教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

「しょせんアニメ」って言うなよ!

2009-09-28 00:05:46 | オタネタ全般
アニメにおけるストーリーの展開のしかたやエンディングの迎えかたには、定番/非定番に限らずいくらでもやりようはある。
これらは作家の想像力のゆるす限りいくらでも独創的にしあがる。

もちろんこれは大いに結構。
自分の好みには程遠い展開になることもたまにはある。
独創的すぎてついていけないこともたまにはある。
冷静に判断して良いものだとは思っても主観的にはおもしろくないと感じることもたまにはある。
それでも作品のオリジナリティーは大いに評価したい。

しかし!

どうにもこうにもガマンならん展開が1つだけある。
(確実に「1つだけ」とは断言できないが、本稿執筆時点では2つ以上思いつかない)

それは、アニメの中で
「しょせんコレはアニメでしかないんだよ!」
と視聴者に気付かせる展開の場合である。

何とは言わないが、某メジャーなTVアニメの映画版でそういう展開のものがあった。
このアニメ自体は大好きなのだが、特定の映画版だけはどうにもこうにも好きにはなれない。

その特定の映画版では、後ろのほうになると突然実写ばっかりになって、そしてわざわざアニメを楽しみにやってきたオタどもに
「アニメだからマジメに付き合うに値しないもんだ」
と製作者側がそうメッセージをこめたものだった。

これはほんとうに心の底からガッカリした。
映画がつまらなくて昼寝の時間になったとしても、きっとここまでガッカリはしなかっただろう。
いままでそのアニメのファンだったことの価値を製作者側から全否定された気がして無性に腹立たしかった。

わざわざ楽しみに見に行ったことをここまで後悔することになった映画は後にも先にもこれが唯一である。

さらに言うとその映画では挿入歌で
「無に還ろう」
と外国語で詠っており、人生否定論までふんだんに盛り込んであることを付け加えておこう。

いまにして思えば、School Daysのようなダークでドロドロした展開の鬱ゲーと呼ばれるものよりもさらに鬱的になるという、あるいみ真の鬱アニメと呼ぶにふさわしいかもしれない。
まあ、ずいぶん昔の話である。
・・・とはいえ、最近また新劇場版が公開されたと聞いても、それはそれで見に行くのをためらってしまったわけだが。



だいたいにおいて、
「アニメはしょせんアニメでしかない」
ということは、それがどんな重症のアニオタであっても理解している。

それでも全身全霊をかけて真剣にアニメを楽しむ。
それは人生の一部を切り売りしてアニメを作ってくれたスタッフへの敬意でもある。

これは他のことにでも言い換えたらわかりやすい。
たとえば
「しょせん生き物はいつか死ぬんだからいちいち悲しむな」
とか
「しょせん誰かは不合格になるんだから受験失敗は単なる確率的な事象でしかない」
とか言ったら、おまえバカかと言われるに決まっている。
わたしはそれと同じことだと思う。

ついでにいうと、アニメのなかで突然実写の人物や人形を出すという表現手法は、この
「たかがアニメでしかない」
という事実を嫌がおうにでも視聴者は思い知らされる。
それは、胎児が母親の胎内からこの世にはじめて生れ落ち、その絶望と恐怖と心細さに泣き喚くその衝動に等しい。
だからわたしはアニメのなかで実写を使うという表現手法には個人的にはかなり否定的だ。

既に我々アニオタはそれがしょせんアニメでしかないことを知っている。
そしてそれでもその向こう側にだけあるものを垣間見ようとする。
それは心の底から作品を堪能するために必ず必要なことである。
それを全否定して、いったいどうやってアニメを楽しもうというのだ!?

たしかに世の中にはアニメはくだらねえと思っている人が多いのも事実だ。
そういう人たちは実害がないかぎり無視しておけばいい。
しかし、アニメの製作者がそんなことをするのだけはやめてほしい。
それはファンだけでなく、自分たちの仕事をも全否定していることもなるのだから。