売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影』第29・30章

2012-11-19 12:59:58 | 小説
 今回は『幻影』29・30章を掲載します。29章は短いので、30章とともに掲載です。29章は短いのですが、往復書簡の形を取っており、作者としては気に入っている章です。



             29

「初めてお手紙差し上げます。
 立春とは名ばかりで、まだまだ寒い日が続きますが、いかがお過ごしですか。
 あれから日間賀島の大光院、豊浜の浄土寺(じょうどじ)、影向寺(ようごうじ)と回り、無事満願を迎えました。
 篠島の写真、たくさん送っていただき、ありがとうございました。とてもきれいに写っており、非常にいい記念になりました。
 一緒に行った泰子さんや清美さんも、喜んでいましたよ。
 美奈さんのタットー、というのですか。観音様の刺青(いれずみ)、とてもきれいでした。みんなもお寺さんの仏様よりありがたいと申しておりますよ。若い方なら、こんなときは(笑)と書くのでしょうか。
 携帯電話のカメラで観音様の写真を撮らせてもらいましたが、あまりきれいに写っていないので、やはりいいカメラで写した写真、ぜひいただきたく思います。でも、裸の写真をください、だなんて、やっぱり不躾ですね。
 ところで、テレビのニュースを見て驚きました。美奈さんのフィアンセの方、本当にお気の毒です。心からご冥福を祈ります。
 でも、その後の報道を見ていると、この方は結婚詐欺や恐喝などを働いていた、悪い人だったそうですね。私も気になりましたので、いつもは読まないような週刊誌の記事も読んでみました。美奈さんはお金をだまし取られそうになったそうですね。
 こんなこと書いてしまうのは申し訳ないのですが、週刊誌の記事によると、刺青をしているソープ嬢がお金をだまし取られそうになったので、その報復として、その人を殺したのではないか、とありました。
 この記事を読んで、ああ、これは美奈さんのことをいっているのだな、と思いました。でも、美奈さんはそんなことをする方ではないとわかっておりますので、私たちも絶対に美奈さんが犯人ではないと信じておりました。週刊誌は売れさえすればいいので、あることないこと書き立てますから。私たち三人して、いい加減な記事を書く週刊誌はひどい、と憤っております。警察もはっきり美奈さんは犯人ではない、と断言していたそうですし。
 本当に失礼なことを書いてしまい、申し訳ございません。
 美奈さんの辛いお心を思うと、このようなお手紙を差し上げることは、本当に失礼なことだと思いました。最初は事件のことにはいっさい触れず、写真のお礼だけで済ますつもりでした。
 でも、篠島で一緒に過ごさせていただいた、楽しい時間を思い出すと、やはり何も言わずに済ますことはできませんでした。
 辛いこととお察しいたしますが、どうか、ご自愛くださいませ。
 乱筆乱文、お詫び申し上げます。
                                    あらあらかしこ
 平成一八年二月○日
石山和子
 木原美奈様
 追伸 泰子さん、清美さんからも、よろしくお伝えくださいとのことでございます。」

「お手紙、拝見させていただきました。
 何かとお気遣いいただき、本当にありがとうございます。
 私もその件、大変衝撃を受けました。
 繁藤にずっとだまされていたこともショックでしたし、繁藤が殺されてしまったことでも大きく打ちのめされました。
 私も容疑者としてアリバイを調べられましたが、知り合いの刑事さんが、私の潔白をはっきり証明してくれました。
 しかしマスコミというのは、ひどいものです。読者の知る権利を振りかざし、私のプライバシーは丸裸にされてしまいました。
 仮名とはいえ、容疑者は全身刺青のソープ嬢、と、どこで入手したのか、私の全裸のいれずみの写真まで添えて雑誌に掲載されてしまいました。実家のお寺にもマスコミが押しかけ、住職をしている兄に、私の悪行(?)が知られてしまい、勘当同然にされてしまいました。勘当なんていう言葉を使うと、なんだか古めかしいように思われますが。
 刑事さんやお店の人たちが私を信じて、庇ってくれたから、私も負けずに何とかやってこられました。
 繁藤、あのときは私も本名を偽って聞いていたため、安藤と紹介してしまいましたが、だまされていたとはいえ、一時は真剣に結婚を考えていた人でした。だから、しばらくは何を信じたらいいのか、わからない状態でした。
 それでも、最近、ようやく立ち直ることができました。これも仲間のみんなや、親切な二人の刑事さんの支えがあったからで、本当に感謝しています。
 多くの人たちをだましてきた繁藤には、生きて償ってほしかったのですが、これが業というのか、運命なのでしょうか。
 血なまぐさいことを書いてしまい、申し訳ありません。
 篠島でのひととき、本当に楽しゅうございました。私のいれずみに対して、あんなに好意的に受け止めてくださった方は、初めてで、とても嬉しく思いました。私の貴重な思い出の一ページとなりました。
 また、ぜひともお会いしたいですね。
 まだ寒い日が続きますので、どうか、くれぐれもお体にお気をつけください。
 泰子様、清美様にもよろしくお伝えください。
                                        かしこ
 二〇〇六年二月×日
木原美奈
 石山和子様
 私の背中の写真、同封いたしました。仲のいい友だちに写してもらいました。」

             30

「ミクちゃん、最近元気がないね」
 美奈が接客を終えて、待機室で休憩していると、アドバイザーの玲奈が声をかけてきた。
「あ、玲奈さん」
「次の指名がかかるまで、ちょっとコーヒーでも飲まない?」
 玲奈は美奈を談話室に誘った。そこは玲奈がコンパニオンの悩みを聞いたり、相談に乗るときに使っている部屋だ。
 玲奈は自販機で紙コップのコーヒーを二つ買ってきて、一つを美奈に勧めた。
「ミクちゃん、タトゥー、増えたね。賑やかになったわ」
 玲奈は仕事着から大きくはみ出している、美奈のタトゥーを見て言った。
「すみません、わがままばかり言って、どんどん増やしちゃって」
「もう三年ぐらい前になるかな、アカネちゃん、という、背中一面に和彫りの龍が入った子がいたけど」
 玲奈は古い話を持ち出した。
「はい、名前は何度も聞いてます。ルミさんがこの店に入って、しばらくしてから辞めたそうですね。ルミさんも胸に蝶のタトゥーが入っていたけど、初めてアカネさんのいれずみを見せてもらったときは、さすがのルミさんもびびった、と言ってました」
「彼女のは本職さんが彫るような、周りを黒く染めた、本格的な龍の和彫りだったな。それに比べれば、ミクちゃんのは、龍もあるけど、優しくてきれいないれずみね。ミクちゃんのいれずみには、ファンが多くて、指名してくれるお客さんもたくさんいるから、ありがたいわ。あ、もちろん、ミクちゃんの人気はいれずみだけじゃなくて、ミクちゃんの人柄のよさや努力の賜なんだけど。ミクちゃんがうちに来て、もう二年になるわね。本当によくやってくれてます。今ではうちの主力よ。何といっても、ナンバーワンだから」
「いえ、私なんて、まだまだです」
 美奈は謙遜した。
 最初は背中に騎龍観音を彫る資金を稼ぐため、ほんの腰掛けのつもりで入店したのだが、今ではミクは押しも押されぬ、オアシスではナンバーワンのコンパニオンだった。
 繁藤の事件でマスコミに報道され、美奈は仮名とはいえ、背中の騎龍観音のいれずみとともに、顔の写真も雑誌に載ってしまった。掲載された顔写真は、目線が入れられていたが、よく見れば美奈とわかってしまう。
 背中のいれずみの写真は、客を装って来た雑誌記者が、美奈が気づかないうちに、盗み撮りしたものと思われる。店のホームページにあるミクの写真も利用されていた。
 いくら報道では店やミクの名前が伏せられていても、結局漏れわかってしまうものだ。
 一時期事件に振り回されたとはいえ、騒ぎが収まれば、世間の関心が高まり、ナンバーワンだったミクの人気がより高まったという、皮肉な結果となった。店としても、この騒動で、かえって来客が増えた。事件の報道は無料の宣伝となった。
 この事件で辛い立場に追い込まれていたミクを励ましてくれたのは、これまで意地悪をしていた多くのコンパニオンたちだった。ミクにとって、それが最も嬉しいことだった。
「ところで、さっきの話だけど、最近、ミクちゃん、元気がないようだね。店長もとても心配してるわ。やっぱりミドリさんやルミちゃんのことかしら。殺人事件に巻き込まれたりもして、大変だったけど」
 玲奈はずばりと言い当てた。
「はい、わかりますか」
「二人とも、来月いっぱいで退職することになって、仲がよかったミクちゃんとしては、寂しいでしょうね。うちにとっても二人はとても貴重な人材だから、二人とも辞めちゃうのは、本当に辛いところよ」
「でも、ミドリさんは結婚、ルミさんはタトゥーアーティストとして新しい人生を歩むんだから、祝福してあげなければいけないんだけど、どうしても寂しいという気持ちのほうが強く押し出されてしまいまして」
「ミクちゃんの寂しい気持ちは、よくわかるよ。ケイさんと四人、ほんとに仲がよかったから。もうケイさんと二人だけになってしまうからね」
 玲奈は入店以来、内気でおとなしい美奈のことを気にかけ、陰からずっと見守っていた。おとなしそうな外見からはとても想像できないほど、大きなタトゥーを入れている美奈は、多くの先輩コンパニオンたちからいじめの対象になっていたことも、玲奈は承知していた。だから、美奈と気が合う様子のミドリやケイに、美奈をそれとなくかばってやるように頼んでもいた。
 玲奈の心配をよそに、ミクはどんどん成績を伸ばし、三〇人近くいるオアシスのコンパニオンの中でも、常時トップクラスに名を連ねるようになった。
 今ではミクはオアシスでは欠くことができない、貴重な戦力だ。そのミクが元気をなくしているので、玲奈としても何とか力になってやりたかった。ミドリ、ルミに続いて、ミクまで失うわけにはいかなかった。
「ルミちゃんもかなり悩んでいて、いろいろ相談受けたわ。最初は勤務の日数を週三日ぐらいに減らしても、しばらくは仕事続けます、と言っていたけど、やっぱり大変みたい。もうタトゥーに専念することにしたそうだけど」
「はい。ルミさん、卑美子先生や先輩のトヨさんのお手伝いや、その合間をぬっての絵の練習とか、思ったより大変だと言ってました。衛生面にも気をつけなければならないから、掃除や器具の滅菌などにも気を遣うとも」

 ルミ――スタジオではさくらと名乗っているが――は、兄弟子のトヨが非常に厳しく、毎日が大変だと言っている。ともすればへこたれそうになってしまう。それでも、ときおりトヨは温かい言葉で励ましてくれる。トヨが厳しくするのは、ルミのことを思いやってくれるからこそだということがよくわかるので、一人前のタトゥーアーティストになれるまで、絶対挫折しないで頑張る、とルミは三人に宣言した。
 あの人がよさそうなトヨがそんなに厳しいのかと、疑問に思わないでもないが、やはり友達として付き合うのと、兄弟弟子として接するのでは、まったく違うのだろう、とミドリ、ケイ、美奈の三人で話していた。
「ところで、女の場合は姉妹弟子とはいわないのかしら。いわないとしたら女性差別ね」とケイが変な質問をした。美奈も姉妹弟子とか姉弟子、なんて言葉は聞いたことがなかった。
 トヨは時間が空いているとき、ルミの背中を彫ってくれるので、天女の絵はどんどん進んで、もうきれいに色が入っていた。そのときは、彫り師と客の間柄に戻り、トヨも優しくルミに話しかけてくれるそうだ。
「いつも厳しくしてばかりで、ごめんなさいね。でも、さくらは本当によくやっていると思うよ。一人前のアーティストになれるまで、頑張ってね。私もまだとても一人前とはいえないから、一緒に頑張る。先生が赤ちゃん産んで、第一線から退かれたら、二人でこのスタジオを盛り上げていこうね」
 背中の天女に色を入れてもらっているとき、トヨからそう励まされ、ルミは感動して涙がぽろぽろ流れたそうだ。
 一度、ルミがトヨの予約を同じ時間に二重に受けてしまったことがあった。トヨが指定した日を、ルミが間違えて、一日早い日にちを客に伝えてしまったのだ。
 同じ日の同じ時間に、二人の客がかち合ってしまった。完全にルミのミスだった。
 けれどもそのときトヨは、一切ルミを責めることはせず、自分が十分予約の時間を確認しなかったからいけなかった、とひたすら客に謝罪した。
 たまたま卑美子が空き時間で、その客も一時間程度で彫れるワンポイントの図柄だったので、卑美子が引き受けてくれ、事なきを得た。
 その事件の後、トヨは落ち込んでいるルミに、「失敗は誰にでもあることですよ。一流ホテルや飛行機だって、オーバーブッキングすることもあるんだから、あまりくよくよしないでね、さくら。今度から気をつけてくれればいいんだから」と温かく弟弟子をたしなめた。
 そんなこともあり、ルミは四歳年上の兄弟子にとことんついて行こう、と決意した。
 トヨは実際の年齢より若く見られるが、ケイよりも一歳年上の二七歳だった。初めて会ったとき、ルミはトヨの年齢は自分と同じぐらいかな、と思っていた。あまり若く見られるのがいやで、トヨは最近は落ち着いた感じに見えるよう、常時黒縁のメガネをかけている。客の中には、あんな若い子に肌を任せて大丈夫かしら、と不安がる人もいる。トヨは若く見られることによって軽んじられるのが悔しかった。

「はい、ミクちゃん、ご指名です。佐藤様。準備お願いします」
 沢村から内線電話で連絡が入った。
「それじゃあ、ミクちゃん、勤務終わってから、久しぶりにうちに来ない? ケイさんも一緒に。いろいろ話をしましょう」
 ミクに指名が入ったので、玲奈は話をそこで打ち切った。ミクは待機室に戻り、モニターで佐藤という客を確認した。指名客だというが、記憶にない顔だった。

 ミクの客は五〇歳を超えていると思われる初老の男だった。ミクを指名したというが、初めての客だった。男は仕事用の衣装からはみ出しているミクの腕や胸の華やかなタトゥーに、目を見張った。
「あら、私のタトゥーのこと、知らずに指名したのかしら」とミクは少し不審に思った。
「こんばんは。ミクです。ご指名、ありがとうございます。精一杯尽くさせていただきますので、どうかよろしくお願いします」
 ミクは男の手を取って、部屋へ案内した。
「トイレ、大丈夫ですか?」と尋ねると、男は緊張した様子で、「それではちょっと行ってきます」と答えた。
 個室に入っても男はなかなか服を脱ごうとはしなかった。ソープランドは初めてなのかしら、とミクは思った。
 ミクが着衣を全て脱ぐと、男はミクの背中を見て、ひどく驚いた。その驚き方は尋常ではなかった。
 男は恐る恐る服を脱ぎだした。
「失礼ですが、お客様、こういうところは初めてなんですか?」とミクは尋ねた。
「いや、でももう二〇年近くは来てなかったので」
「そうですか。では、今日は思いっきりサービスさせていただきます」
 ミクは男に顔を近づけた。視力が悪いミクは、客の顔をしっかり見て覚えるため、最初に間近に近づいて、相手の顔を見る。
 いよいよ接客のサービスが始まった。
「今日はご指名くださって、ありがとうございます。佐藤様、どなたかのご紹介で私をご指名くださったのですか?」
 ミクは男の背中を洗いながら尋ねた。
「え? あ、いや、君、少し前に週刊誌なんかに出ていただろ?」
「あ、それで私のことご存じでしたのですね。いくら名前を伏せてあっても、結局はわかってしまうので、ほんと迷惑でしたわ。マスコミの暴力ですよね」
 ミクは愚痴っぽくならないように、言い方に気をつけた。
「あ、うん。全身刺青のソープ嬢が犯人か、なんていう記事があったからね。目は隠してあったけど、とてもかわいい顔だったので、つい年甲斐もなくふらふら来てしまったんだよ」
「年甲斐もなく、なんてことないですよ。いろいろな方が、毎日の仕事や生活という砂漠でお疲れになって、癒やしを求めてこのオアシスにいらっしゃいます。私はそんな方々の心に少しでも潤いを差し上げられるよう、一生懸命尽くさせていただきます」
 ミクは最後のサービスに入った。入店したばかりのころは抵抗もあり、なかなかうまくいかなかったが、それはそれで初々しい、とかえって好評だったりもした。今ではこだわりもなくなり、客のレベルに合わせた応対ができるようになった。
 男はミクのなすがままに任せていた。
「君、すごいいれずみだね。きれいだよ。本当にきれいだ」と男が話しかけた。
「ありがとうございます。最初、私の身体を見て、びっくりされていたので、ちょっと心配でした。いれずみのこと知らずに私を指名して、驚かれたのかな、と思いまして。特に、服を脱いで背中を見たとき、とても驚かれていましたから。女だてらに背中一面、全身いれずみですものね」
「いや、君の背中とそっくりないれずみをしている人を見たことあるんでね。それでびっくりしたんだよ」
「その方も女性ですか?」
「ああ、女の人だった。おとなしそうな女性だったので、びっくりしたよ」
「へえ、佐藤様、隅に置けませんね」
 そのとき、美奈はその女性とは、千尋のことだと思った。美奈とそっくりないれずみをした女性、といえば、真っ先に千尋を思い浮かべた。美奈の騎龍観音が完成してから以降、卑美子のスタジオで同じ図柄を彫った女性がいるかもしれないが、佐藤が見たいれずみの女性は、千尋に間違いないと直感した。
「ところで、君は結局犯人ではなかったんだね」
「私が犯人でしたら、今ごろここでこうして佐藤様とお話していられませんわ」とミクは微笑んだ。
「それはそうだね。ところで警察にはもう犯人の目星はついているのかい?」
「いえ、私は詳しいことは知りませんが、捜査は難航しているみたいですよ」
 ミクはあまり捜査のことをしゃべるわけにはいかないので、適当に答えておいた。
「そうか。でも、そういう人を殺すような悪いやつは、早く捕まってほしいものだな。人殺しがぬくぬく街を歩いていては、物騒でいかん」
「そうですね。その被害にあった人もうちのお客様だったから、早く犯人が捕まることを祈ってます」
 服を着終えてから、ミクは佐藤に新しい名刺を渡した。表には未来(ミク)の名前と顔写真、裏には二月、三月のミクの出勤予定日が書いてある。
「またぜひご指名くださいね」
 内線電話でフロントに、「お客様、上がります」と連絡してから、ミクは佐藤を送り出した。佐藤は軽く礼をして、気まずそうな顔をして店から出て行った。
 美奈はいったん接客に使った部屋に戻り、簡単に後片付けをした。部屋の後片付け、掃除は、本来男性従業員の仕事で、接客を終えたコンパニオンは、すぐ待機室に戻って身体を休める。
 それでも中にはしばらく個室で休憩したり、眠ったりするコンパニオンもいる。オアシスでは基本的には待機室で次の接客まで休憩することになっているが、一人になりたいからといって、フロントに断った上で、個室で待機するコンパニオンもいる。
 オアシスでは、コンパニオンによって、よく使う部屋はほぼ決まっている。一つの個室を、二、三人のコンパニオンで使用する。ときにはその個室を別のコンパニオンが使用中のこともあり、その場合は、別の部屋に回ることになるのだが。もし個室を共用しているコンパニオンが休みのときは、その部屋を独占して使うことができる。そういう場合は、待機室に戻らず、個室で過ごすコンパニオンもいる。
 美奈は個室を使用した後は、いつも簡単な後片付けは自分でしていた。それから待機室に戻る。ミドリやケイ、ルミがいれば、楽しく時間を過ごせるし、それ以外にも話をする友達が増えてきた。一人で個室にいるより、待機室にいたほうが楽しい。
 美奈は後片付けのため、個室に戻った。接待用のテーブルの下を見ると、四角い紙片が落ちていた。目を凝らすと、名刺のようだった。せっかく渡したのに、落としちゃったのかな、と思いながら、美奈は名刺を拾い上げた。
 名刺にはその月と翌月の出勤予定が記入してあり、リピーターはその日程表を見て、ミクに予約する。名刺は次の指名を得るための大切なアイテムだ。客も名刺をフロントに示して、同じコンパニオンを指名すれば、入泉料の割引を受けられる。
 名刺を見てみると、最新のものではなかった。ミクの顔写真が、昨年のものだった。
 名刺は店のパソコンで作ることができる。決められたフォーマットがあり、パソコンを使える人は、それを使って自分で作成する。顔写真の掲載は、強制ではなく、各人の自由意志に任されていた。美奈もときどき自分で名刺を作成する。パソコンが苦手なコンパニオンには、作ってあげることもよくある。
 今渡している名刺は、今年に入ってから写した写真で作り直したものだ。
 これはさっき渡したものではない。あのお客さん、古い名刺を誰かにもらったんだわ、と思いながら、裏を見てみた。
 馴染みの客には、裏に一言書き添えて渡すことがある。その名刺にも書き込みがあった。その書き込みを見て、美奈の顔はこわばった。
 それは昨年、安藤と名乗っていた繁藤に渡したものだった。その書き込みは安藤に対してしか書いていないものだった。
「また来てくださいね。お待ちしてます」と書いた後に、ウインクした顔のマンガが小さく描いてある。絵が得意なルミのようには上手に描けなかったが、安藤に渡すために、特別に描いたものだった。些細なことではあるが、安藤に対する美奈の気持ちだった。そのことは鮮明に覚えている。美奈はその事の重大さに思い当たった。
 千尋と繁藤の共通の関係者。
 その名刺は間違いなく佐藤が落としたものだ。少し前には名刺は落ちていなかったので、前の客が落としたとは思えない。いくら美奈の視力がわるくても、赤いカーペットに落ちているうす水色の名刺を見落とすはずがない。

 勤務終了後、美奈とケイは、玲奈のマンションに寄った。ルミに電話したら、もうスタジオから帰っているので、これから行く、という返事だった。
 ミドリは結婚式の打ち合わせなどで、休暇を取って郷里に帰っていた。
 玲奈はコンパニオンの相談に乗るとき、自分のマンションに招くことがある。ルミもタトゥースタジオに弟子入りする件で、少し前に玲奈のマンションで一晩話し合ったという。
 美奈も初めての出勤の日以来、玲奈のマンションを何度か訪れた。ミドリやケイ、ルミと一緒に来たこともある。
 玲奈はコンパニオンの悩みを聞き、相談に乗る、大切な役目を担っていた。店にとっても玲奈は、コンパニオンの定着率を高める役割を果たす、重要な存在だった。現役は退いていても、コンパニオンの休みが多く手薄なときは、助っ人として出仕することもある。
 年齢は三〇代後半とはいえ、玲奈にはまだ十分な魅力があった。
 ルミも合流して、三人が揃った。玲奈がフルーツ果汁入りのチューハイを出した。美奈はビールや水割りがあまり好きではない。特に苦いビールは苦手だ。甘い酒が好みだった。
「アルコールが入るから、今日はうちに泊まっていきなさい。ミクちゃんは車だし。ルミちゃんも今日は車だね」と玲奈が言った。
 ケイもルミも、ふだんは自宅のマンションへの帰りはタクシーを使っている。方向が同じなので、ミドリと三人で、よく一緒に乗り合わせる。
 勤務終了後、美奈たちといつものファミレスに寄るときは、たいてい美奈が車で他の三人を自宅まで送っていく。高蔵寺の美奈以外は、比較的オアシスに近いところに部屋を借りているので、それほど大きな寄り道ではなかった。店から一番遠い高畑に住んでいるルミでも、深夜の空いた道なら、ファミレスから数分で走ることができた。
「今日も背中の天女彫られちゃった。今日はお尻の近くにある五彩の雲に色を入れたんで、座ると少しお尻が痛い。トヨさん、時間が空いてると彫ってくれるんで、けっこう早く完成しそう」
 ルミはソファーに腰を下ろして顔をしかめた。
「今日ね、初めてマシン持たせてもらったのよ。彫ったのはゴムの板だったけど。なかなか思うようには彫れないね。でも、楽しかった。早く先生みたいにマシンを自由自在に操れるようになりたいな」
 卑美子は師匠と呼ばれるのがくすぐったく思えるので、師匠とは呼ばないで、と弟子たちに断っている。それで、トヨもさくらも卑美子のことを「師匠」ではなく、「先生」と呼んでいる。
 卑美子にとって、師匠と呼べるのは、一門の総帥、彫波一人だった。
 明るいルミの声を聞いて、美奈はほっとした。やはり年齢が近いルミが、美奈にとって、一番の気が置けない存在だった。
「ルミさん、明日はお店に出勤ですよね。明日は会えますね」
 明日、もう午前〇時を回っているから、正確には今日だが、金曜日は美奈も出勤日にしている。美奈は今、月、水以外の週五日出勤している。木曜日から日曜日までの四日連続の出勤は、いくら二一歳の若い美奈でも身体がきつい。しかし客が多い金土日に出勤するのは、常にナンバーワンの座を窺うミクに対する、店の要望でもあった。
「うん。最近はお店に出るの、月水金の三日だけだし、時間も早いシフトが多いから、なかなかケイさんやミクとも会えないね。勝手なことばかり言って、本当にごめんなさい。当分はお店に勤めながらやってくつもりだったのに、やっぱり両方は難しい。私だって苦渋の選択だったんです。本当にごめんね」
 感極まったのか、ルミの目から一筋、二筋と涙がこぼれ落ちた。美奈もつられて目を潤ませた。
「こら、ルミ。いや、さくら。泣くやつがあるか。私たちは、ミドリも含めて、みんなさくらのこと、応援してるんだからね。背中一面みたいにあんまり大きいのは無理だけど、バラの花の一つや二つだったら、さくらの練習台になってあげるから」
 さくらはルミの本名でもあるので、さくらと呼ばれても、まったく違和感はない。
「私もいいですよ。でも、あんまり大きくやっちゃうと、玲奈さんに叱られそう」
 玲奈はわざと怖い顔をして美奈を睨んだ。そしてアハハと笑った。
「私はもう諦めていますよ、ミクちゃんのタトゥー好きには。お客さんには好感もたれているし。でもうちに勤めている間は全身びっしりはやめてね。せめて右脚に龍を彫るぐらいにしておいて」
 美奈はさくらの練習用に、右脚を提供しようと思っていることを、玲奈に話していた。図柄は左脚の鳳凰に対し、右は龍を考えている。
「自分の身体で練習して、ある程度うまくなったらね。下手くそな絵入れちゃって、一生ミクに恨まれるのはいやだもん。へたっぴでも、彫っちゃったら、もう二度と消せないんだから。でも、練習でも他人に彫ってもいいと先生の許可が出るのは、まだ当分先よ」
 実際は練習で、もしひどいものを彫ってしまった場合は、卑美子やトヨが無料でカバーアップしてくれることにはなっている。とはいえ、人様の肌で練習をさせていただく以上、失敗しても先生が直してくれる、という甘い考えは捨てなければならない。
 美奈、ケイ、ルミの三人が揃ったので、久しぶりに会話が弾んだ。
「ミクちゃん、やっぱりルミちゃんがいると、生き生きしてるね」と玲奈が喜んだ。
「そうよね。最近のミク、さくらとミドリがもうすぐ辞めちゃう、というんで、かなり落ち込んでいるの。私がいてもだめみたい」
「いいえ、そんなことないです。ケイさんは私にとって、本当に大事な人ですから。ケイさんがいてくれるから、私はまだまだオアシスで頑張るつもりです」
「でも、四月からミクと二人だけになるのは、私だって寂しいわ。そりゃほかにも友達はいるけど、やっぱり四人は特別だったから」
「ごめんなさい。ミドリさんは寿退職だから仕方ないけど、私まで抜けちゃうことになっちゃって」
「またその話蒸し返して、さくらが泣き出すといけないので、もうその話はやめにしよう。今夜はせっかく玲奈さんが誘ってくれたんだから、楽しい夜にしようよ。今日は泊まりだから、はい、どんどん飲んで。といっても玲奈さんのお酒だけど」
 ケイは美奈とルミのコップにチューハイを注いだ。ルミが玲奈に酌をした。
「玲奈さん、いただきます。タトゥーアーティスト、さくらの前途を祝って、乾杯」
 ケイが音頭をとり、四人はコップを合わせた。
「今日はミドリさんがいなくて、ちょっと寂しいですね」
 美奈が乾杯を済ませてから、残念がった。
「ミドリもいよいよ葵さんに戻るときが近づいてきたのよ。来週からはいつもどおり出勤するから、まだしばらくは話ができるよ。ミドリの送別会のはずの高山旅行が、さくらの送別会も兼ねることになっちゃったわね」
 ケイはしんみりとした口調で言った。
 高山旅行は、春休みの混雑を避けて、三月一五日、一六日の一泊となった。店にはすでに休暇を申請してある。旅館も予約済みだ。
 白川郷や御母衣(み ぼ ろ )ダムも訪れる予定だ。当初は高山市内だけの予定が、白川郷などにも足を延ばすことにした。飛騨の方はまだ雪が残っている時季なので、最初はケイのミニバンで行く予定だったのを、雪や路面凍結による万一の事故を考慮して、高山本線のワイドビューひだで行くことになった。現地での移動はタクシーを使えばよい。
「私たち、たとえ別々の道を歩み出しても、これからもずっと親友ね。友情のマーガレットが消えない限り」とルミが言った。
「友情のマーガレットって、なあに?」と玲奈が尋ねた。
「そういえば玲奈さんにはまだ話してなかったですね。私たち、ミドリが退職しても、ずっと友情は変わらない、という誓いのために、三人、同じマーガレットのタトゥーを入れたんです。花言葉は『真実の友情』。あと、さくらの先輩のトヨさんも。ミドリは旦那さんの手前、彫れなかったけど」
 そう言いながら、ケイはパンツを下ろして、左大腿部に彫ったマーガレットのタトゥーを見せた。
「まあ、これと同じ絵を三人が入れてるの? それからトヨさん、っていう人も」
 玲奈はちょっと驚いたふうだった。
 ルミと美奈もマーガレットのタトゥーを玲奈に見せた。
 店の仕事着で隠れている部分なので、玲奈もマーガレットのタトゥーには気づかなかった。
「思い切ったことしたのね。でも、みんなで一生消せないタトゥーを入れて、友情の証とするなんて、とってもすてきよ。普通じゃとてもできないわ」
 友情の証にタトゥーを入れてしまうなどという発想には、とてもついて行けない、と呆れながらも、玲奈はそれほどまでして友情を誓い合った三人に素直に感嘆した。まさしく肝胆相照らす仲、というところだ。感嘆と肝胆。玲奈は心の中でそんな駄洒落を呟いてみた。
 その夜は楽しい会話が続いた。ルミも美奈も酔って大いにはしゃいだ。美奈がこれほどはしゃぐのは珍しかった。美奈はルミやミドリがいなくなる寂しさを、酔って吹き飛ばしたかった。
 そしてお約束のごとく、美奈が最初に酔いつぶれて、眠り込んでしまった。
 翌日は昼近くまで眠っていたので、美奈は高蔵寺の自宅に帰らず、玲奈のマンションから出勤した。