ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

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イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

ヨナス・カウフマン主演のヴェルディ「オテッロ」を視聴して、他に宮本百合子の「オセロー」論

2017年12月14日 | オペラ

今をときめくテノーレのカウフマンがはじめてヴェルディの後期オペラ「オテッロ」を英国ロイヤルオペラで歌ったのをBSで視聴した。

「オテッロ」はヴェルディの数あるオペラの中で、主演のテノーレが尋常でない声・資質が必要で、初演のタマ―ニョの声はスカラの外の電車道まで聴こえたというほどの声、また実演を聴いたロシアのシャリアピンは圧倒され、その自伝に書いている。また超一流のテノーレであってもこのオペラを特別のものとし、「オテッロの声ではない」と歌わない人も多かった(今では自分を知らずに歌いたがるが)。

戦後まもなくオテッロを歌ったのは「タマ―ニョの再来」と讃えられたマリオ・デル・モナコを頂点とし、例えばあのフランコ・コレッリやベルゴンツイも実際のステージでは避けた。

1970年代になり、プラシード・ドミンゴが歌い、話題になったが、マリオ・デル・モナコの「オテッロ」を聴いた人たちはその後継ではなくドミンゴのバランスのとれたオテッロ歌唱としてとらえ、讃えた。

あの舞台に出てきて最初の一声「喜べ!」と勝利を歌うところではマリオ・デル・モナコの有無を言わせぬ煌びやかで雷鳴のような響きで、不覚にもどっと涙を流した人たちは、ドミンゴにはその場面で「ああ、別の歌手だ」と頭を切り替えたそうだ。

今回のカウフマンを迎えた「オテッロ」だが、カウフマンは長い間オテッロを歌おうとしなかったという。しかし、カウフマンの声はヴァーグナーのジークムントを歌ってドミンゴを超え、魅力的だが。ヴェルディの輝かしいベルカントには到底向かない、ところどころ力強いところもあるが、その合間合間を暗い響きがフレーズから落ちるような感じがした。しかし懸命に歌っているのは確かで敬意を表さなければならないだろう。

この番組にはカウフマンへのインタビューや小道具の剣を忘れて楽屋に走って取りに行き、その状況を説明する場面がある。カウフマンは声帯の障害で長らく休んでいたが、サービス精神満点の人だ。

マリオ・デル・モナコだったらずっとしゃべらず、夫人にも無声音で話す。そして登場の前には「もうダメだ、歌えない」と震え、夫人が舞台に彼を突き飛ばすと素晴らしい声で満場の聴衆を魅了している。

このオペラはシェイクスピアの戯曲をもとにオペラ化したもので、私は以前イギリスの「グローブ座」が再建された記念公演をテレビでみた。その時のセリフはヴェルディのこのオペラと一致していた。そしてヴェルディはよくここまで・・・と感動したものだ。私は英国のシェイクスピア名優のセリフを聴きながら、同時にイタリア語の歌詞に置き換え、ヴェルディのその場の音楽が心の中で流れたのが不思議なくらい自然だった。

ところでムーア人の将軍オテッロは白人の美しいデスデモーナを妻にしていたが、オテッロが英雄として讃えられているのに嫉妬したヤーゴがオテッロに「デスデモーナが不倫をしているようだ」と吹き込み、最初は信じなかったオテッロだがやがて妻を疑い、デスデモーナに辛くあたり遂に満場の中で彼女を侮辱する。デスデモーナは夫がなぜこのように怒っているのかわからない、そして嫉妬でオテッロは最愛の妻を殺すのである。

今回の上演は見ていてやりきれないものを感じた。オテッロが妻の無実がわかって自殺する時、最近の演出はいつものことだが胸からドクドクと血が溢れ、流れ出す。

ここまで必要なのか? 私はイタリアの演出家が「拷問とか殺人などの時に惨たらしい場面をリアルに描くのは一流ではない。決してそれを出すことなく、聴衆がそれぞれ音楽の中で受け止めるようにする」と言っていたことを思い出す。たとえばヒッチコックもリアルな場面は出さなかったが、それ以上に人々は感じた・・・など。

しかしデスデモーナが夫によって殺される、この酷い成り行きを女流作家宮本百合子はこのように書いている。(1948年・・・「デスデモーナの白いハンカチーフ」シェイクスピアの戯曲を読んで)

>・・・オセロの悲劇の頂点は、オセロの嫉妬だけにおかれていない。オセロの人間的尊厳を愚弄されたと思った憤りと絶望の深さにある。その角度からみれば、地球上に植民地というものが存在し、人種間の偏見が少しでものこされている限り、オセロの悲劇のファクターは、人間社会から消えていないということにもなる。
 それにしてもデスデモーナは、愛のあかしとしておくられたハンカチーフは、つまるところ一枚のものであるハンカチーフにすぎないのだということを、どうして見ぬかなかっただろう。(宮本百合子 1949年)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2985_10087.html

彼女は日本共産党の宮本顕治夫人でもあったが、夫は別の女性と親しくなり、思想的にも対立するようになったという。この文はなんとなく気になった。デスデモーナに「こうしていたら?」と思ったのだろう。彼女の不幸な生涯を何となく思ったりもした。

結局のところ、カウフマンがインタビューで言うには「オテッロは女性に対してはウブだった」とか。私はどうもそれでは得心がいかなくて、カウフマンが語れないものを宮本百合子の「嫉妬だけでなく人間的尊厳を愚弄されたと・・・」書いたのを見て・・・もしかしたらカウフマンはそのことを言うのが辛かったのではないか、と思った。

指揮者のパッパーノと打ち合わせのカウフマン

 1、カウフマン Jonas Kaufmann and Antonio Pappano on the musical secrets of Verdi's Otello (The Royal Opera)

 

では、かつての名歌手の「オテッロ」から

2、デル・モナコ Mario del Monaco - Esultate (Live) 1959年 東京にて

 

3、ドミンゴ Placido Domingo - Otello - Esultate


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2 コメント

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Unknown (マピ)
2017-12-15 11:48:23
こんにちは。寒くなりましたがお元気ですか?

>「拷問とか殺人などの時に惨たらしい場面をリアルに描くのは一流ではない。決してそれを出すことなく、聴衆がそれぞれ音楽の中で受け止めるようにする」
心底同意します。
血飛沫が飛ぶようなシーンの他にも、
サロメの7つのベールのシーンで本当に脱がれたときはぎょっとしました………
過剰なラブシーンも勘弁してくれと言いたくなることがあります。
ここまでしなくても歌で表現してくれたらそれでいいのにと。YouTubeやCDで往年の演奏を聴いていると映像はないんですが情景が目の前に浮かんできて、ついつい涙が出てくる事があります。
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何でも過剰が「醜い」演出となっています。 (マピさまへ)
2017-12-16 01:26:17
マピさま、オペラの演出はおかしいことがあまり指摘されていません。「今はこうだからね」とヒラメのように納得するファンもいるので、それにヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のフィナーレも意味不明の血がヒロインの顔にドクドク、というのも「二度と見たくない」音楽とどこにそんな関係があるの?と思いました。
「サロメ」の演出について、話にきいたことがあります。
昔のドラマティックソプラノの巨大な体格の歌手は声で
聴き場所を示したものです。
それをモデルのようなすらっとして若い歌手が、何が正しいと思ってそんな演出に迎合するのでしょうか。

お願いだから「声と音楽の魅力」で魅了してよ、と思います。この度オテッロを歌ったカウフマンも、演奏会形式のコンサートなのに長々とキスをする姿に不快感を得ました。これっって何のサービスなの、って。
そういうことでしたら銀幕のもっと美しいそれなりのジャンルの俳優たちに任せば?と思いましたよ。
DVD向け、インスタ映え、など言いますが、歌っているときの神々しさがもうないのです。

「あらえびす」(野村胡堂氏)の戦前の音楽評論で、あの醜いカルーソが舞台で一声歌えば「麗しいロメオ」になる、って書いていましたが、そんな素晴らしい声を持つ名歌手の魅力は登場さえできなくなるのでしょうね。
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