売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

短編 『トカゲ』

2014-10-21 19:04:31 | 小説
 私が仕事を退職後、小説を書き始めてから、最初に書いた『トカゲ』を掲載します。
 初稿は原稿用紙17枚でしたが、某社の長短編の文学賞に応募するために、10枚まで削減しました。最初書いたときは、あまりよいできばえではなかったので、しばらくそのまま放置していましたが、10枚に圧縮したため、無駄な部分がなくなり、かえって引き締まったように思います
 応募して何ヶ月経っても何も連絡がなかったので、「たぶんだめだったのだろう」と思っていたら、あるとき、出版社より、「入賞はしなかったものの、上位に選ばれました。なかなかいい作品で将来有望なので、当社の執筆支援サービスを利用しませんか?」と連絡がありました
 その連絡があったときはうれしかったのですが、けっこう費用がかかるので、そのときは丁重に断りました
 その後、その出版社のその制度が問題になり、見送ってよかったと思ったことがありました。



       トカゲ
   
 私は趣味でよく山歩きをしている。以前は鈴鹿や木曽の山、夏のシーズンともなれば、南北中央アルプスなどに登ったものだ。
しかし、一〇年ほど前、交通事故で膝を傷めてからは、もっぱら近くの四百メートル級の山に登っている。
 事故で傷めた膝が回復しても、階段を登るとき、時々膝に激しい痛みが走ることがある。以前のような険しい山に登るのは、ちょっと難しいかもしれない。事故後は自宅の近くの、比較的膝への負担が軽い山に登っていた。
 あまりに容易に、短時間で登頂できてしまうので、歩くには少し物足りない山域だと思い、以前はめったに登ることもなかったのだが、膝をかばいながらのんびり歩いていると、なかなかいい山だと思うようになった。
 低い山でも、じっくり楽しむつもりで歩けば、それなりにいいところがあり、けっこう味わいがあるものだ。
私がよく登るコースには、途中の沢の流れに、竹の樋を利用した簡素な水場がある。私はよくそこで休憩して、沢の水でコーヒーを淹れたり、カップ麺を作ったりしている。
 人の通行も多い低山の水場であり、沢の水はそのまま飲用するのがちょっとはばかられるが、煮沸をすれば問題ない。ここでのコーヒータイムは、私の山歩きの大きな楽しみの一つでもある。
 交通事故で膝を傷める前は、週末の休みには猿投山に登り、ときには鈴鹿に行ったり、笠置山、南木曽岳のような中央本線沿線の山などによく登ったものだ。
 しかし、膝を傷めてからは、高く険しい山は敬遠している。階段でさえ痛みが走ってつらいときがあるのに、高く、行程の長い山に登るのは難しいだろう。それでも、いつかは膝の故障を回復させ、また日本アルプスの山々など、高い山に挑みたいと思う。膝が十分回復するまでは、以前はあまりに簡単すぎて登る気にもならなかった、自宅近くの山を楽しむことにしている。
 私は膝の痛みと闘いながらの山歩きだったので、最初のうちはこわごわ登っていた。かつての山仲間で、膝を傷めていて、特に下りが苦手だという人がいたが、自分が膝を傷め、ようやくその人の気持ちがよくわかるようになった。
 このごろは痛みもあまり気にならないような歩き方を習得できた。階段が多いコースは避けるようにして、どうしても階段を通らざるを得ないときには、階段の縁の、段になっていない部分を歩くなどの工夫をしている。それでも階段を上らざるを得ないときは、ゆっくり、足元をよく見て、なるべく段差の少ない部分を歩くようにしている。
 下りの方が膝への負担がずっと大きいが、私の場合は、下りより上りの方が膝に痛みが来る。ただ、それはその場での痛みのあるなしの問題であって、そのとき痛みがなくとも、やはり膝へのダメージは、下りの方が大きいようなので、下りのときにも用心しながら歩いている。
 以前のように何の気遣いもなく、ずんずん歩いていたころが懐かしく思うが、もう年齢的にもだんだん老境に入っているのだから、当然登山のスタイルは変えていかなければならない。いつまでも若い気でいれば、いずれ必ず痛い目に遭うであろう。
 私は山ではつい無茶をしてしまうタイプなので、事故で登山について見直す機会ができたのは、かえってよかったのかもしれない。
 自宅から登山口まで、徒歩でおよそ四十分。
 登山道に入ると、さっそく小さなハエのような虫につきまとわれる。
 メマトイと総称する、ショウジョウバエの仲間の虫だと聞いたことがあるが、とにかくうっとうしい。
 以前からこの山域にいた虫だが、ここ二、三年は特に多くなったような気がする。秋になれば、だんだんと数が減り、寒さが厳しくなる晩秋にはほとんど姿を消す。けれども一昨年ぐらいから、数は少なくなってはいても、寒い季節でも小バエにつきまとわられるようになった。やはり温暖化のせいだろうか。
 ここ二、三年、蚊も多くなっているように思える。私は五階建ての団地の最上階に住んでいる。以前は五階の部屋に蚊が入ることはまれだった。窓を開けておいても、蚊が侵入することはめったになかった。
 しかし最近では、非常に多く蚊が部屋の中に入ってくる。夜眠るときには、電子蚊取り器が必需品だ。
 山でも小さなハエが多くなったようだ。
 テレビで、野生のライオンなどの顔の周りを、無数のハエが飛び回る映像を見たことがあるが、今の自分もあんな感じかもしれない。もちろんあんなにたくさんのハエが飛び交っているわけではないが、それでもちょっと数えただけでも二十匹ぐらいはいそうである。
 昨年、顔の周りを飛び回るハエがあまりにうっとうしかったので、顔をジョロウグモの巣に近づけたら、巣に引っかかったハエがいた。
 獲物がかかったことに気づいたジョロウグモは、素早く小バエのところまで移動し、何本かの脚でがっちりと捕まえ、体液を吸い取り始めた。
 ほかの種類の蜘蛛を見ていると、まず獲物を糸でぐるぐる巻きにして、身動きができなくしてしまうのだが、ジョロウグモは糸で巻き付けることをせず、すぐに獲物の体液を吸っているようだ。
 雌のジョロウグモは、小さなショウジョウバエに比べ、はるかに身体が大きいので、わざわざ糸で巻き付け、身動きできないようにしなくても、そのまま料理してしまえるからだろうか。
 ただ、ほかにも獲物が網にかかっていて、すぐに新しい獲物を平らげる必要がないときには、糸で縛って、逃げられなくして、しばらく置いておくようだ。
私は小バエがうっとうしくなると、ジョロウグモの巣を見つけては、顔を巣に近づける。
 しかし、ハエも蜘蛛の恐ろしさをよく知っているのか、なかなか巣には引っかからない。蜘蛛の巣に顔を近づけると、顔のあたりから腰の近くに避難してしまう。そして、巣から遠ざかると、また顔の近くをぶんぶんとうるさく飛び回るのである。まれに間抜けなハエが引っかかるぐらいだ。
 最初はうっとうしい小バエを何とか追い払いたいという気持ちから始めたことではあるが、私はジョロウグモが小さなハエを襲う光景を見るのがおもしろくなり、ハエを蜘蛛の巣に叩きつけるというゲームを行うようになった。目の前を飛んでいるハエを手のひらで叩きつけ、蜘蛛の巣に誘導するのだ。ハエも本能的に危険を察知するのか、蜘蛛の巣の近くに寄ると、なかなか近づいてこない。それでも根気よく待ち続け、目の前を横切ったハエを、平手で蜘蛛の巣に叩きつける。
 ジョロウグモが巣を張るのは、晩夏か秋口になってからであり、盛夏である今は、時たま小さなジョロウグモを見かける程度だ。そのゲームはまだしばらくお預けだ。
 晩夏以降に山に登るとき、私はそのゲームに没頭した。ときどきは身体を動かないと、自分が蚊の餌食となる。ただ、他の登山者の気配を感ずると、私はゲームを終了して、登山道を先に進む。やはりそんなことをしているところを、他人に見られたくなかった。
 前にテレビで、虫の大群の中で、トカゲが羽虫に飛びつき、捕食している場面を見たことがある。日本のトカゲではなかったが。もし私がトカゲなら、顔の周りを飛び回っている小バエは、絶好のエサになるだろう。
 しばらく歩いているうちに、私は登山路の中腹にある水場に到着した。先ほど紹介した、私がよく休憩する水場である。
 休憩といっても、まだ疲れるほど歩いているわけではない。このコースは、自宅の玄関を出てから戻るまでの全行程が約一〇キロ。その多くが車道で、山道は全体の三分の一ほどだろうか。水場での休憩をせずに歩けば、三時間程度で行って帰ることができる。だから、休憩するほどでもないのだが、私はいつもこの水場で、コーヒーを淹れることにしている。ここで一息入れることが、この登山の楽しみの一つでもある。
 コーヒータイムでも、小さなハエは目の前を遠慮なく飛び回り、うっとうしい。とはいえ、登山道を歩いているときに比べると、まとわりつく数が少なくなる。これはなぜだかわからないが、水場の付近は、多少樹木が少ないせいかもしれない。うっとうしい小バエは少ない方がありがたい。
 沢の水で作ったカップ麺を食べ、コーヒーを飲み終えると、私はなんだか、無性に眠くなった。
 こんなに眠くなることなど、これまで経験したことがなかったのだが、どうにも眠気に抗することができなかった。日陰の涼しいところを選んで、ほんの少しだけ横になる……つもりだった。

 男は目を覚ました。目の前をぶんぶんと小さなハエが飛び回っている。男は、そのハエが妙においしそうに感じた。そして飛び上がって、そのハエにぱくついた。ハエはうまく口の中に捕らえることができた。とても美味だった。
 ハエはいっぱい目の前を飛んでいる。男は次々にハエに飛びかかった。
 男は大きなトカゲになっていた。自分が人間だったときの記憶は、全く失われているようだった。