怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

私の今年の年賀状・・・

2020年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

新年いかがお迎えでしたか。私はこの数年困難続きでした。

まず自身が脳動脈瘤に。次に娘の夫が脳内出血で倒れ、義姉が癌であっという間に亡くなり、49日が済んだと思ったら何かと頼りにしていた長男が、この正月、吐血して入院。

「今度は誰か?」と不安一杯になってしまいます。

 

なぜか初めて川柳をつくってみました。

「えーっ、お前もか  息子血を吐き入院と 」

もう一句 

「嘆くより 試練に向かえと吾に教える 」

病気、災害、生活苦、戦争・・・ など、苦労されている方々は世界中に満ちています。

少しでも支えあって生きたいものですね。(2020年1月5日)

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念願のルノアール・・・『草原の坂道』を壁に飾った(もちろんコピーですよ、でも嬉しい!)

2017年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 

事務所の壁は絵を飾るために、建築してから16年間、ずっと白いクロス張りのままだった。

たまに保険会社の担当者が「ここにポスターを貼るといいですねえ」と言ったものです。

「いや、ここは絵を飾るために空けてあるんです」とムキになる自分。

「じゃあ、どうして飾らないの?」

「なかなかいい絵が見つからないんです」「否、金があれば別ですけど・・・」という当たり前のやり取りに。

それが、東京の美術館の絵画展で「これだー」と思うものを予約販売していた。

ルノアールの『草原の坂道』、80×95㎝のほぼ原寸大とのこと。

1874年から77年まで、モネと一緒にアルジャントゥイユに滞在して描いたらしい。

反対側の壁にはフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』が飾ってあり、その対となることも考えて風景を取り込んだ明るい絵が欲しかった。

ちょうどいい感じ。

毎日、しみじみ見ては喜んでます。

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5月連休後半、3日は焼肉パ―テイ、4日は美術館の梯子・・・

2016年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

あなたは5月連休、どうでしたか? 私は連休後半、とんぼ返りで東京に行ってきました。

熊本地方のみなさんのことを考えると、申し訳ないような気もしますが、でも、正直言って「楽しかったー」

普段の脳みそが違うものになったかのようでした。

2日まで目いっぱいバタバタ働きましたが、3日の午後から新幹線で東京へ。

東京には、4人の子どもたちとその家族が暮らしています。

 

3日の夜は、何年か前から恒例になっている家族みんなで(今回集まったのは13人中9人)の焼肉パ―テイ。

高校生の孫が、前の日のサッカーの試合で2ゴールをして勝ったというのでそのお祝いをしたり、わーわー、みんなが好きなことをしゃべり、勝手に食べて呑む・・・愉快なテーブルでした。

特に挨拶とかまとまりはないけど、まとまりの無さというまとまり・・・かな。

以前から、わが家はみんな勝手に好きなようにやる。だからか、みんな自分のことは自分で頑張る。

今思えば、ちょっとかわいそうな気もするが、子どもたちの結婚式も「自分でやれ」と援助しなかった。

「うちは大学は入れる。でも親の援助はそこまで。結婚式は自分でやれ」という方針だった。

実際、4人の子どもにそこまでするのが精いっぱいだった。

でも、子どもたちはみんなよく頑張ってる。私たち夫婦の誇りです。

 

息子や娘、その連れ合い、そして元気な孫たち、

連休のスケジュールもあるだろうに、毎年、集まってくれる。

おかげで、おいしいお肉とお酒を腹いっぱい食べた楽しいひと時でした。

 

4日は娘夫婦とハイキングに行く予定でしたが、東京地方強風のために断念。

私は美術館の梯子に行きました。

よかった―!

なにか脳みそが別物になったみたいな痺れるような快感でした。

     

まずはルノアール展、国立新美術館で。

上の絵はルノアールの『田舎のダンス』(左)と『都会のダンス』(右)です。

(日本ではめずらしい絵なのでルノアール展のパンフレットからコピーしました)

オルセーとオランジュリー美術館所蔵のルノアールが展示されていました。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』、『ピアノを弾く少女たち』、『草原の坂道』、『田舎のダンス・都会のダンス』などを好きになりました。

これらを見ていると、なにか心が弾む感じなんです。

 

つづいて向かったのは東京国立博物館の『黒田清輝 生誕150年展』です。

時間が遅くなり、3時ころに立ち食い蕎麦のようなものを食べ、急いで上野へ。

感動したのは、順風満帆な画家人生を歩んだと思っていた黒田清輝が執拗な裸体画に対する攻撃と闘い続けていたこと、そしてその作品の迫力。

特に感動したのは黒田33才の作品と言われる『智・感・情』。(下の写真)

これまで余り知られていなかった作品ではないか、しかし、これは黒田の代表作ではないか・・・と思った。

       

※ 博物館で購入した画集から撮ったものです。

 

・・・・・この日、歩いた歩数は15000歩とちょっと、疲れたー、だけど楽しかった!

子どもたちとその家族、みーんなに感謝です。

 

なお、帰ってきてから事務所のメンバーと相談し、ルノアールの『草原の坂道』のコピーを購入することにしました。

ほぼ原寸大のLL版です。ちょうど、事務所のお客様カウンターの正面に2×2.5mくらいの白の壁面が空いています。

事務所を建てて17年、いつか大きな絵を飾りたいと、このために壁をあけてあったんです。

出費も大きいですが、嬉しい。「念願かなった!」という感じです。

事務所のメンバーも「絵が来るのが楽しみ」と言ってくれています。

反対側の壁面、お客様カウンターの背面にはフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』が飾ってあります。

これで気持ちのいい事務所になれば「ばんざーい!」です。

 

 

 

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親友の眠るみかん山 ・・・・・ 2015年8月30日、宇和島の海に面した墓地に中島さんの死を悼む

2015年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

愛媛の中島さん、彼は私にとっての無二の親友だった。

彼の後半生は苦労の多いものだったようだ。しかし彼は、愚痴も言わず、他人をののしることもなく、清貧を貫いた。

「平和」と「人間」と「愛情」は、彼が一生をかけて追い求めたものだったのではないか。

一生に一度か二度だけ一緒に行ったスナックで、彼が無心に歌う“赤胴鈴の助”が忘れられない。

 

彼のお墓は、愛媛県宇和島の海に面したみかん山の中腹にあった。

それは、彼の孤独と、同時に凛とした彼の強さを伝えてくるようだった。

    

 前日の8月29日に、松山で、親しい友人たちの「中島清延さん お別れ会」があった。私も誘いを受けて、山形から駆けつけた。

「中島さんはもう二度と戻ってこないのだ」との思いを込めて、私に与えられた「波止浜造船の闘いと中島さん」というテーマの追悼文を読み上げた。以下にその全文を掲載します。

 

▅ 中島さん、こうやって話すのは何十年振りかね。私が山形に戻ってからだけでも20年だから、もう30年近くなるかもね。

▅ 中島さんのことを最初に印象づけられたのは高松での四国ブロックの合宿だった。帰ろうとして靴下を履こうとしたら他の靴下が一足あるだけ。「あれーっ?」と騒いだら、ありましたありました、中島さんの足にしっかりと。その時、この人はそそっかしいのか大らかなのかと不思議な思いでした。

▅ 中島さんは私にとっての無二の親友でした。1978年のあの激しい波止浜造船の倒産全員解雇との闘いの中でも、お互いにしんどかった筈ですが、話し合ったこと、約束したことは必ず守りあいました。あごがはずれるかと思うほど一日中話合い、笑いあったこともありましたね。

▅ 波止浜造船の闘いの中で、今も忘れられない光景がふたつあります。

▅ 一つは造船業の孫請けで働いていたAさんが「生活苦のために産まれたばかりのわが子を畑に埋めた」という新聞記事を読み、波止浜造船労組や中島さんたちとAさん宅を訪ねた時のことです。ご主人は言葉もなく、奥さんは泣き崩れるばかり。畳にはサラ金の督促状も落ちていました。新聞には鬼のように報道されていましたが、事実は江戸時代の「間引き」そのものでした。障子の穴から覗いている子どもの眼が今も忘れられません。これが繁栄する日本の現実のひとつなのだと思うと身体が、今も震えてきます。

嬉しかったのは、それから何年後か、波止浜造船労組の仲間たちを訪ねた時、「あのAさんが、庭で採れた栗だよと届けてくれました」と渡されたことです。

▅ もう一つは、何といっても全員解雇を撤回させ、波止浜造船労組組合員全員の職場復帰を勝ち取った時のことです。造船や、愛媛や、全国の労働者たち、全造船労組や県評、社会党、社青同など多くのみなさんの共感と支援あっての職場復帰でしたが、やはり最も苦しかったのは7人の波止浜造船労組組合員だったと思います。

▅ その仲間たちと炎暑の中、暖房が効いたような組合事務所で、分会員手づくりの鯛の刺身をつまみに、乾杯のビールを飲んだ時のことです。中島さん、あの感激は一生もんだよね。中島さんがあっちこっちと引っ張ってってくれたから、私も一緒に感激を味わうことができたんです。本当にありがとう。

▅ 今回の「中島清延さん お別れ会」に参加するにあたって、当時の中島さんを知る京都、茨城、長野の仲間4人に訃報を伝えました。

 京都の西村さんは、電話の向こうで絶句したあと、「中島さんを一番信頼してたのに…」と泣き続けました。他の3人も「行けない代わりに」と、それぞれに2,000円(お別れ会の会費)のお花代を送ってきてくれました。

長野の井上さんは、なぜか5,000円送金してきました。「どうしたの?」と電話したら、「東海林さんの旅費の足しにと思って」との返事でした。「えっ?」と聞き返したら、「中島さんはサムライみたいで信頼できるし、尊敬してたんだ」「俺の代わりに行ってきてよ」と言うのでした。

▅ 中島さん、あなたは、こんなに多くの人たちから信頼され、好かれてたんだよ。

▅ あっちの世界があるなら、あっちでも胸を張って挨拶してよ。そして、また会おうぜ。

   2015年8月29日

     山形県寒河江市在住  東海林 正弘                              

            

 

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2015年の年賀状

2015年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム

 

自分らしいゆく年くる年に

 

昨年は、3月の父の大往生(99才)など別れが続きました。特に辛かったのは大学の後輩でもあった布施哲也さん(東京)、長年の交流を続けた安東啓治さん(岡山)お二人の突然の訃報でした。

来る年は、より安全、より元気に、みんなが幸せにと願っています。

写真は昨年末、庭に建てた「ハイジの山小屋」です。

普段は物置ですが、非常時には避難所?地震には自宅以上に安全なよう。

今、ガンと闘う免疫力を勉強中です。

黒ニンニク、キャベツ、納豆キムチ、ヤクルト、きな粉掛け蜂蜜入りヨーグルト…など食べながら。

おいしいですよ。

2015年  寒河江市柴橋913-1 東海林正弘

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「OCNブログ人」から「gooブログ」に引越しました・・・東海林から

2014年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ごぶさたしました。
いつものように忙しかったこともありますが、それ以上に、突然、OCNのブログだったのにOCNがブログをやめるということで、「どうしょうかな?」と悩んでいたわけです。
せっかく慣れてきたOCNのブログ操作が「また一からか…」とがっかりでした。
でもgooブログに引越しできるということなので、勇気を出して引越し作業に取り組んだのでした。

一昨日の夜中、「えーとえーと?」と頭をひねって引越し作業をしてみました。
夜中の4時ころになって、なんとか引っ越しできたみたい。

まだ作業完了には至っていませんが、なんとか、今まで以上にいいブログにするつもりですので、これからも可愛がってやって下さい。
お願いします。
2014年11月27日   東海林正弘
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衝撃でした・・・訪問したら「もう死んだ」と

2014年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

今の日本は、なんてさむざむとした国なんだろう。

心が冷えるような夜です。

   

夜7時ころ、西川町の自動車保険契約者Mさんのお宅を訪問しました。

昼も夜も、何回も電話しても誰も出なかったからです。

雪が積もりシンとした、まだ新しい住宅団地の一角にMさんのお宅はあります。

毎年、契約の更新に伺っているので、お宅の状況も知っていたつもりだったのですが・・・。

Mさんの家も、車も、暗い雪山の中に埋もれていました。

灯りもなく、通路には人の足跡もありませんでした。

「あれっ!」と思いつつも、「元居た横浜にでも行ってるのかな」とも思い、隣の家のチャイムを鳴らしてみました。

玄関の扉を開けた奥さんが言うには、「亡くなったんです」、「最近」・・・

「なんの病気ですか?」との問いには

「死んでたんですよ。」

     ・・・・・・・・

いつの間にか亡くなっていたそうです。

去年の今頃に訪ねた時は、

「女房が死んでしまって、親しい人もいないし、何もすることもないし・・・。」

「横浜時代の友だちが、たまに訪ねてくるだけだよ」

「女房が元気な時にはしょっちゅう来てた女の人たちも、男一人になったら誰も来ないし・・・」

いかにも所在なさそうにしていました。

   ・・・・・・・・

5~6年前、ご夫婦で横浜から引っ越してきた時は、「田舎暮らしはいいねえ」「山菜も豊富だし・・」、「近所の人も良くしてくれるし・・・」と喜んでいたのに。

奥さんの実家が山形だというので、Mさんは東京のほうの人だったが、田舎暮らしに期待して二人で引っ越してきたのに。

お二人の田舎暮らしは、あっという間に終わってしまいました。

Mさん、さようなら。

期待に応えられない田舎暮らしですみません。田舎の人間の一人としてお詫びします。

多分、田舎も崩壊しつつあるのです。都会のように。

・・・・・

でも、このままではだめですよね。

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すみません・・・忙しくて書けてません

2014年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ10日ほどは、毎晩2~3時間ほどパソコンに向かっているのです。

「白岩義民にまなぶ会」として、初めてのリーフレットを発行しようと作成中です。

あまりにみんなに知られていない、否、忘れられているので、より多くの人に、少しでも知ってもらいたいとの思いからです。

今日もこれから(今は夜の10時40分)、リーフの編集にとりかかります。

まだ夕御飯も食べてません。

多分、12時ころまでかかるでしょう。

体力勝負もあります。

実際、毎日が仕事でテンテコマイ。でも、仕事のあと、この義民のリーフ作成に励むのは楽しい。

自分の考えを活かせるから?

納得のいく作業だから?

多分、名も無き百姓たちの切なる思いに圧倒されるから。

   

できあがったら実費でお分けします。お楽しみに。

3月中くらいの発行を目指しています。

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ちょっと嬉しい話・・・自分のことですが

2014年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

「なんてことのない話だ」、「ブログに書くほどのことじゃないよ」・・・と言われそうですが、ちょっと一言。

     

昨日、長い付き合いのお客さんところを訪ねたときのこと。

もう10年以上も前から自動車保険や火災保険の契約してもらってるんです。

そのTさんご夫妻と話していた時、山形新聞に時々載っている代理店の広告が話題になりました。顔写真入りで60人ほどの代理店主が掲載されており、私のも載っています。

「東海林さんのあの写真は時々変えてるの?」

「何年くらい前の写真?」と聞かれました。

やむを得ず、正直に私が返事しました。

「いや、ずっと同じです。」

「もう10年以上も前の写真ですよ」…と、最近の写真ではないことをちょっと気まずい思いで話しました。

   

そしたら意外にも、奥さんも、ご主人も

「へー、変わってないね」

「今とおんなじみたいだよ」

と言ってくれたのです。

これだけの話ですが、これが嬉しいというのは、やはり年をとったせい??

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新年にあたって・・・私の健康法、身体にいいと思うことは何でも   

2014年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

新年なので、「元気でいい年にしよう!」という思いを込めて、健康づくりの話をちょっと。テーマは「私の健康法」です。

みなさん、それぞれにいろんなことをやっているでしょうし、私の健康法が医学的にいいかどうか分かりませんので、「これがオススメ」とは言い切れません。それを前提にしてご覧ください。

    

朝は散歩、野菜ジュース、ヤクルト・・・

週に5~6回は、朝6時半ころから、まず犬との散歩20分くらい。犬はパピヨン、主に妻が世話してる。散歩後半の10分くらいは脚を高く上げ、指先の運動をしつつ、犬の後ろからついていく。

家に帰ったら、野菜ジュース(リンゴ、ジャガイモ、ニンジン、葉物、摺りゴマなどに黒酢を少し)、水を飲む。次にヤクルト、お茶を飲みながら新聞2紙を立ち読み。その後、7分くらいの腰痛体操をする。

朝食はパンと牛乳、野菜サラダをメインに、ラッキョウの酢づけ、大根の酢漬けなどをついばむ。それから仕事に。

     

昼は普通にご飯とおかず、今日はカレーの残り・・・

特に食べてるのは、きな粉と蜂蜜入りのヨーグルト。

これは免疫細胞をつくるのは主に大腸だと聞き、大腸のための栄養剤のつもり。

夕方頃には、5分間ほどのリラックス体操をする。

この5分間がなかなか難しいが、最近、テレビで見て、「このくらいなら俺もやれるだろう」と決意したものの、今のところ週に2~3回。

脚や腰中心の体操で、相撲のシコみたいのと組み合わせるとよさそうなんだけど。

      

夕食は、仕事のあとの夜11時ころから・・・

これは身体に悪いに決まってるが、仕事(保険の代理店)の都合でやめられない。もっと早く食べて早く眠りたいが、仕事の他にもやりたいことがいっぱいあるし、どうにもならない。

3・11のこと、寒河江ダムの問題、寛永白岩一揆の勉強・・・もちろん本業の自動車事故のこと、生保の見積もりつくりなど、なんぼでも仕事は湧いてくる。

風呂に入って、ご飯を食べながら酒を一合弱ほど呑む。「今日は呑むぞー」という気分のときは缶ビール350CCを1本追加。食べながらバタンと倒れてごろ寝を2時間ほど。

夜中の2時か3時ころ眼が覚めて、食べ散らかしたテーブルと台所を片づける。

寝る前にも、うがいを30数えるのを3回、竹踏みを100回、顔の筋肉体操を50回・・・と続ける。

布団に入って寝るのは夜の3時~4時ころ。

すぐまた朝がきて、犬に起こされる。

こんな毎日です。

    

健康に役立ってるのは毎日の「やる気」かも・・・

年は自称58才、いつまで経っても「定年前」。息子や娘の子どもたちには「おじいちゃん」と呼ばせない。

「パパのおとうさん」とか「まあちゃん」(私の名前は正弘)と呼んでもらってる。

仕事は人の役に立ってると思うから“生きがい”のひとつになっている。

儲かることはないし、儲けたいとも思わないが、メシを食うのに困らないということはありがたいと思う。みんなに助けられてると思う。だからこそ世の中の役に立つ生き方をしなければと思う。

安ものの服を着て、よれよれの靴を履き、最近は「活動的でいい」とばかりにジーパンめいたもので走りまわってる。この自分の人生に納得しながら、さらに前にと生きる。

夢は80才になったら仕事を若い人に譲り、子どもや孫たちとヨーロッパ旅行に行くこと。「向こうは英語が主だから、英語ができなかったら連れていかない。もちろん自分も行けなくなるから、そのうち英語を始めるさ」と言ってる。

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