怒れる中年

あなたは怒ることを忘れていませんか?  ①なんで借金しなければ勉強できないの! ②働きたいのに預ける保育園が無い、えっ!

普段から命の話をしよう ・・・6月30日、石巻に一緒に行った仲間の報告

2013年07月29日 | 東日本大震災…山形から

これは同じく「リスクコンサル・ネット」を担っているKさんの報告です。

6月30日、山形から一緒に行きました。働きながら小学生の子どもを育てているガンバリ屋さんです。

彼女が、石巻での交流や大川小学校跡の訪問から感じたことを書いてもらいました。

        

  普段から命の話をしよう

                            

         リスクコンサル・ネット会員:K

    

日々、生活に追われ、あれほどこわい思いをした地震や津波の記憶が薄れています。

特に私は、身のまわりにあの地震や津波でなくなった人もおらず、家が倒壊した、仕事を失った、など普段の生活が継続できなくなったという人もいません。

    

いまだ収まらない原発でさえ、最近では、アベノミクスの経済効果や参院選の話題にかき消され、毎日毎日沸きだしてくる世界の出来事に埋もれてしまっています。

     

今回の、被災地・石巻を訪問する機会は、わたしに、2年前、「決して忘れてはいけない」と思ったこと、それなのに忘れてしまったこと、をはっきりと思い出させてくれました。

             

税理士でもある庄司慈明さんの話は、午前中2時間という短い時間、自らも避難した避難場所の現地対策本部長として活動した中での、その激しく強い記憶と後悔の思い、人の本能に対する驚きと感謝、そしてこれから社会が行うべきこと、自分がその役割を市議会議員として果たしていこうという強い気持ち、をお話いただきました。

     

その話を聞く中で、わたしは、先にも述べた「決して忘れてはいけない」の内容を思い出したのです。

            

普段から、命の話をしよう でした!

      

人間は普段から、現状より悪くなることを想定して生きていない。こんなことあるといいな、と現状より良くなることを祈って生きている。

      

普段はそれでもいいもしれない。しかし災害時には、普段から最悪のことを想定して備えておくこと正しい情報から想像をし、的確に判断する力、が命をつなぐことになる。

    

 ~今回のこの地区で言えば、

    

大きな地震がきたら、以前あったように津波が来るかもしれない。

        

津波がきたとき、みな居場所が離れているかもしれない。

   

そのときそれぞれどこに逃げるか?逃げる場所の判断基準は?

     

そこは安全なのか?まちがいなく海面よりはるかに高いのか?

   

それぞれが判断して避難する。他の家族のことはお互いを信じて助けに行かない。

    

おちついたら○○で会おう。

         

    

・・・ といったことを普段から、家族で話合い、決めておくことが必要だと。

     

自分の命を守ること。それが家族みんなの命をつなぐことになるのだと。

      

               

午後から、大川小学校跡を見学しました。光景は実際に行って見てほしい。

           

わたしも1人の子どもをもつ母親として、震災直後の姿を想像するにあまりにも胸が

    

痛く、改めて「普段から、命の話をしよう」の言葉を心に刻みました。

    

 (2013年6月30日 石巻を訪問して)

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大川小の亡くなった子どもたちは何を訴えているのか? ・・・6月30日、石巻訪問の報告(その2)

2013年07月29日 | 東日本大震災…山形から

大川小学校跡に立つのは3回目でした。

そのたびに、心に訴えかけてくるものが違ってくるのです。不思議です。

初めは、惨状にぼう然とするばかりでした。

2度目は、黒く冷たい濁流に呑み込まれ翻弄されながら、子どもたちは「おかあさーん」と叫ぶこともできずに亡くなったんだと気づきました。そう思うと、それが自分のこどもや孫だったら・・・胸がカキムシラレルヨウデス。

今回の3度目は、亡くなった子どもたちが私たち残されたものに何を訴えているのか、ということでした。

私の胸に響いてきたのは、「みんなを助けてー!」という叫びでした。「自分を助けてー!」という叫びは当然ですが、「子どもたちみんなを助けてー!」と叫んでいるように聞こえるのです。

   

3.11以降、被災地であれ、たまたま被災地でなかったにしろ、残された大人たちの責任は、子どもたちに2度とこのような悲惨、苦しみ、絶望を味わわせてはならない・・・ということではないでしょうか。

あなたは、どう思いますか?

       

次の4枚は当日、撮った写真です。

① これは廃墟となった大川小学校の全景です。濁流は2階建て校舎の屋根付近まできました。鉄筋コンクリートの脚が倒れています。津波の激しさを物語っています。子どもたちは、そんな濁流に呑み込まれていったのです。

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② 大川地区の全景です。小学校を中心に集落がありました。ここでも400人余(今のところ正確には分かりません)が濁流に呑みこまれていったそうです。手前の川が北上川です。右手の山が「あそこに逃げれば助かったのでは」と言われている学校の裏山です。子どもたちは先生に誘導されて右手手前の橋のたもと(周囲から5メートルほど高くなっている)に逃げようとしていました。そこを津波が襲ったのです。

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③ 実際に逃げて助かった子どもたちもいる裏山の登り口周辺。

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④ 学校の前の北上川の堤防です。高さ5メートルほどか? これでも3.11後に補強された堤防です。驚いたことの一つが、大川小学校周辺の海抜は0~2メートル程度だったということです。

どんなに立派な建物でも、そもそもそれが建っている土台や地域が安全でなければ、危険に対して無力だということを教えているのではないでしょうか。

同じような危険は、全国各地にあるのではないでしょうか。

私の住む寒河江市や隣の西川町でも、最大容量1億900万トンもの寒河江ダムという巨大ダムの下に小学校があります。子どもたちは大丈夫? ?

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7月21日は白岩義民の命日でした

2013年07月22日 | 白岩義民

簡単に二つだけご連絡します。

       

① 今日7月21日は、江戸時代の初期、寛永15年(1638年)に、白岩一揆の中心メンバー36人が山形城下長町の広川原で磔の刑を科された日です。今の馬見ケ崎川と村山高瀬川の合流点付近です。磔という処刑のむごたらしさは渡辺為夫氏の『寛永白岩一揆』に詳述されています。

それから375年の歳月が過ぎ、地元白岩(旧白岩郷ですから、今の寒河江市白岩から西川町大井沢までの広範な地域)でも、多くの人たちから忘れられようとしています。

そんな中で、処刑の地、長町の地元の人たちが小さな祠を祀り、今日までまもってきたのです。

今日も、「千歳の昔を訪ねる会」の会員の方、10名近くが祠のまわりを清掃し、お燈明とお線香をあげて祀ってくれました。

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昨年は詳しいことが分からずに参加できませんでしたが、今年は代表の菊地さんのご厚意もあって、一緒におまいりをすることができました。

感激でした。

年配のご婦人がた中心にお参りを続けてくれていることに、嬉しさと同時にすごく心強く感じた一日でした。

白岩義民にまなぶ会からは佐藤さん、荒木さん、私の3人が参加しました。

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② 次回の白岩義民にまなぶ会は、9月8日(日)午前9時30分~12時です。

場所やテーマは後日ニュースでお知らせしますが、今のうちに予定を入れていただきたいのです。

                             

               2013/07/21    

                  白岩義民にまなぶ会 代表 東海林正弘 記

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白岩義民にまなぶ会ニュース 19号

2013年07月13日 | 白岩義民

前回は藤沢周平著『長門守(ながとのかみ)の陰謀』(文春文庫)を勉強してみました。

渡辺為夫さんの『寛永白岩一揆』(全335頁)を読み終えた(理解したというのではなく文字通り一回は読み終えたということ)ので、白岩一揆をより広く考えてみようと思ったからです。

        

旧白岩郷(今の西川町と寒河江市の過半)の中では、白岩一揆を「田舎の小さな農民一揆」と思っている人がほとんどのようです。あるいは知らない人も多い現状です。

まず、この常識を覆さなければなりません。

この小説の主人公、「長門守」とは、当時の白岩城主 酒井長門守忠重のことです。彼は藤沢周平の時代小説の中で、大きな役割をもたされています。

7月の勉強会で取り上げる佐々木潤之介著『大名と百姓』(中公文庫、日本の歴史第15巻)の中でも、「『不法』の支配」とのテーマで白岩一揆が取り上げられています。

これらを勉強していく中で、白岩一揆を全国的、歴史的な視野からとらえなおしていきたいと思うのです。

    

7月勉強会の案内として「白岩義民にまなぶ会ニュース NO.19」を掲載します。気づいたことなど、ぜひメール下さい。

「giminn19.doc」をダウンロード

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6月30日、石巻を訪問し被災者の方と交流してきました(その1)

2013年07月02日 | 東日本大震災…山形から

何度目かの石巻訪問でした。でも、今までは大川小学校跡などの被災地をまわり、残された瓦礫を見て、「被災者はどんなだったろう・・・」と想像することが主でした。

今回は、ご自身が被災者で、避難所となった湊小学校の対策本部長の任にもあたった庄司慈明さんの話を伺うことができました。お忙しい中、約2時間半、具体的な出来事や教訓を詳しく話してくれました。人間として如何に生きるかにつうじる意義深いお話であったと思います。

リスクコンサル・ネットの友人、仙台の石塚さんたちと一緒に取りくみました。

仙台からは9人、山形からは私を含めて4人、合計13人の参加でした。

      

庄司さんのお話で印象に残ったことは一杯ありますが、その中から二つを紹介します。

〔1〕 一つは非常時の判断ということ。

避難所となった湊小学校には1500人くらいが、飲まず食わずで居た。

そこへ3日目の晩、おにぎり300個が届いたそうです。しかし配らなかったというのです。

「届いたのはみんなが知っていたのに、誰も怒らなかった」と。

「全員に配れるときにしか配らない」というマニュアルもあったそうですが、しかし簡単にできることではありません。

「ここに300個がきたということは、これからもっと支援が強まるということ」と話しをして300個を配らなかったのだそうです。

    

〔2〕 もう一つは、「昨年の3.11、ろうそくで絵文字をつくった。家族を失った方は悲しみを乗り越えるのは容易ではない。悲しみとともに生きる人、新しく見つけ出したものに生きる人・・・など。何とともに生きるかは人それぞれだが、しかし、何かとともに生きることが大事」と話されました。

“ともに生きる”がテーマになった、と。

そのお話を、より深く考えさせたのは、庄司さんの次の一言でした。

「私は被災はしたが家族を失っていない。だから家族を亡くした人の痛みは分からない。そこからは想像力だと思う。」・・・こうした想いがあるからこそ、“ともに生きる”がテーマになるのだと思うのです。

私も山形で、いろんな人と3.11や大川小学校のことを話しあっていてよく思います。

私たち山形の人間は直接的な被災はしていません。だから庄司さん以上に家族を亡くした人の痛みは分かりません。

でも、できるだけ現場に足を運び、被災者の実状を想像することで、より深く知ることはできると思うのです。

庄司さん、貴重なお話をありがとうございました。(その2に続く予定です)

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