怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

親友の眠るみかん山 ・・・・・ 2015年8月30日、宇和島の海に面した墓地に中島さんの死を悼む

2015年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

愛媛の中島さん、彼は私にとっての無二の親友だった。

彼の後半生は苦労の多いものだったようだ。しかし彼は、愚痴も言わず、他人をののしることもなく、清貧を貫いた。

「平和」と「人間」と「愛情」は、彼が一生をかけて追い求めたものだったのではないか。

一生に一度か二度だけ一緒に行ったスナックで、彼が無心に歌う“赤胴鈴の助”が忘れられない。

 

彼のお墓は、愛媛県宇和島の海に面したみかん山の中腹にあった。

それは、彼の孤独と、同時に凛とした彼の強さを伝えてくるようだった。

    

 前日の8月29日に、松山で、親しい友人たちの「中島清延さん お別れ会」があった。私も誘いを受けて、山形から駆けつけた。

「中島さんはもう二度と戻ってこないのだ」との思いを込めて、私に与えられた「波止浜造船の闘いと中島さん」というテーマの追悼文を読み上げた。以下にその全文を掲載します。

 

▅ 中島さん、こうやって話すのは何十年振りかね。私が山形に戻ってからだけでも20年だから、もう30年近くなるかもね。

▅ 中島さんのことを最初に印象づけられたのは高松での四国ブロックの合宿だった。帰ろうとして靴下を履こうとしたら他の靴下が一足あるだけ。「あれーっ?」と騒いだら、ありましたありました、中島さんの足にしっかりと。その時、この人はそそっかしいのか大らかなのかと不思議な思いでした。

▅ 中島さんは私にとっての無二の親友でした。1978年のあの激しい波止浜造船の倒産全員解雇との闘いの中でも、お互いにしんどかった筈ですが、話し合ったこと、約束したことは必ず守りあいました。あごがはずれるかと思うほど一日中話合い、笑いあったこともありましたね。

▅ 波止浜造船の闘いの中で、今も忘れられない光景がふたつあります。

▅ 一つは造船業の孫請けで働いていたAさんが「生活苦のために産まれたばかりのわが子を畑に埋めた」という新聞記事を読み、波止浜造船労組や中島さんたちとAさん宅を訪ねた時のことです。ご主人は言葉もなく、奥さんは泣き崩れるばかり。畳にはサラ金の督促状も落ちていました。新聞には鬼のように報道されていましたが、事実は江戸時代の「間引き」そのものでした。障子の穴から覗いている子どもの眼が今も忘れられません。これが繁栄する日本の現実のひとつなのだと思うと身体が、今も震えてきます。

嬉しかったのは、それから何年後か、波止浜造船労組の仲間たちを訪ねた時、「あのAさんが、庭で採れた栗だよと届けてくれました」と渡されたことです。

▅ もう一つは、何といっても全員解雇を撤回させ、波止浜造船労組組合員全員の職場復帰を勝ち取った時のことです。造船や、愛媛や、全国の労働者たち、全造船労組や県評、社会党、社青同など多くのみなさんの共感と支援あっての職場復帰でしたが、やはり最も苦しかったのは7人の波止浜造船労組組合員だったと思います。

▅ その仲間たちと炎暑の中、暖房が効いたような組合事務所で、分会員手づくりの鯛の刺身をつまみに、乾杯のビールを飲んだ時のことです。中島さん、あの感激は一生もんだよね。中島さんがあっちこっちと引っ張ってってくれたから、私も一緒に感激を味わうことができたんです。本当にありがとう。

▅ 今回の「中島清延さん お別れ会」に参加するにあたって、当時の中島さんを知る京都、茨城、長野の仲間4人に訃報を伝えました。

 京都の西村さんは、電話の向こうで絶句したあと、「中島さんを一番信頼してたのに…」と泣き続けました。他の3人も「行けない代わりに」と、それぞれに2,000円(お別れ会の会費)のお花代を送ってきてくれました。

長野の井上さんは、なぜか5,000円送金してきました。「どうしたの?」と電話したら、「東海林さんの旅費の足しにと思って」との返事でした。「えっ?」と聞き返したら、「中島さんはサムライみたいで信頼できるし、尊敬してたんだ」「俺の代わりに行ってきてよ」と言うのでした。

▅ 中島さん、あなたは、こんなに多くの人たちから信頼され、好かれてたんだよ。

▅ あっちの世界があるなら、あっちでも胸を張って挨拶してよ。そして、また会おうぜ。

   2015年8月29日

     山形県寒河江市在住  東海林 正弘                              

            

 

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