京電力をして企業の存続が危ぶまれる(現実的には破綻している)状況を引き起こすような原発を持ち続けること自体が電力関連企業に働く人々の利益につながるのでしょうか。
社会に無くてはならない電力をつくるため日夜頑張っています、といえるでしょうか。
私はむしろこれまでの原発推進の立場をあらため、脱原発にむけてこれから数十年かかるであろう廃炉作業をしっかりと取り組むほうが、現実的かつ建設的で社会の理解が得られる働き甲斐ある仕事だと考えますがどうでしょうか。
この原発震災は推進、反対を問わず私たち大人が進めてきたこれまでの歴史の結果です。 この事実から逃げずに今こそ真剣に議論し将来を決めなければなりません。
この投稿は新聞記事に基づいて書いたもので影山会長の真意が記事に反映されているのかはわかりません。 ただこれだけ重大な問題を議論できない・しない組織の社会的存在価値を疑います。 私たち今の大人の世代は戦後の平和と高度成長のなかでかつて無い恵まれた社会環境のなかで生活してきました。 ただ世の中に身を任せていればなんとか生きて生活してこれました。 しかしその結果今悲惨な現実が私たちの前に立ちふさがっています。 放射能からは逃げても、この現実からは逃げられません。