怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

かあちゃーん ありがどさまー! ゆっくり休んでけろよー!

2011年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

4月15日午後7時42分、お袋が亡くなった。

文字通り「無くなって」しまった。

もう存在しないんだから、2度と会うことはできない。

    

今年の1月9日、夜中の2時ころにトイレで倒れて、山形市立済生館病院に救急車で運ばれ、入院に。それから約3カ月の入院生活だった。

当初は、血便したということもあり、「大腸癌かも、検査を」とすすめられたが、「90歳の高齢で、癌だとしても手術しないし、癌が急速に進むこともないから、検査で苦しめたくない」と検査を断った。医者も「血液検査の結果では特に問題ない」となり、点滴と酸素吸入で1か月を過ごした。

意識はあったが、ほとんど何も食べず、みるみる痩せていった。

医者は「食べないのが問題で、このままだと1週間くらいで衰弱して死んでしまう」と、胃に穴を開けて流動食を流し込む「胃ろう」の手術をすすめた。

「食べるようにさえなれば、元気になる」と、強く胃ろうの手術をすすめた。

残念だったし、悔いが残るのは、自分の勉強不足のために、胃ろうの手術に強く反対しきれなかったこと。

お袋が「ボケてる」と言っても、話は半分くらい分かっていたし、意思を表現することもできていたのに、「ボケた年寄り」と見て、胃ろうの手術のことをお袋に説明しないままの手術になってしまったこと。

          

胃ろうの手術後、約1カ月、表面的には体力が回復したようで、済生館の担当医師から「これ以上、治療する必要はない」。「胃から流動食を流し込むだけで、家族でもできる」と、退院を強制された。

2月28日、やむを得ず、山形市のはずれにある山形厚生病院に転院した。

病気というよりも「痴呆がひどい」ことを理由の入院だった。

ところが、転院先の入院前検査で、「肺に水が溜まっていて、相当に危ない」と医師から告げられた!

肺は半分以上、真っ白だった。

医師は「済生館は、なんで、こんな患者を退院させたんだ!」と激怒し、「すぐ戻せ!」とどなった。

胃ろうの手術後には、流動食が逆流し、肺や心臓に水が溜まりやすいのだそうだ。

そんな危険についての何の説明もなく、胃ろうの手術から転院へと振り回された自分たちが情けない!

悪いのは自分だ! だめなのは自分だ!

お袋のもがく姿は見るに堪えなかった。

酸素マスクに、点滴、点滴の管を刺すところも無くなったと。両手は拘束されて、時には、下痢からお尻が爛れてしまい、廊下中に聞こえる大声で「痛いー痛いー」と叫んでいた。

    

お袋にとっての人生の最後を、人間として我慢できないものにしてしまった!

    

4月8日ころから、容態は目に見えて弱っていき、尿が出ないために浮腫みがひどくなってきた。

「手は、先週は揉んでほぐせたのに、パンパンに腫れ上がり、揉むこともできない」(4月8日)

    

「お医者さんから呼び出しがあった。容態が悪いと。今週はもたないかも、と。感覚や意識が鈍くなってきているので、それほど苦しみを感じてないのではとも言われて、なぜか、少しほっとした」、「親の緩慢な死を見つめ続けなければならないのは苦しい」(4月11日)

    

「Sさん、Nさんと一緒に行った。手はグローブのようにパンパンに腫れていた。顔色も、昨日よりも黒ずんできているように思った」。「酸素マスクをしながら、ぜーぜーと息苦しそうに口を開けていた。眼にはうっすらと涙がにじんでいるようだった」。「看護婦さんに頼んで痰をとってもらったら、楽になったのか、眼を半分くらいまで開けて、自分たちのほうを見た」。(4月12日)

    

「夕方、東京から、息子と、娘は1歳の子を連れて来てくれた。すぐに病院に行った。手はますます腫れていたが、顔は腫れていない。きれいなままなのにはびっくりする(お袋は、生まれ故郷の白岩で「白岩小町」とも言われた美人だったらしい)」。

眼は5ミリくらいしか開かない。それでも『正賢だよ』、『美世だよ』、『結菜も来たんだよ』と言うと、少し分かるらしく眼を少し大きく開けたり、なんか『うんうん』とうなずいているみたいな様子をする。」

「『お袋ー、90年もよく働いたなあー。頑張ってきたねー、だから子どもも孫もひ孫もみんな元気に育ってるんだよー』

離れがたかったが、30分ほど居て帰ってきた。」(4月13日)

     

「仕事が溜まっていて、夜の8時近くになった。正賢(息子)や妻たちは、親父も誘って、昼過ぎに病院へ。

夜遅かったからか、眼は1~2ミリくらいしか開かなかった。声をかけても反応は分からない程度。それでも、自分が来たのは分かってるみたいだ。

手は相変わらずパンパンに腫れているが、冷たくなってきている。尿が出ないので、その水分が溜まっているからかもしれないが、額も冷えてきているのを併せ考えると、体内の活力というか生きる力が、徐々に下がってきているのかもしれない。

『お袋ー、頑張ったねー。少し休んでいいんだよー。ゆっくり寝ていいんだよー』。

最近、小学生のころ、お袋に頭を刈ってもらったことを思い出す。バリカンが良くなかったのか、腕が悪かったのか、髪の毛が引っ張られて痛かったなあ。」

「もう1日か2日くらいでずっとお別れかも・・・」 (4月14日)

    

    

4月15日夜、いつものように病院に向かっている時、兄から「医者から危ないと連絡があった」と電話が入った。

19時40分ころ、病室に入ったら、お医者さんが付いていた。

脈拍は20~21だった。

かあちゃーん、ありがどさまー! おかげでみんな元気に育ったんだよー! もうゆっくり休んでけろよー!

    

そして、みるみる脈拍0に。

19時42分。

苦しい顔をせず、とても90歳とは見えないきれいな顔だった。

20時5分、お医者さんが、家族がそろったところで死を宣告した。

   

私が聞いたお袋の最後の言葉は、「おれは幸せだったあ・・・」という一言だった。

                 2011年4月24日 記

   

追記:

 4月17日、お袋の葬儀を行った。身内だけの質素な葬儀にと思ったが、若い人中心に、40人を超える参列者となった。子、孫、ひ孫の数を数えたら、子ども夫婦が8人、孫とその配偶者が21人、ひ孫が7人、さらに参列していたお腹の子どもが3人、合計39人にのぼっていた。子どもたちのために、お袋と親父が、どんなにがんばってきたことか。

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ありがとうございます  ・・・ 義捐金の中間報告

2011年04月10日 | 東日本大震災…山形から

ありがとうございます。

3月21日に、このブログで呼びかけた「東日本大震災への義捐金」に、山形だけでなく、東京や愛媛からまで、ご協力いただきました。

おかげさまで、4月10日現在の入金は以下のとおりです。

20110410_2   

これからも続けていきますので、ご協力いただければありがたいです。

なお、いただいた義捐金は「県か日赤に送りたい」(3月21日)と提案しましたが、義捐金の使途などについてのいろんな報道も見ながら、「どうするのが、被災者の支援にいいのか」と考えてしまいました。

今は「直接、被災地に持っていくのがいいのではないか」と思っています。

ただし、緊急車両や被災者などの交通の妨げになってもいけないので、被災地にすぐには行けないでしょう。

近々、損保の仕事で宮城に行く予定ですので、まず、その時に交通事情や被災地支援の状況などを調べてきたいと思います。

そして、できれば、どこかの町や市に継続的に、ささやかですが支援の活動を続けていくというのはどうでしょうか?

日赤に寄付するのもいいですが、それ1回で終わるよりも、長期的につながって支援活動をしていくのが大切かなあ・・・などと考えています。そのほうが、自分たちにも何かが伝わってくると思うのですが、いかがでしょうか?

     

義捐金の入金の際にいただいたメールから、その一部を紹介します。

      

「少ないですが、先ほど1000円を振り込ませていただきました。会社で集めていたのと、個人的に送ったカロリーメイトなどの救援物資と合わせても東海林さんの額には及びませんが、是非協力させてください。(今年、住宅を取得するため妻から鬼のような小遣いの仕分けを受けており、お財布が辛い状況ですが、あの悲惨な状況を見ているとそんなこと言ってられませんね!!) それとできれば、直接日赤へ送っていただくのが希望です。」(山形のAさん、3月21日)

    

「メール拝見いたしました。私は、隣県で起った未曾有の惨事に、何かできることはないかとずっと思っていました。そんな時、東海林さんのメールを見て、これだと思いました。早速、少しではありますが協力させていただきました。

以下、愚痴です。

ガソリンがない、灯油がないと、日々人民は我先に手に入れようと奔走しているようですが、その行動がますます悪循環を招いていることに、なぜ気づかないのでしょうか。明日の命さえ保障されない状況にある人たちのことを考えれば、何が不満か。今、自分が(家族が)何をしなければならないか、誰に教わらなくてもわかるはず、と思うのは私だけでしょうか。ねぇ、東海林さん。」(山形のBさん、3月22日)

   

「義捐金の振り込みが遅くなり、大変申し訳ありませんでした。」(東京のCさん、3月27日)

    

「突然にタオルをお送りして、失礼いたしました。当産地も支援物資として70,000枚を用意して被災地に順次送っております。個人的にも漁協の知り合いからの要請で、石巻漁協にお送りしたところです。支援活動のことをブログで拝見いたしました。ご苦労様です。少しで申し訳ございませんが、皆様でお役立て下さい。」 「何かメッセージをと思いましたが、適切な言葉が見当たりません。支援されている方達も本当にご苦労様です。タオルマフラーはご自由にお使いください。」(愛媛のDさん、4月1日)

     

これからも義捐金を集めていきたいと思いますので、以下に、3月21日の呼びかけを転載します。ご協力いただければありがたいです。

     

2011/03/21

 少しでも役に立ちたい! 被災者へのカンパ、まだの方は一緒に

無理にすすめるわけではありません。このままでは、自分が自分に納得できないからカンパをするだけです。

でも、まだの方がいたら、一緒にどうですか?

今朝のテレビに、アジアのスラムの人たちが、日本の私たちのために募金を集めている姿が報道されていました。見ていて胸が痛くなりました。

何もしないままでは一生悔むことになってしまう、そう思うのです。

募金はいろんな団体、ルートですすめられています。それは大いに良いことだと思います。私たちもその端っこに加わりたいのです。

     

カンパの具体的な方法は以下のとおりです。

① 主催団体は、(有)保険相談所 とします。責任者は私、東海林正弘です。(有)保険相談所について疑問の方は、次のアドレスでホームページをチェックしてください。

  http://www.tmn-agent.com/hokennsoudannsho/

② 募金の口座は、 きらやか銀行寒河江支店、普通預金、口座名義人「トウカイリン マサヒロ」、口座番号「300827」。

③ 入金状況は、適宜、このブログで報告します。3月21日から始めて、今日現在の残高は 100,066円です。

「touhokudaijisinnkannpa.JPG」をダウンロード 

④ 一定期間が過ぎた段階で、募金をまとめて、県か日赤に送りたいと考えています。その経過は、このブログで相談、報告します。

なお、今回のカンパ活動の責任は、(有)保険相談所 代表取締役 東海林正弘 にあります。

お問い合わせは、わたくし、東海林正弘に。

メールアドレスは、 tok222@io.ocn.ne.jp

  以上です。

      

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えーっ!  放射能まみれの遺体、「福島県警、遺体の収容を断念」

2011年04月02日 | 東日本大震災…山形から

東京の方は目にしていないかもしれません。

「山形新聞」に、以下のような要旨の記事が掲載されました。

       

原発から20キロ圏内の避難指示地域に、大震災で亡くなった方の遺体がまだ数百から千体あると推定されており、大熊町で見つかった遺体の場合、収容に向かった福島県警の部隊が、放射線量があまりに高いために当日の収容を断念した、と。

「27日に、大熊町で見つかった遺体は、除染が必要な基準の一つである10万cpmまで計ることができる測量計の針が、振り切れる状態だったという。このため福島県警の部隊は遺体の収容を断念している。」(3月31日、山形新聞夕刊)

   

これは、二つの点でショックでした。

一つは、遺体が収容できないほどに放射能で汚染されていたこと。

いつも繰り返される政府や東京電力、原発学者の「直ちには影響がない」「念のための処置」・・・?!

ところが、警察でも遺体を収容できないほどの放射能汚染。

実際はどうなんだ!

原発周辺の海の汚染にしても、どれほど深刻で、どこまで広がっているんだ!

本当の事実は想像もできないほどに酷くなっているのか?

不安が一杯になる。

    

もう一つは、こんな大事なことが、27日にあったのに、新聞に報道されたのは31日の夕刊ということ。

信じられないような遅さだ。

つまり、現状があまりに酷いので、政府や東電は情報を小出しにしているのではないか・・・という疑念。

原子炉建屋の写真にしてもそうだ、

あまりに酷い壊れかたなので、爆発直後には発表しなかった。何日も経ってから公表されている写真などが多い!

   

福島県民、茨城県民、そして、春一番の風と共に放射能にさらされる山形県民や多くの被災者のみなさん、

怒ろう、おかしなことには「おかしい!」と声を上げよう。

でないと、人災で殺されちゃうよ。

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