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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

「敵をつくる」という企て

2006-11-25 23:10:51 | 格差社会/分断・対立の連鎖


〈集団は敵の存在によって結束する〉

 組織なり集団なりの結束を固めるのに、「敵を作る」という方法がある。もう少し穏当な?方法としては「ライヴァルを作る」。学校対抗のスポーツの試合などがあると、「○○校に負けるな」と燃え、みんな結構、にわか愛校者になったりする。企業などでも幾つかチームを作って競争させると、チームごとに結束が固まり、他のチームに負けまいと「一丸となって」頑張ったりするようだ。

 ライヴァルというのは普通、プラス・イメージを持つ言葉として使われるようだけれども、ライヴァル同士の関係は常に「互いに切磋琢磨するいい関係」であるとは限らない。むしろ競争意識がエスカレートして、敵愾心や憎悪が育っていくこともまれではない。あいつにだけは負けたくないと思うから、時には汚い手を使っても勝とうとする。何とかして相手の弱味を見つけ、足を引っ張ろうとする。相手の悪い噂を聞くと嬉しくなり、何かでつまずくとひそかに喜ぶ。(そんなのは「本当のライヴァルじゃない」と言われる方があるかも知れないが、本当のライヴァルとは何かといった話はここでは一応無視する)

 ましてや「敵」に至っては。

 突然妙なたとえになるが(私はいつもそうなのだ)、駅前に商店街があり、そこの商店主達はさまざまな問題を巡ってしょっ中もめていた。政治的な立場の違いから仲が悪いという商店主達もいたし、単に気が合わずいがみ合っている人達もいた。だが、駅前に巨大スーパーマーケット進出の計画があるという確かな情報が流れた途端に、商店主達は「突然出現した敵」に恐れおののき、「その敵と戦う」ために結束した。……こういう話はいくらでも転がっている。

〈外にも敵、中にも敵〉

 自分達にとってマイナスになる存在、自分達の集団に脅威をもたらすもの、倒すべき相手。すなわち「敵」を想定すれば、その敵と戦うという目的の下で人々の仲間意識は強まり、お互いが味方であるという幻想が濃くなり、……同時に「敵」の姿は否応なく肥大し、まがまがしく飾られ、「トンデモナイ奴ら」という認識が深まっていく。ある意味で、そうやって「敵」は「放っておけば自分達の生存が脅かされる、凶悪な存在である」という幻想を持ち続け、育て続けない限り、人間は(目の前にある具体的な人間やモノ以外には)憎悪を持ち続けられないのかも知れない。

 たとえばカルト教団などがこの手をよく使うことは、よく知られている。そして国家も。他の国家を敵と認定し、それらの国を「鬼畜」とか「悪の枢軸」と呼ぶ。同じ人間ではない、という認識である。

 敵は「国の外」だけではない。「国の中」にも作られる。あいつらは悪い奴だよ、あいつらは人だよ、非国民だよ。だから早くつぶさなければ、みんなの生存(安心な暮らし)が脅かされるんだよ……。

 近年創設された・または創設されようとしている法律と、改定されようとしている法律は、すべて「敵づくり」――「敵と向き合う地域社会作り」を目指すものだ。たとえば2003年に成立した有事法制関連3法はまさしく「外の敵」を想定したもの(戦争を想定したもの)であるし、2004年に成立した国民保護法もそれに準ずる(戦争のほかにテロも想定しているが、武力攻撃事態に対処する法律という面では同じ枠組みの中にある)。

 そして内部の敵の監視――共謀罪はその最たるものだが、教育基本法改定案も根っこは同じだ(1999年成立の国旗国歌法なども同様)。踏み絵を用意し、踏まない、あるいは踏むのを躊躇する人間に「おかしい奴」「危険な奴」というレッテルを貼り、彼らに対する憎悪の気持ちをそれこそ「涵養」していく。自国の国旗や国歌に崇敬の念を持つのは当然などと言われ、そのうち祝日には日の丸掲げるのが当たり前という社会になったりすると、私はほんとに困るのですが……。

 敵――排除し、倒すべき存在を作るよりも、互いに手を差し伸べ、みんなで共に歩める社会を私は作りたい。もともと「(国民の)固い結束」「一致団結」なんてうそ寒くて嫌いだが、万が一それが必要であったとしても、敵を作ることで強めたいなどとは私はさらさら思わない。

コメント (11)
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