華氏451度

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教育基本法改定の先取り――佐世保市、子ども育成条例に「愛国心」盛り込む

2006-07-01 23:23:26 | 憲法その他法律
 
◇◇◇◇◇まずはニュースの要約

 毎日新聞・読売新聞といった全国紙のほか、西日本新聞、山陽新聞、その他いくつかの地方紙や赤旗でも報道されたため既に御存知の方が多いと思うが、6月28日、長崎県佐世保市議会で「愛国心」を盛り込んだ「子ども育成条例」が誕生した。下に最も簡単な時事通信配信のニュースを載せておく。

【子育ての基本理念として「愛国心」を盛り込んだ子ども育成条例が28日の長崎県佐世保市議会本会議で賛成多数で可決、成立した。近く施行される。市議会事務局などによると、子どもの施策に関する条例の中で、愛国心をうたったケースは全国初とみられるという。同条例は、子育ての理念や大人の役割などを柱に全17条で構成。第3条で子育ての基本理念を定め、その中の1つに「人を愛し、郷土や国を愛し、世界の平和を願」う心を養うことを掲げた。】

 西日本新聞その他の記事によれば、佐世保市の「こども育成条例」は2003年から有識者らによって論議され、昨年12月に原案が提出された。この原案について自民党系会派などが「よりわかりやすいものにすべき」と批判し、市議会総務委員会で継続審査されていたという。そして6月23日に、自民党系をはじめとする5会派から修正案が提出された。原案では「子どもが優しさやたくましさを身に付け、平和を愛し、自然を大切にする心を」養えるよう支援する、という表現であった基本理念の部分が、修正案では「人を愛し、郷土や国を愛し、世界の平和を願い、自然を大切にする心、世界に通じる広い視野などを持てるよう支援する」という表現に変えられた。自民党市民会議の市岡博道委員は修正案について、「どう育ってほしいかを、より分かりやすく明文化した。生まれ育ったふるさとや国を愛することはごく自然なこと」と説明をおこなったという。この修正案に反対したのは社民会派のみ(※)。構成6会派のうち、5会派(保守系3会派、民主党系、公明党系)の賛成によって可決された。

※社民会派の反対理由=「過去、国のために多くのかけがえのない命が落とされた。『国を愛す』との言葉によって、国への忠誠心が子どもたちにはぐくまれていくのではないか」

◇◇◇◇◇「ボク、優等生」の名乗り上げが始まった……

 皆さんよくご承知の通り、与党は教育基本法を改定し、「国を愛する心」を盛り込もうとしている。秋の臨時国会では再びこの問題が俎上に上がるはずだが、佐世保市の「子ども育成条例」はこれを先取りした感がある。国が――いや、国でなくてもいい、組織や集団がある方向に向かおうとするとき、その中で必ず「上の意向」を敏感に察知してお先棒を担ごうとする動きが出てくる。時代の流れに乗り遅れまいと焦っているとか、やがて来る時代において少しでも優位を占めようと思っているとか、あるいは「上の意向」を先取りするのが利巧であると信じている等々、その動きの背景にある「気分」や「考え方」はさまざまであろうけれども。

◇◇◇◇「愛」はルールの条文にそぐわない

「人を愛し、国や郷土を愛し、世界の平和を願い……(以下略)」という基本理念のどこが悪い、と首を傾げる人は多いと思う。「国や郷土を愛し」の部分だけに絞っても、「別に問題ないのでは?」と思う人が結構多いのではないだろうか。

 そう……言葉としては何の問題もないのである。美しい言葉だ、と言ってもいい。私個人は国家というものが好きではなく(毎度ナントカのひとつ覚えのようにこればかり言っている)、したがって「国」を愛する心も無いけれども、ひとさまの「国を愛する気持ち」をとやかく言うつもりはない。

 ただ、(広い意味の)ルールというのは、「ちゃんと言っておかなければマズイこと」について最低限の取り決めをしておくものに過ぎない、と(頭の単純な)私は思う(だから規則なり法律なりの多さ・煩雑さは集団を構成している人間のモラルの高さに反比例するとも思っている。また、社会が生き辛くなるにつれて、動揺したりオカミに疑問を持ったり捨て鉢になる人間が増えるため為政者はさらに規則で締め上げようし、ますます生き辛くなり……という悪循環も存在するが、それらはまた別の話)。それ以外は大きなお世話なのである。

 個人的には、佐世保市「子ども育成条例」の原案さえ、少々お節介な気がする。「子どもたちが安心して暮らすことができ、それぞれに幸せになれるように支援する」程度では単純すぎてダメなのだろうか。私は法律、条例、何でもいいが要するに社会のルールに類するものは、できるだけ具体的であり、かつ観念的な言葉を極力廃した単純なものがいいと思っている。なぜならば観念的な言葉というのは、人によって持っているイメージが相当異なるからだ。

 たとえば日本国憲法第九条。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言だけであれば、私はいい憲法だとは全然思わない。希求するだけなら誰でも出来るし、「国際平和の維持のために、平和を乱す国を攻め滅ぼす」という考え方だって(正しいかどうかは別として)存在するのだから。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という言葉が続くゆえに、九条は意味があるのだ(むろん前半が無意味だと言っているわけではない。理念を述べているわけで、これはこれで多いに意味がある。ただ、これで終わってしまっては何も言っていないのに等しい)。

「国や郷土を愛する」という言葉自体には文句はつけませんよ、私は。「国を愛するというのは、生まれ育ったふるさとを愛するということ。その伝統や文化に誇りと愛情を持つことである」という人は多く、それだけ聞けば「ああそうですか。結構ですね」と私は(別に皮肉でも何でもなく)言う。でも心からそう思っているあなた……みんながあなたと同じように思っているかどうかはわからないのです。愛するからこそもっと強い国を作りたいとか、愛するからこそ強大国の属国になった方がいいとか、愛するからこそ弱者は淘汰して優秀な国民だけにした方がいいとか、もしかすると「愛しているからこそ、こんなダメな国は無くなった方がいいと思っている」人もいるかも知れない。

 愛というのは美しいものだが、愛さえあれば何でも許されるわけではない。愛しているからといってストーカー行為をしたり、無理心中を迫ったりしてはいけないのだ。「愛」は口にする人間を酔わせるがゆえに、時として、「冷静に考えればトンデモナイこと」を正当化してしまうことがある。そんなある意味で危険な「取扱注意」の言葉を、法律や条令で使ってはいけないと私は思っている。

 もうひとつ――修正案を作成するにあたって、自民系の市会議員から「自然に生まれる感情を尊重すべき」という声があったという。国や郷土を愛するのも平和を願うのも自然を大切にするのも「自然な感情」、というわけだ。しかし、である。本当に自然な感情であるならば、なぜわざわざ「養うよう支援する」必要があるのか。黙って放っておけば生まれてこないから、「涵養」とやらをするのではないか。「盗むな、殺すな、姦淫するな」というルールを作るのは、「盗んだり殺したり姦淫したり」する人間がいるからである。もっと変なたとえをすると、誰も絶対に立ち小便するわけがない所に「立ち小便禁止」の紙を貼ったりはしない。

 おかしな話である。「愛国心は誰でも持っていて当然」という人達に聞きたいことはただひとつ。「自然な感情、持っていて当然の感情であるなら、それでいいではありませんか。なぜ、わざわざ言い立てなければならないのですか。何かほかに意図があるのではないかと疑われても、仕方ないのではありませんか」。







コメント (6)
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