きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

高校の頃の昼食

2012-10-31 21:09:03 | 日記
まだ、エホバの証人という団体を知らなかった高校一年生のとき、1人でいまが終わりの日だという独善的な結論に孤独な苦しみをかかえていた。

科学に信頼がおけないように感じて、
高校の昼休みには、聖書を只管読んでいた。

終わりの日だというのに、悠長に食事をすることにも罪意識を感じて

学校に、お弁当をもってゆかず
椎の実を15粒ひらい、それを剥いて

ゆっくり甘みを噛み締めながら

終わりの日をどのように生きてゆくべきか悩んでいました。

秋になり、椎の実を見ると、あのときの気持ちを思い出します。



写真は、ドングリです。椎の実ではありません。

ボロはきててもこころは、

2012-10-31 05:19:17 | 日記
10代のころ、聖書を読んで
クリスチャンとは、外見でなく
こころが清い人だというイメージを
勝手に強くもっていました。

だから歌謡曲にある

ボロは着てても

こころはぁ~にしきぃ~

という歌詞に烈しく励まされていました。

イエスは、外見でなく内面を見ていて
くれる…。その知識だけで充分だったのです。


地域監督とかに会うときは、

地域監督がイエスと同じ見方ができるか試すために、わざと醤油のついた折れ目のないズボンを履いて会いにゆき、眉をしかめるか観察するという極端な行動にでてました。

そんな自分でしたので、奉仕の僕の推薦状が二回も十代のころ、出されましたが二回とも却下されました。

だんだん組織は、こころの状態を真摯にみる姿勢でなく、外見をかなり判断材料にしてることがわかってきました。

そうした、悪い文化を作ってきたのが

日本支部にもあると思います。

田舎者の巡回監督が支部事務所にゆき、
お金のないはずのベテルの職員が
ブランドの靴、ネクタイ、スーツ、カバンなどに身を固めていることをしります。

そして、地方の兄弟たちが、そうしたものに頓着しないのを見て、ベテルでは、決して安物を身につけていない
ブランドを買ってるというのを食事招待の時にコッソリと話す。

それをきいたその思考を持った人が、正当化してしまう…

かれらが、自分たちのブランド思考を
正当化する唯一の根拠となる聖句が
イエスの内衣は、兵士たちが、くじでわけなければいけないほど高価だったことを一応に示してゆく。

ボロはきててもこころは錦の

地域監督や巡回監督は、本当に数えるくらいしかいないと思います。


支部委員の調整者の

池畑兄弟は、ボロは着ててもこころは

錦の類の兄弟だと思います。