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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『ミッキ』最終回

2013-11-12 11:03:34 | 小説
 最近寒くなり、昨夜は毛布を1枚重ねましたが、それでも寒く感じました。
 昨日から咳き込むようになったので、風邪を引いたようです。

 今回はいよいよ『ミッキ』最終回です。長い間、読んでくださり、ありがとうございました。


     エピローグ

 私は目を覚ました。伊勢市内の病院の一室だった。もう夜になっていた。母と伯母、慎二がいた。そして松本さんと河村さんも。私には何が何だかわからなかった。
 母は伊勢市の警察署から、私が交通事故に遭ったという連絡を受け、驚いて駆けつけてきたそうだ。寮の仕事はパートの山川さんたちにお願いしてきた。名古屋支社からも応援が来ている。
「あんな猛スピードで突っ込んだのに、よく軽い打撲とかすり傷程度ですんだもんだな。車の前はぺしゃんこだったからな」
 松本さんが驚いていた。そう言われて、少し思い出してきた。若林さんの車に乗せられ、県道を走っていたら、運転をしていた若林さんが急に苦しみだしたのだ。そして、私は怖くて、一心に光のお御霊に祈った。そのあと、大音響がして、何もわからなくなった。
「若林さんは?」
「若林さんと鈴木さんは亡くなったわ。いくら拉致をしたとはいえ、最後はあまりに悲惨だった」
 河村さんが目に涙を溜めて言った。
「今、波多野さんと大井さんは警察に行っている。事故の目撃者として」
「そうなの、二人は亡くなったの?」と言いながらも、私の頭は混乱して、まだ事態を十分に理解できなかった。事を認識できるようになったら、たぶんじわじわと悲しみが押し寄せてくるだろう。いくら私を拉致監禁した人たちとはいえ、心霊会の先達として、深い関係を持った人たちだったから。それに、鈴木さんとは同じ寮に住んでいたのだし。
 若林さんは即死だったが、鈴木さんは事故の直後はまだ意識があったそうだ。運転中、若林さんは急に頭が痛いと苦しみだしたと証言した。若林さんはくも膜下出血だった。
 私はジョンが来た日に、パートのおばさんが「あんたたちだって、いつかはくそばばあになるんだよ」と鈴木さんたちに言っていたことを思い出した。鈴木さんはお婆さんになるどころか、二二歳の若さで命を散らしてしまったのだ。
 セレナに激突された軽トラックは、荷物の積み降ろしの最中で、ちょうど運転手がトラックから離れており、事故に巻き込まれなかったのは、不幸中の幸いだった。
 河村さんは、二人が亡くなった責任の一端は自分たちにあるのではないか、と悩んでいた。くも膜下出血で倒れた若林さんはともかく、鈴木さんは河村さんたちが訪れさえしなければ、自動車事故で死なずにすんだのだ。若林さんにしても、スピードオーバーで車を運転するという強い緊張感に苛まれなければ、くも膜下出血を起こさなかったかもしれない。
 松本さんは「これも運命だったのだから、彩花が気にすることはない。それにもし俺たちが行かなければ、ミッキが大変なことになっていたかもしれないんだから」と河村さんを元気づけた。松本さんの心がこもった慰めが、河村さんの沈んだ心をいくぶんか軽くした。
「私はとっさに光のお御霊に祈ったんで、助かったんだ」
 私は光のお御霊に改めて感謝した。
「そうよね。こんなこと言っては不謹慎かもしれないけど、二人は助からなかったのに、ミッキだけ軽い怪我ですんだのは、光のお御霊のおかげだわ。本当に奇跡としか、言いようがない」
「お父さんね、もう意識も回復して、早く美咲に会いたがってるよ。夢の中で、美咲が輝く光という字から、まばゆい光を送ってくれた、と言っていたけど、やっぱりお札の力、すごいんだね。心配していた後遺症も大丈夫みたい。彩花ちゃん、お札、本当にありがとう。私もお札の力、信じてる」
 母は涙を流しながら、河村さんにお礼を言った。
「いえ、私の力じゃありません。光のお御霊の力です」
 河村さんも泣いていた。
「それから、今回はジョンもお手柄でした。ジョンにもご褒美で、おいしいものをたくさん食べさせてあげてくださいね」
 松本さんはジョンへの賞賛も忘れなかった。
「そういえば、ジョンは?」と私は母に尋ねた。
「ジョンは大活躍で疲れたのか、大井さんの車の中で、気持ちよさそうに眠ってるわ。残念ながら、ジョンは病室には連れてこられないし。ジョンがミッキの匂いを嗅ぎつけて、私たちにあの道場の中にミッキがいることを教えてくれたの」
 河村さんが母に代わって答えてくれた。
「匂いといえば、私、ずっとお風呂に入ってないので、臭くない? ずっと着替えもしてないし。いやだ、松本さんの前で、恥ずかしい」
 私がこう言って布団の中に顔を隠したので、みんな大笑いをした。

 父が階段から滑り落ちて、瀕死の重傷を負ったのは、酒井愛美さんの細工のせいだった。鈴木さん、酒井さん、永井さんの三人組は、父か母に怪我をさせて、私が退転した罰だと脅そうと計画した。それで、酒井さんが大学を休んで、階段に滑りやすくなるようにワックスを塗ったのだそうだ。せいぜい足を滑らせて、捻挫か軽い骨折をさせる程度のつもりだったのが、あのような惨事になってしまった。酒井さんは自分がしでかしたことの罪の大きさに、怯えていたそうだ。いくら若林さんや鈴木さんに、心霊会のためにしたことだから、徳を積みこそすれ、罪の意識に苛まれる必要はない、と言われても、心安らかではいられなかった。
 そして、突然の若林さんと鈴木さんの死。多大な御守護をいただいているはずの法座長と班長が、なぜあんな酸鼻を極めた最期を遂げなければならなかったのか? 心霊会で説かれているような、安らかな臨終とはとても思えなかった。同じ車に乗っていて、退転していたはずの私が軽い打撲やかすり傷程度ですんだのに。
 そう思うと、恐ろしくなり、酒井さんは母に自分がやったことを告白した。母は「私は酒井さん個人を咎めないけど、でもやってしまった罪は罪として、償ってもらわなければなりません。酒井さんももう責任ある二〇歳(はたち)の大人なんだから」と諭した。それで母と、元教師の伯母に付き添われて、春日井市の篠木署に出頭した。酒井さんは傷害罪もしくは殺人未遂罪を問われたが、父が死んでもかまわない、という未必の故意(殺意)まではなかったとされ、傷害罪で起訴されるようだ。母は、父は助かったことだし、酒井さんは非常に改悛しているので、罪を軽減してくれるように訴えた。自首が認められたことでもあり、おそらく執行猶予がつくだろう。
 また、永井さんも鈴木さんと三人で共謀したとして、共謀共同正犯で事情聴取された。気が弱い永井さんは、「それではやり過ぎよ」と言って、この計画には最初からあまり乗り気ではなかったと酒井さんが証言した。永井さんはたぶん罪を問われることはないだろう。
 平田信子さんと彼女の導きの子たちは、心霊会を脱退した。寮にいた信者も全員脱会した。
 死者二人を出した妙法心霊会の事件は、日本でも有数の大教団が起こした女子高校生拉致監禁事件として、全国的に報道された。そして、宗教のあり方がまた問題視された。かつての某宗教団体によるテロ事件以来、宗教関係の事件は、マスコミでよくクローズアップされる。私は未成年なので匿名で報道されたが、若林さんと鈴木さんは拉致監禁をしたとして、一部の報道で、顔写真まで出てしまった。宗教教団によるマインドコントロール、洗脳だとして、話題にもなった。
 妙法心霊会は、今回の事件は一部の信者が勝手に暴走したものであり、教団としては、いっさい関知していない、とのコメントを発表した。だが、本部直轄の施設である鍛錬道場の使用を許可したことで、教団本部が関与をしていない、という言い分は通らず、教団としては苦しい立場に追い込まれた。教団のために殉じた人に対し、むち打つような冷たい本部の態度に不満を持った幹部が、内部告発をしたのだ。
 若林さんのご主人は、『心霊会に家庭を破壊された』という手記を、週刊誌を通して発表した。家族全員が心霊会の会員ではあったが、家庭を顧みず、宗教活動にのめり込んでいた若林貴美子さんのことを、家族は快く思っていなかった。毎年一〇〇万円近いお金をご供養金としてつぎ込み、経済的にも大変な負担だった。心霊会は先祖供養を説き、一家和楽を主張しているはずなのに、若林さんの家庭は、崩壊寸前だったそうだ。
 しばらくはテレビや新聞、雑誌記者などの取材が続き、私は落ち着かなかった。乗っていた車が大破する大事故だったにもかかわらず、私はほとんど無傷の状態だったことも、奇跡として報道の対象となった。ジョンは主人の窮地を救った忠犬として紹介された。
 宏美が、大捕物のとき現場にいなかったことが残念だとぼやいた。宏美もその場を見たかったそうだ。宏美はそのころ、合唱部の文化祭の準備、練習で大忙しだった。でも、一歩間違えば、大怪我をしていたかもしれなかった。みんな軽傷ですんだのは幸いだった。大井さんは大男との格闘により、打撲傷や首、肘の関節への軽い怪我を負っていた。
 慎二は私を連れ戻すときに大活躍をした大井さんのことを、兄貴と呼んで慕っている。脚が快復すれば、大井さんに空手の手ほどきをしてもらうことになっている。

 そんな中で、一一月上旬の文化祭は無事終了した。歴史研究会の部室は、例年になく多くの人が訪れ、評判も上々だった。顧問の小林先生もよくやったな、と褒めてくれた。伯母も私たちの文化祭を見に来てくれた。そのとき、小林先生は初めて伯母と言葉を交わした。かつての反戦平和運動のリーダーに会い、小林先生は年に似合わず、大いに照れて、部員たちに冷やかされていた。私は今年の文化祭にはあまり協力できなかったが、来年度は部長として頑張ってほしいとみんなに励まされた。
 宏美が所属する合唱部の発表も体育館で行われ、私も伯母、松本さんや河村さんと聴きに行った。曲目は高田三郎作曲の『水のいのち』だ。ピアノ伴奏は守山先生、合唱指揮は三年生の前部長が担当した。県の合唱コンクールでは惜しくも全国大会進出を逃したものの、見事な合唱だった。
 文化祭のころには、父はもう歩けるまでに回復した。後遺症ももう心配ない。年内には仕事に復帰できるそうだ。

 紅葉の時季、私たちは弥勒山に登山した。河村さんをリーダーに、大井さん、松本さん、宏美、そして今回は波多野さんも参加した。宏美はボーイフレンドの野中明男君も連れてきた。
「いつも私は河村さんやミッキに当てつけられてばかりだったから、今日は私も明男君との仲を見せつけたげる」と宏美が明男君と手を組んでしなだれかかった。明男君は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
 定光寺駅から東海自然歩道に入り、外之原(とのはら)峠、桧峠を経由して、道樹山、大谷山、弥勒山の四〇〇メートル級の山を縦走し、内津(うつつ)峠に下るという、弥勒山方面としては今まででいちばん長いコースだった。
 気温も下がり、鬱陶しいメマトイもぐっと数が減り、快適だった。ただ、いくら涼しくなっても、私は歩けば大汗をかいた。河村さんが「最近は冷房の完備などで、汗をあまりかかず、体温調節が十分できない人が増えているけれども、汗をかくことは、体温調節や代謝もスムーズにできているので、とてもいいことよ。それに、汗をよくかく人は、さらさらの汗で、臭いも少ないのよ」と言ってくれた。
 残念ながら、今回歩くコースはそれほど紅葉に恵まれてはいなかった。それでも所々できれいな紅葉を見ることができた。また、その日は晴天で、弥勒山の山頂からは、御嶽山、乗鞍岳、中央アルプス連峰、白山などがきれいに眺められた。三〇〇〇メートル級の高山はもう白く雪化粧をしていた。

   

 弥勒山頂上からの中央アルプス 左は木曽駒、宝剣岳。右は空木岳、南駒ヶ岳。

  

 御嶽山と恵那山。

 涼しくなり、熱いコーヒーやカップ麺がおいしかった。今日は車ではないからと言って、大井さんが缶ビールを持参していたので、河村さんに「まだ一九歳になったばかりでしょう」とたしなめられていた。それにトレッキング中の飲酒は危険でもある。さすがの大番長も、将来は奥さんのお尻に敷かれそうだ。
 寮に戻れば、またジョンがみんなに散歩をねだるだろう。大好きな人たちが大勢いるので、ジョンは大はしゃぎしそうだ。
 五月のゴールデンウィークに初めて四人で弥勒山に登り、それ以来固い友情で結ばれた私の素晴らしい仲間たち。今回の事件をきっかけに、さらに固く固く結ばれていくだろう。そして松本さんと私の愛情も……。
(完)