幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

平山先生のコレクションを見せていただきました

2012年08月20日 | イベント

江戸史談会のイベントで、軍装研究家の平山晋先生のコレクションを特別に見せていただくことができました。

主に明治時代の刀と制服を見せていただきましたが、その中には初期陸軍きっての重臣の軍刀など、博物館級の貴重品がいくつも含まれていました。
博物館と違うのは、それらを実際に自分の手で触れることができたことです。

なにより私が嬉しかったのは、明治初年の警視官の刀や制服を見せていただけたことです。
平山先生所蔵の警視官制服については以前先生より写真を頂戴し、拙著『侍たちの警視庁 大警視川路利良の時代』にも掲載させていただきました。
しかし実物を前にすると、「この制服を着て夏も冬も勤務にあたり、西南戦争にも出征したのだろうなあ」との想像が膨らみ、感動もひとしおです。
制服の裏地やボタンの形など、細かな部分までマジマジと観察でき、大変参考となりました。

また、個人的には幕末期の太鼓のバチにも興味を引かれました。
以前当ブログでも書きましたが、維新前の川路大警視は太鼓術修得に熱心でした。
大警視が学んだ幕末の太鼓術について調べてきましたが、当時の太鼓はなかなか現物にお目にかかることができず、バチをみたのも今回がはじめてでした。

当日は平山先生の同好の士である軍装研究家の皆さんもお見えになっており、高レベルの解説を聞かせてくださいました。
軍装研究家の皆さんは軍服の臭いを嗅ぎ、「この臭いこの臭い」とおっしゃっています。
本物の幕末明治期の軍服は、「臭いでわかる」のだそうです。
私も伝習隊の軍服の臭いを嗅いでみましたが、少しすえたような臭いがしました。

この日、本物に触れたことは一生の思い出になるでしょう。
貴重な機会をくださった平山先生に、感謝いたします。



高橋完治様とお会いしてきました

2012年08月13日 | その他

高橋お伝を研究されている高橋完治様とお会いしてきました。

私は明治初年の警視庁を調べているので、お伝については以前より関心を抱いていました。
そして昨年の谷中霊園巡墓会でお伝の墓を解説したのがきっかけとなり、調べ始めました。

まずは簡単にお伝の生涯を紹介したいと思います。
お伝は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)に生まれています。
慶応二年に波之助と結婚しています。
仲の良い夫婦だったと伝わっていますが、波之助が病を患い働けなくなってしまったため、田畑を手放し東京に出ています。
しかし浪之助の病状はどんどん悪くなり、明治五年に浪之助は亡くなってしまいます。
芝居や小説などではお伝が浪之助を殺したと描いているものもありますが、それはお伝を毒婦に仕立てて物語を面白くするための作家が行ったフィクションです。
その後、お伝は妾となったり体を売ったりして生活していたようですが、遊び人の小川市太郎と出会い同棲を始めます。
市太郎を養うために金策に走り、明治九年、古着屋の後藤吉蔵に借金の相談をし、約束を破った吉蔵を浅草の旅籠で殺害し、数日後に逮捕されています。
裁判所はお伝を故郷の下牧村預かりにしようと打診しましたが、村は受け入れを拒んだため、明治十二年一月三十一日、斬首の刑に処されています。

刑を執行したのは八代目山田浅右衛門の弟・山田吉亮でした。
山田吉亮は十七年間で三百人あまりを斬っていますが、お伝のことを「手前が手がけた女のうちでは一番のしたたかもので、その大胆さには驚きました」と語っています。
山田吉亮によると、死ぬ間際まで小川市太郎の名を叫び続けていたそうです。

お伝の遺体は小山内薫の父で軍医の小山内健によって解剖され、髑髏は漢方医の元で保存されたという話が伝わっています。
また、お伝の性器は解剖の際に切り取られ、ホルマリン漬けにされて陸軍医学学校に陳列されたという話も伝わっています。
清野謙次博士がお伝の性器について写真つきの詳しい資料を残しており、今でも国会図書館で見ることができます。
『阿傳陰部考』というタイトルの本で、ホルマリン漬けのお伝の性器の鮮明な写真が二枚掲載されています。
写真を見た瞬間、こんな写真を掲載してよいのかと大きな衝撃を受けました。
苦手な方には決してお勧めできませんが、現在では考えられない非人道的なことがまかり通っていた明治という時代を知る上では、意味のある資料だと思います。

お伝のことを知りたいと思い、本とインターネットで調べたところ、出会えたのが高橋様のウェブサイト「彩遊季」でした。
高橋様はお伝と同じ下牧村のご出身で、先祖をたどればお伝や夫の波之助の親戚につながるということです。
お伝は当時のマスコミや作家によって稀代の悪女のように書かれ、当時の人々はそれを信じ、その悪女のイメージが現在では定着しているように思われます。
高橋様がお伝のことを調べ始めたのも、世間に広まっている虚像を晴らし、真実のお伝像を一人でも多くの方に理解してほしいとの思いからだとのことです。
三時間にわたって高橋様からお話を伺いましたが、高橋様の研究姿勢にとても共感を覚え、私も微力ながらお伝を弁護していきたいと思いました。

高橋様のウェブサイト「彩遊季」はこちらです。
真実のお伝に関心のある方は、ぜひご覧ください。


※写真は小塚原回向院にあるお伝の墓



鈴木徳臣さんと会ってきました

2012年08月11日 | その他

西南戦争の研究をしていらっしゃる鈴木徳臣さんと会ってきました。
鈴木さんのことは古写真研究家の森重さんよりご紹介いただいたのですが、これまでにたびたび警視隊に関する貴重な資料をご提供いただきました。

主に西南戦争について話しましたが、同じテーマを調べていても、軍装に造詣が深い鈴木さんと私とでは着眼点がまったく違うため、目からうろこの情報が多々ありました。
鈴木さんは現在も西南戦争に関する研究を精力的に行っていらっしゃいますので、その成果の発表が楽しみです。

この日鈴木さんは私に、『西南戦争之記録 第5号』と『警察官及消防官ノ服制徽章』のコピーと、明治十年代の宝丹の包み紙と、島田一郎のブロマイドをくださいました。
宝丹についてはこちらをご覧ください。

今回初めて知ったのですが、鈴木さんと私とでは共通する興味対象が意外に多く、話題は西南戦争からはじまり、弾直樹、津田三蔵、Bスポ、洞窟陣地、コミケ、行きつけの喫茶店と多岐にわたり、シンパシーを抱きました。

次は鈴木さんに洞窟陣地を案内していただく約束をし、別れました。
今から楽しみです。


カツの舟盛り カツ海舟

2012年08月09日 | 幕末グルメ

ここ数ヵ月間、「無性にとんかつを食べたい気分」になるのを待っていました。
そして先日、「無性にとんかつを食べたい気分」になったので、以前から気になっていた亀有の「とんかつ かつ平」に行ってきました。
お目当ては、カツ海舟という名の“カツの舟盛り”です。

カツ海舟は、木舟にロース・一口ヒレ・串かつ・カニクリームコロッケ・エビフライ2本・串揚げ3本を盛ったものです。
2~3人前くらいの量があり、価格は2,800円です。
「無性にとんかつを食べたい気分」になっているとはいえ、さして大食いでもない私には完食はまず無理と考え、タッパー持参で行ってきました。
見た目はかなりのボリュームでしたが、衣がサックリと柔らかく、おいしいとんかつでした。とんかつ以外の揚げ物も種類豊富で、さまざまな味が楽しめました。

お店の方によると、カツ海舟の注文は最近結構入っているとのことです。
なお、勝海舟をイメージしたメニューといえば、以前当ブログでも紹介した浦賀にある梅本の「勝丼」や、カフェスターの「勝カレー」があります。
カフェスターは両国の勝海舟生誕之地すぐとなりにあるカフェです。
以前訪れたことがありますが、ライス切れとのことで、残念ながら「勝カレー」をいただくことはできませんでした。

勝海舟は幕末の幕臣を代表する存在でありながら、記念館もなく、9年前までは全身の銅像すらなかったということです。
西郷丼・龍馬ラーメン・松陰そばなどなど、幕末の偉人をイメージしたメニューは多数ありますが、東京の飲食店も勝海舟をイメージしたメニューを扱い始めたことは、嬉しく思います。



『歴史研究』2012年7・8月合併号

2012年08月05日 | お知らせ

告知が遅れましたが、『歴史研究』2012年7・8月合併号の掃苔行脚に、私の「四十七都道府県 幕末維新掃苔録」が掲載されました。

掃苔行脚は、探墓巡礼顕彰会の四人(カトケン、金子、黒坂、河内)で担当している連載枠で、私の記事としては、今回で六回目の掲載になります。

今回私が取り上げたのは伊豆七島の墓で、八丈島・三宅島・大島での掃苔について書かせていただきました。
島ならではの掃苔の思い出を紹介していますので、興味のある方はご覧いただければ幸いです。

次回は、斎藤弥九郎と仏生寺弥助を調べに富山県氷見市の仏生寺を訪ねた際に遭遇した「まんが日本昔ばなし」的な体験について、または新潟県や山梨県での掃苔について書こうかと考えています。