ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

奥山篤信氏のヴァーグナー論「パルジファル」、そしてヴァーグナーの「本音」と美しきヒーローとヒロインたち

2021年04月19日 | オペラ

 土曜日に「ブログのティールーム」で書いたヴァーグナーの傑作「パルジファル」について、これは大変難解な思想的背景を含んでおり、作家の奥山篤信氏にご指導をお願いした結果、次のような文を頂いたのでご紹介します。

◎ワグナーの描くイディオットのイエス像と女たち(母性のマリアか?肉欲のマリア?か両面のマリアか?)
ワグナーなる男は性悪であり悪党である。
才能はもちろん天才的だが、とにかく人を利用して金を取るなど、立身出世欲はすごいものがある。
こんな悪党だからこそ、その反動として美しく純粋なものに憧れあの数々の作品の純粋愛を賛歌するあのメロディ 
耳で聞くだけで涙がでるのだ。 あの五味康祐は最高の音響システムを自宅に持つほどの耳が肥えていて、クラシック通でもあったが、<悪い奴ほどあのワグナーの美しい音色に涙するのだ>と書いていたほどだ!
僕もその一人かもしれない。

僕はワグナーが大好きでバイロイトまでニューヨーク在住の頃家族で行って、子供たちのベビーシッターに困った思い出がある。出し物はローエングリンだった。
さてワグナーがキリスト教を利用せんとしてゴマを擦り数々のキリスト教賛歌のオペラや楽劇を作曲した。
彼ほどの悪党が真心からキリスト教を崇めるわけがないのだ。名声と金目当ては見え見えだ。
大体心の底でイエスの美しさ高邁さは認めていても、そんなものが現実社会にありえない理想だと軽蔑的に思っていたに違いない。だからワグナーにイディオット美青年で、どこの馬の骨かわからないような、いわば<天才的イディオット青年>を登場させるのだ。

ローエングリンが然り、このオペラの場合はエルザという美しい純愛女性いわばマリアがでてくるのだ。
一方楽劇パルジファルではまさに売女・最悪の悪女で下劣なクンドリを登場させる。
マグナダのマリアなど心は綺麗だがこのクンドリは根からのアバズレだ。
こんな女なども許されるとするイエスを皮肉っているのかもしれない。ワグナーらしい!!(ついでにタンホイザーではエリザベートという純愛の対象とヴィーナスという肉欲世界の対象を対比しながら、二人の女の相反性をアウフヘーベン(止揚)する方向もチラつかせ、特に一人二役のこともあるらしい。)

パルジファルはこれもイディオットであり 彼が聖化されて救済者となっていく過程は、プロテスタント的なイエスといえるのだ。 クンドリは、イエスのそんな罪深い女でも、それでもゆるされる不倫の石打たれ女なのか、その反面母性たるマリアを重ねたのか、母性のマリアの側面があればキリスト教もこの楽劇を受容しやすいからだ。
僕にはわからないが、要するにワグナーの二重人格(悪党だが純愛にも涙するワグナー)が象徴されるのか?
ベッラさんの専門的ご意見が聞きたいのだ。
 著者注:いま歴史的文学その他学術的にしか<イディオット>の日本語訳はポリコレとなっていてつかえない。
イエスとはまさに幼児のような綺麗な心そこには先入観が一切なく汚れがない、そんな無辜な心の持ち主を<イディオット>と呼ぶのだ。
デンマークの巨匠フォン・トリアー監督の映画<イディオット>も彼自身はイエスに対してアンビバレントな気持ちをもつアンチ・キリストではあるが、こういう映画にもイエスへの引っ掛かりを説くのだ。(以上、奥山篤信氏)



 ブログ主より・・・奥山篤信氏のヴァーグナー論は鋭いし作曲・台本・演奏をもとに、一貫して思い通りに自作のオペラを総合芸術として成し遂げた巨人ヴァーグナーの本当の姿を興味深くこれだけの少ない字数でお答えいただき恐縮です。
ヴァーグナーの芸術の魅力は、いったんとらわれると引き返すことなどできなくなって「芸術的魔術」の中に翻弄されてしまいます。映画評論でもその秀逸な視点を書き表され注目の作家・評論家ですが、私はこの不思議なヴァーグナーについて奥山篤信氏にお伺いしたいと熱望しておりました。最も演奏のレヴェルが高かったのは戦前・戦中でありましょう。
私の「ブログのティールーム」にとり上げる演奏は、今のように録音技術が発達し、肝心の実演より録音が良好、とか目立つキテレツな演出の横行する現代では、音楽の美しさは到底わからない、として意識的に古い録音録画を入れています。またどうぞよろしくご指導をお願い申し上げます。
・・・「ジークフリート」という名の薔薇です。
 今から70年前の録音だが音質が改良されていてビックリ。イタリア語訳で歌っている。
私は、耳でイタリア語を聴き、頭の中でドイツ語の対訳と置き換える、という変な作業で味わいました。
カラスが歌うと「ギリシャ悲劇」のようなイメージがする。「メデア」もそうだった。
名歌手モデスティとマリア・カラスによるヴァーグナー「パルジファル」1950年演奏
Giuseppe Modesti & Maria Callas "Die Zeit ist da" Parsifal

Orchestra Sinfonica di Roma della RAI Vittorio Gui, conductor Roma 
・・・絶世の美女クンドリーは十字架に向かうキリストのことを笑って呪いを受ける。実はクンドリーはキリストに恋をしていたのだった。同じように聖杯の騎士を目指した老騎士クリングゾルが挫折し、聖杯の騎士をめざす若い騎士たちを陥れてきた。そんな手先にクンドリーを使ったのであった。屈折した老騎士クリングゾルは彼女にパルジファルをも誘惑させようとする。

 マルタ・メードルが歌うクンドリー
Martha Mödl sings Kundry "Grausamer!" from Parsifal (Köln 1949)


救世主を!・・・ああ・・・でも遅すぎるわ!だって、あたし、その救世主を思いっ切り罵ったのよ ああ!
あなたにわかるかしら?この呪いが!
眠ろうが起きようが、死のうが生きようが、痛もうが笑おうが、
新しい苦悩に送り返され、終わりなく臨在して、あたしを苦しませる!
そう、あたしは見たのよ、あのお方を・・・(キリストを)
そして・・・笑っちゃったの・・・!
途端に、あたしに突き刺さった・・・あの眼差しが!(キリストのまなざし)
いま私は世界じゅうを探し回っている・・・もう一度その眼差しを見つけるために。
あの、この上ない危機に瀕したとき、
その眼は、もうそこまで来たように思った・・・あの眼差しは、もうあたしの目の前にあったの・・・
でも呪わしい笑いが、また甦ってきたと思うと、腕に転がり込んできたのは、一人の罪びと・・・!(アンフォンタス王)
もう笑っちゃうの、笑っちゃうの、なのに泣くことはできない
(絶世の美女の魅力から逃れ得る男は皆無だった。ただパルジファルだけが「けがわらしい女よ、去れ!」と言った。
パルジファルは、王がこのように絶世の美女クンドリーに誘惑され、聖なる槍を取られて今も血が流れるままのアンフォンタス王の嘆きを思ったのだった。

ここでパルジファルの息子「ローエングリン」をお聴きください。(後の時代になるが、作曲はローエングリンが先だった。)



★ マックス・ローレンツが歌う「ローエングリン」~わが愛しの白鳥よ
Max Lorenz Sings "Mein Lieber Schwan" from Lohengrin

・・・無実の罪に嘆く美しいエルザ姫は「白鳥に乗った騎士」が自分を救うという夢を信じ、話すが、みんなから相手にされない。しかし実際にその騎士は白鳥が曳く小舟に乗ってエルザのもとにあらわれ、敵と決闘をして打ち負かすのである。しかし騎士は「名前や身元を決して訊かない」という約束をエルザに求めるが・・・エルザはどうしても問いたくなって別れの悲劇となる。その時にはじめて騎士は「私の名はローエングリンといい、パルジファルの息子である」と名乗って去る。
ローエングリンの母親はクンドリーではない。なお彼は双子の兄弟で、もうひとりも有名なヒーローだったらしい。


マックス・ローレンツが歌う「パルジファル」
1933. Parsifal: Act III, "Nur eine Waffe taugt" - Max Lorenz (Strauss, Bayreuth)
そしてこの「パルジファル」のフィナーレを歌うのはローレンツ。ローレンツの歌の濃さ、これにはマイってしまった。
彼の歌う言葉の一つ一つが説得力があり、しかも凛々しい。
戦前のバイロイトでの実演、指揮は作曲家のリヒアルト・シュトラウスである。
・・・この物語はずっと血が流れたまま傷口が永久にふさがらないという王に、パルジファルは以前、アンフォンタス王が盗まれてしまった聖なる槍を取り戻し、王の傷口に当てる。「あなたの傷を治すのはこの槍だけです」・・・そして王の傷は癒える。
その聖なる槍はキリストを十字架に架けた時に突き刺した槍である。その血を受けた「聖杯」を掲げ、やがて聖杯を護る騎士となる。(ローエングリンは同じように聖杯の騎士として父パルジファルを継ぐ、これはワーグナーが書いた「ローエングリン」のオペラでこれも美しい)
 王の側近が受けた神託とは、「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て」というものだった。汚れなき愚者パルジファルを指している。この「共苦」Mitleid(独語)は哲学者のショーペンハウアーが語ったというが、東洋にも「戦国策」で同甘共苦という言葉がある。インドから渡った言葉かもしれないが、日本では仏教用語となっているようだ。
 私はヴァーグナーの長大な楽劇を聴くときは「ぼやっと」して聴いています。名歌手の美声や独特の語りのような旋律ばかりではなく、そこでは言い表せない表現をオーケストラの演奏がうねるように流れている。自然にヴァーグナーの音楽の中に入っていけるのです。イタリアのヴェルディが「祖国統一運動」にガリバルディ将軍を支持して「祖国の名誉」の為に愛国心をかきたてたのと、ヴァーグナーが名誉と不名誉をイッキにトリスタンやジークフリートなどの英雄に降り注ぎ、敗者の汚名も美しく昇華する音の渦巻き、アルプスを隔ててこのように異なる美学があったのか、と思う次第で、一音楽家の考えをはるかに超えた真面目さと同時に余裕と、真実を鋭く見抜く稀有な才能を持たれている芸術家、奥山篤信氏は政治・芸術・歴史ともに日本の誇る「正直でとらわれのない余裕」を見せられるお方と尊敬しています。
ヴァーグナーもきっと「見抜かれてしまった」と苦笑いしていることでしょう。
そして・・・ズバリとお書きになったのは、ただ「真実」のみ、ヴァーグナー自身も否定できないし、しないでしょう。かえってヴァーグナーの気持ちがわかり、あの時代の本当の姿を鏡のようにあきらかにしておられると思います。ヴァーグナーのすぐあとのリヒアルト・シュトラウスには退廃の美しさはありますが19世紀の世紀末、遊びのひと時に酔うのですが、ヴァーグナーは、そうではなくしたたかさと強さをMonsieur奥山は明らかにされた。誰にもできることではありません。美しさと非道徳のユーモアの案外近いこと、そしてそのエッセイを読み、ヴァーグナーの一見したたかな生き方は常人ではない「強さを経た美しさ」であるように思いました。嫌な人間でありながらヴァーグナーは世にも美しい音楽を作曲した、ヴァーグナーの音楽の勝利です。真面目に聴いているのに、演奏しているのに、翻弄されている楽しさ、深いですね。
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